月虹彼方

第一幕 蒼の皇子 05

 真夏特有の蒸し暑さで、なかなか眠りにつけなかった真朱は、室の外で涼んでいた。
 身体が弱いわけではないが、このような暑い日は、どうにも苦手だった。母親が死んだ、蒸し暑い夜を思い出すからかもしれない。
 そっと目を閉じて風に当たっていると、廊下から微かに足音がすることに気づく。皆が寝静まった頃、青嵐の離宮を歩く人間は限られている。
「眠れませんでしたか? 青嵐様」
 既に夜半を過ぎていると言うのに、彼はまったく眠そうに見えなかった。
「貴様もか。……ちょうど良い、少し散歩に付き合え」
 歩き出した青嵐に、真朱は慌てて続いた。彼について庭園に出ると、急に青嵐が足を止めた。
「空を見上げてみろ」
 言われるままに、真朱は夜空を見上げる。
 そして、思わず息を呑んだ。
「……、綺麗」
 星が瞬く夜空には、白い虹がかかっていた。
月虹げっこうを見るのは、初めてか?」
「はい」
 時折、夜空にかかるという白い虹。話には聞いていたが、実際に見るのは初めてだった。
「月虹は、いつも見れるものではない。貴様は運が良いな」
「……、夜空とは、こんなにも美しいものなのですね」
 今まで、こんなにもゆっくり空を見上げる余裕はなかった。母が生きていた頃は妓楼で下女として働いていて、母が死んでからは路地裏を鼠のように生きていた真朱は、その日を乗り切るのに精一杯だった。
 人々が夜空を見て月に焦がれている間、真朱は地を這っていた。見たことも行ったこともない月に焦がれるよりも、今日を生きるためにやることがあった。
「月が浮かんでいるのだ。美しいに決まっているだろう」
 青嵐が、淡く輝く月を指差した。
「あの虹を翔けた果てに月の国があると――私を生んだあの女は、良く言ったものだ。翼をもがれた身で、戻れるはずのない故郷を懐かしみ、あの女は涙していた」
 妾妃であった青嵐の母は、月から大地にちた月の民だ。
 時折、空を飛ぶ最中に翼を狂わせてしまい、地上へと堕ちる月の民がいるのだ。地に堕ちた月の民は、落下により命を落とすか、辛うじて助かっても奴隷のように扱われる。
 だが、少女であった青嵐の母の美しさに魅せられた皇帝は、彼女を己の妾妃とした。
「戯れに妾にされ、私を身籠ったそうだ。皇帝も美しい容姿をした月の女に興味があっただけで、あの女を特別に愛していたわけではない」
 ――それでも、青嵐の母は皇帝を慕ったのだろう。堕ちた月の民が辿る悲惨な末路を知っていたからこそ、戯れとはいえ、自分を救ってくれた皇帝に惹かれたに違いない。
 翼をもがれ、地を這うことしかできなくなってからも、その想いを捨てきれなかったのだ。そうして、心を病ませ身体を壊し、亡くなった。
「今も、あの女のことは理解できぬ。……、愛や恋などで心を病み、死んでいったというのに、あの女、最期の時に自分は幸せだったと戯言を言った」
 蒼い瞳が、わずかばかり翳るのを真朱は見逃さなかった。
「莫迦な女だ。あの女の人生が、幸せであるはずがない。暫し寵愛されただけだというのに、皇帝を愛していると、あの女は頻《しき》りに口にして……」
 皇帝の寵愛を失っていく母の姿を見てきた青嵐には、母親の気持ちが理解できなかったのだろう。真朱にも、父親に対しての恨み言を、一切零さなかった母の気持ちが分からない。
「幼い私に、あの女は何度も語った。愛も恋も、尊いものだと、美しいものなのだと。せぬことだ。醜い人間から、美しい感情が生まれるはずがないだろう……?」
 同意を求める青嵐の声が、縋るように聞こえたのは、きっと間違いではない。
「……、ええ。人など醜い生き物です」
 青嵐の言うとおりだ。美しいものなど、この世にはわずかしか存在しない。
 発育が悪い上に、見目が整っているとは言えなかった真朱は妓女にはなれなかった。かと言って、芸妓になるには、才能が足らずに向かなかった。
 こぶ付きの妓女である母も、彼女の瘤である真朱も、妓楼の者から疎まれていた。他の妓女や下女の者たちから、思わず目を背けたくなるような嫌がらせをされたことは数えきれない。
 真朱は母の身の回りの世話をしながら下女をしていたが、荷物であったことに変わりはない。親子二人の生活は、徐々に苦しくなっていった。
 それでも、泥水を啜り、辛酸を舐めながらも、いつか幸せになれると信じていた。母と二人で穏やかに暮らせるような日が訪れる。そう希望を持つことで、苦しい日々を乗り切っていた。
 ――、だが、客から病を貰って、母は呆気なく死んだ。直ぐに医者にかかれば治った病だったが、それすらも妓楼の人々は赦してくれなかった。
 人間は醜く、世界は人が思うよりも残酷にできていることを、真朱は知った。
「人も世界も、……美しくなんかない。ずっと、そう思っていました」
 母を喪って妓楼を追い出された真朱は、独りで生きていくために比翼術で盗みを働いた。父を知らなかった当時は、この不思議な術が比翼術と呼ばれる、月のことわりを用いた術であることさえ知らなかった。
 術を使う度に、痛みと共に肌を這う黒い紋様に怯えながらも、何度も比翼術で悪さをした。そうしなければ、生きられなかったのだ。
「美しくない世界に、……優しくない世界に価値なんてない。自分は不幸だから、他人の幸せを奪う権利があるのだと考えました。それが当然だと思って、そのために比翼術を使いました」
 家族に恵まれ、温かな家で暮らす人々が妬ましかった。真朱が大切な人を亡くして、地を這うように生きている間に、愛しい人たちに囲まれて幸せに生きる者がいるのだ。そのことが、堪らなく悔しくて恨めしかった。
「……今は、違うのか? 人は醜いと思わないのか」
「美しいものを、知りました」
 淡く輝く金髪に蒼い瞳をした、美しい人に出逢った。
「だから、……人も醜いばかりではないのだと、思います」
「……、勘違いだろう。ろくな生き物ではないぞ、人間など」
「ええ。でも、世界には美しいものだってあるんだと思いました」
 真朱を孤独から救いあげてくれた青嵐を、心から美しいと思う。たとえ、彼にとって真朱が道具でしかなかったとしても、真朱は確かに青嵐の存在に救われたのだ。
 今の真朱にとって、醜い世界の中で、彼だけが唯一色を持つ存在だ。
「私は、……そのようなものに出逢ったことがない」
「いつか、青嵐様も出逢いますよ」
 人も世界も醜いが、綺麗で美しいものも存在することを、彼に知ってほしかった。彼を救ってくれる美しいものが現れた時、傍にいられたならば、どれほど幸せだろう。
 彼を死ぬための理由にするつもりだったのに、いつの間にか、真朱はそんな風な淡い願いまで抱いてしまった。随分と、贅沢になったものだ。
 半年も青嵐の傍にいれば、彼のことが少しずつ分かってくる。高圧的で傲慢に見えるが、その実、彼は誰に対しても誠実なのだ。彼は、他の皇子のように私利私欲に走ることなく、責務を全うしている。翔国の民など知らないと言いながらも、誰よりも国を憂いているのは彼だ。
 ――今は疎まれていても、彼には明るい未来が存在しているはずだ。
 この国を継ぐのに相応しいのは、享楽にふける他の皇子たちではなく青嵐だ。青嵐が翔国を栄華に導く未来が存在していると、真朱は信じている。
「青嵐様。――、未来を夢見てみませんか?」
 だから、気付けば真朱は青嵐に問うていた。
「未来? 突然、何を言うかと思えば……」
「これから歩む道が、幸福なものだと知りたくないですか?」
「……、私に幸福な未来など、存在するはずがなかろう」
「それなら、占いましょう? ――青嵐様の未来を。冠家の占いは、嘘をつきません」
 冠家の占いとは、比翼術を用いて、月神の下に集められた運命の一端を覗くことを指す。定められた道筋は、決して逸れることはない。運命は月神の掌によって、決して違えることなく流れていく。
「羽根を、いただけませんか?」
 青嵐は片翼の翼から一枚の羽根を引き抜いて、無言で真朱に差し出した。
 渡された羽根を大切に抱きしめてから、真朱はそっと羽根に口づける。舌に刻まれた片翼の刻印が、彼の翼を記憶した。これで、青嵐の運命を辿ることができる。
「我、天翔る翼に願う」
 月神へ祈り始めると、舌に刻まれた刻印が熱を持った。
 比翼の刻印は、月の民が、月神が恋しいのだろう。この刻印は、元々、月の民が持つ翼そのものだった。月の民に還ることを、比翼の刻印は願っている。片翼の刻印であろうとも、月の民の血を引く青嵐に惹かれるのは当然だ。
「罪は地に祓い、愛は天に捧ぐ」
 目の前が、一瞬、淡い光に包まれる。直後、真朱の脳裏で、様々な光景が泡のように浮かんでは消えていく。その一つ一つを逃さぬように、頭の中に刻み込んだ。
 眉をひそめる城下町の人々。困惑する一部の貴族。それに囲まれて笑う青年は、若くして翔国の宰相を務める家の青年だった。
 そして、――最後に見えた光景は、皇帝の証である冠を被り、微笑む青嵐だった。今よりも随分と成長した彼の姿に、真朱は戸惑いを覚える。
 大人になった彼の唇が開かれる。その声を聞いた瞬間、真朱は顔を真っ青にした。
「……っ、あ?」
 思わず、真朱の瞳に涙が滲む。その様子を見て、青嵐が眉をひそめた。
 ――何故、このような結果になったのだろう。こんな、はずではなかった。
 彼を喜ばせたかった。今は疎まれていても、彼には素晴らしい未来が待っているに違いないと信じて、真朱は占いをした。
 それなのに、片翼の刻印が導いた運命は、あまりにも惨い。
「……、占いの結果は、出たのだろう?」
 強い言葉に、真朱は偽ることなどできなかった。
「青嵐、様。……、あ、貴方様は……」
 喉が渇いて声が枯れる。悲しみに打ち震える心が、唇を何度も閉ざそうとした。
 暫《しば》しの沈黙が落ち、真朱は喉の奥から声を絞り出す。

「この国を、滅ぼすでしょう」

 真朱の瞳から、大粒の涙が零れ落ちた。何かの間違いだと思いたかったが、月神の下に在る運命は嘘をつかない。
 ――私が、国を滅ぼした。
 大人になった青嵐は、確かに、そう言った。
「……、そう、か。私が、この国を終わらせるのか」
 その呟きが切なくて、真朱は縋るように彼の手を握りしめた。
 もう、何一つ失いたくない。幸せそうに笑う者たちを、ただ憎み続けるだけの日々に戻りたくなかった。
 置いて行かれるのは、嫌だ。
「良かったな。国を滅ぼす皇子を生かす理由など、この国にはない。……、私が死ねば、貴様は解放されるぞ」
「解放など、望んでいません! ……、あたしは」
 そこまで言って、真朱は口を噤んだ。真朱を孤独から救ってくれた彼が大切で、喪いたくないと思った。
 だが、この執着の名を真朱は知らない。
「あたしは、……貴方様の影です」
 知らないから、口にすることができなかった。
 彼は、一瞬だけ眉をひそめた後、薄い唇に微かな笑みを浮かべた。
「……、ああ、そうだ。貴様は、私の影だ。死ぬまで使い切って、最期まで連れて行ってやる」
 淡く輝く虹の下、真朱は、涙を流した。
 彼が国を滅ぼす運命を背負っているならば、どうすれば、彼を生かすことができるだろうか。

 そして、月日は流れ――四年の歳月を経た。