花蓋の檻

epilogue

 青白い月光が、小窓から差し込んでいる。今宵は満月らしく、いつもより随分と明るい夜だった。
 月に照らされた壁際の薔薇は、大ぶりの花を散らして、枯れた茨を石畳の上へと投げ出していた。
 塔の外で響いていた悲鳴が、不意に止んだ。夜風が運ぶのは、久しく嗅ぐことのなかった血の匂いだ。
 私は長い金髪をかきあげて、近づいてくる足音に耳をすませる。
「……、ヨエル」
 それは、待ち望んでいた青年だった。
 月のように美しい銀髪に蒼の瞳をした彼は、華奢な身体に似合わぬ大剣を手にしていた。白銀の刃は、幾人もの血を浴びて真紅に濡れている。
 この人が、どれ程の人間を手にかけて塔へと辿りついたのか想像に難くなかった。彼が纏う上質な衣も、自身の傷か返り血か、紅く滲んでいる。
 ――、僕には君だけ、と。君が隣で笑ってくれるためなら、僕は何だってするよ、と言った青年は、言葉の通りに多くを屠って塔を駆けあがったのだ。
「嬉しい。……、迎えに来てくれたのね」
 私は、何年も反芻した台詞を震える声で口にした。歌姫として讃えられた鈴の鳴るような美しい声は、掠れてしまっていた。
 近寄ってきたヨエルは、檻の中の私を見つめていた。
 不意に、ヨエルはゆっくりと目を瞬かせて、痛みを堪えるように唇を噛みしめた。

「……、君は、誰?」

 その瞬間、私の心は歓喜で打ち震えた。彼ならば、分かってくれると信じていた。
 あの子・・・の信じたかった絆は、決して脆くはなかったのだ。
 強く彼女を愛し、何度も塔の外に駆けつけていた青年。彼女を取り戻すために剣を握り、多くの命を奪い続けた青年は、誰よりも深く彼女のことを理解していた。
 ――彼に、真実を伝えよう。
 蒼い瞳で問うてくる青年に、私は泣き笑う。
「人は私を、花、と呼んだわ。芽吹きの花、綻びの花、と」
 愛しい少女の姿を借りた花の化生に、彼は何を想うのだろうか。
「……、レーナは、最期に、なんと?」
 ヨエルは顔を手で覆って、今にも泣き出しそうな声で言った。
「『大好き。……、どんな貴方だって、愛している』」
 死の間際になって、耐えきれず彼女が零した言葉を、私は彼に捧げる。
 優しい娘だった。魔術師の血を継ぎ、私を封じ込めるための花蓋になど選ばなければ、誰よりも幸せになっていただろう。
 目の前の青年の腕に抱かれて、死ぬまで幸福に包まれていたはずだった。
「……、分かって、いたんだ。彼女が塔に閉じ込められてから、六年も経っている。その間、碌に食事も運ばれて来なかったはずだ」
 初めの数年は、少ないながらも食料や物資は毎日のように運ばれていた。 だが、日に日にそれらが届く頻度は減っていった。皇位争いの激化と共に、花蓋の少女の存在は人々の意識から外れていったのだ。
 私の存在が、おとぎ話と化していくように、魔術師の遺言も風化していった。
 レーナは、――私の愛しい子は、徐々に弱っていった。
「ありがとう。レーナの我儘を、聞いてくれたのだろう?」
 私の頬から、一筋の涙が流れ落ちた。
「ごめん、なさい。身体がない私は、……こうしなくては、あの子の言葉を、伝えられなかった」
 遠い遠い昔に、私の身体は朽ち果ててしまった。この塔で眠っていたのは、行き場を失くした私の残滓に過ぎない。外に出たいと泣き叫んだまま力尽きた、魂のなれの果て。壁際に咲く薔薇に遺した、私の未練。
 薔薇は動けないから、――私の魂も、魔術が解けぬ限り、永遠に外に出ることは叶わないはずだった。
 いくら芽吹きの力を持ち得ていても、身体を失くした私は、花蓋のような特別な存在以外と会話できない。そのことを良く知っていたレーナは、私に身体を譲りたいと、言い出したのだ。
 私には、痛いほど分かった。優しいレーナは、自分の言葉をヨエルに伝えてほしいという願いと共に、私を塔の外に出してくれようとしたのだ。囚われた亡国の王女を解放するためにも、自らの屍を差しだしたのである。
 動けぬ薔薇の代わりに、その身体を捧げたのだ。私が望んだ場所へと旅立てるように。
「あの子の、望みを……、貴方に会わせてあげることも、……っ、できなかったわ」
 外に出たいと願っていた。遠い昔に閉じ込められてから、身体が朽ちた後も、ずっと塔の外へ旅立ちたかった。
 愛した者たち暮らす、神の御許へ。
 だが、それは、大切な子の骸を奪って叶えたかったわけではない。
「レーナに、あの子に幸せになってほしかったのに」
 誰よりも幸せな、花嫁になってほしかった。私に叶えられなかった幸せを、手にしてほしかった。
「ここから、出よう。――君に、見届けてほしい」
 堕ちた花。
 戻らぬ花を想って涙ぐむ私に、ヨエルは手を伸ばした。

「レーナの帰りたかった世界を」

 そっと伸ばされた手を握りしめて、私は声をあげて泣いた。
 一歩一歩を踏みしめて塔の階段を下り、私はヨエルに手を引かれて庭園へと辿りつく。
 柔らかな地面に足をついた時、まるで、私の解放を待ちわびていたかのように、一斉に庭園の花々が咲き乱れた。
 月光を浴びて、花々は艶やかに色めく。
 ――、光差す世界に、あの子はいない。

 それでも、小さな花嫁が夢見た世界には、今日も花が咲くのでしょう。