心中は泡沫の夜に

03 魔女がくれた足

 その日の早朝は、雲一つない快晴だった。
 一つに結えた黒髪が良く似合う、優しい看護師のお姉さん。三年間わたしの担当だった彼女が用意してくれた服は、生成り色のパフスリーブワンピースに、大きな銀釦が特徴的な紺色のカーディガンだった。以前、一緒に見た雑誌の中で、わたしが可愛いと口にした代物だ。
 看護師さんに見守られながら、一人で着替えをする。憧れた洋服を纏って、痩せ細った足に子ども用のソックス履いた。爪先の丸いパンプスを合わせた後、焦げ茶色をしたポシェットを肩にかける。
 ポシェットの中には、色褪せて日に焼けた人魚姫の絵本を忍ばせた。
 髪の毛を整えようとすると、看護師さんはわたしの手から優しく櫛を取り上げて、淡い金色の髪を丁寧に梳かしてくれた。
 最後の仕上げのように、看護師さんは彼から貰った髪飾りを飾ってくれる。真珠で白百合の花を模した髪飾りは、うっとりするほど美しかった。
「せっかくだから、爪も綺麗にしてあげるわ」
 看護師さんの柔らかな指が、わたしの手をとる。丸く整えられた爪先に、ひんやりとした透明な液体が落とされる。それが渇くと、看護師さんは慣れた手つきでわたしの爪を青く染めてから、白いマニキュアの瓶を手に取った。
 寸分の狂いもなく作業を進める看護師さんの顔は、真剣そのものだ。
「はい、完成」
 青く塗られた爪に白い花弁が描かれている。アクセントに付けられたスパンコールが、蛍光灯の光を受けて輝いていた。
「可愛いでしょう?」
 楽しそうに囁く看護師さんに、わたしは懐かしさを覚えながら小さく頷いた。こうして彼女に爪を整えてもらうのは、入院したばかりの、事故で負った怪我で満足に動けなかった頃以来だ。
「うん、可愛い。ありがとう、お姉さん」
 今だからこそ、素直にお礼を口にできるが、あの頃は感謝することもできなかった。当時のわたしは、誰かに爪を整えて貰うことが、身体の一部を預けることが恐ろしかった。
 幼い日、爪を切ってくれると言ったママは、何の悪びれもなく爪切りでわたしの指を挟んだ。浅く肉を抉り取られて、指先から大量に流れた赤い血は止まらなかった。あまりの痛みに泣き叫ぶわたしに、貴方が動くのが悪いのよ、とママが振り上げた手の爪は鋭くて、柔らかな子どもの頬は簡単に裂けた。
 同じ部屋で煙草を吹かしていたパパは、痛がるわたしの指をとって、鋭い犬歯で噛んだ。悲鳴をあげたわたしに、悪戯が成功して喜ぶ子どものように、パパは血に濡れた唇で笑った。
 わずかに震えた指先を、そっと看護師のお姉さんが包み込む。その薄紅色の唇も、控えめなアイラインに縁取られた一重の目も、わたしを穏やかに包み込むだけで何も問い詰めない。
「今日は、何処に連れていってもらうのかしら?」
 看護師さんは、わたしが何をしても頭ごなしに叱りつけることだけはしなかった。十三歳の頃から三年間、彼女がママのように声を荒げたことは一度もなかった。
「海に、行くの」
 看護師さんは一瞬だけ眉をひそめた。わたしが歩けなくなった原因を知っているため、複雑な思いがあるのかもしれない。
「心配しなくても平気だよ。綺麗な海を見てみたかっただけなの。前は、……結局見られなかったから」
 できる限りの笑みを浮かべると、看護師さんは困ったように溜息をついた。彼女の心配はもっともだったが、これだけは譲れなかった。
 どうしても、今日、海に行きたかった。
「おはようございます。もう準備はできていますか?」
 病室の扉が開いて、黒髪の青年が顔を出す。ふわふわとした黒髪は、まだ朝早い時間だと言うのに綺麗に整えられていた。少しだけ眠たげな眼が、わたしたちの姿を映し出している。
「あら、お早い到着ですね。大丈夫ですよ」
 看護師さんに快く迎え入れられ、彼は病室に入って来た。
「それなら良かった。少し早く着いてしまったから、どうしようかと思ったんです」
 看護師さんに軽く挨拶をした後、彼はわたしの傍に近寄る。
「おはよう。昨日はよく眠れた?」
 ベッドに腰掛けるわたしと視線を合わせるように屈みこみ、彼が首を傾げた。黒目がちで大きな目のせいか、大人の男の人なのに随分と可愛らしい仕草に思えた。
「ううん。今日が楽しみで、あまり眠れなかったの」
「そう言ってくれるのは嬉しいけど、無理しちゃ駄目だよ」
 わたしの頭を骨ばった手で撫でてから、彼は立ち上がる。
「俺は看護師さんと話があるから、ちょっと待っていてね」
 その言葉に頷いてから、わたしは小さく欠伸をした。
 彼と看護師さんは、二人して病室の外に出ていく。
 本来ならば、わたしは今日中に新居に向かう予定だったので、色々と不都合があるのだろう。向こうで世話をしてくれる人との面会予定も、急遽変更する必要が出てきた。
 すべて、わたしの我儘が原因なのだが、彼も看護師さんも特にわたしを咎めるつもりはないようだった。少しも嫌そうな顔をしないで、わたしの身勝手な望みを叶えようとしてくれている。
 やはり、この白い箱庭は、わたしに優し過ぎる。
 ここで過ごした三年間は、今までの人生の中で一番穏やかに時間が流れていた。
「お待たせ」
 しばらくすると、難しい話を終えた彼と看護師さんが病室に戻って来る。
「手を出してくれる?」
 看護師さんに言われるまま両手を差し出すと、掌に丁寧にラッピングされた小箱が載せられた。
 首を捻りながら渡された小箱を開けると、中には青薔薇のプリザーブドフラワーが詰められていた。生花の瑞々しさを閉じ込めた花の芸術に、わたしは小さく息を呑んだ。テレビや本で知識としては知っていたが、実際に目にするのは初めてだった。
「退院祝いよ。本当は花束の予定だったのだけど、これから出かけるのに邪魔になるでしょう? それに、花は直ぐに枯れてしまうけれども、これなら長く残るから」
 看護師のお姉さんは、口元を綻ばせた。
「元気でね。また、顔を見せてくれると嬉しいわ」
 わたしが入院してからの三年間、彼女はずっとわたしの世話を焼いてくれた。
 事故で怪我を負った当時、痛みで泣き喚くわたしの手を強く握りしめて、零れ落ちる涙を何度も拭ってくれた。肉体的、精神的な様々な治療を拒んで癇癪を起こした時も、わたしの気が済むまで拙い話に付き合ってくれた。乗り気ではなかったリハビリ治療も、根気強くわたしを宥めて最後まで手伝ってくれた。
 その柔らかな手は、決してわたしを傷つけなかった。
「ありがとう」
 わたしは、看護師さんに精一杯の笑顔を返す。
 三年間、昔とは比べ物にならないほど幸せな場所で暮らしていたのだと思う。
「それじゃあ、行こうか」
 わたしと看護師さんの遣り取りを見ていた彼が、ベッドに座っていたわたしの身体を悠々と抱きあげた。
 てっきり車椅子を用意してくれるものだと思っていたのだが、彼はわたしを抱きあげて運ぶつもりらしい。わたしは彼に抱えられることが大好きなので気にならないが、彼はずっとわたしを抱きあげていて疲れないのだろうか。
「ばいばい、お姉さん」
 微笑む看護師のお姉さんに手を振ったわたしは、白い箱庭の外に広がる世界へと誘われた。
 エレベーターで一階へ下り、病院のロビーを抜ける。
 次の瞬間、見知らぬ場所に放り出されたような不安が心に芽生えた。
 見上げた空、初夏の季節に相応しい燦々と煌めく太陽の眩しさ。屋上や病室で眺めた陽光と何一つ変わらないはずなのに、病院の外で見た太陽は、まったく別のものに思えた。
 周囲を見渡せば、辺りは瑞々しい群青に満たされている。山の頂から吹き抜ける風が木々を揺らし、大きく息を吸うと緑と土の仄かな香りが肺を満たす。
 アルコールと死の匂いに満ちた病院と違って、命の息遣いを感じずにはいられない活き活きとした光景だった。
「どうやって、海まで行くの?」
「どうやって行きたい?」
 質問を質問で返して来た青年に、しばらくわたしは考え込む。
「……、車は、嫌」
 急ブレーキの音と目を焼くような強烈な光を思い出し、わたしは身体を震わせた。脳裏にこびりついて離れない、思い出したくない記憶だった。
 あの時・・・の痛みと衝撃は、今でもわたしを苛《さいな》める。
「そう言うと思ったから、今日は電車。俺も車は運転したくないしね」
「免許、持ってないの?」
「免許はあるけど、車、今は持っていないんだ」
「ふうん、変なの」
 わたしの言葉に、彼は困ったように苦笑した。
「それより、体調は大丈夫? これから、日差しが強くなって暑くなるけど……」
「えー、嫌だなあ。太陽の下にいるのって疲れるのに」
「それは、君があまり外に出ていなかったからだよ。たまに屋上に出るだけで、ほとんど病室で読書していた君が悪い」
 図星だったため、わたしは何も言い返せなかった。看護師さんにも青年にも、何度も外に出ることを勧められたというのに、病室に籠って本ばかり読んでいたのはわたしである。
「まあ、移動は電車だし、ずっと外に出ているわけではないから大丈夫かな? 体調が悪くなったら、直ぐに言うんだよ」
「もう、そんなに心配しなくたって大丈夫だよ。わたし、案外強いんだから」 わざとらしく腕に力瘤を作ろうとすると、彼は多分に呆れを含んだ溜息をついた。
「嘘は駄目だよ。季節の変わり目は、いつも風邪をひいていたくせに。熱を出した君の隣で、林檎を剥いてあげたのは誰だっけ」
「うう、貴方と、看護師さんです」
「ふふ、良く憶えていました。あまり無理しないように」
 その口調が、幼子に対するようなものだったので、わたしは面白くない。いつまでも甘えてしまうわたしにも原因はあるのだが、彼は出逢った頃と同じ調子で接してくる。子ども扱いは止めてほしいのに、三年前から彼の態度は変わらない。
 そのまま他愛もない話をしていると、やがて、小さな駅が見えてくる。灰を被ったように薄汚れた白壁をした、箱状の建物だった。入口に駅名の看板が下げられていなければ、公園にある手洗い場と勘違いしてしまいそうだ。
 駅の構内に入っても、人影一つ見当たらない。
 テレビや写真で見かける、様々な店が建ち並び人々が溢れかえる駅とは、随分と様子が違った。
「小さくて古い駅だね。駅員さんは?」
「まだ朝早いし、そもそも、ここは無人駅だからね。駅員さんはいないよ」
「なんだか、想像してたのと違う」
「都会の駅を想像していたなら、それは間違い。田舎にあんな大きな駅があるわけないよ」
 肩を竦めた青年は、切符を買うために小さな機械の前で立ち止まる。こちらも大きな駅に設置されているものではなく、病院の食堂にある食券の券売機に似ていた。
 何もかも想像を裏切られて、なんとなく残念な気持ちになる。
「切符買ってくれる?」
 わたしは小さく頷いて、ポシェットから財布を取り出した。この財布の中には、今日の交通費が入っているのだ。
 わたしに切符を買わせようとしているのは、おそらく、彼なりの配慮なのだろう。病院の売店以外では、まともに買い物一つしたことのないわたしに、出来る限りの経験を積ませようとしているのだ。
 もう、病院で守られて過ごす日々は終わりで、わたしは新しい道を歩まなければならない。自分一人で多くのことをこなさなければならなくなる。
「その財布、まだ使っていたの?」
 わたしが取り出した財布を見て、彼が目を瞬かせた。
「だって、……貴方がくれたものだから」
 今使っている財布は、彼と知り合って間もない頃に貰ったものだった。幼い子どもが持つような、子どもっぽい水玉模様の財布である。十六歳という年齢には、あまり相応しくないものだ。
「うーん、使ってくれるのは嬉しいけど、今度新しいのを買ってあげようか。君も随分と大人びてきたからね」
「そんなの、良いのに」
 花束の他に、彼が初めてくれた贈り物だから、わたしは今の財布を気に入っている。年相応でなくなったからと言って、新しいものが欲しいとは思わなかった。
「俺があげたいだけだから、気にしないで」
「……、ありがとう」
 いつも、彼は様々なものをわたしに与えてくれる。贈り物を貰う度に嬉しく思うが、何も返せない自分がもどかしくもあった。
 わたしには、微笑んでお礼を言うことしかできないのだ。
 わたしが切符を二枚買うと、彼は改札を通り抜けた。
 閑散としたホームに出た瞬間、甲高い音をあげて電車が到着する。たった二両しかないワンマンカーの扉を開ければ、そこには誰もいなかった。
 彼は、自分の隣にわたしを座らせて手を握ってくれた。電車の揺れでわたしが倒れないように、気を遣ってくれたのだろう。
 深い意味はないと分かっているが、頬が熱くなって、わたしは誤魔化すように強く彼の手を握り返した。
「電車に乗るの、初めて?」
 わたしが緊張していると勘違いしたらしく、彼は小さく笑い声をあげた。
 いつまで経っても子ども扱いされている気がして、少しだけ胸の奥に痛みを覚えた。
 男の子と間違われるほど短く切られていた髪は随分と伸びて、平らだった胸は膨らみを帯び始めている。
 もう、出逢った頃の幼いわたしではないと、彼は分かっているのだろうか。
「初めてだと、悪いの?」
 十六歳にもなって、電車の一つ乗ったことがないわたしに、彼は呆れているのかもしれない。仕方ないことだと分かっているが、呆れられていたらと思うと、悲しかった。
 病院に入院する前のわたしは、他の子が当たり前のように知っていることさえ分からないことが多かった。看護師さんたちから様々なことを教えてもらって、昔より世間知らずではないだろうが、学んだことを実際に体験するのは今日が初めてに等しい。
「ううん。もっと、初めての経験をさせてあげたいなあ、と思って。これから、君はたくさんのことを知っていく。いろんな初めてを、いっぱい経験できると良いね」
 その言葉に込められているのは純粋な善意だった。
 昔から、ろくに外の世界に触れられなかったわたしを想うが故の発言だ。
 だから、たくさんのことなんて、いろんな初めてなんて、要らないと口にすることができなかった。
「海に着いたら、何がしたい?」
「……、太陽の下で、きらきら光る海が見てみたい。絵本や写真の中では見たことあるけど、本物の海には行ったことないから」
 三年前、パパとママは海に連れていってくれる言ったが、それは望んだ形で叶うことはなかった。夜の海を目指して走った車の末路は、思い出したくもない悲惨なものだ。
 そうして、わたしに残されたのは、歩けなくなった身体と今は亡き彼らが残した傷痕だけだった。
「そっか。写真や絵よりも、本物はずっと綺麗だよ」
「本当?」
 何度も読んだ人魚姫の絵本に描かれた海は、太陽の光を浴びて輝く。
 焦がれた大地の上、手に入れた二本の足で立ち上がった人魚姫は、生まれ育った海を静かに眺めるのだ。
 あの瞬間、彼女は故郷を捨てた寂しさと足を刺す痛みを感じながらも、天にも昇るような喜びを抱いていたに違いない。
「本当。だから、楽しみにしていて」
 わたしは彼の肩に頭を預けて、返事の代わりにした。

 歩けないわたしを運んでくれるのは、彼と言う名の足だった。
 もう二度と使われることのない、今日だけの特別な魔法。