花蓋の檻

04

 塔の外から聞こえる悲鳴を伴奏にして、わたしは気付けば歌を紡いでいた。
 あれほど歌うことに抵抗があったはずなのに、今、わたしは掠れた声で歌っている。
 死の女神への敬愛、太陽への憧憬、月への恋慕、万物を愛で讃するために作られた歌たちは、ヨエルと共に在った思い出を何度も蘇らせる。
 かつて歌姫と湛えられた声は掠れてしまったけれども、この声が塔の外へ響くことはないと分かっているけれども、歌わずにはいられなかった。
 胸の奥底からわき上がる衝動が、わたしを歌へと駆り立てる。
 視界に入るのは、骨と皮のようになってしまった身体。
 せっかく娘らしく丸みを帯びてきていたはずだったのに、今では衰弱して貧相で、醜く感じられた。
 こんな身体になったわたしを、ヨエルが抱きしめてくれるはずがない。
 最早、彼の子を生むための血潮さえ、止まってしまった。あれほど喜んでいたはずの、彼に嫁ぐことのできる証さえも失われてしまったのだ。
 ダガの手が、そっと、わたしの額に伸ばされた。触れることは叶わないけれども、慈しむような仕草に、気付けば言葉が零れ落ちていた。
「……、ヨエルは、わたしのことなんて、忘れたのよ」
「……、レーナ、違うわ」
「だって、……だって、どうして、迎えになんて来てくれるの? わたしなんて、ヨエルに少しも釣り合わないのに!」
 考えないようにしていた事実が、堰を切ったように、わたしの中に溢れ出して止まらなかった。
「ヨエルは、皇帝にだってなれるかもしれないほど、皇族の血が濃いの! 本当なら、わたしの家になんて……、わたしの、旦那様になんて、なるはずのない人だった。わたし、……ヨエルに、迎えに来てなんて、言えないっ……!」
 願うことすら、おこがましい。
 どうして、助けを求められるというのだ。
「ねえ、――窓の外から悲鳴が聞こえる。それは、皇位争いが激化したからではないの?」
 ダガは、何も言わない。それは、彼女も同じことを考えている証だった。
「皇位争いが激化したなら、ヨエルだって、無事ではいられない。あの人は、皇帝の甥にあたるのにっ……!」
 ヨエルに初めて会ったのは、五歳の頃だった。
 幼くして優秀だった彼の母は、皇帝の妹君だ。ヨエルは、皇帝の甥にあたる少年だったのだ。
 皇位の継承権も、遡れば同じ皇族の血を継ぐとはいえ、貴族の娘であるわたしより随分と高位であった。
 そんなわたしとヨエルが一緒にいたのは、わたしの母がヨエルの乳母であり母親同士に親交があったからだ。
 息子が皇位争いに巻き込まれることを憂いたヨエルの母親は、彼をわたしの生家に預けた。我が家は長子である兄を事故で亡くしていたので、彼は事実上の婿養子だった。
 二人で家を継いで、支えていくように良く言われたものだ。
 わたしは、一心に彼を慕った。優しく穏やかであった彼も、わたしを大切に想い慈しんでくれた。
 ――だが、不意に血の差異を感じずにはいられなかった。
「ねえ、怖いの。――ヨエルは、もう、亡くなっているかもしれない。いいえ、そうでなくても……、高貴な娘を娶って、幸せな家庭を築いているかもしれないと思うと、……怖くて、堪らない」
 生贄として使い捨てられた少女よりも、彼には相応しい女性が多くいる。
 彼と過ごした九年間は、わたしにとっては宝物だったが、彼にとっては分からない。六つも年下の小娘に振り回された、煩わしい日々だったのではないだろうか。
「怖いの、……ヨエルを信じられなくなっていく、自分の心が」
 一心に彼を慕っていた。疑うことなど、考えもしなかった。
 それでも、――思わずには、いられなかった。
「もしかしたら、ヨエルは、知っていたのではないか、と……。わたしが、花蓋に選ばれることを知っていたから、あんなに優しかったのではないか、と」
 彼は、優しい少年だった。出逢った頃から、小さなわたしをいつも慈しんでくれた。どれだけ我儘を口にしても、理不尽なことを言っても、困ったように笑みながら、抱きしめてくれた。
 それは、生贄にされる少女を、哀れんだが故の行動だったのではないか。
「もう、……、何も信じられない。ねえ、ダガ。わたしが触れるのを貴方が嫌がった宝石箱には、何が入っているの? 貴方は、何を隠していたの?」
 わたしは、部屋の隅に置かれた埃を被った宝石箱に手を伸ばす。茨で指が傷つくのも厭わず、わたしはひたすらに蓋に手を伸ばした。
「レーナ!」
 ダガの抑止の声を聞き入れず、わたしは宝石箱を開いた。
 中には、――骸骨が二つ・・収められていた。
 一つは、まるで赤子のような小さな骸骨だ。それに寄り添うように収められたもう一つの骸骨は、成人した女性並みであった。
 瞬間、わたしはすべてを悟る。
「……、ダガ。貴方……、貴方、子どもが、いたの?」
 亡国の姫は、左の騎士と結ばれた。故に、右の魔術師は王国を滅ぼした。
 百年も昔のことだ。ダガが既に結婚していたかどうかなど、真実は分かりはしない。
 ――、愛しい人と引き離され、生み落とした子どもが目の前で力尽きていく様を見つめる絶望は、どれほどのものだっただろうか。
「……、この塔に閉じ込められた時、もうすぐ、臨月だったの」
 力なく、ダガが微笑む。
「双子の男女だった。あの人と同じ金の髪に、蒼の瞳をした……、とても、可愛い子。胸に抱いた時、……思わず、涙が零れた」
 今の彼女は泣けない。肉体を既に失ってしまい、魂を薔薇に宿しているに過ぎない。それでも、当時と同じようにダガが泣いているように思えてならない。
「貴方のずっと前の花蓋がね、宝物を詰め込んでいた宝石箱を、死の間際に明け渡してくれたの。――私と生まれた男の子のための棺にしてくれたのよ」
 微笑んだ彼女は幸せそうだった。
 そうして、わたしは一つの違和に気づく。
「双子、……?」
「ええ。金の髪に蒼の瞳をした、可愛い子たち」
 わたしは、恐る恐る自らの髪に触れる。皇族と同じ金色の髪は、皇女であった祖母と同じ色で、家の誇りでもあった。
 蒼い瞳は、――皇族の血が濃いヨエルが宿した色。ダガと同じ、瞳の色。
 すべての謎が解けていく。
「女の子の方は、私が死した後も魔術師の手によって育てられ……、そのまま彼の子を生んだらしいの。――だから、私にとってレーナたちは愛しい子孫」
 どうして、わたしに対して、ダガが酷く優しかったのか分かった。彼女の抱擁を、まるで母親に抱きしめられているようだと思ったのは、決して間違いではなかったのだ。
「憎く、ないの……? 貴方から、すべてを奪った魔術師が……、今もなお、繋がり続けるこの血が」
 ダガは、首を振って否定した。
「憎しみはないの。――騎士に向ける愛と同じではなかったけれども、魔術師のことも幼馴染として愛していたわ。……、愛しい者の血を継ぐ人たちを、どうして憎めるというの」
 透き通ったダガの指が、そっと、わたしの頬に触れた気がした。
「塔の外に出たいのは、皆の元へ逝きたいからなの。恋しいあの人にも、愛しい子どもたちにも、……大切な幼馴染にも、わたしは会いたい」
 憎悪はないというダガの言葉が、真実かどうかは分からない。何一つ魔術師を恨まなかったかと言われれば、嘘だと思う。
 それでも、この百年間、ダガはひたすらに願ったのだろう。
「もう、生きている皆には会えない。……、それでも、この魂が解き放たれれば、いつか死の女神の御許で会えるかもしれないでしょう? そうして、やり直せるかもしれないでしょう……? 今度は、もう、間違わないわ」
 ――、先に神の御許に旅立った、愛しい者たちにまみえることを。
 そうしている間に、ダガは、花蓋かがいの少女の最期に何度付き合ったのだろう。
「花蓋に選ばれた娘は、皆、心根の優しい子たちだったわ。わたしのことを最初は憎んでいても、……最期の瞬間には、必ず謝っていくの。――、貴方の前で死んでしまって、ごめんなさい、と」
 血を吐くような叫びが、わたしの鼓膜を揺らす。
「ねえ、嫌よ。これ以上、愛した人たちの血を継ぐ娘を……、大切な家族であり友である貴方たちを失うことは、……もう、嫌。耐えられない」
 彼女の細い指が伸ばされると、触れることの叶わぬ魂が、そっとわたしに寄り添った。
「だから、レーナ。私と似た貴方だけでも、外に出て欲しいの」
 囁かな月光が塔の中へと差し込んで、壁際に生える薔薇を照らす。美しい薔薇を、月の光の元で見つめて微笑んだヨエルの姿が、わたしの目に幻のように映りだす。
 ――、レーナ。
 大好きな声が、わたしの名を呼んでいる。
「……外に、出たい。ヨエルに、会いたいっ……!」
 気付けば、何度も願い望んだ想いが溢れる。
「たとえ、……彼が、幸せになっていてっ……、わたしのことなんて忘れていたとしても、会いたい!」
 この目が見るものが絶望だったとしても、もう一度、輝く銀の髪と蒼の瞳を、太陽の下で、月の下で、見つめていたかった。
 幼い頃に、二人で歩いた庭園まで手を引いてほしかった。
「このドレスを着て、ヨエルと一緒になれるはずだった未来が、……叶わなくても、良いから。もう一度、微笑んでほしい。レーナ、と、優しい声で呼んでほしい」
 今では、擦り切れて襤褸になってしまった、純白のドレス。その裾を強く握りしめて、わたしは唇を噛みしめた。
「ただ、花嫁になりたかった、だけなのにっ……!」
 あの日は、とても大切な日だった。
 わたしの十四歳の誕生日。漸く、彼の元へと嫁ぐことができる年齢になった日だった。
 純白のウエディングドレスを身に纏って、愛らしい薔薇の髪飾りをつけて、鏡台の前に立った。
 だから、父や母の涙を本当の意味で理解していなかった。
 ヨエルが扉を開けてくれることを信じて、幸せになれる未来に想いを馳せていた。
「迎えに、来てくれたのは、……ヨエルでは、なかったの」
 だけど、扉を開けたのは、夢見た王子様ではなかった。
 入ってきた皇帝の手の者に連れられるがまま、純白のドレスを纏った状態で塔の中へと放り込まれた。
 もうすぐ、手が届くはずだった幸せ。愛しい人の傍で、子を成し、家族を守ると誓った幼い覚悟さえ、踏み躙られてしまった。
 外でヨエルの叫びが何度も聞こえたけど、それに応えることはできなかった。
 ――何度叫んでも、この声が外に届くことはなかった。
 かつて、恵みをもたらした王女の声を封じ込めるために、この塔から外に音が届くことはなかったのだ。外からの声は聞こえても、塔の中の声は届きはしない。
「わたしが、駄目だった、の?」
 瞳から、耐えきれず涙が零れ落ちた。最早涙など枯れてしまったと思っていたのに、湧き上がる感情の波が涙を誘う。
「……、歌を、捨てれば良かったの? そうしたら、……目をつけられることは、なかった?」
 花蓋かがいおり
 それは、花の化生を閉じ込めるための娘――花蓋を閉じ込めるために、後々に皇族によって付けられた名前だった。
 皇族の血を継いだ娘から、花蓋は一名選ばれる。閉じ込めて餓死させた亡国の王女の魂を永遠に閉じ込めるための、花の化生の蓋としての役目を課されるのだ。
 塔にかけられた魔法の要の一つは、かつて王国を転覆させた魔術師の血が、塔の内部に在ること。
 花の化生のすべてをこの地に留めることこそが、彼女を愛した魔術師の悲願である。
「……、いいえ。歌がなくとも、花蓋は定められていた。……、すべて、私のせいよ、レーナ」
 ダガの悲しそうな声に、わたしの瞳から涙が止まらない。
 恨まなかったと言えば、嘘になる。彼女さえいなければ、花蓋などという役目は生まれなかった。わたしが閉じ込められることはなかった。
 だが、――ダガとて、望んでこの塔に閉じ込められた訳ではないのだ。おとぎ話の姫は、ダガは何もかも奪われて失意のうちに亡くなった。
「違う、……悪くない」
 本当に誰が悪いかなんて、わたしには分からない。
 視線の先で、壁際に這うように咲いた薔薇の花が見える。ダガの髪色と同じ美しくも痛々しい花だった。
 彼女の命は、あの花に宿る限り、塔の外に出ることが叶わないのだ。永遠に、魔術師の妄執に囚われたまま。
 胸の奥が酷く痛んで、わたしは涙に濡れた瞳を伏せた。
「……ダガ。わたし、眠りたい」
 何もかも今は忘れて、ただ、幸せな夢を見たかった。
「ええ……、貴方の眠りは、私が守るわ。次に目覚めた時には、――貴方は、幸せになるのよ。幸せな、花嫁に」
 ダガの泣きそうな声が、子守唄のように耳に届く。次に目覚めた時には、今度こそ、幸せな夢が見られると良い。
 ――、どんな貴方だって、わたしは愛しているの。
 だから、もし叶うならば、迎えに来て。わたしの王子様。