太陽と灰

01

 清々しい朝の空気が頬を撫ぜた。
 宮廷薬師の服に身を包み、イーディスは第五王子ライナスが住まう離宮を目指して歩いていた。
 周囲を見渡せば、女官や庭師などが既に仕事を始めている。それは、いつもと変わらぬ光景だったが、イーディスの心は穏やかではなかった。
 今日から、ひたすらに薬を精製していた昨日までの日々とは違うのだ。
 渡り廊下に出ると、長く伸ばした赤い髪が朝風になびく。風に舞う髪を抑えつけながら、イーディスはその毛先に視線を遣る。灼熱のような赤い髪は、昔と異なり、毛先が灰色に染まっていた。
 かつて、この赤を好きだと言ってくれた人がいた。この髪に穢い灰色が混じっていなかった頃の話だ。
「……、ライナス」
 ライナス・レト・エレン・シルファ・ガレン。現女王と、十数年前に亡くなった伯爵との間に生まれた第五王子だ。
 彼との出逢いは、遡ること六年前、王立学院に入学した日だった。イーディスが十歳、ライナスが十三歳の時である。
 同じ級に所属し隣の席になったことが、ライナスとの最初の記憶だ。それから、王立学院を卒業する日に彼から縁を切られるまで、イーディスはいつもライナスの傍にいた。
「何の用だ」
 鋭い声に、過去を追慕していたイーディスは現実に引き戻される。
 いつの間にか第五王子の離宮の入り口に辿りついていたらしい。扉の前に立っていた青年騎士が、イーディスを睨みつけていた。
「……、あいかわらず愛想がないのね。スタン」
 彼は、ライナスの護衛として学院に在籍していた者だ。当時のイーディスの級友でもある。
 昔と何一つ変わらない仏頂面の彼に苦笑してから、イーディスは異動の旨が書かれた書面を見せた。
「陛下の命よ。通してくれるでしょう?」
「……、勝手にしろ」
 スタンは眉をひそめながらも、イーディスを通してくれた。
 離宮へと入り、イーディスは、あらかじめ説明されていた部屋の前で足を止める。
「イーディス・ティセ・ディオル、ただいま参りました」
 早鐘を打ち始めた鼓動に気づかないふりをして、イーディスは扉を開けた。

「いらっしゃい。会いたかったよ、イーディス」

 柔らかな声が耳朶じだに響く。
 太陽のように煌めく金の髪に、同色の瞳。褐色の肌をした美しい青年は、イーディスを笑顔で迎えた。
「……、お久しぶりです。ライナス・レト・エレン・シルファ・ガレン殿下」
 イーディスは、わずかに震える声で彼に応えてから、顔を俯かせた。覚悟して来たつもりだったが、やはり、彼を前にすると萎縮してしまう。
「嫌だな、堅苦しい言葉遣いは止めてよ。昔のように話してほしい」
 ライナスの言葉に、イーディスはゆっくりと顔をあげる。
 昔の少年らしい幼さはなくなり、彼は立派な青年へと成長を遂げていた。イーディスが彼から一方的に縁を切られ、二年もの月日が流れたことを実感させられる。
「いえ、……私のような灰の民が、貴方様に生意気な口を利くわけにはいきません。昔のことは、忘れてください」
 早口で言い切ったイーディスに、ライナスはわずかに顔をしかめる。
「……、そう、それなら、命令するよ。君にそんな態度をとられるのは不愉快だからね」
 この場から逃げ出したい衝動を抑え込み、イーディスは強く拳を握る。宮廷薬師であるイーディスに、女王の命を拒否することはできない。来月に彼が成人を迎えるまで、イーディスは傍仕えの役目を全うするだけだ。
 小さく息を吸ってから、イーディスは唇を開いた。
「……、二年ぶりね、ライナス」
 口にした言葉が震えていることに気づき、情けない自分に対しての怒りが湧いてくる。
「ああ、……王立学院を卒業してから、もう二年も経つんだね。懐かしいな、せっかくだから、思い出話でもする?」
 嬉しそうに問うてくるライナスに、イーディスは唇を噛んだ。
「貴方と話すような思い出なんて、何処にもないわ」
「……やっぱり、怒っているの? 王立学院の卒業の日、君を呼び出しておいて、約束を守らなかったこと」
 分かっているのならば、わざわざ聞かないでほしかった。イーディスは、苛立ちを隠そうともせずにライナスを睨みつけた。イーディスの態度に、ライナスは肩を竦める。
「昔は随分と慕ってくれていたのに、嫌われちゃったみたいだね」
「……っ、それだけのことをした自覚はあるでしょう」
「そうだね。君の期待と気持ちを裏切ったのは、僕だから」
 悪びれる様子もなく、彼は優しそうに見える笑みを湛えたままに言った。イーディスに対して悪いことをしたとは、微塵も思っていないのだろう。
「でも、嬉しいな。僕のこと嫌いになったみたいなのに、傍仕えの話は受けてくれたんだね」
「陛下の命令よ、断れるはずがないでしょう。……本当に、陛下は何をお考えなの? 貴方の傍仕えになりたい人なんて、私以外でたくさんいるはずよ」
 ライナスは、性根こそ曲がっているもののガレン国の第五王子であり、成人を迎えれば伯爵であった父親の領地を継ぐことになっている。その上、王立学院を卒業後は、魔力を研究する学者として、それなりの地位を持っていた。彼の元で働きたいと願う者は数多くいるはずだ。
「君たち灰の民でなくては、意味がないよ」
「……、私たち灰の民にしか、薬が作れないから?」
 ライナスは頷いた。
「君たち灰の民は、この国で唯一薬を作れる特別な存在だからね。母上もそろそろ良いお歳になるのに、次の王位継承者は発表されていない。僕も来月には成人だし、誰かが莫迦なことを考えて僕を害す可能性は十分ある」
 ライナスの言葉は、的外れではない。
 ――第五王子ライナスは、女王の気に入りだ。
 ライナスの父親は、唯一、女王自らが選んだ夫だ。他の夫は臣下からの薦めで婚姻を結んだ者たちだが、ライナスの父親である伯爵は、女王が愛し傍に置いた男だった。
 だからこそ、女王は今は亡き彼との息子であるライナスを特に可愛がっていた。ライナスが幼い頃から、甘やかして好き勝手させていたことは宮廷では周知の事実だ。
 女王のライナスへの愛情の深さは、傍目から容易く見てとれる。ライナスが次の王になるのではないかと臣下の間では昔から言われているものだった。
「母上に贔屓《ひいき》されている自覚はあるからね。それを気に入らない者たちがいることも知っている。……、薬師さえ傍にいれば、不測の事態が起きても大事には至らないだろう?」
「いっそ、毒でも盛られて苦しめば良いわ」
「酷いなあ」
 楽しげに笑ってから、彼は急に真剣な眼差しでイーディスを見た。その視線の先には、毛先が灰色になったイーディスの髪がある。
「思っていたよりも、灰化が進んでいるみたいだね」
「……もう十六だもの、当然よ」
 イーディスは、服の袖をまくってライナスに見せる。指先から肘までが魔力を失ってしまい、薄気味悪い灰色をしていた。
 これこそが、魔力の喪失が原因で起こる、灰化と呼ばれる症状だ。
「私たち灰の民は、十三を過ぎれば末端から魔力を失い始めて、灰化が進む。……だから、貴方の言うとおり薬が精製できる」
 この国で使われる薬は、魔力を帯びた薬草が元になっている。だが、困ったことに、それらの薬草は一定以上の魔力を持つものが触れると、効能を失ってしまうのだ。
 魔力は生命力の一種だ。命あるものは、皆、魔力を持つ。花や虫ならばいざ知らず、人間は薬草を扱うには魔力を多く持ち過ぎた。
 それ故に、普通の人間には、薬草から薬を精製することは不可能だった。
 薬の精製が可能なのは、徐々に魔力を失っていく灰の民だけだ。灰の民ならば、薬草の効能を失うことなく薬を作ることができる。
「まるで、他人事ひとごとのように言うんだね。悲しくはないの?」
「こういう運命の下に生まれてしまったのだから、仕方のないことだもの」
 イーディスが淡々と口にすると、ライナスは目を伏せた。
「昔の君からは、想像もできなかった言葉だね。あれほど、灰の民であることを嫌がって泣いていたのに」
「……、昔とは違うわ。宮廷薬師にもなって、もう子どもじゃないのよ。簡単に泣いたりしない」
「そうなの? それはそれで、寂しいね。泣いている君を慰めることが、僕はとても好きだったのだけど」
「……っ、私が泣こうが喚こうが、貴方には関係ないわ」
「関係はあるよ。これから一月ひとつきは、一緒に過ごすのだから」
 イーディスは言葉に詰まって黙り込む。女王の命令で、ライナスが成人するまでの間、イーディスは彼に仕えなければならない。
「また、よろしくね。イーディス」
 イーディスは、ライナスの微笑みから視線を逸らした。


    ◇◆◇◆◇


 視界の中を鮮やかな赤が舞う。
 慌ただしく書類の整理をするイーディスの姿を見ながら、ライナスは堪え切れずに笑みを零した。
「相変わらず、一生懸命で可愛いよね。昔みたいに笑わなくなっていたけど……、お人好しなところは変わらない」
 優しく目を細めたライナスに、護衛として控えていたスタンが溜息をついた。
「今さら、どういうつもりだ?」
「……、イーディスのこと?」
「陛下は、お前とあいつが共にいることを苦々しく思っていただろう。新しい傍仕えをつけるにしても、あいつだけは選ばない」
 スタンの言葉は正しい。女王は、ライナスが灰の民であるイーディスと共にいることを不快に思っていた。
 だからこそ、王立学院を卒業した時、女王はライナスに圧力をかけた。
「うん……、今回のイーディスの異動は、僕の我儘の結果だよ。母上は不満だらけだ」
「二年前、お前はあいつと縁を切った。そのことに関して、俺は正しい判断だったと思っている。甘ったれの餓鬼だったお前に、同じように現実を知らない餓鬼を守ることなんてできるはずがない。二人そろって、倒れるだけだ」
「否定はしないよ。あの頃の僕は、今以上に夢見がちな子どもで、……彼女を傍に置こうにも力なんてなかった」
 二年前のライナスは、イーディスと共に過ごした温かな時間も、繋いだ彼女の小さな手も、失われることなど想像しなかった。周囲の事情や思惑など気にかけることもなく、自分の望みは、すべて叶うのだと信じ切っていたのだ。
 愛されていたが故に、我儘で、どうしようもない子どもだった。本当に望んだものが、どれほど手に入りにくいものだったのか気付けなかった。
「どうして、今さら、あいつを引っ張りだした。……また、傍に置くつもりなのか?」
 頷いたライナスに、スタンは首を振る。
「……、あの髪と手を見ろ。たとえ、もう一度傍に置けたところで、長くは共に在れない」
 イーディスは、既に魔力の喪失――灰化が始まってから三年も経っている。髪の方は毛先だけで済んでいるようだが、細い腕は肘までが灰色に染まっていた。黒いブーツに隠された足も、同じように灰化が進んでいるだろう。
「……、だから、きっと、これが最後の機会だ」
 灰化の果てに、彼女が魔力のすべてを失う日は、それほど遠い未来ではない。
「母上と、賭けをしているんだ」
 女王が自分を可愛がってくれていることを利用して、無理を通して始めた賭けだった。
「来月、僕の成人を祝して、母上が舞踏会を開くことは知っているよね? その舞踏会で、イーディスが自ら望んで僕の隣にいたら、賭けは僕の勝ち」
「いなかったら、お前の負け、か。……それで、賭けに負けた時、お前は何を女王に差し出すんだ?」
 ライナスの我儘に応じてくれた女王が出した条件は、ただ一つ。
「僕の未来。……勝てば、彼女を傍に置けるんだから、安いものだろう?」
 スタンは呆れたようにライナスに視線を遣った。
「莫迦だな。たった一月《ひとつき》の間で、あいつがお前の元に戻るなんてあり得ないだろう。二年前、酷く傷つけたことを忘れたのか」
「それでも、やるしかない。……、僕は、もう諦めたくない」
 ライナスの記憶の中には、いつも、泣きたくなるほど鮮やかな赤を宿して笑う少女がいた。灼熱のような赤に焦がれて止まず、その心を独り占めしたかった。
 二年前、それを叶えることはできなかったが、――再び彼女を腕に抱くことができたならば、二度と離しはしない。



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