心中は泡沫の夜に

02 嵐の夜の王子様

 山の麓に建てられた病院の屋上に、初夏の風は瑞々しい緑の匂いを運ぶ。
 頬にかかる長い金髪を指で払ってから、わたしは大量に干されたシーツの翳に車椅子を動かした。
 車椅子から降りて木製のベンチに座ると、持ってきていた人魚姫の絵本を広げる。
 何度も読み返した絵本は表紙や挿し絵が色褪せ、所々破けているページは日に焼けてしまっている。それでも、水彩絵具で繊細に描かれた人魚姫の絵本を手放すことはできなかった。
 最後のページまで辿りつくと、わたしは絵本を閉じてベンチの上で仰向けになった。
 照りつけるような陽光に青みがかった目を細め、果てなく広がる空に手を伸ばしてみるが、届くはずもなかった。雲一つない空は遠く、望んでも決して触れることのできない別世界のように感じられた。
「おはよう」
 仰向けになったわたしの顔を、見慣れた青年が覗き込む。
 柔らかな黒髪に、黒目がちの大きなアーモンド形の瞳。左目の目元に二つ連なった泣き黒子と、鮮やかな赤の唇が色白の肌に良く映えている。
 誰もが優しげな印象を抱くであろう二十代後半の青年は、三年も入院しているわたしの唯一の見舞客だった。毎週土曜日になると、様々なものを持ち寄って、身寄りのないわたしに会うために病院を訪れてくれるのだ。
「おはよう。今日は、いつもより遅かったね」
 いつもならば、彼は病院の面会時間が始まると同時に顔を出す。朝から夕暮れ時まで、他愛もない話を重ねながら庭園を散歩したり屋上で風にあたったりするのだ。
 今日は、いつまでも彼が来なかったので、一人屋上で時間を潰していた。
「ごめんね、ちょっと取りに行くものがあったんだ。赦してくれる?」
「えー、どうしようかなあ」
 わたしは、勿体ぶるように笑い声をあげてから、小さく首を振った。
「ちゃんと会いに来てくれたから、赦してあげる」
 本当は、彼が会いに来てくれたならば、いつもより遅かったことなど気にならなかった。もう会いに来てくれないのではないかと不安だった心も、徐々に落ち着きを取り戻している。
 用事を終えた後に、わざわざ病院を訪れてくれたことが嬉しかった。
「良かった、赦してくれてありがとう。さっきまで、何をしてたの?」
「空に手を伸ばしてたの」
「空に?」
「うん。青くてきらきらしていて、絵本の中にある真昼の海みたいに綺麗だから。でも、……届かなくて」
 わたしが唇を尖らせると、彼は優しく微笑んだ。黒目がちの大きな瞳が、笑うと柔らかな弧を描いて細まる。その表情が、わたしは大好きだった。
「それは残念。じゃあ、空の代わりに俺からプレゼント」
 彼は、後ろ手に隠していた花束をわたしの目の前に翳す。
 それは、青を基調として作られた大きな花束だった。細い茎に幾重もの透き通る蒼の花をつけたデルフィニウム、中心から花弁の淵にかけて青く染まるリューココリーネ、紫を帯びた藍のアネモネは大輪の花を咲かせていた。それらに慎ましく寄り添っているのは、淡く揺れるカスミ草だ。
 爽やかな花々の香が、そっと風に乗った。
「……っ、すごい、真っ青! 空みたい、海みたい!」
 興奮のあまり勢い良く上半身を起こしたわたしは、均衡を保つことができずに前のめりになる。
 慌てた彼が、片手でわたしの身体を抱きとめた。適度に筋肉の付いたしなやかな腕が、崩れ落ちそうなわたしを支える。
 瞬間、彼の身体から幽かに甘い果実の香水が香る。その香りを感じると、わたしの心は凪いだ海のように穏やかになる。触れ合った場所から伝わる温もりと鼓動に、何もかも預けてしまいたくなってしまう。
「ほら、はしゃぐと危ないよ」
 困ったように眉をひそめた彼に、わたしは曖昧に笑んだ。
「ごめんなさい」
 彼は、わたしの両足が動かないことを知っているから、心配してくれているのだろう。倒れてしまったら、一人で立ち上がることも儘ならないのだ。
「花束ありがとう。とっても綺麗」
「気に入ってくれた?」
 わたしが頷くと、彼は大きな手で頭を撫でてくれる。
「今日は、もう一つプレゼントがあるんだ」
 わたしをベンチに座らせると、彼は鞄からリボンでラッピングされた箱を取り出した。箱を渡され、首を傾げながらリボンを解くと、中に入っていたのは白百合を象った真珠の髪飾りだった。
「君の髪と瞳に、良く映えると思って」
 彼は髪飾りを手にとって、長く伸ばしたわたしの髪に飾ってくれた。
 祖母が異国の人であるため、わたしの髪は淡い金色で瞳も青みがかっている。この髪と瞳に良い思い出はないが、こうして彼が慈しむように触れてくれると、少しだけ好きになれた。
「あと、御守りにもなるって聞いたんだ。明日退院する君の未来が幸せなものであるように、俺からの贈り物」
 彼はわたしの頬に触れて、心配するように目を伏せた。
 ――、わたしの未来が幸せであるように。
 その願いが込められた髪飾りは、とても嬉しかった。だけど、どうしても感謝を口にすることができなかった。
 これから続くわたしの未来が決して優しいだけのものではないと、彼も分かっているのだ。
「可愛い?」
「凄く可愛いよ」
 わたしは彼に向かって微笑んで、その闇色の瞳を静かに見つめた。明日の退院を迎えたら、きっと、彼を目にすることは叶わなくなる。
 病院の外の世界では、わたしと彼を繋ぐものが見つからない。
 だから、わたしは縋るように彼の服の袖を掴んだ。
「あのね、こんな素敵な贈り物を貰った後で我儘だけど……、退院祝いに、お願いがあるの」
 首を傾げた彼に、わたしは震える唇を開いた。

「海が見たいの」

 青く澄んだ海を、きらきらと太陽の光る海を、見せてほしい。
 わたしの言葉に、彼は困ったように眉を下げた。
「お願い。どうしても、海が見てみたいの」
 懇願するように見上げると、彼は小さく溜息をついた後に、ゆっくりと頷いてくれた。
「わかったよ」
 優しい人だから、わたしの頼みを無碍にできなかったのだ。
「ねえ、抱っこしてくれる?」
 わたしが手を伸ばすと、彼は当たり前のように抱きあげてくれた。
 彼は屈強な身体の持ち主というわけではないが、人より上背があって手足も長い。小柄で痩せた、子どもみたいなわたしを抱きあげることは造作もないらしい。
 だから、いくつになっても、彼に抱きあげてもらいたくて手を伸ばしてしまう。子ども扱いしてほしいわけではないのに甘えたくなる。
「それじゃあ、明日は一緒に海に行こうか」
 彼の首に腕をまわして、わたしは目を閉じた。

 瞼の裏には、人魚姫の絵本に描かれた青く光る海が浮かび上がっていた。