海の底には、きっと地獄がある。


 クラゲの姿をした、美しい海神の伝説が息づく港町。
 それが遠田湊とおだみなとの故郷だった。
 優しい潮の香り、青く澄んだ空に彩られた穏やかな町は、完成された絵画、あるいは水槽のなかに組み立てた箱庭のようだった。
 ひどく穏やかで、不幸などひとつもない。そんな錯覚を抱かせる。
 けれども、この場所にも、たしかに不幸はあったのだ。
 病室の白いカーテンが、月の光を帯びていた。
 ベッドに腰かけた青年は、人形のように整った顔をしていた。折れそうな首、浮き出た鎖骨の痛々しさに反して、まなざしだけは力強い。
 青みがかった彼の瞳を、まるで海の底のようだ、と思ったことがある。光の届かない深海の青は、夜よりも暗い色をしている。
なぎくん」
 冷たい彼の指が、湊の手首を掴む。生白い指先は、海をたゆたうクラゲの触手にも似ていた。触れたところから、融けて、交じり合って、境界線が分からなくなる。
 ひとつになりたかった。彼の痛みも苦しみも、何もかも自分のものにしたかった。
「湊。君はきっと、帰って来るよ」
 それは呪いの言葉だった。
 十年前、幼馴染であり恋人であった男が残した、決して癒えることのない呪いである。

Copyright (c) 東堂 燦 All rights reserved.  無断複製・無断転載禁止

本家:羊の瞳

お仕事情報/Web小説/一次創作同人誌 etc.
since 2009.1.21

template by do.