心中は泡沫の夜に

04 焦がれた大地

 ベッドに仰向けに寝かされて、まどろみの中、わたしは目覚めた。
 冷え切った身体に、淡い陽光がカーテン越しに降り注ぐ。嗅ぎ慣れたアルコールの匂いが、白に包まれた空間を満たしていた。
 ――、黒目がちの大きな瞳をした青年が、わたしの顔を覗き込んでいた。
 パパと同じ大人の男だと気付いた瞬間、ろくに動けない身体がわずかに強張った。
 淡い金髪に青の瞳をしていたパパは、とても美しい人だった。昼間から煙草を吹かして酒を飲んでいようとも、そこに在るだけで、何も知らない人が見れば見惚れてしまうほど魅力的だった。
 それでも、わたしにとってのパパは恐ろしい人だった。
 大きな身体で馬乗りになられて、腕や腹に押し付けられた煙草の熱は肌に刻み込まれて消えない。煙草の灰が皮膚を溶かす痛みに喘ぐと、パパは血のように赤い舌で、零れ落ちた涙ごとわたしの青い瞳を舐め上げた。
 わたしが泣くほど、パパは幸せそうに笑った。楽しそうに喉を震わせて、赤く熟れた唇を釣り上げるのだ。
 どんなに抵抗しても敵うはずがなくて、ひらすら耐え忍ぶしかなかった。
『初め、まして』
 躊躇いがちに伸ばされた青年の手が、わたしの金色の髪触れた。恐る恐る、怯えるような触れ方には、何一つ暴力は感じられなかった。
 その時、パパと同じ男の人なのに、青年に対する恐怖が和らいでいった。
 わたしの頭を撫でる手は大きかった。身長も、小柄で痩せたわたしよりも随分と高いだろう。
 それでも、この人は、わたしを傷つけない。不思議と確信が持てたから、わたしは彼を見つめることができたのだ。
 頭を撫でていた手が下に降りて、ガーゼに包まれた頬を労わるように包み込んだ。
 その手に、気付けば頬を擦り寄せていた。
 身体の奥に沁み渡るような彼の温もりが心地よくて、彼となら何もかも怖くないような気がした。

 むせ返るような煙草の匂いではなく、甘い果実の香りがする青年だった。



「ほら、起きて」
 頬を優しく指で突かれて、わたしは重たい瞼を開ける。柔らかな黒髪が視界の端で揺れていた。
「もうすぐ、降りる駅に着くよ。もしかして、寝ぼけてる? それとも、具合悪い?」
 わたしの青みがかった瞳を見つめてくるのは、心配そうな表情をした青年だった。
 三年前から変わらず、甘い果実の香りのする男の人。
「わたし、寝てたの?」
 瞼を擦りながら聞くと、彼は小さく頷いた。
「もっと早く、起こしてくれて良かったのに」
「随分と気持ち良さそうに寝ていたから、起こすのも可哀そうだと思って。今日が楽しみで、あまり眠れなかったと聞いていたし」
 彼は喉を震わせて笑ってから立ち上がり、わたしの前に両手を広げた。わたしは、ほとんど反射的に彼に手を伸ばして抱きあげてもらう。
 電車の中には数人の人影があったが、特にこちらを気にしている様子はなかった。各々に携帯電話を弄っていたり、本を読んだり、窓の外を見つめていた。
 この人たちは、これから何処へ向かうのだろう。立派な自分の足で、行きたい場所に行くのだろうか。
 そう思うと、少しだけ羨ましかった。
「売店があるから、そこで昼ご飯にしよう」
「もう、お昼なの?」
 言われてみると、電車の窓から差し込む光は、朝方よりも強くなっているようだった。
「もうすぐ、十一時半になるよ」
 どうやら、眠っている間に随分と遠くまで来てしまったらしい。何時間も電車に揺られていたせいか、身体の節々が痛かった。長時間の移動はほとんど初めての経験であるため、少し疲労感がある。
「まだ眠い? 乗り換えの電車まで一時間くらいあるから、ご飯食べたら待合室で少し寝ていても良いけど」
「ううん、大丈夫。もう眠くないから」
 嘘ではなく、先ほどまで彼の肩に頭を預けて寝ていたため、眠気は吹き飛んでしまっていた。
 淡々とした車掌さんの声が、到着する駅の名を告げる。停車した電車のドアをボタンで開けて、わたしたちはホームに降り立った。
 こちらもあまり人気のない駅だが、病院の最寄駅よりは大きく、多少は設備が整っているようだった。
「お昼買ってくるから、少し待っていてね。知らない人に攫われそうになったら、大声をあげるんだよ」
 売店の前のベンチにわたしを座らせて、彼が幼子に言い聞かせるような口調で言う。
「大丈夫だよ。わたしのことなんて攫ってどうするの?」
 わずかな金にもならない小娘一人攫ったところで、何になると言うのだ。
「君は可愛いから、心配なんだよ」
 わたしの頭を乱暴に撫でてから、彼は売店へと入っていった。
 滅茶苦茶になった髪の毛を手櫛で直しながら、わたしは眉間に皺を寄せる。
 ――可愛いなんて、冗談でも口にしないで欲しかった。
 高鳴る鼓動を抑え込むよう胸に手をあてて、わたしは小さく息を吸った。
 どんなに願っても、彼の唇が紡いだ可愛いという言葉は、わたしが望む意味を持たない。彼の中では、わたしは出逢った頃のままなのだ。痩せ細って男の子のようだった、か弱い十三歳の少女で止まっている。
 大人として、彼が守らなければならない子どものままなのだ。
「お姉ちゃん! 何してるの?」
 突然声をかけられて、わたしは伏せていた顔をあげた。
 五、六歳と思われる女の子が、ベンチに座るわたしに向かって小走りで近寄って来ていた。
 少女は、黒地に水玉模様のティアードスカートを履いて、子ども向けのキャラクターの描かれたTシャツを着ていた。赤いリボンで二つに結わえた黒髪が、兎の耳ように少女の頭で揺れている。
「お姉ちゃん?」
 わたしの顔を覗き込む少女の、見るからに柔らかそうなふっくらとした頬。世界が綺麗なものでできていると信じて止まない、無垢で大きな瞳。惜しげもなく晒された、傷一つない日に焼けた手足。
 痩せ細ってみすぼらしい格好をした、男の子のようだったわたしとは何もかも違う女の子。煙草の熱さも殴られる痛みも、何も知らない女の子だった。
「人を、待っているの」
 だから、こんなにも小さな女の子に対して、優しく言葉を返すことができなかった。愛想笑いを浮かべることもできなくて、わたしは淡々と彼女に言い捨ててしまう。
「ふうん。誰を待ってるの?」
 女の子は特に気にした様子もなく、身を乗り出して聞いてくる。
「……お友だち、かな」
 わたしと彼の関係性を表す言葉を、それ以外には知らなかった。わたしは彼を知らず、彼もまた、わたしを深くは知らない。
 家族でも恋人でもなく、わたしと彼は友人。いや、友人と言うことも躊躇われるほど、実際の距離は遠いのだと思う。
 ずっと前から分かっていたことなのに、その事実に息苦しくなってしまう。
 わたしの日常は病院という白い箱庭にしかなかったから、土曜日に見舞いに来る彼が、待ち遠しくて仕方なかった。
 だが、彼にとっての日常は、土曜日ではなくそれ以外の日々なのだ。白い箱庭ではなく、外の世界を生きるのが彼だった。
「ねえねえ、お姉ちゃん。それ本物?」
 彼女の丸い手が、わたしの金髪を引っ張る。興味津津に見つめてくる少女に、わたしは軽く唇を噛んだ。
「本物だよ。金色だと、変?」
 女の子の行動が、わたしの中に在る苦い記憶を呼び起こす。
 昔、この金髪が原因でクラスの男の子に苛められたことがあった。ちょうど、目の前の女の子と同じくらいの歳の頃だ。
 それを知ったママは、わたしの髪が金色なのが悪いと罵倒して、長く伸ばしていたわたしの髪を鋏で短く切ってしまったのである。絹のような美しい黒髪をしていたママは、自分に似ていないわたしの髪が嫌いだったらしく、それは楽しげに鋏を動かした。
 煙草を片手に酒を飲みながら、その様子を楽しげに見ていたパパの姿も鮮明に思い出せる。
「ううん、とっても綺麗。お日様みたい」
 満面の笑みで、女の子が笑った。この世の醜さなんて何一つ知らない顔で、心から幸せそうに口元を綻ばせている。
 そのことが、憎らしいような嬉しいような不思議な気分だった。
「……、ありがとう」
 この子のように無邪気に笑う過去が、もしかしたら、わたしにも有り得たのだろうか。世界は光に満ちている、と信じられた日々が与えられたのかもしれないと思うと、悔しくて堪らない。
 その一方で、この子が陽だまりの中で笑っていてくれたら良いと思った。どうか、わたしと同じような子どもが生まれないように、と願う心も嘘ではない。
「あ、ママだ!」
 甲高い声で叫んだ女の子の視線の先には、一人の女性がいた。ロングスカートを上品に着こなし、白のブラウスに淡い色のカーディガンを纏った、垂れ目の女性だ。
「もう、あまり遠くに行っちゃ駄目って言ったでしょう?」
 走り寄って来る女の子を抱きとめて、困ったように女性は微笑んだ。女の子が心の底から愛おしいのだと、女性の目は何よりも雄弁に語っていた。
「お姉ちゃん、ばいばい!」
 女の子がわたしに手を振ると、女性はベンチに座るわたしに気づいて小さく会釈をした。つられるように、わたしも小さく礼を返す。
 母子は手を繋いで、駅の外へと歩いて行った。
 その背中を見つめながら、わたしは手を握ったり閉じたりを繰り返す。
 不意に、右手を大きな手が包み込んだ。
「手、繋ぎたかったの?」
 売店のビニール袋を片手にした彼が、背後からわたしの右手を握りしめたのだ。
「別に。何となく、冷たいと思って」
 母親と手を繋いで去っていく少女に、かつての自分を重ねていたとは言えなかった。
「そっか。夏なのに変だね」
 彼は深く問い質すことなく、黙ってわたしの手を握ってくれた。少しだけ湿った互いの掌から伝わる温もりが心地よくて、心に浮かんでいた寂しさは、いつの間にか消えていた。
 だが、寂しさが消えた途端、胸に浮かんだのは嫉妬だった。
「……、誰にでも、手、握るの?」
「え?」
 不意に唇から零れ落ちた言の葉に、わたしは慌てて口を噤む。
 ――彼が優しいのは、わたしに対してだけではないと思った瞬間、胸に落ちたのは暗い影だった。
 客観的に見ても、彼は端正な顔立ちをしていると思う。
 大きな黒目がちの瞳は、猫のように綺麗なアーモンド型で、何処か甘い印象を作る。左目の目元に二つ連なった泣き黒子と鮮やかな赤の唇は、白い肌に映えて絶妙な色香を孕んでいた。
 程良く筋肉のついた細くしなやかな身体は、抱きしめられると動悸がするほど魅力的だ。
「恋人とか、好きな人、いるんでしょ?」
 恋人の一人や二人、いても可笑しくない。こんなにも優しくて綺麗な人を、周囲が放っておくはずがないのだ。
「恋人なんていないよ。独り身」
「嘘。皆、見る目がないんだね。こんなに優しい貴方を放っておくなんて」
「たぶん、そう言ってくれるのは君だけだよ。俺は優しくなんてない、酷い男だから」
 自嘲した彼にかける言葉が見当たらなくて、わたしは視線を落とした。
 わたしは、彼がどのようにして外の世界を生きていたのか知らない。土曜日に見舞いに来てくれる、優しい男の人としての彼の姿しか見たことがないのだ。
 だから、普段の彼が優しい人かどうかも分からない。
「……、お昼ご飯、食べたい」
 互いの間に流れる沈黙の中、本当に小さな声をあげると、彼は売店のビニール袋から何かを取り出して渡してきた。
「卵、好きだったよね」
 差し出されたのは、病院の売店などにも売っているサンドウィッチだった。柔らかなパンに挟まれている具は、わたしの大好きな卵だ。
「憶えていたの?」
 卵が好きだという話をしたのは、出逢ってから、それほど時間の経っていない頃だったと思う。
「知り合ってから三年も経っているんだから、流石に分かるよ」
 そう言って彼は苦笑いを浮かべたが、毎週土曜日病院に見舞いに来てくれるだけの彼が、わたしの言ったことを憶えているとは思っていなかったのだ。他愛もない日常会話のうちの一つで、聞き流しても可笑しくないような内容だ。
「卵が好きで、油ものは苦手。お菓子は和菓子よりもクリームたっぷりの洋菓子の方が好き。色は青色、季節は初夏が好き。いろんな本を読むのが趣味だけど、人魚姫の絵本が一番お気に入りで、枕元にいつも置いていた」
 淀みなく紡がれる彼の言葉に、わたしは目を瞬かせた。
「間違ってる?」
「合ってる、けど……」
「あと、花は百合が好きだよね? 百合は匂いが強いから病院には持って行けなかったんだけど、絵本や写真で良く見てたから」
 彼の手が、わたしの髪飾りに触れた。
「人魚姫は、真珠で作った白百合の花冠を髪に飾っていた。この髪飾りを店で見かけた時、君がいつも読んでる絵本を思い出したんだ」
「人魚姫、読んだの?」
「君が好きな絵本だからね。こっそり、同じもの買って読んでみたんだ」
 好い年をした青年が絵本を買う姿を想像して、わたしは小さく笑う。どんな顔をして、何を考えて、彼は絵本を買い求めたのだろうか。
 絵本を手にした時、きっと、彼は少なからずわたしのことを想ってくれたのだ。そう考えると、胸のあたりがほんのりと温かになる。
「だから、読み終わって思ったんだ。青が好きなのは空の色だからじゃなくて、絵本の中の海の色だからでしょう? 百合が好きなのも、人魚姫が髪に飾っていたから」
「良く、分かったね」
 彼の言うことは何一つ間違っていなくて、わたしはそっと目を伏せた。
 わたしが知る世界は、とても狭く不自由なものだった。だから、絵本の中でしか触れられないものがたくさんあった。
 本当の海の色も、百合の花も、わたしは何一つ知らなかったのだ。
 憧れを抱くのは、当然だった。いつか、仄暗く苦痛に満ちた水底から浮き上がって、本当の海の色や百合の花を目にする日々を思い描いた。
 憧憬は、いつしか好意へと代わり、わたしは海の青も百合の花も大好きになった。
「本物の海も百合の花も知らないのに、ずっと、好きだったの。変だと思う?」
 空想に溺れて、現実から目を逸らすことが幸せだった。
 そっと瞳を閉じて思い描く世界の門を潜れば、そこには痛みも苦しみもない、わたしだけの楽園が広がっていた。
 海の青に抱かれ、白い百合と戯れて眠る、わたしだけの美しい世界。
「変じゃないよ。でも、想像だけだと少し勿体ないと思う」
「勿体ない?」
「想像も美しいのかもしれない。だけど、本物の海の青さを、百合の花を、知りたくない?」
「……でも、わたしは」
 どうやっても、好きな所に自由に行ける身体ではない。誰かに迷惑をかけなければ、何処にだって行けないのだ。
「俺が連れていってあげる。今日は海の青を見せてあげるから、今度は百合の咲く花園に連れていってあげるよ」
 何の躊躇いもなく、彼はわたしに新たな約束を与えた。その約束が、守られるかも分からない、脆くて不確かなものに思えてならない。
「部屋で本を読むのも楽しいだろうけど、こうやって電車に揺られて外に出るのも悪くないだろう?」
 黒い瞳に眩しい光を湛えて、彼はわたしの頬に触れた。
「これから、たくさんの時間が君にはあるんだ。――だから、どんな場所だって、君が望むなら連れていってあげる」
 ここは外の世界、あの美しく創られた白い箱庭ではない。
 ――、それのに、どうして、こんなにも彼は優しくしてくれるのだろう。
 不意に零れ落ちそうになった涙を堪えて、わたしは軽く唇を噛んだ。
「あり、がと」
 毎週土曜日の、いつも楽しみにしていた病院の面会時間。
 彼が病院に通い続けてくれた理由を直接確認することは、臆病なわたしにはできなかった。歩けなくなった娘に同情したのか、それとも、あの時・・・のことに負い目に感じているのか。
 わたしは何一つ知ろうとしないで、花束や贈り物を持って訪ねてくる彼を迎え入れていたのだ。
 その優しさの理由をつまびらかにすることが、ずっと恐ろしかったのだ。
「どういたしまして」
 微笑む彼の優しさが無償のものであることを、わたしは願っているのだ。

『ただいま、○○線上り電車××行きは、車両の不具合のため、運転を見合わせております。ご利用のお客様には、大変ご迷惑を……』

 機械的なアナウンスに、わたしと彼は顔を見合わせる。その電車は、これからわたしたちが乗ろうとしている電車だった。
 都会のように数分に一本電車が走る場所ではなく、わたしたちが暮らす場所は田舎だ。海へ行くための電車は、せいぜい、二、三時間に一本あれば良い方だった。
 乗る予定の電車が運転を見合わせているならば、日が出ているうちに海に辿りつけるか怪しいものだ。
「残念だけど、電車の不具合なら仕方ないね。また日を改めようか、……もしかしたら、海に着くのは夜になってしまうかもしれない」
「……っ、嫌!」
 わたしは反射的に叫んでいた。
 驚いたように目を丸くした彼に、わたしは咄嗟に顔を俯かせる。震える手で、ワンピースを握りしめる。
「どうして、嫌なの?」
 わたしの叫びに気を悪くした様子はなく、あくまで幼子を諭すように彼は聞いてくる。
「今日が良いの」
 明確な理由も言わないで願いだけを口にするわたしに、彼は苦笑した。
「……、そっか。どうしても、今日行きたいんだね」
 彼はワンピースを握りしめるわたしの手に、そっと自分の手を重ねた。
「青空のようにはいかないだろうけど、夜空みたいで、夜の海もきっと綺麗だね」
 そう言った彼の声色が、泣きたくなるほど優しくて、わたしの胸が酷く痛んだ。
 どんなに我儘を言っても、彼ならば叶えてくれるような錯覚がするのだ。
 幼い頃から胸に秘めた願いさえも、人魚姫に足を与えた魔女のように、彼ならば叶えてくれるのではないかと信じたくなる。
「一緒に、行ってくれるの?」
「もちろん。海に連れていってあげるって、約束しただろう」
 重ねられた大きな手が、わたしの手を包み込む。わずかに湿った無骨な手、とても心強かった。
「ありがとう」
 だから、不安になる。

 この手を離して、わたしは迷わず彼のための選択ができるだろうか。