花蓋の檻

02

 陽だまりの中で、手を取り合っているだけで幸福でした。
 この両手を彼らが離さぬ限り、永遠に王国は繁栄に導かれると信じていました。
 されど、決して切れぬと信じていた絆は、私が思っていたよりも脆く儚いものでした。
 今でも思うの。
 ――、どうして、こんなことになってしまったの?


☆★☆★


 壁に寄り掛かって、わたしは塔の中を見渡す。この景色も、随分と見慣れてしまった。
 ここは、高く聳える白亜の塔の最上階。冷たい石で象られた檻の中である。
 小さな窓から差し込む光と風だけが、外の世界を連れて来てくれる。
 だが、魔法にかけられた白亜の塔から発した音は、決して外界に漏れることはない。この塔には、内部から一切のものを出さないように魔法がかけられているのだ。
 相変わらず壁に咲く薔薇の花に視線を遣ってから、その下にある茨の巻き付いた宝石箱を見る。
 あの宝石箱は、わたしの何代か前の花蓋の持ち物だったらしい。ほとんど何もない檻の中に、不自然に置かれた宝石箱。その中身は気になるが、手を伸ばすことは躊躇われた。
 触れてしまえば、わたしも亡くなった花蓋の少女たちと同じ運命を辿る気がしてならないのだ。
 何より、わたしが宝石箱に触れるのをダガは嫌がった。彼女にしては珍しい反応だったが、苦しげな表情のダガに、わたしは何も言えなかった。死んでしまった花蓋のことを思い出して、切なくなるのかもしれない。
 この塔で気の遠くなるような時間を過ごしているダガは、何度も花蓋の少女の死に付き合っている。
 わたしは、小さく息を吸ってから、痩せ細った手で床に投げ捨てられたフォークを握る。そのまま、壁にフォークを用いて一本の線を刻みつけた。
 刻まれた線の数が、わたしが閉じ込められてからの月日を教える。その度に、わたしの希望の灯は揺らめいて消えそうになる。
「レーナ。何をしているの?」
 目の前に、美しい化生が姿を現す。
 透き通る肌をした、この世のものとは思えないほどの美貌をもった女。
「……、ダガ」
 触れることのできない花の化生は、今日もわたしに微笑んだ。
「日付を数えているの。閉じ込められてから、何日経ったのか分からないから」
「……そう、私と同じね」
 わたしは曖昧に笑う。
 ダガと同じ道を辿っていると言うことは、いずれ、彼女のように力尽きる未来を強く意識させた。
 ダガこそが、花の化生。
 芽吹きの花、綻びの花、と謳われた、かつての王国の姫君だ。右に魔術師、左に騎士を従えていた世継ぎの姫は、魔術師の裏切りと共に白亜の塔に幽閉された。
 そして、彼女はそのまま餓死したのだ。
 物語は、そこで終わりを迎えているが、実際は続きがあった。王女の稀有な魂は、今も花蓋かがいおり――この塔の中に閉じ込められたままなのだ。
 生命の感じられぬ塔の中で、唯一、壁際に伝う薔薇の花。その花にダガの魂は宿っている。
「ねえ、ダガ。……、また、昔話を聞かせてくれる?」
「……、ええ、もちろんよ」
「騎士は、どんな人だった?」
 おとぎ話で語られる王女は、右の魔術師に裏切られる前、左の騎士と恋仲だったそうだ。勇敢な騎士は、世継ぎの姫として育てられた王女に寄り添う生涯の伴侶となるはずだった。
 わたしが、ダガに昔話を強請ってしまうのは、きっと自分と重ねているからなのだろう。わたしも彼女も、幸せな未来を手にする直前に、すべてを奪われてしまった。
 わたしは、ダガと傷の舐め合いがしたいのかもしれない。幸せだった頃の話を、折れそうな心の支えとしたいのだ。
「とても強くて、優しい人だったわ。あの人は、困っている人がいたら、誰にでも何でもしてあげたの。その優しさを誇らしく思うのと同時に、……、憎らしかった」
 ダガの唇から紡がれた憎らしいという言葉に、わたしは驚いた。いつも淑やかな彼女には、似合わない。
「本当は、私だけに優しくしてほしかったのよ。皆と同じなんて、耐えられなかった。あの人は皆に優しかったから、……いつか、私ではない誰かを選んで、あの人が去っていくことが怖かったの」
 切なそうに眉をひそめたダガの気持ちは、わたしにも分かるような気がした。
「……、わたしも、怖かった」
 いつかヨエルがわたしを棄てていくことが、恐ろしかった。皇族の血が特別濃いヨエルと自分では、家格が釣り合わないのは周知の事実だ。
「ヨエルは、わたしよりも、ずっと綺麗で大人な人の元へ行くのではないかと、怖かったの」
 何より、幼かったわたしでは、ヨエルは物足りないのではないかと思っていた。どれほど背伸びしても、六歳の歳の差は埋まらないのだ。美しいヨエルの隣には、妙齢の女性こそが相応しいと、わたしは強い劣等感を抱いていた。
 ヨエルを信じたいと願う反面、いつまでも疑心を捨て去ることができなかったのだ。あの優しい青年を信じ切れない自分の心が、当時、堪らなく嫌だった。
「ヨエル」
 愛しい人の名を呼んで、わたしは唇を噛み締めた。
 ――貴方に会いたい。
 あと、幾度の朝を迎えれば、貴方に会えるのだろうか。幸せな記憶に縋りたくても、孤独の中では、すべてが薄れて消えていってしまう。
 いつか、ヨエルとの思い出さえ失って、わたしは空っぽになってしまうのかもしれない。
「……、ごめんなさい。レーナ」
 眉を顰《ひそ》めて囁くように謝罪を口にしたダガの姿に、わたしは何も言えない。
 本当に悪いのは誰であったのか。
 王国を転覆させてしまった魔術師か、それとも、稀有な力を持って生まれてしまった花の化生――ダガなのか。
 あるいは、魔術師の血を継ぎ、彼の遺言通り塔の中に血縁者を閉じ込め続けるわたしたちこそが、罪なのかもしれない。
 わたしが、力なく床に転がると、長く伸ばした金髪が散らばった。汗と油で御世辞にも綺麗とは言えなくなったが、それでも、ヨエルが褒めてくれた髪に代わりはない。
 ヨエルと過ごした日々の欠片が胸の中で蘇って、わたしは目を伏せた。
 あれは、いくつの時の話だっただろうか。



 衣服が汚れるのも構わず、二人で芝生の上に寝転んでじゃれあう。
 わたしのお父様は、伯爵領を治める領主だった。その仕事を手伝っていたヨエルとは、いつも一緒に居られるわけではなかった。だから、二人で過ごす時間は、わたしにとって宝物だった。
 芝生の上に散らばったわたしの金髪に、不意にヨエルが手を伸ばした。
「レーナの髪は、太陽の色だね。温かくて優しい色」
 ヨエルが目を細めて微笑む。
「本当? それなら、ヨエルは月みたいな色ね。凄く綺麗」
 銀色の髪は、青白い月光のように冴え冴えとした清廉さを持っている。透き通る様な蒼の瞳と合わさって、とても美しいことを、わたしは知っていた。
「…………、僕は、綺麗じゃないよ。心が狭くて醜くて、君の隣に並ぶことを、いつも躊躇ってしまう」
 自嘲するようなヨエルの呟きが、わたしには理解できなかった。
「ヨエルは、綺麗よ。とても優しくて、醜くなんかない」
 そう言うと、彼はわたしの小さな身体を抱きしめた。六歳も年上の青年と、幼かったわたしでは、体格差は大きい。一瞬、抱き潰されてしまうかと思った。それほどまでに、強い抱擁だったのだ。
 それでも、ヨエルはわたしの背に回した腕を緩めなかった。
「レーナ。ずっと、僕だけのものでいてね」
 縋るように、わたしの耳元に唇を近づけて、震える声で彼は囁く。
 ――、まるで、懇願するような声だったことを、今でも良く憶えている。
「うん。ずっと一緒ね、ヨエル」
 年下のわたしに甘えてくれることのなかったヨエルが、初めて見せてくれた弱さ。それが、この時、とても愛おしかったのだ。
「僕には君だけだ。――君が隣で笑ってくれるためなら、僕は何だってするよ」
 瞼の上に落とされた彼の唇から、穏やかな温もりが伝う。
 ヨエルを通して目に映る世界は、ひたすらに優しく美しく見えて、ただ、笑みが零れ落ちた。