白鷹の花嫁

おしまい | 後日譚:星に捧ぐ小夜曲 | 目次

  月のための夜想曲  

 砂漠の夜に、青白い月が昇っている。
 高窓からこぼれた月明かりが、カマルの美しい翼を輝かせていた。まどろむカマルをひざに抱いて、ささやくように歌えば、彼はむずかるように陽菜ひなの手を握った。
「今のは?」
夜想曲やそうきょく。ショパンの夜想曲第二番」
 ピアノの旋律を鼻歌でなぞっただけだが、彼は気に入ったらしい。
「ヤソウキョク」
「夜を想う曲って書くの。ノクターンだと通じる?」
「西の果ての国の言葉か? あちらでは夜をノクスと呼ぶのだろう。子どもの頃、シャムスが教えてくれた」
 夜想曲ノクターンは英語だが、ラテン語のノクスに由来する。西の果てにある国は知らないが、大きく外れてはいないだろう。
「もともと、わたしの生まれた国で作られたものじゃないの。だから、私たちの言葉で、夜を想う曲なんて字をあてたんだと思う。ぴったりでしょ?」
「優しい曲だな」
「そう、優しいの。夜は怖くないよ、って言っているみたいで大好き」
「もう一度、聴かせてくれるか」
「良いよ。でも、一回で終わりね。疲れているでしょ?」
 先頃の混乱は終息したものの、いまだ元通りとはいかない。首謀者だったシャムスが率先して事態の終息を図っているが、しばらくは落ち着かない日々が続きそうだった。
「疲れているが、悪くはない。……水源が戻った。これからの砂漠は変わっていく。きっと、良い方向に変えていける」
 陽菜はうなずいて、そっと彼の手を握り返した。
 カマルの言うとおりだ。止まっていた時間が動き出したように、これからの砂漠は変わっていくのだろう。陽菜もまた、砂漠を楽園にするための助けとなりたい。
「すまない、構ってやれなくて。落ち着いたら街まで連れていってやろう。もうすぐ生まれ月だから、シャムスからも少し休めと言われている」
 眠たそうにまばたきを繰り返してから、カマルは糸が切れたように眠りについた。
 生まれ月。誰の生まれ月なのかは明白だった。

 翌朝、陽菜は礼拝堂に飛びこんだ。
「シャムス!」
 半壊した礼拝堂にいた少年は、あきれ顔で振り返った。
「朝から元気ですね。うるさいんですけど」
「カマルの誕生日、知っている? もうすぐ生まれ月だって」
 魔界のこよみがどのようなものか知らないが、陽菜が歳をとるように、魔族とて年齢を重ねるのだ。当然、カマルにも生まれた日がある。
「はあ。そんなもの知って、どうするんですか?」
「お祝いしたいの」
「いまさら誕生日なんて喜ぶ歳じゃありませんし、いつもどおりで良いですって」
「でも、いくつになっても嬉しかったから。生まれてきてくれて、ありがとう、ってことくらい伝えたいのよ。何かプレゼントできれば良いんだけれど、それは難しそうだから」
 陽菜は手を伸ばして、頭にある椿つばきの髪飾りに触れた。十八歳の誕生日祝いとして、級友たちから贈られたものだ。
 シャムスは困ったように眉を下げた。
「ご所望の品は? 用意してあげますよ。ちょうど手伝いの者が欲しかったので」
「雇ってくれるの?」
「カマルには内緒ですよ」
陽菜は笑顔で頷いた。
「二人だけの秘密ね。あのね、できれば身につけられるものが良いの。腕輪とかピアスみたいなのは、あんまり興味ない?」
「人並みには好きだと思いますよ。というより、あんたから贈られたなら、何だって喜ぶと思います。指輪はどうですか? あの子、わりと物をくすので、滅多めったなことで外さないものが良いでしょう」
「指輪」
 正直なところ、その選択肢は最初から外していた。
「ええ、薬指にぴったりの。昔の話ですが、私もナジュムと揃いで作りましたよ。砂漠の風習ではありませんし、あの子は指輪の意味も理解していなかったから、ずっと棚の奥に仕舞っていましたけれどね」
 口元に手を当てて、シャムスはこらえ切れないとばかりに笑う。
「からかっている?」
「良いじゃないですか、結婚指輪。あんた、この国で生きていくんでしょ? 街には彫金師の知り合いもいますし、指輪に載せる石なら当てもありますから」
「重たくはない?」
「どうせ、カマルには意味なんて分かりませんよ。だいたい、重たいことの何が悪いんですか? 贈り物なんて、贈る人間の身勝手ですよ」
「……お揃いは恥ずかしいから。その」
「はいはい、カマルの分だけ用意すれば良いんですね」
 砂漠に残る覚悟は決めた。一緒に生きていく意志も伝えてある。
 ならば、彼のための贈り物に、陽菜にしか分からない約束をめるのも、悪いことではないのかもしれない。

 ◇◆◇◆◇

 シャムスからの報告を聞いていたカマルは、思わず眉をひそめた。
「街に戻ったのか? アーシファは」
「残念なことに。他国に引っ越すと騒いだくせに、ちゃっかり街に戻って、やしきを建て直していました。あの子の邸、暴徒のせいでひどい有様でしたから」
「あの男、しばらくはおとなしくするんだろうな」
 街を根城とするアーシファは、カマルにとって折り合いの悪い男だ。アーシファが良からぬことをたくらたび、何度も衝突してきた過去もある。
「国が落ち着くまでは、おとなしくしているんじゃないですか? あれはあれで砂漠を愛していますから。ずっと出ていかないのも、この国を気に入っているからです。迷惑な話ですが」
「陽菜とは接触させるな」
「善処はしますけれど、難しいと思います。今はともかく、砂漠で生きていくなら、遠くないうちに顔を合わせる機会はあるでしょう。――あの娘は、宮殿の奥でひっそり囲うことはできません。あんたもそれは望まない」
「だから、好きにさせている。最近、どうやら俺に隠し事をしているようだが」
「へえ。嫌われたんじゃないですか?」
「二人して、俺に秘密で何をしているのかとは思ったが。なあ、シャムス」
「浮気かもしれませんよ。若い娘は移り気ですからね」
 唇を吊りあげたシャムスは、本気でそう言っているわけではないだろう。たのしげな声音は、悪戯いたずらが成功した子どものようだった。
「からかっても無駄だ。あれは浮気などできない」
 陽菜は、自分の生きていた場所や繫がりをて、カマルを選んだ。棄てたものと同じだけの価値を持つ存在は、カマル以外にはあり得ない。
「自信があるのは結構ですけど。あんまり縛りつけたら、何処どこかに行っちゃいますよ」
「何処にも行かない。死んだら、食べても良いと言われたからな」
 自らが人間であることを打ち明けてくれたとき、彼女は死後の約束も与えてくれた。いつかの日、彼女の血肉は、カマルとひとつになる。
「死体をもてあそぶのは、悪趣味な《雪原》の魔王くらいかと思いましたけど」
「あれと一緒にするな」
「同じでしょう? 食べちゃいたいくらい好きってことですから」
 陽菜の正体が露見するのは、さほど遠い未来ではない。
宮殿の奥深くで、誰とも関わらぬよう囲うことはできない。砂漠を楽園にしよう、と笑った彼女は、積極的に外に出て、その夢をかなえようとする。
 いずれ、誰もが気づく。魔族にしてはあまりにも早く老いること、彼女が自分たちとは違うことわりを生きていることを知る。
 シャムスは目を伏せた。遠い過去に思いを馳せるように。
「良いんじゃないですか? 昔、教えたはずです。私の親となった人は、死体を散り散りにされて、いろんな魔族の腹に運ばれてしまった、と」
 シャムスの母親は、陽菜と同じ人間だった。砂漠で息を潜めていた、弱くてみにくい魔族に愛を示した娘である。
「ひどい争奪戦だったらしいな」
「ええ。でも、あの人の死体をあさった魔族は、誰も力なんて得られませんでした。あの人が愛していたのは、父だけだったから。ねえ、カマル。忘れてはいけません。人間が私たちを愛するのは、とても稀有けうなことです」
 陽菜にとって、カマルたち魔族は異形いぎょうだ。姿かたちだけの話ではない。心のり方や命の長さ、生まれ育った環境さえ異なる存在だった。
「死ぬまで。……死んでからも大事にする」
 多くの奇跡の果てに、今があることをカマルは忘れない。
「そうしてやってください。ああ、そうだ。頼まれていたもの、明日には届きますから」
「仕事がはやいな」
「頑張ったんですよ。大事な息子の頼みなので」
 笑ったシャムスの顔は、まだカマルが幼かった頃と同じだった。穏やかな表情をした育て親を見ていると、カマルの胸も温かくなった。

 ◇◆◇◆◇

 シャムスに付き従って雑務をこなしているうちに、気づけばカマルの誕生日の前日となっていた。
「明日は、街にでも連れていってもらうのですか? せっかく休みにしたんですから、宮殿に籠もっていないで、カマルのこと引っ張り出してやってくださいね」
「その予定。街はだいぶ元に戻ってきた?」
「元通りとはいきませんね。この機会に、街の整備を進めよう、という話にもなっているんですよ。水源は戻りました。けれども、元通りでは足りません。変えていかなければ、救われない者も多いでしょう」
「水路にいた子どもたちみたいに?」
「ええ。あんたは、弱い魔族も砂漠の民だ、と言ったそうですね。……私は、人間の血を継いでも、やっぱり魔族でした。弱き者は救われない。それが当然だと思っていましたし、逆らおうとも思わなかった。でも、ナジュムはこの国が楽園であることを願っていました。だから、いつかこの国を楽園に。誰も泣かなくて良い場所に」
「あと何百年生きるつもり? おじいちゃん」
「何百年でも。ナジュムも、私と一緒に夢を見てくれるでしょう。それにね、あんたが生きている間に、できれば叶えてやりたいんです」
 思わぬ言葉に、陽菜は戸惑とまどった。
 シャムスにとっての陽菜は、さほど価値がある存在ではない。彼が大事にしているのは亡き妻と、その兄であるカマルだけだと思っていた。
「何ですか、その間抜けな顔。ほら、頼まれていたものですよ。忘れずにカマルに渡してくださいね」
 シャムスが差し出してきたのは、紫の宝石が載せられた指輪だった。想像していたよりずっと大きな宝石に、陽菜は思わず頰をひきつらせた。
「この石、どうしたの?」
「お古で申し訳ないですけど、私がナジュムに贈った指輪から。もう必要ないので」
「待って! そんな大事なもの」
「大事なものだからこそ、使いたかったんです。……私は、あんたの親にはなれません。兄にも姉にも。でもね、あんたが幸せであれば、と願っています。お節介のひとつやふたつ、させてくれないと立場がないじゃないですか」
 遠い昔、天界に渡ったシャムスの娘。その魔族こそ、陽菜の先祖にあたる。陽菜の瞳が金色であることも、顔立ちがシャムスと似ていることも、すべては血の繫がりゆえだ。
「天界にいる人間たちの代わりなんて、誰にもできない。でも、その人たちと同じくらい、カマルはあんたを愛してくれるでしょう。あんたが大事にしたかった人たちのことだって、愛してくれます。……だから、どうか教えてやってください。あんたが生きた世界を、愛した人たちのことを」
 陽菜を育ててくれた家族は、魔界にはいない。二度と会えない。兄を亡くした家族は、陽菜までうしなって、どれだけ悲しんだろうか。真由子まゆこやシスターも、陽菜を一人にしたことを悔いているかもしれない。
 それでも、ここにいることを選んだ。
「負い目を感じるのは間違いじゃない。それだけ大切にしてもらって、愛してもらったんでしょう? けれども、こちらを選んだからには幸せになりなさい」
 陽菜は声を詰まらせながら、何度も頷いた。

 ◇◆◇◆◇

 夜明け前の寝所しんじょ煌々こうこうとした月明かりは薄くなり、じきに訪れる朝を感じさせた。
 いつものように歌っていると、眠っていたカマルが、甘えるように陽菜の指に、自らのそれを絡めてきた。じゃれるように陽菜の手に触れていた彼は、そのままてのひらに唇を押しつけてくる。驚いた陽菜は、思わず歌を中断してしまった。
「歌ってくれないのか?」
「カマルがおとなしくしてくれないから」
「……? おとなしくしている、いつも」
 幼子のようなまなざしに、陽菜は溜息をついた。見つめられると、何でもしてあげたくなってしまうから性質たちが悪い。
「何が聴きたいの?」
「夜想曲、だったか? この前、歌ってくれただろう」
 陽菜は首をかしげながらも、言われたとおり、鼻歌でその旋律をなぞった。耳を澄ませていたカマルは、また陽菜の手に指を絡めはじめた。
「さっきから、どうしたの?」
「夜想曲とは良い名だな。夜は怖くない、と教えてくれる。陽菜の歌は、いつもそうだった」
 かつて眠れぬ夜を過ごした魔王は、くまの消えた目元を緩めた。
 カマルに告げたことはないが、眠れない彼のために歌った時間は、陽菜にとっても救いだった。彼のために歌うことで、陽菜は亡き兄の願いを思い出すことができた。
「眠るのは、もう怖くない?」
「怖くない。俺はもう、独りで夜を越すことはない。眠りに落ちても優しい朝が待っていると信じられる。今も、これからも」
「いつか、わたしが死んじゃっても?」
 我ながら意地の悪い質問だった。陽菜の一生は、おそらくカマルにとっての一瞬だ。
 カマルは微笑む。美しいかおには、わずかにも恐れはなかった。
「ああ、お前は俺を置いて死ぬだろう。だが、悲しくはない。幸せだった過去を抱いて、未来を目指すことの意味を、お前が教えてくれたから。いつかの未来で、俺とお前はひとつになる。それは不幸なことではない」
 カマルは寝台の近くの棚から、銀細工の美しい指輪を取り出した。見覚えのある意匠いしょうは、陽菜がシャムスに頼んでいたものと同じである。
「約束のあかしに。生きている間も、死んでからも一緒にいるための。シャムスに聞いたら、指輪が一番だ、と」
 陽菜は思わず笑ってしまった。どうやら、お互い同じことをシャムスに頼んでいたらしい。
 カマルは陽菜の左手をとると、薬指にそれをめてくれた。
「左手の薬指、と聞いた。何か意味があるのか?」
「秘密。でも、薬指が良いのよ。一緒にいるっていう約束の証だから。カマルにもあげる。生まれてきてくれて、ありがとう」
 陽菜はふところから指輪を取り出して、カマルの左手の薬指に嵌めた。夜明けは近い。もう彼の生まれた日になっている。
「シャムスと秘密にしていたのは、これか?」
「知っていたのに、黙っていてくれたの?」
「お前たちの仲が良いと、俺は嬉しいからな。俺の好きなものを、お前も好きになってくれたら嬉しい。愛してくれるか? この砂漠を」
「あなたと一緒なら、きっと」
 月明かりは薄れて、空は朝焼けに染まりゆく。高窓から差し込んだ、夜と朝の交じりあったような優しい光を、いつまでも陽菜は忘れないだろう。
 夜を想うことで、夜明けのいとおしさを知るように。
 いつか訪れる終わりを想うことで、その先に続く未来を愛しく思えるだろうか。
 陽菜は唇を開いて、今日も歌いはじめる。
 この歌が祈りとなって、彼を強く、優しい王にしてくれるように。
 生きている間も、死んでからも、月の名を冠する人のために歌い続けよう。その果てに、陽菜はきっと、二人が共にある永遠を見つけるのだ。



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