徒花と眠り姫

鈴蘭の眠り姫 02

 部屋に差し込む光に重い瞼を開けて、俺は小さく欠伸をする。
 どうやら、夢を見ていたらしい。
 緩慢な動きで窓を開けると、清々しい朝の空気が舞い込んでくる。冬の終わりを告げるような暖かな日差しが眩しく、俺は目を細めた。
 あの吹雪の夜から、数週間の月日が経った。闇色の瞳をした人形が俺の元に来てから、初めての春を迎えようとしているのだ。
 棺で眠っていた美しい人形を思い出し、溜息と共に頬が引きつるのを感じた。彼女が、見た目通りの清廉で清楚な人形であったならば、まだ良かったのだろう。
 早朝にしては妙に騒がしい音が耳に入り、深く項垂うなだれる。彼女が俺の元に来てから、屋敷には奇妙な雰囲気が漂い続けているのだ。閉ざされた人形屋敷には相応しくない騒がしさは、いつも俺の心を落ち着かなくさせた。
 今度は、一体何をしでかしているのだろうか。
「……あの、阿呆人形」
 どうにも、彼女にすべてが狂わされている気がしてならない。
 ここ最近調子の良かった体調が、心労で悪くなるのも、これでは時間の問題だろう。
 寸分の乱れもなく一定の音を刻む足音が、次第に近づいてくる。
「朝でございます、ご主人様」
 部屋の外から抑揚のない声がすると、間を空くことなく、続けざまに勢いよく扉が開いた。
 彼女に対しての文句は多々あるのだが、その中でも特に気に喰わないのが、彼女が毎日決まった時間に俺を起こしに来ることだった。
 いつも好きな時間に起きていた俺としては、もう少し寝かせてほしいものだ。
 長い黒髪を結えて、慎ましやかな服に身を包んだ彼女は俺に一礼した。遅い足取りで俺の元へと歩いて来る彼女を視界に捉えながら、俺は眉をひそめる。
 象牙色の肌は人間と見紛うほどに瑞々しく、厚めの唇は紅を引いたように紅く熟れている。
 だが、彼女から、一欠片の生気も感じ取れはしない。
 その麗しさを穢すような無表情が、彼女と生きた人間の差異を決定的にしていた。
「……、うるさい」
 苛立ちを隠さずに声を張り上げた俺に、彼女は首を傾げる。そうして、もう一度寝入ろうとした俺に、彼女は口を開いた。
「起床は朝の六時と決まっております。そうして、ご主人様は私の熱々の朝食をお食べになって、おでかけの接吻をして会社に参られるのです」
 淡々と述べられた言葉に、冷水を浴びせられたように、寝ぼけていた頭が瞬時に冴えた。
 痛烈な眠気は何処かへと吹き飛び、俺は目を丸くして彼女を見る。
「ちょっと、待て」
 何からたしなめれば良いのか分からずに額に手を当てる俺を見ながら、彼女はとぼけたように首を捻った。
「お目覚めの接吻の方が宜しいでしょうか。昨夜、読んだ本にはそう書いてありましたが」
「……お、お前、一体何処の本を読んだ」
「書庫に在った本を少々。たいへん、参考になりました。ご主人様、おでかけの接吻と、お目覚めの接吻はどちらがよろしいでしょうか」
「どっちもいるか! ……ああもう、朝食だけでいいから、先に着替えを手伝え」
「いけません、ご主人様」
 彼女はわざとらしく自分の目を隠して、首を振る。
「は?」
「私は、乙女でございます」
「何を言って……」
「恋する乙女は、殿方のお着替えなど見てはいけないそうです。よって、私は貴方様のお着替えのお手伝いができません」
「お前、ふざけるのも大概にしろ。昨日まで手伝ってただろうが、なんで今日に限って断るんだ。だいたい、人形のくせに何、人間みたいなことを言ってるんだよ。早く手伝え」
「いけません、ご主人様」
 頑なに拒否を続ける彼女に、俺は舌打ちをする。
 これ以上言っても無駄だと知った。彼女が酷く御しがたいのは、目覚めた時から変わらない。腹の立つことだが、これからも変わることはないのだろう。
「……、もういい。下がれ、直ぐに行く」
「では、朝食のご用意はできておりますので、階下でお待ちしております。本日は私がお作り致しました」
 一礼して去っていく彼女の背中を見ながら、俺は渋々と立ち上がる。
 碌に着方も分からない服を引っ張り出してみるものの、頭を抱えることしかできなかった。
 生まれてから、俺の身の回りの世話のほとんどは、御父上が用意した人形が行ってきた。当然のようにそれを享受してきた俺は、服を着ることはできず、脱ぐことが精一杯という体たらくだ。
「調子、狂う」
 しかし、この年にもなって着替えの一つも自分ではできないなんて、彼女には言えなかった。この屋敷で一番の新参者である彼女は、俺がどのような生活を送ってきたかなど知りはしないのだ。
 子どもっぽい意地だと分かりながら、何とか服を身につけて、階下へと向かう。
 途中の廊下で掃除をする人形たちは、一様にして俺に視線を寄こすことなく黙々と作業にに取り組んでいる。
 人形に、心はない。
 彼らが自主的に動くことなど、ほとんどないと言ってもいい。
 故に、彼女の行動のすべては、人形という存在から外れかかっている。いくら名を与えていないとはいえ、彼女は異質だった。
 階下に降りると、異臭が嗅覚を刺激する。焦げ臭さに慌てて扉を開ければ、料理と呼ぶにはおこがましい黒い物体を彼女が円卓へと運んでいた。
「……黒、焦げ」
 食卓に並んだ朝食を見て、俺は顔を青くする。
 あれを口にした瞬間に、最近は調子の良かったはずの身体が悲鳴をあげるだろう。
「このような料理なのです」
 用意された黒い物体は、半分液状に溶けかかっている。恐る恐る鼻を近づければ、明らかに危険な臭いが漂っていた。
「どこからどう見ても、失敗じゃ……」
「私は間違っておりません」
 そもそも、いつもは他の人形が作っている料理を、何故今日に限って彼女が作ってるのか。
 喉が異様に渇くのを感じながら、俺は意を決して席に着く。
 その様子を見ていた彼女は、満足げに口を開いた。
「お気に召したのですね、ご主人様」
「……せっかく作ったのに、残すのは勿体ないだろ。でも、こんなもの食べるのは今日だけだからな」
 箸の先にある彼女が料理と称したものを、ゆっくりと口へと運ぶ。舌を刺激するそれらは、口にした瞬間思わず吐き出しそうになる。
 今まで食べたことのないような強烈な苦みと酸味に口元を押さえる俺を、彼女は黙って見つめている。
 口が裂けても、美味しいとは言えない料理だった。
 だが、寸分の狂いもなく、いつも変わらない味を再現する人形の作りだす味しか知らずに育った俺には、苦くて苦しい味は逆に新鮮で不思議でもあった。
「ご主人様は、お優しゅうございますね」
 彼女は、表情一つない顔で、俺に対する褒め言葉を口にした。
「黒いものはお嫌いなようなので、次からは、白いものをお作り致します」
「……頼むから手本通りに作ってくれ」
 彼女が作る白い料理など、想像しただけで恐ろしい。まず、何を入れて白くする気なのか、小一時間は問い詰めなくてはならないだろう。
 料理を色で判断しないでほしい。
「私は、ご主人様のお世話のすべてをやらせてもらいたいのです」
「……、は?」
「お料理も、お洗濯も、ご入浴の際も、誰よりも貴方様のお傍にいたいのでございます」
「着替えの手伝い拒否したくせに、何言ってるんだ」
「絵巻物には、殿方のお着替えのお手伝いはしてはいけないと書いてありましたが、他のことに関しては、何も書いておりませんでした」
「――、入浴なんか手伝えば、本末転倒だろうが」
「お着替えと、ご入浴は別途と考えております」
「都合の良い頭だな、お前は」
 彼女の矛盾した言動に呆れながら、不味い料理に手をつける俺に、彼女は付け足したように言った。
「ご主人様」
「なんだよ」
「本日は、お召し物が、随分と乱れております」
 一人では服を着たことのない俺が、正しく服を着れるはずがない。
「……、うっさい」


           ◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆           


 彼女の言っていた本の正体を知って、俺は肩を落とす。
 嫁いだ姉の持ち物だった小説を、彼女は俺の見える位置に置いた。姉が金に物を言わせて買い込んだ大量のそれらは、扱いに困り、書庫に紛れさせた覚えがある。内容は、俺が好むような代物ではなく、読んでいて恥ずかしくなるような恋愛物だ。
「……、こんなものから、何かを学ぶのは止めろ」
「なぜでございますか」
「お前には必要のない知識だからだ。今、お前に足りないのは常識だ」
 案の定、彼女の料理で体調を悪くした俺は、ベッドに横たわりながら告げる。眉間に皺が寄っているのが自分でも分かったが、隠す必要はないので気にしない。
「ご主人様、常識は既に学んでおります」
 俺の額に滲んだ汗を拭く彼女の手が止まる。
 彼女が自分の料理の悲惨さを自覚しているのかは知らないが、主人の看病をすることは当然だと思っているらしい。
「嘘つけ。学んでいるなら、今朝の奇妙な行動は何だ」
 名を与えていないがために、目覚めた時から突拍子もない行動をする人形ではあったが、今朝の行動はいつにもまして唐突だった。
 彼女は数秒考え込んだ後、無表情で俺の汗を拭く手を再び動かした。

「愛しております、ご主人様」

 そうして、起伏のない声で愛を囁いた。
「……、いきなり、何のつもりだ」
 訝しげに俺が目を細めれば、彼女は淀みない言葉を並べ始める。
「今朝方の行動は、愛ゆえでございます」
 肉感的な唇が言葉を象る度に、俺は自らの鼓動がわずかに跳ね上がるのを感じた
「本は愛の表現方法を学ぶための、立派な手本でございます」
 心など持ち得ない人形が愛を口にするのは、とても陳腐でくだらない。そのことを、彼女はきっと知らないのだろう。
「人形ごときが、偉そうに人間様に愛なんて語るなよ」
 吐き捨てた俺の言葉に、彼女は首を傾げた。
「人形に心はありませんが、人形の愛は偽りなのでしょうか。目覚めを与えてくれた主のために生きることを、愛と呼ぶことはおかしいですか」
「そんなものは、擬似的な感情にすぎない。お前ら人形には、あらかじめ、目覚めを与えた主に服従することが刷り込まれているだけだ」
 人形は、生きていない。
 楼一族に残るわずかな呪術と、人の技術の結晶だ。
 それは、人を形を模したもの。
 人を擬似した玩具にしか過ぎない。
「擬似的で、刷り込みですか。それでは、貴方様のおっしゃる本物の愛とは何なのですか。愛は感情でしか語れないものなのですか」
「……、それは」
 答えられない俺に、彼女は続ける。
「説明できないものを真実と判断することなど、どうしてできるのですか。人間の愛こそが本物である理由など、どこにあるのでしょうか」
 畳みかけるような彼女の声が、俺の胸に深く突き刺さる。
 本物の愛など、愛されたことが一度もない俺が知るはずもない。
「私の愛を否定することなど、貴方様にはできません。私の愛が真か嘘かなど、何ものも知りえないのですから」
 表情は一切変わりはしなかったが、俺には、彼女が誇らしげに言葉を口にしているように見えた。
 それが、さらに俺の苛立ちを高めていく。
 愛。
 人間の俺でさえ知らない不確かなものを、人形でしかない彼女が持っているというのか。
「私は貴方様の人形でございます。故に、私は貴方様を愛しております」
 愛など知らない俺に、彼女は愛を捧ぐと言う。
 それが、どれほど無意味なことか。
「……、くだらない」
「貴方様にとっては取るに足らないものだとしても、私にとって、貴方様を愛することは幸福なのです」
 俺が愛を語る彼女を莫迦にしたように笑うと、彼女は跪いて横になっている俺の手を取った。
「私の行動のすべては、貴方様を愛しているからなのです」
 柔らかな女の声と共に、肌を撫ぜるような吐息が俺の手にかかる。

「愛しています、ご主人様」

 忠誠を誓う騎士のように、人形は俺の手に口づけた。
 冷ややかな唇が触れたときに、震えたのはどちらだったのだろうか。