花蓋の檻

03

 互いがいれば、それだけで二人の世界は美しかった。
 ――裏を返せば、互い以外はどうでも良かったのだ。
 今思えば、その点、わたしたちは魔術師に通じる所があったのだろう。ただ一つが守られるならば、それ以外の何が犠牲になろうとも構わなかった。
 魔術師が姫君だけを求めたように、わたしもヨエルも互いしか見えていなかった。
「ねえ、ダガ。魔術師は、どんな人だったの」
 酷な質問だと知りながら、わたしは、その問いを口にした。
 この帝国を築き上げた偉大なる始祖は、かつてはダガに仕えていた魔術師だ。左の騎士を殺し、姫君を塔に幽閉した右の魔術師。
 ダガは、わたしの質問に戸惑ったようなそぶりを見せたが、意を決したように形の良い唇を開いた。
「そうね、騎士が明るくて健やかな人だったとしたら、……魔術師は、仄暗く落ち着いた人だった。双子の彼らは、顔はそっくりだったけれども、中身は正反対」
 おとぎ話の騎士と魔術師が双子であったことを、わたしは初めて知った。
 それならば、どうして――どうして、魔術師は、血を分けた兄弟を殺し、大切に守っていたはずの姫君を閉じ込めたのだろうか。
「魔術師は、私と騎士の後ろに控えて、いつも微笑んでいたの。だから、……彼の苦しみに気付くことさえできなかった。……、王国を転覆させた時、騎士の首を手にした魔術師は、私に言ったの」
 痛みを堪えるように眉をひそめた後、ダガは唇を開いた。

「愛しています、ダガ、と」

 それは、愛の言葉ではなく、呪いだ。
 どうして、魔術師が――この帝国を築き上げた初代の皇帝が、亡国の姫君に拘ったのか分かる気がした。
 彼は、きっと誰よりもダガを愛していたのだ。
 それ故に、彼女の肉体が朽ちた後も永遠に塔の中に閉じ込めた。その魂までも己のものとするために、塔の封印の要の一つとして自らの血縁者を置いてまで、魔術師は王女を離さなかった。
「幼馴染だったの。三人で王国を導くと誓い合ったのに……、私が騎士を選んだ瞬間から、それが崩れてしまったの」
 恋に敗れた魔術師は、すべてが憎らしくなったのかもしれない。
 ――、そして、騎士と双子であったからこそ、魔術師の嘆きは想像を絶するものだったに違いない。
 同じ顔をしているのに、選ばれはしない。
 魔術師は日影者だ。勇敢な騎士のように、表立って王女の傍に寄り添い守ることは叶わない。魔術師は騎士に対して強い劣等感を持っていたのではないだろうか。
 だからこそ、魔術師は王女だけは騎士に渡したくなかったのだ。
 しかし、魔術師は王女に選ばれなかった。日の当たる世界を生きる騎士を、彼女は選んでしまった。
 その時、魔術師の愛は憎しみへと姿を変えたのだ。
「……、今でも思うの。どうして、こんなことになってしまったの、と」
 たった一つの選択が、すべてを変えてしまった。だが、その選択をしたダガを、誰が責められるというのだろうか。
 不意に、空腹に耐えられず、わたしの腹が小さな音を立てた。
「あ、……」
 昔なら少女らしい恥じらいを見せたかもしれないが、ただでさえ少ない食料で食い繋ぐ状態では、恥ずかしさなど感じられない。
「もう、夜になるわね。――、レーナ、そう言えば、貴方が眠っている間に食事が運ばれてきたわ」
 ダガは、これ以上昔の話をしたくなかったらしく、話題を変えることができて安堵しているように見えた。
 昔のことを語ることは、様々な痛みを伴うのだろう。
 彼女にとって、魔術師は憎んでも憎み切れない人だったのかもしれない。騎士と同じように愛することはできなくとも、幼馴染として魔術師を大切に思っていたに違いない。
「……、少ない」
 運び込まれていた食事は、小さなパンと二つの木の実だった。日に一度の食事が、このありさまでは、到底腹が満たされることはない。
 新鮮な水は定期的に与えられているが、水だけで腹は膨れない。ダガのように飢え死にしてしまうのも、そう遠くない未来かもしれない。
「待って、レーナ」
 木の実に手を伸ばしたわたしを、ダガは止める。
 彼女は透ける掌を木の実に翳し、清らかな声が歌を紡ぎ始めた。
 ああ、これは、わたしが外にいた頃によく歌っていた神々の歌の一つだ。
すべての生ある者を懐に収める、善も悪も関係なく包み込んでくれる、美しい女神への賛歌。一つの人生を歩んだ魂を永久に守ってくれる、死の女神である。
 不思議なことに、ダガの声に合わせて木の実が見る見るうちに育っていく。それは空中で小さな木となり、大粒の実をつけていく。そうして、直ぐに枯れていった。
 残された木の実たちが、冷たい床に転がった。
「ごめんなさい、レーナ。今の私には、こんなことしかできない」
 眉を下げたダガに、わたしは暫く言葉を失ってしまった。
 空腹が堪らないから、木の実が増えたことは素直に嬉しい。だが、嬉しいだけでは終わらなかった。
 わたしの身体は、背筋から這い上がるような恐怖に震えていた。
「……、ダガ。貴方は……、貴方は、とても」
 種は、やがて、芽ぐむでしょう。
 芽は、やがて、蕾むでしょう。
 蕾は、やがて、咲笑えわらふでしょう。
 ――、そして、咲いた花は、いつかは堕ちるでしょう。
「とても、残酷ね」
 命あるものの運命だとしても、終わりの時が必ず訪れるならば、それほど残酷なことはないだろう。
 今見せられた力は、芽吹きの力などという美しいものではなく、終わりの力なのだ。
「貴方の力ほど、残酷なものはないわ」
 命の芽吹きを生みだすということは、終わりを運命づけることなのだ。
「……、レーナは、何もかもなければ良かったと思っているの? いずれ終わりが訪れるならば、始まりなど要らないと」
 蒼い瞳が、静かにわたしを見つめる。その眼差しは、酷くヨエルと似ていた。彼の瞳も、ダガのように美しい蒼だった。
 わたしは、俯いて肩を震わせた。
「だって、……こんなにも辛い想いをするくらいなら、いっそうのこと、生まれない方が良かった」
 わたしが知らなかっただけで、わたしの運命は花蓋となるために定められていたのだ。
 皇帝たちにとって、ヨエルを慕う自分は、どれほど滑稽に映っただろうか。
 彼と共に在ることを夢見た少女時代は茶番でしかなかったと思うと、悔しくて堪らなかった。
「レーナ。始まりも終わりもないということは、……辛い思いをしなくて済む代わりに、幸せな思い出さえも否定することになるのよ」
 少しだけ低くて耳に馴染むダガの声が、諭すように言葉を重ねる。
「ヨエルと過ごした時間も、なくなって良いの?」
 透ける身体で、彼女はわたしを抱きしめた。温もりなど何一つ感じとることができなかったけど、何故だか、とても温かく感じられた。
 まるで、母親に抱きしめられているかのような、無条件の安心がそこにはあった。
 花の化生――、肉体が朽ち果ててもなお、花に宿り、魂をこの世に繋ぎ止められたままである彼女。その能力こそ畏怖するものの、彼女自身には恐怖はない。
 それは、ダガが優しい人だと言うことを、わたしは知っているからかもしれない。
 酷い目にあわされて、誰にも助け出されることなく苦しみながら死んでいったにも関わらず、彼女の心は清らかだった。
「生きることを諦めないで。幸せなことを思い描いて、明日を夢見るのよ。――さあ、また素敵な思い出を聞かせて?」
 柔らかな声が、わたしを励ます。
 滲んだ涙を乱暴に拭って、今日も、わたしはダガに語る。ヨエルと過ごした、幸せだった日々を思い描く。
 折れそうな心を誤魔化して、今日を生きるのだ。いつか希望に見《まみ》えることを、ひたすらに信じよう。
 そうやって、擦り切れそうな心を必死で繋ぎ留めることしか、今のわたしにはできない。
「夜会で、歌を歌わなければならない時が、あったの――」



 もうすぐ誕生日を迎える、十三歳の冬のことだった。
 父親から、皇妃が主催する夜会で歌を披露するように言われたのだ。皇妃の主催と言うこともあり、その場には皇帝陛下も顔を出す。そのような場所で歌を披露できるのは、大変名誉なことだと父は力説した。
 だが、――わたしは、少しも名誉だと思えなかったのだ。
 歌の先生には褒められていた。百年に一人の逸材だと、興奮しながら語ってくれた音楽家もいた。
 それでも、わたしは自分の声が綺麗だとは思えなかった。与えられる称賛は生家に対する世辞にしか聞こえなかった上に、歌うことに対して酷く抵抗があった。
 わたしは、いつも自信がなかった。
 それなのに、夜会で歌を披露しなくてはならなくなって、自然と涙が零れ落ちてしまった。
 泣いているわたしの肩を、ヨエルがそっと抱いてくれたことを憶えている。
「レーナ。大丈夫だよ」
「無理よ。歌えない……、絶対、失敗する」
 元々、大勢の前に立つことが苦手な性質だったのだ。その上、自信のない歌を皇帝陛下までいらっしゃる夜会で披露しろ、と言われたら、堪ったものではなかった。
「失敗したら、お父様も、お母様も、……貴方だって、きっと、わたしのことを嫌いになるわ」
 愛してくれる人たちに失望されることが、一番恐ろしかった。
 失敗してしまったら、泣き虫なわたしのことなど、皆愛想を尽かすに違いない。父や母だけなら、まだ耐えられるかもしれない。だが、ヨエルに見捨てられたら、わたしは生きていけない。
「……、君には、僕がそんな薄情者に見えるの?」
 ヨエルは、蒼い瞳を切なげに伏せた。
「レーナ。君が生きてくれることが、僕にとって、この上ない幸福だ。君が失敗したからと言って、どうして、僕が君を嫌いになるの?」
 わたしにとって、六つ上のヨエルは憧れの人であり、誰よりも愛しい人だった。約束された彼との未来のために、早く彼に見合う女になりたくて、子どもである自分が赦せないほどだった。
 だから、ヨエルの言葉のすべてが、嬉しかった。
「大好きだよ。僕には君だけだ。――どんな君だって、僕は愛している」
 そっとわたしに口づけて、ヨエルは微笑んだ。
 初めての口づけに戸惑うわたしを、彼は優しく抱きしめてくれた。彼の胸に頭を預けて、わたしは恐る恐る手を伸ばした。
 彼の傍にいられる自分は、とても幸せだった。
 ――いつか、笑顔で伝えたい。
 わたしも、どんな貴方だって愛している、と。



 話し終えたわたしの頬を、透けたダガの指がなぞる。とても優しい仕草で、泣きたくなった。
「ヨエルは、レーナを大切に想ってくれているのね」
「……、本当? 迎えに、来てくれるかな。わたしのこと、忘れてない?」
 ――、もう、塔の外にヨエルが駆けつけてくれることもなくなった。わたしの名を叫ぶ声が聞こえなくなってから、どれくらいの月日が経ったのだろうか。
 ダガは、美しい顔で微笑んだ。まるで、花が綻ぶかのような笑みだった。
「レーナがヨエルのお姫様なら、ヨエルはレーナの王子様。必ず、迎えに来てくれるわ」
 ダガは、まるで、母親のような人だと思う。亡くなった歳は、わたしとそれほど変わらないだろうが、いつもわたしを安心させ慰めてくれる。
 だから、――わたしが閉じ込められた原因が彼女にあるとしても、憎み切ることができなかった。
「レーナ、貴方は私と違うのよ。だから、同じ未来を辿る必要なんて、何処にもないの。大丈夫、……大丈夫よ」
 美しい花の化生に縋りついて、わたしは、また泣いた。
 ああ、――貴方に会いたい。
 優しく抱きしめて、温かな口づけを、もう一度与えて欲しい。