心中は泡沫の夜に

05 深海に別れを

 結局、運転を見合わせていた電車が動いたのは、出発時刻から二時間遅れてのことだった。
 この分だと、夕暮れ時には着きそうだと、彼は笑っていた。
 人気は相変わらず少ないものの、昼過ぎの電車は多少賑わっている。
 仲間と笑い合う部活帰りの高校生や、肩を寄せ合う恋人たち、楽しげに会話を交わす家族連れ。
 強く手を繋いで黙って電車に乗るわたしたちは、何処となく異質で浮いていた。
 ぼんやりと車窓から景色を眺めていると、一つの公園が視界に飛び込んでくる。
 その公園を見た瞬間、わたしは思わず息を止めた。
 見覚えのある町だとは思っていた。たった三年の月日では、田舎の町の光景はさほど変わりはしない。
 ――この町は、三年前まで、わたしが住んでいた町だ。
 海の直ぐ傍というわけではないが、比較的海に近く、これと言った特色もない小さな町だった。
 ブランコと塗装の剥げた滑り台、小さな砂場があるだけの公園は、わたしの記憶と深く結び付いている。
 学校が終わってから日が暮れるまでの時間、いつも、あの公園で過ごした。
 どんなに酷い目に遭わされても、当時のわたしはパパもママも嫌いになれなかった。彼らに見捨てられたら、生きていけないのだと信じて止まなかった。
 それでも、家に帰ろうとする足は重たくて、気付けばブランコに揺られていたことを覚えている。
 一人寂しくブランコを漕いで、地鳴りのような音を立てて線路を走る電車を何本も見送った。その度に、何処か遠くへ連れていってくれないだろうか、と心のどこかで願っていた。
 あの電車が向かう先には、痛みも苦しみも何一つ存在しない楽園が広がっているのではないかと、夢を見てしまった。
 パパとママと、わたしの三人。他の家族と同じように、幸せに笑い合う姿が在るのではないかと考えてしまった。
「どうしたの?」
 隣にいた青年が、訝しげに眉間に皺を寄せた。黙り込んで外を見つめ続けるわたしが、具合を悪くしたのではないかと心配してくれているのだ。
 とても、不思議に思う。
 わたしは、今、あの頃焦がれてやまなかった電車に揺られている。逃げたくて仕方なかった現実から解き放ってくれると信じた乗り物で、行きたい場所を目指している。
 隣にパパとママはいないけれども、青年の自由な足を借りて、一度も見たことのない海を目指しているのだ。
 まるで泡沫うたかたの夢のような、触れれば壊れてしまう夢を見ているような気がした。
 ――、本当のわたしは、あの頃と何一つ変わらず、痛みと苦しみを抱いて眠っているのかもしれない。
 平たく潰れた座布団の上で猫みたいに丸まって、薄っぺらな腹を押さえて飢えを凌いでいる。短く切られた金髪を掻きむしり、青紫の唇を噛んで、固く瞼を閉じて眠りに就くのだ。
 繋がれた手の温もりは幻で、今も昔と同じような日々を送っているのではないだろうか。
「なんでもないの」
 繋いだ手を強く強く握りしめて、わたしは祈る。
 この泡沫の夢が、どうか、今だけは壊れないことを。

 せめて、海に抱かれる時までは、繋いだ手が離されないことを。

 淡々とした車掌さんのアナウンスと共に、電車は、わたしが住んでいた町の駅に停車する。
 重たい扉が開かれると、一人の男子高校生が乗り込んでくる。
 学ランに身を包んだ彼は、少年と青年の狭間を彷徨っているような、初々しさ残る高校生だった。部活帰りなのか、篭球部と文字が入れられたエナメルバックを担いでいる。
 熱さで滲み出る汗を指で払った高校生は、こちらを見た瞬間、目を見張って固まった。
 茫然とわたしたちを見つめる高校生の姿を、わたしは知っていた。
 俯いていたわたしの髪を無理やり掴みあげて、いつも意地悪をしてきた男の子。
 ある日、短く髪を切られたわたしの姿を見て、今のように茫然と立ち尽くしていた男の子の姿が、男子高校生と重なった。黒かった髪の毛は茶色く染まり、少し太り気味だった体型は身長が伸びて随分と健康的に変わっている。
 それでも、わたしには、あの頃の意地悪な男の子と何一つ変わらないように見えた。
 しばらく、彼は無言でこちらを見ていた。
「ひ、……久し、ぶり」
 しかし、やがて沈黙に耐えきれなくなったように、彼は上擦った声で話しかけてきた。
 わたしは黙って高校生に視線を返す。幼いが故に残酷であった、かつての男の子は、わたしの視線にたじろいだ。
「元気に、してたんだな」
 この状態を元気と言えるなら、彼は随分と目出度い頭をしている。わたしの両足の異常な細さに、彼は気付いているはずだ。
「ずっと入院してたって聞いてたけど、退院したんだな。連絡くらい寄こしてくれても良かっただろ。皆心配して……」
 何も応えないわたしに痺れを切らしたように、彼が口早に喋り出す。その目には、かつての強気な男の子の影が見え隠れしていた。
「嘘つき」
 彼の言葉を遮り、唇を釣り上げて笑顔を向ければ、その顔が面白いくらいに強張った。
 良くも、心にもないことを言えるものだ。
「誰も心配なんてしてなかったでしょ。皆、わたしのことなんて、どうでも良かった」
 思いの外冷たい声になったことが、自分でも意外だった。
 あの頃は、仕方ないと諦めて受け入れていたことなのに、今になって憎悪に似た感情が湧き上がってくる。
 たとえば、あの時――。
 この男の子が、わたしを苛めなければ、ママは髪を切り刻んで喜んだりしなかったかもしれない。少なくとも、いとけない少女だった自分は傷つかずに済んだはずだ。
「それに、今さら心配なんてしてもらって、どうなるの? 本当に辛い時には、見て見ぬふりをしていたくせに」
 パパが会社の上司の妻と不倫したせいで、小さい頃に住んでいた場所にいられなくなった。
 わたしたち家族が流れ着いたのは、海に近い小さな田舎町。引っ越してきた当時は、パパとママも新天地でやり直そうと思っていたに違いない。
 だけど、脈々と受け継がれた血の繋がりで固められた町は、酷く排他的だった。
 異国の血を交え派手な容姿をした酒癖が悪いパパと、目を見張るような美人だけと酷い癇癪持ちなママ。二人とも人付き合いが下手な人たちだったため、直ぐに噂や陰口の対象になった。
 そして、二人の間に生まれたわたしは、いつだって異端だった。
 町の大人たちにとって、わたしは守るべき子どもではなく、自分たちの生活をかき乱す障害にしか映っていなかったのだ。
 大人がそのような態度をとれば、当然、子どもたちも真似をする。わたしのことを気にかけてくれる人など、何処にいたのだろうか。
「今さら良い顔しないで」
 あの頃のわたしは、肉体的にも社会的にも無力な子どもだった。歩くための足があっても、何処にも行くことができなかった。
 だから、どうしても外部からの助力が必要だったのだ。
 痛みと苦しみしかない水底から引き上げてくれる腕を、わたしはずっと切望していた。
 わたしを抱きあげてくれる腕が、――もっと前に、わたしの前に差し出されていたら、どんなに良かっただろう。
「ねえ、別の車両、行きたい」
 繋がれた腕に力を込めて、隣の青年を見上げると、彼は黙って頷いた。わたしの身体を抱きあげて、彼は高校生に背を向けて歩き出す。
「ま、待てよ!」
 これ以上、話すことはなかった。
「ばいばい、知らない誰かさん」
 初めから、何も関わりなどなかったのだ。わたしと男の子の道は、決して交わることはなかった。
 虐げられていた子どもと、愛されて育った子どもの間に横たわる溝。男の子には、その溝を飛び越える覚悟はない。わたしにも、溝を超えるつもりはなかった。
 今日の出逢いにも、意味などない。
 何か言おうと口を開きかけた男の子を見ないふりして、わたしは抱きあげてくれる青年に視線を遣った。
 隣の車両に移動してからも、彼はわたしと男の子の関係を問い質さない。それどころか、わたしを隣の席に座らせるのではなく、膝の上に抱えたまま腰をおろしてくれた。
 人肌が恋しくて、誰かに抱きしめてもらいたくて堪らなかったわたしには、それだけで十分な慰めだった。
 甘く香った香水が、心の奥底に沁み渡る。
「あのね、小学校の時のクラスメイトだったの」
 わたしは気付けば語り始めていた。今傍にいてくれる彼にだけは、知っていてほしいと思ってしまった。
「クラスの子たちは、わたしを見ながら、こそこそ喋るだけだったけど、……あの男の子だけ意地悪してきたの」
 皆が遠巻きにわたしを見る中、あの男の子だけが、声をかけて乱暴してきたことを憶えている。男の子が振りかざした力は、パパよりも弱かったけど、暴力に怯えていたわたしには身体が震えるほど恐ろしかった。
「きっと、わたしのことが大嫌いだったの」
 誰からも相手にされないわたしなど、放っておいてくれれば良かったのに、男の子はそうしなかった。それほど、彼はわたしのことが嫌いだったのだろう。
「あの子は、……君のことが嫌いだったわけじゃないと思うよ」
 青年の呟きに、わたしは首を傾げる。意味が分からなかった。
「意地悪するのは、嫌いだからじゃないの?」
 本当に好きなら、優しくしてくれるだろう。傷つけて泣かせる必要なんて、何処にもないのだ。
 ただ、笑って手を伸ばしてくれるだけで良かったのに。
「パパとママも……っ、わたしのこと、好きだったって言うの?」
 口にした途端、眦に熱い涙が滲んだ。
 ――、あの痛みも苦しみも、両親の愛情の証だったとでも言うのか。
 彼は、わたしの頭を自分の胸に押し付けた。零れ落ちた熱い涙が、彼の服に染み込んでいく。
「好きだったかもしれない。でも、これだけは勘違いしないで。――好きだから、何をしても赦されるなんてことはない。君が受けた傷が、正しいなんてことはない」
 大きな手が、わたしの頭を撫でた。
「だから、泣いたって良い。良く頑張ったね」
 柔らかな声が、痛みと苦しみが支配する深海で溺れていたわたしに、確かに届いた。一筋の光として差し込んだ声が、焦がれた大地と連なる海面へとわたしを誘う。
 ――、いつだって、彼は欲しかったものを与えてくれる。
 夢見た温かな世界も、望んだ自由な手足も、全部、彼がわたしにくれたものだ。
 それが泡沫うたかたの夢のように儚い幻だったとしても、何よりも尊く幸福に感じられたことは、わたしの中では本当だった。
 夢でも良い。
 こんなにも優しい夢を見て逝けたなら、どんなに幸せだろうか。

 窓の外から差し込み始めた夕焼け色が、わたしの青白い手を染めゆく。
 目指す海は、そう遠くない場所に迫っていた。