春告姫

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  二の章 04  

 麗らかな午後の日差しが、庭園を照らしていた。
 舟遊びができるほど大きな池の畔で、花々が綻んでいる。十二歳の美春は、愛らしい花を両手いっぱいに摘んでから、そっと面をあげた。
 目に入ったのは、咲哉の住まう局と、局のさらに奥にそびえる朱塗りの鳥居だった。
 こちらの世界に招かれてから、ずっと気になっている鳥居だ。されど、咲哉は言う。あの鳥居にだけは近づいてはいけない、と。
「咲哉、喜んでくれるかな」
 鳥居のことを忘れるように首を横に振る。両手いっぱいに花を抱えた美春は、咲哉の局を目指して走り出した。
 庭に面した室には、気だるそうに座る少年がいた。彼のいる畳を囲って、世話役である年嵩の女房や、傍仕えである神祇官じんぎかんの男たちが言葉を交わしている。
「咲哉! 見て、こんなにたくさん花が咲いていたよ」
 いきなり飛び込んできた美春に驚いたのか、彼らは人形のように固まってしまう。美春よりいくらか年上の咲哉は、ゆっくりと瞬きをした。
「お前は、いつも無駄に元気だね」
 彼の声を皮切りに、止まっていた時間が動きはじめる。白髪交じりの女房は、大きく肩を震わせていた。
「あなた、またそのように泥だらけになって!」
 怒号を浴びせられて、美春は竦みあがった。
 桜色の単衣は、花を摘むのに夢中になっているうちに泥で汚れていた。女房が丁寧に梳ってくれた髪も、いつもと変わらないふわふわと落ち着きのない有様に戻っている。
「ご、ごめんなさい!」
「謝るくらいなら、どうしてもっと淑やかにできないのですか!」
「怒るだけ無駄だよ。今は謝っているけれど、どうせすぐに忘れて、同じことを繰り返すだけだから」
「宮様! あまり美春を甘やかさないでくださいませ」
 咲哉はわざとらしく両耳を塞いでから、目線で美春を呼ぶ。裾についた泥を払った美春は、簀子から彼のもとへ駆け寄った。
「綺麗な花だね。何処に咲いていたの?」
「池の近くだよ。ぜんぶ、咲哉にあげる。あのね、あとでもっといっぱい持ってきて……」
 笑顔で答える美春に、女房が鋭いまなざしを向ける。美春が慌てて口を噤むと、咲哉は唇を吊りあげた。
「ほら、言ったとおり。怒っても無駄なんだよ、すぐに忘れるから。――お前たち、今日はもう止めにしよう。僕も、美春と話したら休むよ」
「かしこまりました。美春、くれぐれも長居してはなりませんよ」
 美春は勢いよく頷いた。朝から熱を出している咲哉に無理はさせられない。
「ごめんね、うるさかった?」
「別に。お前がうるさいのはいつものことだから。……花は嬉しいけど、まさか鳥居に近づいてはいないよね?」
 池端から眺めた、朱塗りの鳥居。
 あの鳥居にだけは、決して近づいてはいけない。美春があちこちを飛び回ることを赦している咲哉が、唯一、自由にはさせてくれなかった行き先だ。
「近づいてなんかいないよ、咲哉と約束したから。ねえ、具合が悪いのに、皆で集まって何の話をしていたの?」
 厳しくも優しい女房だけでなく、咲哉に仕える者たちが勢ぞろいしていた。美春が現れたとき、彼らの間には張りつめた糸のような緊張感があった。
「大事な話。どうすれば、いつまでも僕たちの桜が咲いていられるのか」
「また神様のこと? もう聞き飽きちゃった」
 美春が攫われたこの国は、神として桜の大樹を祀っている。ことあるごとに引き合いに出されるその神について、耳に胼胝ができるほど聞かされていた。
 曰く、この国の神は美しい桜で、美春と同じように異なる世界から現れた、と。
「ねえ、美春。桜が咲くために必要なのは、何だと思う?」
 畳に敷かれた布に寝そべりながら、咲哉は問うた。
 絢爛な敷布に広がる白髪は絹糸そのもので、淡い光を纏っている。直衣の襟ぐりから浮き出た鎖骨、その艶かしさにめまいがした。大人と子どものあわいにある彼は、羽化する直前の蛹のような美しさを持っていた。
「いきなり言われても分かんないよ」
「いいから、答えてよ」
 急かされて、美春は口元に拳をあてた。
「お祈り? この国の桜は、神様だから」
 神に捧げるものならば、それは祈りに他ならない。あるいは、願いだろうか。
 咲哉はおかしそうに咽喉を震わせた。
「祈り、ねえ。どうして、そんな答えを選ぶのかな。……本当、苛々する。お前はさ、自分が思っているよりずっと意地の悪い娘だよね」
「咲哉の方が意地悪だよ。すぐ、ばかにするし」
「だって、お前は何も知らなくて、何もできなかったから。衣を着ることすら、僕が女房にお願いして、手伝ってもらわなくてはできなかっただろう? ああ、この娘は、僕がいないとすぐに死んでしまうんだ、とよく分かった。大事に囲ってやらないと、あっという間に食い物にされるんだ」
 否定することはできなかった。
 濃き色の長袴も、肌小袖に重ねた単衣も、与えてくれたのは咲哉だった。着方の分からぬ美春のために、女房を手配してくれたのも彼だ。着るものに限った話ではない。飢えずにいられたのも、雨露を凌ぐ場所を得られたのも、すべて咲哉のおかげなのだ。
 彼に拾われなければ、とっくの昔に美春は死んでいた。
「だから、一緒にいてくれるの?」
 すぐに死んでしまう赤子同然だから、彼は美春を捨てることができない。
「本当にそう思っているなら、やっぱり意地の悪い娘だ」
「なら、どうして?」
 咲哉はしばらく黙り込んでから、自らの唇に人差し指をあてた。
「秘密。お前が気づいてくれるまで」
 そのときの咲哉の表情を、美春は思い出すことができない。口元を綻ばせていたのか、泣きそうにまなじりを下げていたのか。
 たった四年の歳月にすら記憶は耐えられず、掌から零れるばかりだった。
 ――そうして、十六歳になった美春は目を覚ます。
 宙に伸ばした手は、空を切った。当然ながら、思い出の少年に届くことはない。
 記憶は散り散りになって、途方もない虚しさに襲われた。
 上半身を起こしたとき、畳についた左手が痛む。化け物の蜜によって爛れた傷が膿んで、黄ばんだ汁を滲ませていた。
「夢、じゃない」
 火傷のごとく引きつった皮膚が、すべて夢ではないと告げる。泥まみれのセーラー服も、土に汚れた髪も、何もかもが美春に現実を突きつけていた。
 美春は今、布の垂らされた小さな空間にいた。おそらく、咲哉の国で、寝台のような役割を果たしていた御帳台だ。
「お目覚めになりましたか」
 美春は肩を揺らした。知らない男の声だった。
 四つん這いになって、恐る恐る御帳台の布をあげる。
 懐かしい内装だ。すげを編んだ円座わろうざに、漆塗りの櫃や鏡箱の置かれた二階棚。灯台の近くにある文机には硯箱が転がっていて、墨の香りが鼻をつく。
 正面にある廂に、十人ほどの女たちがひれ伏していた。鮮やかな小袿を着た彼女たちは、一様にして頭を低くしていた。
 女たちの先頭には、若い男がいる。
 顔立ちは少年めいており、二十も過ぎていないかもしれない。きっちり結わえられた黒髪や、着崩した様子のない狩衣から神経質そうな一面が読み取れる。
 青年は、ほんの少しだけ口元を綻ばせる。
「お待ちしておりました。異姫ことひめ
 言葉遣いこそ丁寧だったが、美春を嘲るような響きが込められていた。
「こと、ひめ?」
「我らの春告げ鳥。桜の神の病を治し、この国を侵す冬枯れを晴らすために現れた」
 桜の神の病、冬枯れ。意味の分からぬ単語や、大勢に囲まれている状況に心細さが募る。
「わたし、異姫なんて名前じゃない。おかしなことを言わないで。あなた、誰? わたしを助けてくれた人は、何処に」
 化け物から助けてもらったときを思い出す。美春に手を差し伸べてくれた人が、記憶で笑っている咲哉と重なっていく。
傀儡子くぐつしひいらぎと申します。あなたを連れてきた方というのは? 《異形いぎょう》に襲われるあなたを、ここまで連れ帰ったのは俺ですよ」
「違う! だって」
「だって? おおかた異形のせいで錯乱していたのでしょう。いるんですよ、あの化け物に襲われて、おかしなことを言い出す奴が。まあ、たいていは腐り落ちて死んでしまいますから、命が助かっただけ、あなたは運が良い」
 美春は唇を噛んで、反論を呑み込んだ。
 恐怖のあまりつくりだした幻と言われたら、否定することができなかった。咲哉に焦がれて、都合の良い夢を見てしまったのかもしれない。
「なら、あなたは、どうしてわたしを助けてくれたの?」
 咲哉ならば、美春が危険な目に遭えば助けてくれる。しかし、柊は違う。見ず知らずの娘を助けて、連れ帰った意図が知りたかった。
桜花神おうかしんの託宣です。あの夜、あなたがあの場所に招かれることを、帝は知っていました。冬枯れに呑まれるこの国を救うために、桜は異世ことよの女を連れてくる」
 美春は、おぼろげになっていた記憶を手繰り寄せる。
 咲哉が春宮――いずれ帝になる者として遇されていた国は、神として桜の大樹を祀っていた。ただの桜ではない。美春と同じように、異世界から現れた桜だった。
 故に、桜が美春を攫ってきたというのは間違いではない。しかし、何もかも知っているような柊の口ぶりが不可解だった。
 四年前、美春の出自を知っていたのは、咲哉をはじめとした一握りの人間だけだ。彼の世話係だった年嵩の女房、傍仕えを勤めていた神祇官の者たち。当然ながら、傀儡子などと名乗った柊は含まれていない。
 ふと、美春は柊の向こうに視線を遣った。
 高欄のついた簀子縁の先には、緑の萌える庭があった。築山には見事な木々があり、小鳥たちが囀っている。朱塗りの反橋が架けられた池で、彩かな鯉が飛び跳ねた。
 広がる庭のすべてが、美春にとって見覚えのあるものだった。
 些細な違いは存在するが、記憶にある光景と重なっていくのだ。
 池のほとりで花を摘み、咲哉に贈った在りし日の美春が、そこには息づいている。
 ――ここは美春の知る世界だ。美春が咲哉と一緒にいた《内裏》だ。
 十二歳の美春は、内裏のあちこちを走り回った。身体が弱く、局からあまり出ることのできなかった咲哉の代わりに駆けた景色を、まだ忘れてはいなかった。
「今の、季節は?」
 故に、気を失う直前に見た冬野が、美春を混乱させる。この長閑な景色とは真逆の冬は、いったい何であったのか。
「暦のうえでは、春になりましょう。もっとも、季節など、とうに意味を成さなくなりましたが。みやこの外は、冬枯れの土地が広がるばかりですので」
 春であるならば、なおさらあのような雪原が広がっているはずがない。
 この国は四季が美しい土地だった。少なくとも、四年前は柊の言う《冬枯れ》など、聞いたこともなかった。
「何が、起きているの」
 冬枯れとは、いったい何を意味するのか。
「先ほど申し上げたとおり。桜の神が病に倒れて、この国は冬に負けたのです。――異世のことは知りませんが、此の世界は冬枯れの呪いに冒されている。あらゆる地に広がったその呪いは、命を枯らし、不毛な雪景色を連れてきた。我らの国が冬枯れから守られていたのは、ひとえに桜のおかげ」
「待って。昔から、この国の外には、あなたの言う冬枯れが広がっていたの? 桜の神様が守っていたから、この国は無事だっただけで」
 柊は頷いて、美春の問いを肯定した。
 この世界では、冬枯れの呪い――すべてが冬野に変わり果てる現象が起こっている。咲哉の国は、桜の神の力によって、冬枯れから守られていたに過ぎない。
「でも、冬なんて、普通のことだよね?」
 美春の暮らしていた日本とて、四季があり、当然のように冬は訪れた。何より、咲哉と過ごしていた頃、美春はこの国の冬を経験している。
「あなたの想像している冬とは、根本的に違いますよ。冬枯れとは、命を枯らす呪いのことです。あなたの言う冬のように生温いものではありません」
「……ええと、桜の神様が病気になったから。今は、その冬枯れに負けている?」
 だから、暦のうえでは春だというのに、この国は冬枯れに呑まれそうになっている。柊の言葉をそのまま信じるならば、京の外は、すべて極寒の地に変わり果てた。
 どうにも釈然としないが、頭のなかで柊の言葉を整理する。
「然様。桜花神は、異なる世から現れた。同じように異なる世から現れた女――異姫であれば、桜の病を治すことができる」
 美春の脳裏を過ったのは、祖母の神社に伝わるお伽噺だ。
 鄙びた山に追い遣られた姫君と、彼女を娶った桜がいた。やがて桜は姫君を攫い、美春たちの祖に当たる子どもを残して姿を消してしまう。
 あの物語を別の面から考えると、柊の話と繋がる。
 遠い昔、桜と姫君がこの国に来ていたならば、異なる世から現れた神と、異なる世から攫われてきた女になる。
 祖母の神社が祀る桜と、この国の神は同一のものなのかもしれない。
 そこまで考えてから、美春はゆっくりと首を横に振った。
「わたしには、そんな力ないよ。神様の病気なんて治せない」
 たとえ、柊の言葉が真実であったとしても、美春には関係のない話だ。
 柊は檜扇で口を隠す。弓なりにしなった眼は、美春を値踏みしているようだった。
「混乱されるのも無理はありません。ですが、我らに残された時間は少ない。――お前たち、異姫を帝の御前まで連れていく。仕度を整えろ」
 柊の言葉に従って、ひれ伏していた女たちが顔をあげた。
 美春は小さく悲鳴をあげた。
 彼女たちの顔は、皆、まったく同一だった。双子や三つ子といった話ではない。十人ほどの女たちが、判を押したかのようなそっくりの風貌をしているのだ。
 女たちは同じ表情、仕草で立ちあがり、無数の手を伸ばしてくる。
 能面のような女たちから、美春はなんとか逃れようとする。
「……っ、ちょっと、待ってよ!」
「俺は忙しいので」
 言外に、お前になど構っている暇はない、と告げられる。
「柊。荷葉かようが来ている」
 澄んだ少年の声に、ぴたりと女たちの動きが止まった。
 いつのまにか、簀子に男の子が立っていた。縹色の水干を纏った彼は、人形のように表情がなく、にこりともしない。
「荷葉だと? 神祇庁の狗が、今さら内裏だいりに何の用事だ?」
「さあ? 僕のような傀儡くぐつごときには分からないけど。あなたの命令で、僕は荷葉には乱暴できない。追い払えない」
「俺たちが異姫を拾ったことを嗅ぎつけたのか。異姫、ここから動くなよ!」
 先ほどまでの丁寧な物言いとは真逆の舌打ちをして、柊は大股で去った。気味の悪い女たちも、無表情のまま柊に続く。
 広々とした室に取り残されたのは、美春と少年だけだ。
 年の頃は十歳前後だろう。円らな瞳をした愛らしい少年だが、表情という表情が削ぎ落とされているためか、死人のようにも感じられた。血の気の失せた肌は青みがかっており、いっそ不気味さを醸している。
 ただ、その容貌は柊とよく似ていた。切れ長の目や高い鼻梁、艶やかな黒髪が兄弟のようにそっくりだ。
「助けてくれて、ありがとう。えと……」
八重やえ。柊の傀儡、柊のつくった人形。あなたは?」
「美春だよ。傀儡は人形のことなのね? さっきの女の人たちも。あなたも?」
 まるで現実味はなかったが、人形ならば、女たちが同じ姿かたちをしていたことも納得できる。そして、この少年から一切の感情が読み取れないことも腑に落ちるのだ。
「うん。人と違って、魂なんて高尚なものは与えられなかった空っぽの器だよ」
 近づいてきた八重は、美春に手を差し伸べた。
 ふっくらとした小さな手を頼りに、美春は立ちあがる。蝋を塗ったような肌には一切の熱がなく、彼がつくりものであることを如実に表していた。
「人は弱くて、脆いんだね。こんな傷まで負って。異姫のあなたを、人と呼ぶべきなのか僕には分からないけれど」
 八重の掌が、美春の左手にある傷に触れた。膿んだ傷に怯えることもなく、彼は不思議そうに指を押しつけてくる。
「人間だよ。変なこと言わないで」
 傷が痛んで、美春は思わず語気を強めた。
「でも、あなたは桜花神と同じように異世から現れた。異姫は、神の病を治し、冬を退けてくれる特別な存在だから」
「そんなの、知らないよ」
 柊の告げた異姫の役目が、しこりのように心に残っていた。異姫の役目とやらを果たすためには、再び冬枯れの景色に向かう必要があるのだろう。
 ――もう一度、あの化け物と対峙しなければならないのか。
 今回は生き残ることができたが、次も助かる保証はない。左手の傷を思えば、化け物が跋扈する冬野に行くだけでも自殺行為だ。
 美春は、ただ咲哉に会うために、こちらの世界に帰ってきた。この国の危機や、異姫など何の関係もないことではないか。
 ここにいたら、《異姫》という得体の知れない役目を押し付けられてしまう。
 柊は、美春の意志を問わなかった。具体的にどのようなことを望まれているのか知らないが、拒めば無理にでも従わせようとするだろう。
 柊のいないうちに、何処かに逃げなくては。
 美春は室の外に向かった。咎められると思ったが、八重はガラス玉の瞳を揺らすだけだった。
「引き留めないの?」
「どうして? 僕は、そんなこと命じられていない」
 去り際、柊は「異姫、動くなよ」と美春に吐き捨てた。美春を監視するよう、八重に命じたわけではなかった。
「でも、柊はそう望んだんじゃ……」
「命じられていないことは、必要のないことだから」
 美春はぞっとした。この少年は、言われたこと、命じられたことしかできないのだ。空っぽの器というのはまさにそのとおりで、人の心を慮ることができない。
 心有ればくみ取れるはずの想いが、まるで理解できないのだ。
 それを可哀そうと思うよりも先に、気持ち悪いと感じた。傀儡とは、こんなにも人間そのものの姿をしていながら、決して人にはなり得ないのだ。
 八重に背を向けて、美春は勢いよく廊に飛び出した。



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