第二章 乙姫様の妙薬

 夜の帳が下りている。
 海月館の子ども部屋には、小さな女の子がぐずる声が響いていた。
 凪はベッドで膝を抱えたハトコ――湊の隣に、そっと座り込んだ。夜闇が怖いのか、湊は半分泣いているようなものだった。
 可哀そうで、ひどく可愛らしい。
 同じ毛布に包まって、痩せっぽちの背中を撫でてやる。
「凪くん、絵本」
 すると、湊は甘えるように絵本を押しつけてきた。凪は微笑んだ。眠る前に絵本を読んであげるのは、凪だけに許された特権だった。
「むかし、昔。竜宮城の乙姫様が病気になりました」
 絵本を開くと、湊がじっとこちらを見つめてくる。
「病気。凪くんと、おんなじ?」
「そうだね。似たようなものかな」
 正確には、凪は特定の病に罹っているわけではない。
 ただ、極端に身体が弱いのだ。どれほど大きな病院にかかっても原因は分からず、最終的には、虚弱体質として片づけられる。
 両親や兄、そして凪自身ですら諦めている。凪はそういう風に生まれてしまった。この先も変わらず、簡単に生と死の境をさまよう。
 眠りに落ちたら、二度と目覚めることができないかもしれない。そんな恐怖を抱えながら生きていく。
 遠くない未来、この命が尽きる日まで。
「乙姫様の病気、治るの? お薬ある?」
 湊が絵本のページを指差した。
 病に苦しむ乙姫が、家来のクラゲに薬を持ってくるよう頼んでいた。クラゲは彼女の病気を治すために、妙薬を求めて、海面へ浮上していく。
 ページを捲ると、場面は変わる。
「お猿さん!」
 クラゲは海面から顔を出して、とある島で木登りをしていた猿に声をかけた。
「乙姫様の病気を治す御薬は、お猿さんが持っていました。クラゲは言いました。お猿さん、一緒に竜宮城に来てください、と」
「良かったねえ」
 凪は眉をひそめる。残念ながら、この物語はめでたし、めでたしでは終わらない。
「お猿さんは、クラゲと一緒に竜宮城に行きました。けれども、途中で嫌になって、帰ってしまうのです」
「帰っちゃうの?」
 湊は青ざめて、すがるように凪のパジャマを掴む。
「乙姫様の病気は治りませんでした。お薬を持ってくることのできなかったクラゲは、罰として、いっぱい、いっぱいたれてしまいます」
 竜宮城の者たちは、《お使い》の役目を果たせなかったクラゲを責めた。
 クラゲが失敗したせいで、彼らの愛する乙姫の病気は治らなかった。
「そうして、クラゲは骨を失くしてしまったのです」
 泣いているクラゲを最後に、絵本は終わる。
 題名は《くらげのお使い》。同名の民話を基にして、子どもにも読めるよう残酷な表現を削った絵本だった。
 凪は知っている。猿が持っていた薬の正体を・・・・・
「いっぱい打たれちゃったから、クラゲさんには骨がないの?」
 ふわふわと水中を漂うクラゲは、触れた途端に崩れてしまいそうな、そんな脆い生き物に見える。
 まさしく骨なしだった。
「仕方ないよ。クラゲが《お使い》に失敗したから、乙姫様の病気は治らなかったんだから。可哀そうに」
「……みなとが、お猿さんから薬を貰ってきてあげる」
「乙姫の病気を治してあげるの?」
 湊は首を横に振った。紅葉のようなふっくらとした手が、凪の両頬を掴んだ。幼い子ども特有の黒目がちの目が、涙に濡れて、きらきら星屑のように輝く。
「凪くんの病気も、治るよ?」
 乙姫と凪を重ねて、また湊はぐずりはじめる。
 つい先日まで、凪は入院していた。凪にとっては慣れた出来事だった。見舞いに来た湊の方が、ひどい顔をしていた。
 病室のベッドにすがって、湊は泣きわめいた。
 置いていかないで、と。
 いつだって、彼女が恐れるのは置き去りにされることだった。
「だって、約束したよ。ずっと一緒」
 堪らず、凪は小さな女の子を抱きしめる。細く柔らかな髪に顔を埋めると、哀しいわけでもないのに、どうしてか泣きたくなった。
 凪自身さえも諦めている凪のことを、湊だけは諦めずにいてくれる。
 凪の手からは、もうたくさんの物が零れていった。これからもきっと零れて、最後には何もかも残らないのかもしれない。
「うん。ずっと一緒にいてあげる。……だから、湊のこと、ぜんぶちょうだい」
 神様、どうか。
 他の何を奪われても、他の何が手に入らなくても良い。だから、この子だけは、凪のものにしてほしい。
 それは静かな夜のことだった。
 湊の憶えていない、凪だけが知っている夜のことだった。




1.
 燃えるような、真っ赤な夕暮れを忘れない。
「みなと」
 最期のとき、湊の親友は花開くよう笑った。此の世で一番愛しい人に向けるような、とても幸せそうな笑顔だった。
 そうして、彼女は太陽よりも赤い血だまりとなった。
「菜々!」
 ぐちゃり、と肉の潰れる音がして、湊は飛び起きた。
 中途半端に伸ばした手が、夜の闇に融けていく。光源のない部屋は真っ暗で、右も左も分からなかった。
 枕元のスマートフォンに触れると、深夜二時を示す。虫も鳴かぬような真夜中だ。
「……ひどい、夢」
 震える身体を抱きしめる。瞼の裏に残酷な夢が焼きついて、もう一度、眠ることが怖かった。
 湊はベッドから下りて、階段を下りていった。一階のリビングに入ると、奥の扉から青白い光が洩れていた。
 あちらは書庫だ。玄関から入ってすぐ、クラゲの水槽が浮かぶ空間だった。
 十年ぶりに帰ってきた海月館は、リビングや祖母の和室、二階にあった子ども部屋などは変わらない。
 しかし、あの書庫だけ、湊の知らない空間となっていた。
 吸い寄せられるように、書庫へと続く扉を開いた。
 パンプスを引っかけて書庫に下りれば、水槽のクラゲたちが迎えてくれる。
 こぽり、こぽりと浮かんでは弾ける水泡のなかを、クラゲたちは漂い、触手を絡み合わせていた。
 今日のクラゲは無色透明で、ガラス細工のように繊細な姿をしていた。
「凪くん」
 書庫の主は、アンティーク調の長椅子に腰かけていた。
 窓のある面を除いて、それ以外の壁面が本棚になっているような空間だ。小さな図書館のような内装は、きっと主の趣味だろう。
「夜更かしは、身体に悪いよ」
 凪の手には、分厚いハードカバーの小説がある。湊でも知っている有名な作品だ。流行ったの十年以上前だが、昨年、ようやく文庫版が発売して話題になっていた。
「そちらこそ、こんな時間まで読書なんて。眠れないんですか?」
「眠らないんだよ。お客さんが来るかもしれないからね」
 木枯町は、海神伝説の根づく町だ。
 この町の人々は、クラゲの姿をした海神から生まれ、やがて彼女のおわす海に還る。生前の記憶を手放し、空っぽになって、ようやく母なる女神のもとに導かれるという。
 だが、深い後悔を抱えて死んだ者は、その後悔を忘れることができない。彼らは海神のもとに還ることもできず、此の世をさまよい、やがて海月館を訪れるのだ。
 海月館くらげかん海神わだつみを祀る場所、死者の集う館。
 凪の言う《お客さん》とは、後悔を抱えてさまよう死者のことだった。
「来るかもしれない? 曖昧なんですね」
「死んだ人間が、待ち合わせなんてしてくれると思う? 彼らが憶えているのは、死後も忘れることのできなかった後悔だけなのに」
「来るかも分からない人を待つのは、つらくないですか?」
「仕事だから、別に。それに、海月館はまったくの無秩序というわけでもないから。
 ひとつ、死者は夜に姿を現わす。
 ふたつ、死者は実体を持つ。
 みっつ、海神は死者の後悔を見せてくれる。
 こんな誰も信じてくれない仕事で、これだけ分かれば十分だ。相手にしているのも、死んだ人間と、俺たちには理解できない神様なんだから、諦めもつくだろう?」
 神様。それは美しいクラゲの姿をした海神。この町で生まれる人々の、生と死を司る女神だった。
 水槽をたゆたうクラゲに、自然と目が行く。
 春、この町に戻ってきたとき、水槽にはミズクラゲが浮かんでいた。クラゲと聞いて、まず思い浮かべる種類である。
 しかし、いま水槽にいるのはミズクラゲではない。
 凪が、水槽の中身を入れ替えたのだろうか。
 それとも、この不可思議な空間と一緒で、このクラゲは本物のクラゲではないのか。いわゆる神の御使いのようなもので、日々、姿を変えるのかもしえない。
 今日のクラゲは、触れたら壊れてしまいそうなほど繊細だ。
 ――ギヤマンクラゲ。その名のとおり、ガラス細工ギヤマンのように美しい。
 触手はやや長めで、どこにも色がなく透き通っている。何度も水族館で見たことがあるが、見かける度、思うことがあった。
「骨がないみたい」
 無色透明だからか、他のクラゲを眺めるときよりも、いっそ強くそう思った。
「クラゲに骨なんてないよ。たれて骨を失くしたんだから」
 いつのまにか、凪が背後に立っていた。
 吐息が混ざりそうな距離に、思わず逃げようとする。しかし、凪の方が上手だった。湊の肩に顎を載せて、後ろから抱きしめてくる。
「……離れてください」
 湊の抗議を無視して、凪は水槽のクラゲを見つめた。
「《くらげの骨》って、知っている? 枕草子とか今昔物語に出てくる。くらげの骨――あり得ないもののたとえ」
 本来であれば存在しないもの、存在してはいけないものを意味する言葉だった。
「打たれて、骨を失くしたっていうのは?」
「罰だよ、乙姫様の病気を治せなかった。昔、絵本で読んであげたんだけど、忘れちゃったかな? 《くらげのお使い》」
 幼少期の湊は、夜になるとぐずって寝つけなかった。そんな湊のために、凪は海月館に泊まり、絵本を読み聞かせてくれた。
「絵本を読んでくれたことは憶えていますよ。でも、内容までは」
「むかし、昔。竜宮城の乙姫が病気になって、薬が必要になった。その薬を奪ってくるよう命じられたのが、クラゲだった」
「奪ってくる?」
「そう、奪ってくる。だから、クラゲは海面にあがって、一匹の猿を騙した。――猿の肝って、妙薬になると信じられていたんだよ」
 湊は青ざめる。生き胆など、聞くだけでもぞっとした。
「だけど、クラゲは失敗して、猿の肝を奪うことができなかった。だから、罰としてたくさん打たれて、骨を失くしてしまった」
 誰に同情するべきか悩ましい物語だった。
 肝を奪われそうになった猿も、骨を失くしたクラゲも、病気が治らなかった乙姫も、誰しもが憐れだった。
「みんな可哀そうですね」
「みんな? 可哀そうなのは乙姫だ。猿の生き肝があれば、乙姫の病気は治ったのに」
 湊と違って、凪は乙姫にだけ同情していた。
 おそらく、昔の自分を重ねているのだ。今はもう、すっかり元気になっているが、十年前の凪は病弱だった。いつも、自分の身体が治る妙薬を求めていた。
「此の世は理不尽で、不公平にできている。死者の世界も変わらないけれどね。――本当に、可哀そうに」
 凪は足元に視線を遣った。ふくらはぎに何かが当たって、湊も下を向く。
「女の子?」
 いつのまにか、書庫に小さな人影があった。
 白い羽根のヘアピンで、前髪を留めた女の子だった。
 幼稚園児が着るような薄青のスモッグに、三船乙羽みふねおとは、と書かれたワッペンがある。丁寧なことに、振り仮名つきである。
 彼女は踊るように身を翻すと、書棚に走り寄った。
 あちらこちらの本に手を伸ばしては、届かない、とぴょんぴょん飛び跳ねる。ふっくらとした手は幼く、紅葉のようだった。
「いらっしゃい」
 本が取れなくて嫌になったのか。あるいは凪の声に反応したのか。
 女の子は、水槽近くまで駆け戻ってきた。美しいクラゲたちに手を伸ばして、それから祈るよう、水槽に額を寄せた。
 瞬間、視界が黒く塗りつぶされる。湊の意識は、冷たくて暗い海底に沈んでいった。
 頭の奥底で、ゆらり、ゆらりとクラゲが揺れていた。

 ●〇〇●〇〇●

 病室の白いカーテンが、風にゆらゆら揺れる。
 格子窓に額を押しつけて、中庭を見下ろす。
 色とりどりの花々と一緒に、たくさんの人たちがいた。なかには、幼稚園から来たのか、スモッグを着ている男の子もいる。
 楽しそうに飛び跳ねる彼のことが、とっても羨ましかった。
 元気になったら、また幼稚園に戻れるのに。
「乙羽? もう、ねんねしよ。お昼寝しないと、お医者さんに怒られちゃうよ」
 窓辺の椅子から、冷たいベッドに戻される。
「ママ。ねんね、嫌」
「嫌なの? 乙羽がねんねするまで、絵本読んであげるのに」
 ママは笑って、一緒のベッドに入ってくれた。大きな手には、いつも読んでもらっている絵本があった。
「むかし、昔。浦島太郎さんが、痛い、痛い、と泣いている亀さんを助けてあげました。亀さんは御礼に、浦島太郎を竜宮城まで連れていってあげます」
「りゅーぐーじょう?」
「海の中にある、とっても楽しいところよ」
 絵本にある竜宮城は、ママの言うとおり楽しそうだった。
 一生懸命、ママが描いてくれたものだから、そう思うのかもしれない。
 手作りの絵本は、絵が苦手なママが、いつも作ってくれたもの。幼稚園の先生みたいに上手じゃないけれど、ママの絵がいちばん好きだった。
 乙羽のことが好きだよ、って。
 ママの気持ちが、ぎゅっと伝わってくる。
「浦島太郎は、竜宮城で、乙姫様と楽しいことをたくさんしました」
「めでたし、めでたし?」
「……続きは、また明日ね。そうしたら怖くないでしょう? もう」
 物語の続きを想像しながら、ゆっくりと目を閉じる。
 ――大丈夫。まだ終わっていない。めでたし、めでたし、ではない。
 終わっていないなら、きっと、明日も目を覚ますことができるから。

 ●〇〇●〇〇●

 湊はゆっくり瞼をあげる。
 あたりは真っ白な病室ではなく、海月館の書庫が広がっている。
 水槽に額をつけていた幼女が、きゃらきゃら声をあげて笑っていた。おそらく、凪や湊に向けた笑顔ではない。
 大好きな母親に向かって、彼女は笑いかけているのだ。
「めでたし、めでたし?」
 瞬きのうちに、女の子は薄闇に溶けてしまった。
「あんな、小さな子が?」
 海月館を訪れるのは、忘れられない後悔を持つ死者だけだ。愛らしい女の子は、とうの昔に亡くなっているのだ。
「めでたし、めでたし、ね。ずいぶん幼い子だったから、自分が何を後悔にしているのかも分かっていないのかもしれない」
「名前は、三船乙羽みふねおとはちゃんですかね?」
 スモッグに縫い付けられたワッペンには、そう書いてあった。
「あの子のことは、気にしなくて良いよ。そんな余裕ないだろう? ひどい隈だ」
 凪は溜息をついて、湊の目元を指差した。
「……凪くんには、関係ないことです」
「生意気なこと言うのは、静かに眠れるようになってからにしたら? 夜中に飛び起きるのは、今日で何回目だろうね」
 深月はうつむく。図星だから、何も言い返すことができない。
「凪くんこそ、人の心配している場合ですか? 仕事、大丈夫なんですか?」
 乙羽という女の子は、何かしらの後悔を持っている。だから、海に還ることができず、さまよっているのだ。
 その後悔を紐解くことが、凪の仕事である。
「大丈夫だよ。手掛かりはいっぱいあったから、きっと時間もかからない」
「あの。……何か、わたしに手伝えることはありますか?」
 木枯町に戻ってから、凪には世話になってばかりだ。
 そのことが気がかりで、いつも落ちつかなかった。今の湊たちは、血の繋がりの薄い親戚、ただのハトコでしかない。
 昔のよう関係ではないのに、過剰なものを受け取っている。釣り合いが取れていないことに負い目があった。
 凪はわざとらしく溜息をついた。
「今日、病院に行く日だよね? 小児病棟のロビーを見てきてほしいんだ。いまも変わっていないなら、きっとポスターが掲示されているから」
 凪の言うとおり、湊は今日、木枯総合病院の心療内科を予約している。小児病棟に寄るくらいなら、特に負担でもない。
「ポスター?」
「行けば分かるよ。ほら、今夜はお仕舞い。眠れなくても、少し横になった方が良い。朝になったら声をかけるから」
 長椅子に手招きされる。隣に座ると、ごく自然に押し倒された。
「凪くん」
 咎めるように名を呼べば、彼はくすりと笑う。
「何もしないよ」
 凪はブランケットをとって、そっと湊の身体にかける。柔らかなブランケットからは、ほんのり煙草の匂いがした。
 湊の知らない、凪の香りだった。
「絵本を読んであげようか? 昔みたいに」
 湊は首を横に振った。絵本を読み聞かせてもらったところで、きっと、子どもの頃のように眠ることはできない。
 瞼の裏に、燃えるような夕暮れと、潰れてしまった親友の姿が焼きついている。
 菜々は海に還った。それなのに、彼女の死を夢に見てしまうのだ。



2.
 木枯総合病院の心療内科に、常駐の医師はいない。月に何度か、数人の医師が余所から通ってくるのだ。
 湊の担当医は、県の中心部で開業医をしている、いかにも優しそうな風貌の女性だ。
「体調は、ずいぶん良くなりました?」
 湊は頷く。以前は身体が鉛のように重く、食事も満足にとることができなかった。終わりのないトンネルを歩き続けているようで、ひどく疲弊していた。
 そのときからすれば、体調は快復している。
「世話をしてくれる人が、いるので」
 凪は当たり前のように、湊の面倒をみてくれる。
 栄養価の高い食事を用意して、館の管理も一緒になってする。本調子ではない湊は、いつも助けられてばかりで、そのことが怖くもあった。
 このままでは、十年前と同じように凪に依存してしまう。
「傍にいてくれる方がいるなら良かった。でも、まだ眠れないんですよね?」
「怖い夢を見るんです。もう大丈夫だと思ったのに」
 悪夢を見るから、眠ることができなくなった。だから、眠るための薬を処方してもらった。
 しかし、眠ってしまえば、また悪い夢を繰り返すのだ。
 春、海に還っていく菜々を見送った。前を向くことができると思った。
 だが、気持ちとは裏腹に、身体はいまだ不調を引きずって、頭のなかでは親友の最期が再生される。
「こう言っては申し訳ないですが、患者さんの大丈夫、は信じないことにしているんです。皆さん頑張り屋だから、そう言ってしまいますけどね。遠田さんの心も身体も、まだ大丈夫なんかじゃないんですよ」
「いつ、大丈夫になりますか」
 医師は苦笑した。
「どうか焦らず。劇的に症状が軽くなる薬があるなら、一番良いでしょう。でも、それは難しいです、とても。あなたが経験したことは、割り切れることではありません」
「……はい」
 昨夜、凪は《くらげのお使い》の物語を教えてくれた。あの話に出てきた猿の生き肝のように、食べると病が治る妙薬など存在しない。
「傍にいてくれる方を頼ってくださいね。一人で抱えなくて良いんです、もちろん私も一緒に考えていきますから」
 医師は同じ薬を処方した。眠るのが怖くても、眠らないわけにはいかない。彼女の言うとおり、湊の心も身体も大丈夫ではなかった。
「ありがとうございました」
 診察を終えて、湊は別の病棟に向かった。約束はしていないが、入院中の祖母に顔を見せたかった。
「おばあちゃん?」
 しかし、潮は不在だった。同室の人間もおらず、空のベッドが並んでいる。
 潮のベッドに近寄ると、終活の本が置いてあった。ここ数年、やたら新聞広告や雑誌でも見かけるようになった言葉である。
 人生の終わりについて考えるくらいだ。
 潮は何処を悪くして、いったい何の病気を患っているのか。
 本来であれば、孫として彼女の病状を把握し、できる限りの援助をするべきだった。頭では分かっていながらも、何の行動も起こせず、時間ばかり流れていく。
 ――四歳のとき母親を亡くし、祖母の暮らす木枯町に引き取られた。
 それから十年、湊は祖母の家――海月館で過ごした。だが、たった十年間なのだ。海月館に置いてもらった日々と、彼女と離れた歳月は同じくらいの長さになった。
「ひどい話」
 木枯町を出てからは、ろくに連絡もとらなかった。
 親友が死んで、会社を辞めて、どうしようもなく弱ったときだけ頼った。病気をしている祖母には、いい迷惑だったろう。
 ふと、風が吹いて、白いカーテンが膨らんだ。吸い処せられるように、窓辺に向かう。
 まばゆい太陽の下には、萌える緑、鮮やかな花々がある。楽しげに談笑しているのは、見舞客と患者だろうか。
 湊は既視感を覚えた。中庭の光景が、海月館を訪れた乙羽という女の子の記憶と重なっていく。
 彼女がいたのは、この病院の小児病棟だったのかもしれない。小児病棟に行って、と凪が言ったのも、乙羽の記憶に心当たりがあったからなのだ。
 祖母の病室を出て、小児病棟に移動する。
 病棟のロビーに、様々なイベントのポスターが張られていた。そのなかで、湊は絵本の読み聞かせ会のポスターに釘付けになった。
 描かれたイラストが、乙羽の記憶にあった絵本とそっくりなのだ。
「興味あるの?」
 振り返れば、四、五十代くらいの女性が微笑んでいた。
 きっちりしたスーツに、磨き抜かれた靴、髪は後れ毛なく纏められている。見るからに仕事ができそうな女性だった。
「……あの、可愛い絵だと、思ったんです」
「ありがと。この週末にやるイベントなの。大人の参加もOKだから」
 彼女は鞄からチラシを取り出して、勢い任せに押しつけてくる。
「え、と」
 今のところ、参加できる、と断言できない。そのことを伝えようと思うのに、嬉しそうに笑っている女性を見ると、舌がもつれてしまう。
 昔から、湊は年上の女性に弱かった。母と同年代となると、なおのこと。もう顔も憶えていない母が生きていたら、と想像してしまうのだ。
「それじゃあ。また会えると嬉しいわ」
 女性は足早に去っていく。仕事の最中に寄ったのか、あるいは病院に来ることが仕事だったのか。
 チラシを持ったまま、湊は玄関に向かった。
「終わった?」
 玄関前のロータリーに、凪が立っていた。
「……小児病棟のロビー、自分で見に行けば良かったじゃないですか」
 湊は溜息をついて、持っていたチラシを凪に渡した。おそらく、彼が小児病棟で確認したかったポスターは、このチラシの内容と同じものだろう。
 乙羽の夢に出てきた絵本と、よく似た絵柄をしている。
「病院は嫌いなんだよ。具合が悪いとき以外、死んでも入りたくない。……ここ、いつのまに新しくなったの? もっとボロボロだったよね」
 凪の言葉に思い出す。この町に戻ってきた日、まったく同じ感想を抱いたことを。
「外壁を塗り直したみたいです。凪くんも知らなかったんですね」
「最後に来たの、かなり前だからね」
 十年前の凪からは、考えられない台詞だった。
 身体が弱く、入退院を繰り返すような人だった。学校も休みがちで、高校に至っては出席日数が足らず留年して、そのまま退学している。
 湊の知っている彼は、青白い顔をして、生と死の狭間で揺れていた。
 だからこそ、凪が健康でいることを、夢みたいに思ってしまう。
「迎えに来てくれました? もしかして」
「ふらふら歩いて、事故にでも遭ったら怖いからね」
 言葉こそ素直ではなかったが、その声には、湊への心配が滲んでいた。
「ありがとう、ございます」
 胸がちくりと痛む。
 きっと、凪の厚意を嬉しいと思ってはいけないのだ。
 ためらい傷のように、繰り返し思い出しては、苦しくて堪らなかった。そんな幼い日の恋に、心乱されてしまう。
 ふたり並んで、海月館までの帰り道を行く。
 木枯町は、古くから続く港町だ。
 そのせいか、いまの町並みには、舶来の文化が中途半端に混ざっている。
 日本家屋やハウスメーカーが作った家々のなかで、時折、異国めいた建造物が顔を出すのだ。それは高台に行くほど顕著であり、海月館のある区域にも、西洋風の建物が散在していた。
 病院から海月館までの道を、かつて飽きるほど歩いた。入院している凪に会うために、何度も、この道を通ったことを思い出す。
 だが、同じ道でも、あの頃とは何もかも違う。
 一度離れてしまったものを、また同じかたちで繋ぐことはできない。この町も凪も、ひどく遠い存在になってしまった。
 この先、湊はどうするつもりなのか。
 木枯町に骨を埋める覚悟で生きていくのか。それとも、一時的な避難場所として帰ってきただけで、また町を出るのか。
 町に残るであろう凪を、再び置き去りにして。
「湊とデートするのは十年ぶりかな?」
「……デートじゃないです。もう凪くんとは付き合っていませんから」
 凪は思い出したように、まだ別れていない、と口にする。
 しかし、湊の認識では、いまの彼とは恋人でも何でもない。ハトコ。薄く血が繋がっただけの他人だ。
「湊は付き合ってもいない男と暮らして、付き合ってもいない男に面倒見てもらっているの? そっちの方が異常だと思うけれど」
 湊は口をつぐむ。何を言っても、みっともない言い訳になる。
 立ち直らなくてはならない、誰も頼らず一人で立たなければならない、と頭では分かっていながら、日々をぼんやり過ごしてしまう。先のことを考えようとすると、霧がかったように頭がすっきりしない。
「意地悪が過ぎたかな? 俺も潮さんも、湊が弱っているのを知っている。だから、何かを求めたりしない。――なのに、いったい何を焦っているの?」
 焦っている。この得体の知れない気持ちは焦りなのだろうか。
「……眠るのが、怖いんです」
 眠ってしまえば、恐ろしい夢を見る。三上菜々は海を渡って、海神のもとへ還った。ならば、湊も前を向いて歩いていくべきなのだ。
 なのに、今も彼女の死を夢に見る。それは何度も親友を貶めて、汚しているようで堪らなかった。
「眠れないのなら、今日も書庫においで」
 凪は困ったように湊を見つめた。
 ――そうして、夜が訪れる。
 いつもの薬も飲まずに、湊は書庫に来てしまった。
 長椅子には、昨夜と同じように凪がいた。否、凪ひとりではない。彼の隣には、小さな子どもが座っていた。
「乙羽ちゃん」
 彼女は足を揺らしながら、あちこちを見て、時折、きゃらきゃら笑っている。
 しばらくして、飛び跳ねるように立ちあがる。
 ぬいぐるみのように小さな足で、水槽まで駆け寄った。彼女は水槽のガラスにぺたりと手をあて、額をこすりつける。
 視界が真っ暗になって、幾千、幾万のクラゲたちが脳裏を過った。
 小さな女の子の記憶に引きずられるように、港の意識は、暗い海底へと沈んでいった。

 ●〇〇●〇〇●

 いつものように、白い病室にいるはずなのに。
 どうしてか、真っ暗で何も見えなかった。
 身体が重たくて、指の一本も動かすことができない。泥のなかに転んで、もう二度と起きあがることができないようだった。
「ママ?」
 きっと、隣にいてくれる。そう信じて、声をあげる。
「乙羽」
 何も見えないのに、強く抱きしめてくれたことが分かった。柔らかくて甘い、世界でいちばん大好きな人の匂いがする。
 優しい声。だから、ママの物語は、いつも優しいんだと思う。
「りゅーぐーじょう」
 海の中にある、とっても楽しいところ。
「乙羽?」
「めでたし、めで、たし?」
 幸せな浦島太郎と乙姫は、どうなったのだろうか。
 物語の続きを教えてほしかった。まだ終わりじゃないのに。
 どうして、何も聞こえないの? 何も、見えないの。

 ●〇〇●〇〇●

 湊は目を開いて、その場に座り込んでしまった。
 真っ暗闇のなか、抱きしめられたときの温もりが残っている。
 乙羽は、にこにこ笑っていた。こんな恐ろしい、自分が死んだときの記憶を抱えていながら、無邪気で明るい笑みを浮かべている。
 乙羽と視線を合わせるように、凪は膝を折った。彼の手には、《浦島太郎》の絵本があった。
 凪は語りはじめる、乙羽の記憶の続きをなぞるように。
「浦島太郎は、乙姫様と仲良くしていました。けれども、ふと海の上のことが気になりました。お父さんやお母さんは、どうしているのかな? 帰りたいな、と。乙姫様は、浦島太郎が帰るとき、玉手箱をあげました。ぜったいに玉手箱を開けないで、とお願いして」
 細く白い指で、凪は絵本のページを捲った。
「けれども、浦島太郎が戻ったら、お父さんもお母さんもいなくなっていました。浦島太郎が海に行ってから、とても、とても長い時間が経っていたのです。悲しくて、浦島太郎は玉手箱を開きました。そして、皴皴のおじいさんになってしまいました」
 凪が絵本を閉じると、乙羽は不思議そうに首を傾げた。
「めでたし、めでたし?」
 彼女は長椅子から飛び降りた。そのまま空気に融けるように消えてしまった。
「何が、ダメだったんでしょうか」
 乙羽の記憶を見るに、浦島太郎の絵本を最後まで読んでもらうことができず、彼女は亡くなった。
 彼女の後悔とは、物語の結末を知ることができなかったことだ。
「めでたし、めでたし、じゃないからね」
「浦島太郎は、めでたし、めでたし、にはなりませんよね?」
「だから、あの終わり方ではダメなんだ。哀しい物語なんて、あんな小さな子は求めていない。小さい頃の湊だって、そうだったよ」
「そんなこと言われても。凪くんの言う小さい頃って、出逢ったときくらいでしょう? ママが亡くなったときだから、四歳とかですよ」
「そうだね。はじめて湊と会ったのは、汐里しおりさんの葬式だった。憶えている?」
 湊が四歳のとき、母は亡くなった。自殺だったらしく、彼女のことはあまり知らない。
 ただ、母は未婚のまま湊を産んだ。父親の影はなく、湊の引き取り手は、木枯町に住む祖母だけだったのだ。
 母の死によって、湊は木枯町に連れてこられて、凪と出逢った。
「憶えているというより、教えてもらった、が正しいんだと思います。凪くん、何度も話してくれたでしょう? あのときのことを」
 湊の記憶なのか、それとも凪の話から想像したものなのか。
 今となっては区別もつかないが、凪との出逢いは、まるで映画の一場面のように思い出すことができる。
『ずっと一緒にいてあげる』
 大好きだった母の葬式。教会で膝を抱えた湊に、凪は小指を差し出した。約束だよ、とでも言うように。
 四歳の頃の記憶など、ほとんどすべて忘れてしまった。四歳どころか、もっと大きくなってからの思い出も曖昧になっている。
 出逢ったときのことも、凪が繰り返し教えてくれなければ、分からなくなっただろう。
「ずっと一緒にいる、と約束したのに。君は出て行った」
 ぞっとするような冷たい声に、湊は耳を塞ぎたくなった。
 凪は今も、町を出た湊を恨んでいるのだ。
 家族ではない。しかし、家族よりも近くにいた。
 祖母は仕事で忙しく、日中は不在のことも多かった。
 代わりに、湊の隣には凪がいた。彼が入院しているときは、湊が病院に通った。毎日のように顔を合わせた彼は、祖母よりも多くの時間を共に過ごした相手だ。
 他の子たちが両親や家族にしてもらったことは、すべて凪が代わりにしてくれた。たった四歳しか離れていないハトコは、湊の保護者であり、拠り所でもあった。
 それが奇妙なことさえ、十年前までの湊は気づかなかった。
「……帰って、きたじゃないですか」
「三上菜々が死んだからだろう? 本当、あの女が死んでくれてよかった」
「凪くん!」
「でも、同じくらい苛々する。今も、三上が夢に出てくるの? だから、湊は眠れない」
「わたし、何の夢を見るかなんて言っていません」
「言っていないけど分かるよ。湊のことだから、ばかなこと考えているんだろうなって思った。夢にまで見てくれるなら、三上も嬉しいだろうに」
「嬉しい? 自分の最期を、嬉しいなんて思えるわけないじゃないですか! せっかく、菜々の魂は海を渡ったのに。もう、さまよわなくて良いんです。なのに、わたしが何度も繰り返したら、そんなの菜々が可哀そうです」
「忘れられるくらいなら、癒えない傷にしてほしい。――俺が三上だったら、そう思う。愛した人の傷になれるなら、永遠になれるなら幸せだ」
「……おかしいです、そんなの」
 置き去りにされるくらいならば、どんな形であっても生きていてほしかった。自らの死と引き換えに、愛する人に傷を遺すことが正しいとは思えない。
「湊には分からないだろうね、きっと。……だって、君はいつも贅沢だから。眠りたくないのは、怖い夢を見るからと言うけれど、それだって腹立たしいよ」
「怖い夢を見ること以外に、眠りたくない理由がありますか?」
「あるよ。眠ってしまったら、もう二度と目が覚めないかもしれない。そんな恐怖が」
 湊は息を呑んだ。そんなこと、一度も不安に思ったことはない。しかし、凪は違う。彼にとっては、現実味のある恐怖だったのだ。
「いま眠ったら、もう二度と目覚めることはできない。明日を迎えることは、できないかもしれない。そんな恐怖があることを、湊みたいな人間は知らない。君たちは、明日があることを疑わない。贅沢だ、とても」
 声は淡々としていたが、言葉の節々に激しい怒りがあった。
 凪の本質は、今も昔と変わらないのだ。病弱で不自由ばかり強いられていた男は、いつも心のうちに毒を抱えていた。世の中にあるたくさんのものを憎み、妬んでいた少年は、まだ彼の内側で息を潜めている。
 それは他の人たちは知らない、湊だけが知っている彼の弱さだった。
「……乙羽ちゃんも、そうだったんでしょうか」
 ――眠りたくない。眠ってしまえば、明日は来ないかもしれない。
 海月館を訪れた乙羽も、凪と同じ恐怖を抱えていたのだろうか。




3.
 台所から、たん、たんと包丁の音がした。エプロン姿の凪が、手際よく、朝食の用意をしている。
 その背中を見つめながら、食卓にいる湊は溜息をつく。
 ろくに眠らなくとも、当たり前のように空腹を感じてしまうことが嫌だった。心を置き去りにして、身体は日々を生きようとするのだ。
 どのような不幸があっても、世界は変わらず回り続ける。
「お待たせ」
 出来上がった朝食が、次々と並べられていく。
 炊き立ての白米が、つやつや輝く。エノキと人参、玉ねぎをコンソメとバターで蒸した鮭のホイル蒸しが、甘じょっぱい匂いを放った。おからの和え物、小松菜と油揚げの味噌汁、ふっくらとした出汁巻き卵。
 ごく普通の家庭料理だが、盛りつけを含めて、出来栄えは店と遜色なかった。
「おいしそう。凪くん、昔よりも料理上手になりましたね。昔も上手でしたけれど」
「湊が帰ってくるから練習したんだよ。しばらく料理なんてしていなかったから、付け焼刃みたいなものだけどね」
 凪の付け焼刃は、付け焼刃というには様になっていた。
 思い返せば、彼は器用な人だった。
 たいていのことは卒なくこなし、学校に通わなくとも勉強はできた。凪の実兄が、文武両道を絵に描いたような人だったので、運動神経も悪くなかったはずだ。医師から激しい運動は禁じられており、それを見る機会は訪れなかったが。
 病弱な身体さえなければ、凪はもっと自由に生きることができた。
 だから、彼が木枯町に残ったことが意外だった。
 いまだ信じられないが、再会した彼は、昔の病弱さが嘘のように健康になった。町を出て、いくらでも好きに生きることができたはずだ。
 好きに生きて、凪も町を捨ててくれたなら良かった。そうすれば、湊も過去と決別することができた。
 ――どうして、彼はこの町に残り、死者を送るという不可思議な役目を負ったのか。
「乙羽ちゃんは、いまも書庫に来ていますか?」
 気まずくて、あれから書庫には行っていない。尤も、気にしているのは湊だけで、凪は普段通りにしている。
 昔からそうだった。振り回されて、かき乱されるのは湊ばかりだ。
「あの子なら、まだ来ているよ」
「焦らなくて良いんですか? まだ乙羽ちゃんの言うめでたし、めでたし、が見つからないんですよね?」
 乙羽が探しているのは、物語における幸福な結末だ。しかし、彼女が求めている浦島太郎という物語は、めでたし、めでたし、では終わらない。
「見つかるよ、もうすぐ。湊が見つけてくれる」
「わたし?」
「今日、潮さんの御見舞いだよね。小児病棟に顔を出してほしいんだ。絵本の読み聞かせ会をしているから」
 リビングの壁には、湊が病院から持ち帰ったチラシが貼ってある。日時は、本日の正午と記載されていた。
「おばあちゃんの御見舞い、凪くんも一緒に来れば良いんじゃないですか?」
 湊に頼まなくとも、自分で読み聞かせ会に参加すれば良い。
「遠慮しておく。潮さん、俺の顔は見たくないと思うから」
 ばかなことを言う。実の孫以上に、凪を可愛がっていたのが祖母だった。入院している間も、会いに来てくれたら嬉しいはずだ。
 きっと、湊が行くよりも喜んでくれるだろう。
「わたし、絵本の読み聞かせは行かないと思います」
「行くよ。だって、俺とあの子は似ているからね」
 テーブルに頬杖をついて、凪はうっとり目を細めた。
 海の底ような、暗くて深い、青の瞳から逃げたくなる。彼のまなざしが苦手だった。すべて見透かされているようで怖くなる。
 凪の言うとおり、湊は乙羽の存在を無視できないのだろう。あの子は、昔の凪とよく似ているから。


 木枯総合病院の中庭で、湊はゆっくり祖母の車椅子を押した。
 梅雨時期を前にして、気温は暖かくなってきた。今日は晴れていることもあって、中庭は入院患者や見舞客で賑わっている。
「凪は、一緒に来なかったのね?」
 祖母の遠田うしおは、頬に手をあて、困ったようにつぶやいた。
「凪くん、病院嫌いですから」
「それは仕方ないわね。あの子、ここには良い思い出がないから。ああ、少し停めてくれる?」
 中庭で一番大きな樹木のもとに、小さな祠があった。賽銭箱はないが、供え物をする棚があって、花や菓子等が置かれていた。
 潮は両手を合わせて、祈りを捧ぐ。
「この祠って海神ですか? やっぱり」
「木枯町にある、この手のものは全部そうよ。どうか海の不幸を起こさないでください、怒らないでください、と、お願いするの。湊ちゃんには、ピンと来ないかしら?」
 この町は思い出したように海に呑まれる。何十年かに一度、大きく海が荒れて、必ず犠牲者が出るのだ。
 町の人々は、それを《海神の怒り》と呼んだ。
「実感がないんです。わたしは、海が荒れるのを知らないから」
 最後に《海神の怒り》が起きたのは、湊が生まれるくらいのことだった。
 潮のいうところの《不幸》を、湊は一度も体験したことがない。見知らぬ土地の話を聞いているかのようだった。
「そうね。いまは施設とかもなくなったから、よけい馴染みがないでしょう?」
「施設?」
「海神の怒りで、身寄りを失くした子どもたちの。昔は何軒かあったの」
 いわゆる児童養護施設のことらしい。そういった施設があるのは大都市のイメージだったので、こんな小さな町に複数あったことが意外だ。
「本当に、不幸の多い町だったんですね」
「ええ。だから、町のあちらこちらに祠があって、私たちは今も海神を信じる。梅雨になれば慰霊祭だって始まるでしょう? ――余所の人たちは気づかないけれど、木枯町に生まれた人間は知っているの。海が怖い場所だと、海神がときに無慈悲だと」
 木枯町は閉鎖的で、何処か浮世離れしている。町の外にいると情報はほとんど入らず、大衆の意識から外されたように、世間で取り上げられることもなかった。
 高速道路や空港が近く、電車はともかく自家用車での便は悪くない。現に、海の不幸が多かったというわりに港は潤っており、たくさんの船が泊まっていた。
 だからこそ、不気味なのだ。
 何故、この町は外界から注目されることがないのか。
 木枯町の人間が信じている海神とて、余所では馴染みがなかった。クラゲの姿をした女神を信じているのは、この町で生まれ、死にゆく者だけだ。
「湊ちゃんも、海には気をつけてね? あなた泳げないんだから」
「気をつけます。……小さい頃は、泳げた気がするんですけどね」
 湊は泳げないので、プールや海水浴には行かない。実のところ、温泉や浴槽に溜まった湯も苦手で、菜々と出かけるときも避けたくらいだ。
「怖いのよ、きっと。湊ちゃんは憶えていないだろうけど、溺れたことがあるから」
「そうなんですか?」
 祖母の言葉に、ようやく海やプールが苦手だった理由が分かった。
 そういえば、高校の水泳授業は、ひどい恐慌状態に陥ったことで免除された。
 あのとき、学校から祖母に連絡が行ったのだろう。彼女がうまく学校側に説明してくれていたのかもしれない。
「今日は、このまま帰るのかしら?」
「いいえ。小児病棟で、絵本の読み聞かせがあるんです」
「ああ、昔からやっている。綺麗な方よね、病院にもよくいらっしゃって」
「知り合いですか?」
「三船さんでしょう? むかし、娘さんが入院していて、そのときから付き合いがあったのよ。私も、凪のことで良く病院に来ていたから。医療品のメーカーにお勤めで、病院にも良く出入りしているから、たまにお話してくださるの」
 三船。乙羽と同じ苗字だ。
「大人も歓迎、って言っていたので」
「面白いわよ、三船さんの絵本。趣味だからって謙遜されるけど」
 祖母は微笑んで、湊のことを送り出してくれた。


 小児病棟のロビーでは、ちょうど絵本の読み聞かせ会が始まるところだった。
 休日であるためか、結構な人数が集まっている。
 海月館に現れる乙羽も、ここに入院していたなら、絵本を読み聞かせてもらったことがあるのだろうか。
 子どもたちの姿が乙羽と重なり、それは昔の凪とも重なっていく。
 胸が締めつけられたのは、皆、凪と似ているからだ。湊には触れることのできない苦悩を、この子たちは分かち合うことができる。
「むかし、昔。海のなかに可愛いお姫様がいました。ある日、お姫様は溺れている王子様を助けてあげます」
 題目は、人魚姫のようだ。
 中央にいる長髪の女性が三船だろう。四十代、あるいは五十代あたりか。
 絵本を読みながら、彼女は大型の液晶テレビを操作する。画面には、絵本のページが拡大されていた。
 誰もが知っている悲恋の物語は、やがて佳境に入る。王子と結ばれることのなかった人魚姫は、泡となって消えるのだ。
 けれども、絵本の結末はそうならなかった。 
「人魚姫は、いつまでも王子様と仲良く暮らしました」
 湊は言葉を失くした。
 人魚姫は悲恋で終わる。王子と仲良く暮らした未来など存在しない。しかし、三船はさも幸福な結末が真実であるように語った。
 子どもたちは笑っている。参加している親や病院関係者も口を挟まない。
 読み聞かせが終わってからも、しばらく湊は動けなかった。三船が片づけをするのを、ただ眺めていた。
「来てくれたのね」
 三船が嬉しそうに近づいてくる。そこでようやく、読み聞かせ会のチラシを渡してきた女性だと気づく。
 髪を下ろして、丸襟のブラウスにスカートを合わせた姿は、スーツのときと全く印象が違った。
「あの。どうして、結末を変えているんですか?」
 似たような質問をされたことがあるのだろう。三船は気を悪くすることもなく、むしろこちらを気遣うように微笑んだ。
「哀しい結末では、希望にならないもの。特に、ここでは。……あなたは、それをよく知っている人じゃない? 勘で申し訳ないのだけれど、あたしと似たようなものかしら。御身内が、ご病気をされていなかった?」
 湊は目を伏せた。間違っていない。病に苦しむ人の気持ちは分からなくとも、その近くにいる苦悩と無力感を思い知っていた。
 湊には、凪を健康にしてあげることはできなかった。
 代わりに、彼が望むのならば、何もかも差し出したかった。凪が望むのなら、何でも叶えてあげたかった。
 その気持ちを、今もまだ捨てられずにいる。
「……むかし、ここで浦島太郎を読みませんでしたか?」
 湊たちの知らない幸福な結末を、楽しみにしていた女の子がいた。
 三船は虚を突かれたように目を丸くして、ゆっくりと首を横に振った。
「いいえ。あれだけは、娘にしか読んであげていないの」
 同じ苗字だ。無関係ではないと思ったが、やはり彼女は乙羽の母親なのだ。
「乙羽ちゃん?」
「もしかして、乙羽と知り合いだった? あの子、ぜんぜん人見知りしないから、あたしの知らないお友だちもたくさんいたのよね。……だから、なのかしら。なんだか病院に来ると、いまも乙羽がいる気がして。絵本を作ったり、読み聞かせをしたりなんて柄じゃないのに。あの子が死んでからも、ずっと止められないの」
 亡くなった娘を語るにしては、彼女の表情は晴れやかだった。その笑顔が、湊の目にはひどく羨ましく、妬ましく映った。
「どうやって乗り越えましたか、娘さんの死を。……思い出すんです。死んでしまった人の最期を。夢に見てしまう。あんな、あんな可哀そうな姿、忘れなくちゃいけないのに、忘れることができません」
 菜々は地面にぶつかって、本当にぐちゃぐちゃになった。
 あのとき、湊は一度おかしくなったのかもしれない。気づいたら病院に運ばれて、菜々の死を何度も夢に見て、泣き叫んでいた。
 どれだけの時間が流れても、まっさらに忘れることはできない。
「乗り越えたわけではないの。今でも、乙羽が死んだときのことを夢に見る。とっても苦しそうだった。最期まで、ずっと苦しかった。可哀そうなくらい痩せて、あんなに可愛い顔を土みたいな色にして、ママ、ママって呼ぶの」
 湊は、子どもを産んだことはない。母親とも四歳で死に別れた。だから、目の前の人が命をかけて生んだ娘を喪ったときの慟哭は、想像することしかできない。
 それは千々に身を引き裂かれるような痛みで、哀しみだったろう。
「でも、あの子はすごく頑張った。だから、あの子の終わりを優しいものにしてあげたい。あの子のための、めでたし、めでたしで終わらせてあげたかったの」
 彼女が読み聞かせる絵本は、今も愛する娘に向けたものなのだ。語り聞かせる相手に、
 亡くなった娘を重ねて、優しい物語を紡ぐ。
 墓前に花を添えるように、亡き娘に幸福な結末を捧ぐ。
「自己満足と言われたら、何も言えないけれどね。――でも、忘れないでいること、今もあの子を愛していることが、あたしにとっての餞なの」
「乙羽ちゃんは、嬉しかったと思います」
 海月館を訪れる乙羽は、母親に読んでもらう物語が好きだった。
 凪は最初から分かっていたのだろう。乙羽の後悔が、めでたし、めでたしで終われなかったことだ、と。
 彼女は幸福な結末を知る前に、力尽きてしまった。
「お願いがあるんです」
 湊は小さく息を吸ってから、深々と頭を下げた。

 ●〇〇●〇〇●

 海月館の書庫に、青白い明かりが灯った。
 乙羽は長椅子に座って、にこにこと笑っている。
「今日は、私が読んであげても良いですか?」
 湊は跪いて、手に持っていた絵本を開いた。
 乙羽が、この絵本を認識できているのか分からない。けれども、彼女には馴染みある絵本のはずなのだ。
 これは、当時の彼女が読んでもらっていた絵本だから。
「むかし、昔。浦島太郎という人がいました」
 傷ついた亀を助けた彼は、海底の竜宮城に招かれる。そうして、竜宮城の乙姫から歓待され、幸せに暮らした。
 やがて浦島太郎は、地上に残してきた家族のことが気になってしまう。
 乙姫は、決して開けてはいけません、と浦島太郎に玉手箱を授けると、彼を地上に帰してあげた。
 地上に戻った浦島太郎は知る。自分が竜宮城に行っている間に、何百年の時が流れたことを。
 絶望した彼が玉手箱を開けて、見る見るうちに老いるのが本来の結末だ。
 しかし、この絵本の結末は違った。
「浦島太郎は、お父さんお母さんのお墓に元気だよと言って、竜宮城に戻りました。乙姫様とふたり、いつまでも仲良く、楽しく、暮らしました」
 読み終えると、乙羽は目元を指で擦った。つぶらな瞳が濡れて、まろい頬を大粒の涙が伝っていく。
「めでたし、めでたし?」
 湊は頷いた。
 離れ離れになった、乙姫と浦島太郎はいない。玉手箱は開かれることなく、ふたりは竜宮城で幸福に暮らした。
 正しくはなくとも、そんな幸福な結末を求めていた子がいる。
「明日は、もう来ませんけれど。怖くはない?」
 凪は膝をついて、乙羽と視線を合わせる。彼女は丸い頬を緩めて、くるりと楽しげに一回転する。
 そうして、一歩、一歩と書庫を駆けていった。
 彼女が向かう先には、夜の海が広がっていた。月明かりのように美しいクラゲたちが、暗闇に包まれた海を輝かせている。
「めでたし、めでたし」
 海を渡っていく乙羽を見送って、湊はつぶやいた。



4.
 無数の小さなクラゲが、水槽で揺れている。
 傘が球体のように丸く、中心部には電球のような光がある。触手もたった四本で、誰もが想像するクラゲとは異なる姿だった。
「ウラシマクラゲ、ですね」
 一度だけ、水族館の展示で見たことがある。特徴的な名前なので憶えていた。
「ウラシマって、浦島太郎のウラシマ? どのあたりが浦島太郎?」
 長椅子で横になっていた凪は、納得いかないらしい。
 日によって姿を変える水槽のクラゲは、やはり凪が入れ替えているわけではないのだろう。その証拠に、彼は不愉快そうにウラシマクラゲを睨みつけていた。
「名前は浦島太郎からとったみたいですけど、理由までは分からなくて」
「趣味の悪い名前だね。俺は、浦島太郎、あんまり好きじゃない。乙姫が可哀そうで。……本当のところは知らないけれど。俺は、あの物語の乙姫は、きっと浦島太郎のことが好きだったと思うから」
 浦島太郎と乙姫は、どのような関係だったのか。
 ふたりの間に、恋慕の情があったのか、なかったのか。もし、凪の言うとおりの関係性であったならば、乙姫にとっては不幸な結末だ。
「凪くん、いつも乙姫に同情するんですね? 《くらげのお使い》でも、病気の治らなかった乙姫が可哀そうって言うんですから」
 《くらげのお使い》では、病気となった乙姫を治すために、猿の生き肝が必要だった。それを奪うことができなかったクラゲは、罰として打たれ、骨を失くしてしまう。
「クラゲのせいで、乙姫の病気は治らなかったからね」
 湊は目を伏せる。自分が乙姫を愛する誰かだったら、と想像する。
 病を治す妙薬があったとしたら、きっと湊も生き肝を求めた。
 愛した人に健やかな日々を与えられるのならば、他の何が犠牲になっても構わない。そう思ってしまう醜悪さに覚えがあった。
「猿の肝が、本当にあったのなら。十年前のわたしは、きっと凪くんのために持ち帰ろうとしました」
 彼を生かすためならば、他の何を不幸にしても良かった。
 ――めでたし、めでたしという結末は、一方にとっての不幸の裏返しである。
 たとえば、人魚姫が王子と結ばれたら、王子と結婚するはずだった姫君が報われないように。
 生き肝が手に入ったとしたら、乙姫の病気が治る代わりに猿は死ぬのだ。
「町を出て行った人間の台詞とは思えないね。まあ、良いけれど。君は帰ってきたから、ぜんぶ赦してあげる」
 高慢な言葉だ。しかし、凪にしてみれば当然なのかもしれない。
『ずっと一緒にいてあげる』
 約束を先に破ったのは、おそらく湊だった。
「絵本を読んでくれますか? 子どもの頃みたいに。そうしたら、今日は眠れる気がするんです」
 菜々が死ぬ夢は、きっとこれからも繰り返す。彼女の死が遺した傷痕は、生涯、消えることはないだろう。
 だが、湊は今日を生きる。乗り越えることも、忘れることのできない親友の死と一緒に。
 忘れないでいること、今も愛していることが餞になるのならば――。
 菜々が遺した傷を抱きしめて、いつか訪れる終わりまで歩いていこう。

 ●〇〇●〇〇●

 海月館の書庫には、揺蕩う水の音がするだけだった。
 隣から、小さな寝息が聞こえて、凪はくすりと笑った。
 手すりにもたれるようにして、湊は眠りに落ちていた。
 いったい、どんな夢を見ているのだろうか。どうか、子どもの頃のように、安らかな眠りについてほしい。
 親友のことなど忘れて、幼い日の思い出に溺れてくれたら、どれだけ良いだろうか。
 凪は膝に乗せていた絵本を撫でる。湊が眠りにつくまで読んでいたそれは、タイトルを《くらげのお使い》という。
 子どもの頃、湊に読んであげた物語のなかでも、いっとう特別な物語だった。
「俺にくれるんだって。猿の肝を」
 病気の治らなかった乙姫と違って、凪は妙薬を貰えるらしい。
『あ? 猿の肝? こんな夜中に、気持ち悪いこと言うんじゃねえよ』
 テーブルのうえで、タブレット端末が震える。画面の向こう側にいる男は、ひどく不機嫌そうに返事をした。
「そういえば、勇魚いさなはグロテスクなものが苦手だったね。怖がりだから、スプラッタもホラーも見ない。その性格で怖がりなんて、可愛いところもある」
『野郎に可愛いなんて言われても、嬉しくねえんだけど』
「ごめんね。でも、湊は出してあげられないから」
『出してあげられないっつうか、俺とは会わせたくねえんだろ。はは、湊ちゃん、ねえ。あれだったら、お前の相手している方がマシだな。……そんで? 送ったデータ、確認したのか? あんな二十年も前の記録、今になって漁るのかよ。あいかわらず、お前んとこの家業は意味分かんねえな』
「詳しく教えてあげようか?」
『興味ねえよ。お前がどんな立場で、何をやっていようが、どうでも良い。金さえ払ってくれたら、な』
 凪は、木枯町の住人たちの出生や死亡についての記録、過去に起こった事件等、人の生き死に関わる情報を蓄積したデータベースを持っている。
 町と関係のある様々な情報を蓄えて、紐づけていくそれは、凪の友人である勇魚がつくり上げたもので、管理権限もすべて彼にあった。
 金を払って、丸投げしているとも言う。
「素直じゃないね。俺のこと大好きなくせに」
『止めろ。三十路のおっさんに言われたと思うと、マジで吐き気がする。今日は、一段とウゼえな。酔っぱらてんのか?』
「今日は、お酒は飲んでいないよ。そもそも、酔わないの知っているだろう?」
「もったいねえよな、高い酒ばっか開けるくせに顔色ひとつ変わんねえんだから。――お前が調べろ、って言った遠田汐里。湊ちゃんの母親だろ?』
「そうだよ。可愛い可愛い湊を、置き去りにした人だ」
 まだ四歳だった。幼い少女は、母親に置き去りにされて、この町に――凪のもとに遣ってきたのだ。
『置き去りにしてくれて、良かったんだろ? お前は』
 凪は答えなかった。だが、何も言わないことが答えなのだ。
『あーあ、ちゃんと優しくしてやんねえと、また逃げられんぞ』
「大丈夫。何があっても、もう逃がさないよ」
『俺、お前の大事な湊ちゃんのことは嫌いだけど、お前みたいなのに執着されていることは同情する』
 クジラのアイコンが揺れて、通話が途切れる。あの友人にしては、長く会話してくれた方だった。
 凪は書庫の中心へと向かう。円柱状の水槽に近寄って、そっとガラスに額を寄せた。
 目を瞑ると、遠い日の記憶が、何度だってよみがえる。
 紅葉のようなふっくらとした手が、凪の頬に触れるのだ。まるで、置いていかないで、とすがりつくように。
 湊は置き去りにされることを恐れる子だった。
 冷たい教会の床で、小さくなっていた女の子を知っている。あのときの湊は、まだ四歳だった。愛する母親に置き去りにされて、泣いていた。
「全部くれるなら、ずっと一緒にいてあげる。絶対に置いていったりしない」
 はじめて出逢ったとき、湊に告げた言葉を口にする。
 あのときのことを、湊は憶えていない。憶えているとしても、それは凪が教えた事実でしかなく、本当の意味では欠片も残っていない。
 ――小指を絡めて、約束した。ずっと一緒にいる、と。
 あの頃の凪は、いつも絶望の只中にいた。儘ならないことばかりで、掌からぜんぶ零れていくようで、生きるのもつらく、死ぬのも怖かった。
 だから、あの女の子を、自分の運命に巻き込むことにした。
 潮には、ずいぶん責められた。凪のしていることは残酷だ、と。それでも、凪は彼女が欲しかったのだ。
 宙に向かって小指を差し出す。
 指を絡めて約束を結んだ女は、大事なことをぜんぶ忘れてしまっている。出逢ったときのことも、十年前、何が起きたのかさえも。
 凪だけが、ずっと憶えている。

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