月虹彼方

第二幕 朱の少女 07

 既に夜半を迎えた時刻、冠家の本邸は、静けさに包まれていた。
 随分と久しぶりに訪れた邸内を歩きながら、真朱は小刀を握り直す。
 目当ての室に滑るように入り込むと、わずかな灯りに照らされて、煙管を吹かす男の姿が浮かび上がる。
 何年も会っていなかったせいか、その横顔は随分と年老いて見えた。
「……、そろそろ、来るだろうと思っていた」
 煙管を片手にした父――冠士良の言葉に、真朱は静かに頷いた。
「お久しぶりです、父上」
「久しぶりに、父の顔を見に来たわけではなさそうだな」
「そのような殊勝な娘ではないと、知っているでしょう?」
「相変わらず、生意気な娘だ」
 士良の溜息に、真朱は無言で小刀を構えなおした。
 ――青嵐の邪魔となる者は、排除しなくてはならない。
 皇位争いにおいて、一番の不安要素は皇族当人ではない。富や権力に溺れる彼らなど、青嵐の敵ではない。青嵐を敵視する蘭香も、肉体的にはか弱い女性であり、政治的な力もほとんど持っていない。
 問題は、皇族の影である冠家の術師たちだ。月のことわりである比翼術を扱う彼らは、青嵐にとって最大の脅威だ。
 その脅威を取り除くために、真朱が打てる手は一つだけだ。
「……、私を殺せば、確かに、冠家は荒れるだろうな」
 当主である父を殺せば、自尊心と野心ばかり強い親族たちは、挙《こぞ》って冠家の当主を目指すだろう。皇族の影としての役目を投げ出す姿が、簡単に想像できた。徐々に廃れていく国と同じで、皇族に対する冠家の在り方も廃れていることを、真朱は分かっていた。
「恋情に浮かされて愚かなことだ。惚れたのか? 月の民の血を継ぐ皇子に」
 士良の言葉に、真朱は息を止めた。身体の奥に募っていた蟠りが、一瞬にして解けていく。
 ――この執着とも呼ぶべき想いを、人は恋情と呼ぶのか。
 それならば、間違いなく、真朱は青嵐に恋をしている。彼を愛し、彼のためだけに生きて死にたいと願っている。一心に皇帝を慕っていた青嵐の母のように、真朱もまた、青嵐に焦がれていたのだ。
「……、いけませんか?」
 今まで分からなかった感情の名を知って、真朱は微笑んだ。彼を占った日、伝えられなかった想いが、今なら分かる。あの頃から、真朱は彼を慕っていたのだ。
「報われないぞ。初めて会った時に言ったはずだ。片翼の刻印で、比翼術を使う代償は重い」
 真朱の手に這う黒い紋様を見て、士良はせせら笑った。
「比翼術は、月の理だ。翼を持たぬ我らがその術を扱うためには、月の民の翼を手にしなくてはならない」
「……、冠家の祖先は、月の民を喰らったのでしたね」
 月の理を扱うためには、月神が授けた翼が必要だった。比翼術を追い求めた冠家の祖先は、その翼を手に入れるために、地に堕ちた月の民を喰らったのだ。
 その血肉を喰らうことで、月の理を一族の血に交え、冠家は比翼の刻印を手に入れた。
「いっそのこと、お前が、翔青嵐を喰らうことを期待していたのだがな」
「……え?」
 思いもよらぬ言葉に、真朱は目を見開く。
「あの皇子の片翼を手に入れて、お前が完全な術師になる道とて、あっただろうに」
「……、あたしは、青嵐様の影ですよ? 主を喰らったりしません」
「主に命じられれば何でもするのか?」
「いいえ。命じられなくとも、あの方のためならば何だってします」
 青嵐のためだと思えば、命じられずとも真朱は何でもする。彼のために、幾人もの命を奪い、幾人もの人生を狂わせてきたのだ。他人の不幸ならば、真朱は己の考える彼の幸福を選ぶ。
「……、あたしには、もう、あの方しかいません」
 一瞬だけ、士良の瞳が翳ったことを、真朱は気のせいだと思うことにした。血縁であり恩もあるが、真朱にとって大切なのは青嵐だ。それ以外に、情を抱くような相手は不要だった。
 仮に士良が真朱を心配していたとしても、真朱にはそれを受け入れることはできない。
「貴方みたいに母さんを見捨てた男よりも、あたしは青嵐様が大切です」
「…………、捨てたのは、私ではない。たった一言でも、子を身籠ったと言ってくれれば、私は何に代えてもお前たちを守ったというのに」
「え?」
「お前の母親は、元々、私の侍女だ」
 士良の口から聞かされた事実が信じられず、真朱は唇を震わせる。
「……、母さんは、ずっと、花街で育ったと……」
「お前に余計な希望を抱かせないために、あれが嘘をついたのだろう。……お前たちの居場所を突き止めた時には、もう、手遅れだった。あれは死に、骨と皮のように痩せたお前だけしか見つけることができなかった」
 まるで、懺悔するかのように、士良が額に手を当てる。
 真朱は動揺した心を諫めるように、小刀を握り直した。浅くなりかけた呼吸を整えて、射抜くように士良を見つめる。
「……、そう、ですか。でも、そんなの……もう、関係ないんです」
 大切なのは、守りたいのは青嵐だけだ。他の何もかも捨てて、ただ、彼のために生きると決めたのは、真朱自身だ。
「……、そうか」
 たとえ実父であろうとも、青嵐の存在には勝らない。
「この命が必要なら、討てば良い。されど、私を討ったところで、お前が皇子の傍にいられなくなる運命は変わらない。……、片翼の刻印で術を使い、無事でいられるはずがないのだから」
 身体中を這う黒い紋様を思い出して、真朱は目を伏せた。正統な比翼の刻印を持たずに術を使い続けた自分の身体は、既に限界が近い。
「この先、お傍にいられなくても構わないんです。青嵐様が空へ翔るために死ねるなら、……何も怖くない」
 あの日、二人で眺めた月虹の果てに、彼が夢見る月の国がある。
 いつか、彼は月へと翔けていくのだろう。煩わしいなど振り切って、美しい翼を広げて彼は飛び立つのだ。
 その時、真朱の片翼は青嵐に受け継がれる。
「……、それは、お前の自己満足だろうに」
「ええ、……身勝手な想いです」
 一瞬とも永遠ともつかぬ沈黙の中、士良が目を閉じる。その瞬間、真朱は躊躇いなく士良の胸を小刀で衝いた。生温かな血が、真朱の腕に飛び散る。
 士良は、真朱の攻撃を避けることすらしなかった。すべてを受け入れるかのように刃を受けて、彼は唇から赤い血を零す。
 震える手を真朱に伸ばして、士良は最後の力を振り絞るように言葉を発した。
「報われぬ想いに、何の意味がある。擦り切れるまで利用されるだけ、だ。……己の幸せは、望まないのか」
「利用されても良いんです。……、青嵐様ために死ねるなら、それがあたしの幸せです」
「……、戯言を」
 士良の手が、力なく床に落ちた。
 瞳を閉じた士良に背を向けて、真朱は歩き出す。俯けば涙が零れ落ちそうで、振り返れば父に囚われてしまいそうだった。
「青嵐、様」
 後戻りするつもりはなかった。後戻りできるはずもなかった。
 小刀の血を払って、真朱は闇に乗じる。皆が静まり返った夜半、離宮までの道のりには、人影一つ見当たらない。
 夜空を見上げると、淡く光る月が浮かんでいた。
 ――思い返せば、四年前も、このような月の夜だった。夜空にかかった月虹の下で、真朱は青嵐の未来を占ったのだ。
 彼に明るい未来が待っていることを教えたくて、起こした行動だった。
 だが、月神の下で垣間見た運命は、彼が国を滅ぼすという残酷なものだった。
 あの日から、真朱と青嵐の関係には越えられない溝ができた。あの時、未来を占わなければ、真朱は青嵐の隣で無邪気に笑えていただろうか。
「……、好きです」
 この胸を焦がす想いを伝えられる日など、永遠に訪れない。それでも、取るに足らないこの身が彼の助けとなれるならば、真朱はいくらでも闇に染まろう。
 たとえ、もう二度と、共に月虹を眺めることができずとも――。
 彼に未来を与えられるならば、それで良い。
 すべてを捧げて生きることが、優しい彼を傷つける結果になることも分かっていた。彼のためだと口にしながら、真朱が己のためだけに動いていることも知っていた。
「……、独りは、もう、嫌なんです」
 大切な人を喪って孤独になることが怖いから、真朱は青嵐を生かすために手を汚した。置いて行かれることが耐えられないから、置いていく道を選んだだけだ。
 青嵐のためだと言って手を汚すのは、真朱の弱さだった。