ライナスの傍仕えになってから十日余りが経った日の早朝、イーディスは王城の庭園内にある薬草園へと向かった。そこでは、薬の材料となる薬草を、灰の民である宮廷薬師全員で栽培しているのだ。
イーディスも数少ない宮廷薬師の一員だ。ライナスの傍仕えになってからも、薬師として薬を作る義務があった。
初めは、傍仕えと薬師の仕事を両立することは辛いだろうと思っていたのだが、ライナスは書類整理程度の雑務しか命じないため、イーディスの負担はほとんどない。あまりにも傍仕えの仕事が少なすぎて、イーディスがいる意味などないようにも感じられた。
――女王の考えることは、理解できない。何故、彼女はイーディスをライナスの傍仕えに命じたのだろうか。
薬草園に入ると、既に先客がいた。面識はあるものの、あまり仲が良いとは言えない同僚だ。イーディスよりも五つは年上であろう彼女は、イーディスの姿を目した途端、眉間に皺を寄せた。
その表情を気にすることなく、イーディスは薬草を摘み始める。自分が同僚の灰の民たちから嫌われていることは知っていたので、あえて、声をかけるつもりもなかった。
だが、暫く無言で作業をしていると、同僚の女が口を開いた。
「あんた、第五王子の傍仕えになったんだって？」
同僚の言葉に、イーディスは小さく頷くだけで何も言わなかった。その態度が気に喰わなかったのか、彼女はさらに続ける。
「良いなあ、ずるいなあ。第五王子って言ったら、陛下のお気に入りじゃないの。陛下も良いお歳だし、次の王は、第五王子になるかもしれないって、宮廷では結構な噂よ」
「……、だから？」
イーディスがうんざりしたように言うと、彼女はイーディスに近寄り、胸倉を掴みあげてきた。
「なんで、あんたばっかり良い思いをするの」
イーディスは内心で溜息をつく。嫌われ者になることは、学院でライナスの隣にいた頃に慣れているが、このように行動に移されたのは久しぶりだった。
「前々から気に喰わなかったのよ。陛下の覚えもめでたくて、学院には特別に十の頃から入学を認められて……、おまけに在学中は第五王子にべったり」
十歳の頃、宮廷薬師をしていた両親を灰化で失ったイーディスは、すぐさま学院への入学を女王から命じられた。その命令を断ることなどできるはずもなく、イーディスは入学資格である十三に届かないうちに、特別に王立学院へと入学したのだ。
それは、国ができるだけ長く灰の民を使おうとした結果でしかないが、他の者たちからしてみれば、女王から贔屓《ひいき》されているように見えたのかもしれない。
「良いわよね。あたしたち灰の民なんて、国の道具でしかないのに。ちょっと優秀だからって、あんただけ特別扱い」
「……、何が言いたいの？」
「何も。八つ当たりしたいだけよ」
次の瞬間、頬を打った熱にイーディスは顔を歪めた。
「これくらいの可愛い嫉妬は赦してくれるでしょう？ もう数年もすれば、あたしはあんたより早く死ぬんだから」
イーディスの胸倉を放して、同僚の女は薬草園を去っていく。
――魔力の完全なる喪失は、死と同義だ。
少しずつ魔力を失っていく灰の民は、長くて三十年、たいていは二十数年で寿命を迎える。
初めから、長くは生きられない運命にある。
頬の痛みなど、暗闇に閉ざされた未来を感じる痛みに比べれば、大したことではない。
イーディスたち灰の民は、短い生涯を国に捧げて、道具のように利用されることしかできないのだ。それが、王からの庇護を受ける代わりに、過去の灰の民たちが選んだ道だ。地方の権力者たちに酷使されて、次々と死んでいった悲惨な時代を思えば、道具である今の方が扱いは良い。
イーディスは、血が滲むほど強く唇を噛んだ。
学院にいた頃に抱いていた夢や希望は、すべてまやかしに過ぎなかった。幸せな日々は呆気なく終わりを迎えて、夢も希望も泡のように弾けた。
最早、すべてを諦めて、最期の時を待つことしかできない。
摘み終わった薬草を籠に入れて、イーディスは立ちあがった。
薬草園を出ると、近くの庭園を管理している初老の庭師の姿があった。
「おはようございます」
「薬師のお嬢さんか。今日も朝早くから偉いね」
庭師は、皺の寄った顔でイーディスに笑いかける。切り落とした花を何度か貰い受けたことが在るため、彼とはそれなりに面識があった。
「今は第五王子に仕えているのだったかね？ あの方は、立派な方だと聞くよ。お嬢さんは運が良い」
ライナスを褒め称える庭師に、イーディスは曖昧な笑みを浮かべる。
「……、ありがとうございます」
ライナスの外面が立派なことは認めるが、その人柄は庭師が思うようなものではない。優しげな笑みを浮かべているものの、彼は自分を含めた世界のすべてを見下しているような、捻くれた人間なのだ。
「ああ、そうだ。切ったばかりの花があるんだよ。また、貰ってくれるかい？」
庭師が指差した先には、庭の外観を整えるために切り取られた花々があった。イーディスがいつも相手にしているような薬草と違い、色鮮やかで美しい観賞用の花だ。
「何色が良いかい？」
優しく聞いてくる庭師に、気付けば、イーディスは応えていた。
「赤を。……赤い花を、ください」
何処か切実な響きを持ったイーディスの声に、初老の庭師は首を傾げた。
◇◆◇◆◇
庭師から貰い受けた花を片手に、ライナスの部屋へと入る。
「おはよう、今日はいつもより少し遅かったね」
書類を片手に立っていたライナスは、イーディスの顔を見るなり眉をひそめた。
「それ、……どうしたの？」
腫れて熱を持っているイーディスの頬を見ながら、ライナスが問う。
「……、壁に、ぶつかったの。来るのが遅くなったのは、花瓶を取りに行っていたからよ」
壁にぶつけたなど大嘘であるが、ライナスはそれ以上追及してこなかった。イーディスのことなど、大して興味がないのかもしれない。
あらかじめ水を入れておいた花瓶に、イーディスは赤い花を生ける。
「綺麗な赤だね。――君の髪に似ている」
イーディスが花に込めたわずかな想いを暴いて、ライナスは笑う。赤い花を選んだのは、諦めの悪いイーディスの意地だったのかもしれない。
「そんなことをしなくても、僕は君を忘れないよ」
二年も前に見捨てられたというのに、イーディスは、未だにライナスのことを嫌っていない。それどころか、心のどこかで、昔のように戻れるかもしれないという淡い期待まで抱いているのだ。自分のことではあるが、その愚かしさに吐き気がした。
口では嫌いなどと言いつつも、心は彼を好いていた二年前と変わらない。すべて諦めると決めたというのに、イーディスはいつまでも過去に縋っている。
暗闇に閉ざされた未来よりも、幸せだった過去を望んでいるのだ。
「……、赤い花しか、なかったのよ」
「君がそう言うなら、そういうことにしておこうか」
彼は笑いながら肩を竦めた。
「ああ、そうだ。明日から、四日間は君に任せる仕事がないから、離宮には来なくていいよ」
そう言ってから、ライナスは奥の部屋へと消えた。その背中を、とても遠く感じた。
イーディスは、灰色の指で赤い花弁に触れる。
「……、忘れるわよ、きっと」
イーディスの呟きは、ライナスに届くことなく消えた。
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