春告姫

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  二の章 05  

 紺色のソックスで床板を踏みしめて、廊を走った。
 進め進むほど、懐かしさに心が揺れる。木目の床や、優美な模様の彫られた廂に欄干、広い庭などすべて美春の記憶に残っていた。
 ここは間違いなく《内裏》で、四年前、咲哉と一緒に暮らしていた場所だ。
 だが、美春の胸には一抹の不安もあった。たしかに思い出と重なっていくというのに、違和感が突き刺さるのだ。
 あの柱は、もっと明るい色合いをしていなかっただろうか。欄干に彫られた模様は、当時よりずっと黒ずんでいる気がする。
「咲哉の局は。もっと奥だから」
 記憶を頼りに、咲哉の使っていた居室に向かう。このまま渡殿を通って、庭を挟んだ反対側に行くのだ。
 角を左折しようとした美春は、口元を押さえる。
 これから向かおうとしていた渡殿を、先ほどの女たちがうろついていた。茫洋とした様子の彼女たちは、まさに人形にふさわしく、かすかな生気さえ感じられない。
 踵を返した美春は、迷わず簀子縁に足をかけた。白砂に飛び降りて、庭へと躍り出る。身を隠すために、木々の茂る築山を目指した。
 だが、あるものに気づいて、足を止めてしまった。
 錦鯉が、澄み切った庭池を揺蕩っている。池に架けられた赤い反橋が、曇り空によく映えている。
 橋に佇むのは、藍色の直衣の男だった。
 こちらに背を向けているため、顔は分からない。赤みを帯びた白髪が、夕暮れの風に揺れていた。
 心臓が早鐘を打って、抑え切れないほど大きく脈を打つ。あのような髪の持ち主を、美春はたった一人しか知らない。
 ――ずっと、夢にまで見ていた。もう一度、名を呼んでほしかった。
 身を隠そうとしていたことも忘れて、堪らず、美春は走り出した。反橋に立つ大きな背中に手を伸ばして、すがるように飛びついた。
「咲哉!」
 彼の衣に焚き染められた花の香が、心の奥底に沁みる。二人の別れを見守っていた桜の匂いに、泣きたくなるような切なさが込み上げた。
 胸がつかえて、何を伝えれば良いのか分からなかった。ずっと焦がれていたというのに、いざ彼を前にすると言葉が纏まらない。
 約束だけ交わして、離れ離れになってしまった少年。
「帰ってきたよ、約束したから。……ごめんね。四年も、待たせてしまって」
 美春は抱きつく腕に力を込めた。
 四年も帰らなかった美春を、咲哉は怒っているのだろうか。あるいは、焦がれていたのは美春だけで、彼は約束を忘れてしまっているのか。
 あの頃のように笑って、美春、と名を呼んでほしい。
「約束? ああ、そうか。そんなもののために、舞い戻ってきたのか」
 つぶやいた男は、美春の腕を振り払って、その身を反転させる。
 美しい、まるで桜の化身のような男だった。つくりものめいた面は、二十の半ばの青年にも、とうに三十を越えた男にも見えた。
 瞬きを忘れて、美春は食い入るように男を見つめた。
 四年前の面影は残っていた。しかし、明らかに年齢が合わない・・・・・・・。思えば、その体躯とて、あまりにも成熟していた。
 美春と咲哉の歳は、ほんの数年しか違わない。ここにいるのが咲哉ならば、美春と同じ十代の少年でなければならない。
「咲、哉?」
 男は咲哉とよく似ていた。彼が大人になったならば、おそらくこの男と同じ容姿になっていただろう。
「不思議な目だ。まるで、桜の花弁を重ねたよう。昔、その瞳は夜の色をしていたはずだ」
 男は微笑んだ。麗しい笑みだったが、背筋が粟立つほどの恐ろしさが込み上げる。咲哉ならば、決してこのような笑い方をしない。
「そうだろう? 美春。咲哉の春告げ鳥」
 名を呼ぶ声は想像していたよりずっとざらついて、美春の心にある一番柔らかな場所を犯す。

「咲哉は死んだよ」

 頭を鈍器で殴られたような衝撃だった。
 身も心も凍りついて、男が何を言っているのか理解できない。
「死ん、だ? どうして」
 たしかに咲哉は病弱な少年だった。頻繁に寝込んでいた彼ならば、いつ儚くなっても不思議ではなかった。
 男は唇を吊り上げたまま、美春の顎に指をかける。
「殺した。冬に冒されたこの国に、弱い春宮は要らない。だから、私が帝になった」
 理解した途端、激しい怒りで視界が真っ赤に染まった。
 滲んだ涙が、火にくべられた鉄のように熱い。咲哉は病弱さ故に亡くなったのではなく、目の前の男によって殺されたのだ。
「泣いているのか? あれに、そんな価値はないだろうに」
 美春は、自らを帝と称す男の胸倉を掴んだ。
 体当たりするように圧しかかれば、帝は仰向けに倒れた。結い紐が緩んで、美しい白髪が扇のように反橋に広がった。
 そして、美春は信じられないものを目の当たりにすることになった。
 ごとん、と鈍い音がして、反橋を何かが転がっていく。しなやかで生白い腕だった。
 ――帝の腕は、右肩から文字通り外れていた。
 直衣の裾から抜け落ちた右手は、そのまま池へと落ちる。池水が飛び跳ねた直後、人の腕によく似た何かが水面へと浮きあがった。
 血の一滴も流れることのないそれは、子どもの頃に欲しがった着せ替え人形を思わせた。血の通った人間の腕ではなく、気味の悪いつくりものだ。
「ひっ、……ああ、あ、あ!」
 言葉にならない悲鳴が、嗚咽のように零れる。
 今にも叫びそうな美春の口元を塞いだのは、帝の左手だった。温もりのない掌が、ぴったりと美春の口を覆った。
「あまり乱暴にあつかうな。この器は、脆くできている」
 そうして、体勢は逆転する。彼の髪が頬を掠めるのと同時、今度は美春が押し倒されていた。
 歯の根が合わなくなった美春は、引きつれた喉で呼吸を繰り返す。覆いかぶさってきた男が、得体の知れない化け物に思えた。
 うまく息ができなくて、ただ震えあがるしかない。
傀儡くぐつを見るのは、はじめてか? 憐れな人形、誰かの操る糸でしか動けぬ木偶でく
 傀儡。先ほどの八重や、能面のような顔の女たちと同じ人形。帝から逃れるよう、美春は手足をばたつかせた。
「暴れるな。私の器は、脆いと言っただろうに」
 伽藍堂のまなざしに絡めとられて、金縛りにあったように動けなくなる。
 年の頃は違っても、彼の顔立ちは、違いを見つけることが困難なほど咲哉と同じだった。四年前の咲哉と、美春を押さえつける男の顔が混ざって、上書きされていく。
「助けて」
 咲哉、と、その名を呼ぶ。
 眉をひそめた男は、記憶の男の子とよく似ていた。だが、あの優しい少年ならば、美春をこのようなひどい目に遭わせたりしない。
 ここにいるのは、咲哉と瓜二つだが、咲哉ではない人形だ。
 この冷たい男が、美春の会いたかった少年を殺した。そうして、まるで成り代わるように笑っている。本当であれば、咲哉が就くはずだった帝の地位を奪った。
「それほどまでに、咲哉が大事か? 出来損ないの春宮が。あれは弱かった。故に、死なねばならなかった」
 心がかき乱される。宝物のように抱きしめていた咲哉への想いが黒く塗りつぶされて、道端の草のように踏みにじられていく。
「ちがう。こんなの、違う」
 ――きっと、これは悪い夢なのだ。だから、美春の会いたかった人は生きている。
 美春は力強く足を振りあげて、帝を押しのけた。
 立ちあがった美春は走り出す。ここは内裏だ。咲哉ならば、四年前と同じ場所で笑っていてくれる。
「咲哉」
 呼んだら、彼が応えてくれる気がした。少しだけ意地の悪い笑みを浮かべながらも、仕方ないな、と抱きしめてくれるはずだ。
 白砂の敷かれた南庭を踏みしめて、簀子に続く階段を駆け上がる。
「……っ、こ、と姫?」
 角を曲がったとき、美春より少し年上であろう女性と肩がぶつかった。壺装束に身を包んだ彼女は、美春を《異姫》と呼ぶ。
 何が、異姫だろうか。
「違う!」
 そんなもの美春は知らない。咲哉が死んだことも、すべて悪い夢なのだ。

◆ ◆ ◆

 少女の背中を見送りながら、帝はまばたきをひとつする。目が乾く訳でもないが、ある種の習慣として、人のまねごとをしてしまう。
 傀儡とは、人がつくりだした魂なき道具だ。
 限りなく人と似通っていても、決定的な部分で同じにはなれない。食べることも眠ることもできず、子を成すことさえも叶わない不毛な存在だ。
 永遠に変わることができないということは、何も生み出すことができないと同義だった。
「帝! 異姫を見ませんでしたか」
 傍仕えの柊が、簀子から身を乗り出している。
 いつもきっちりとしている髪や襟元が乱れている。傀儡子である彼が自ら動くなど、よほど焦っているらしい。内裏のあちこちにいる傀儡を使って探せば良いものを、そんなことすら頭から抜け落ちているようだった。
「逃がしたのか? 柊にしては珍しいことだな」
「荷葉が来ていたんですよ。神祇庁の奴ら、さっそく異姫の存在を嗅ぎつけたみたいです。神域を捨てた奴らが、いまさら春を求めるなんて笑わせる」
「ああ、妹の御守をしている間に逃げられたのか。お前は荷葉にだけは弱いからな」
「……妹のことは放っておいてください。そもそも、異姫が! あんな気弱そうな娘が逃げるとは思いませんでしたし」
「おかしなことを! 気弱? あれはじゃじゃ馬だろう。大人しくできる性質ではない。見ろ、この様だ」
 帝は笑いながら、池に浮かぶ右腕を見遣る。つくりものの腕を餌と勘違いしたのか、間抜けにも何匹もの鯉が突いていた。
「あの女、人が下手したてに出れば! 柱にでも縛りつけておくべきでした」
「乱暴は止せ。異世のものは、帝である私のものだろう? ならば、あれを傷つけて良いのも私だけだ。それに腕が外れたからどうしたというのだ。お前が直せば良い」
「もちろん、直せるうちは俺が直しますけど! そのために御傍にいるんですから。でも、あなたには替えがないのですから、もっと自分を大事にしてくださらないと困ります」
「替えのない傀儡というのは、皮肉なものだな。替えが利くからこその傀儡だろうに」
 そのとき、帝は池の水面に波紋が広がっていることに気づく。
 雨が降りはじめていた。煌めく雨の軌跡は、蜘蛛の糸のように天上から垂れている。
「桜雨か。暦のうえでは春だったな、そういえば」
 何を言っても無駄だと悟ったのか、柊は溜息をついた。
「桜も枯れるこの国には、ふさわしい言葉ではないですよ」
「枯れないよ、桜は。枯れさせないために、私たちはずっと異姫を待っていた。だから、迎えに行かなければ」
「迎えに行くのは結構ですけど、外れた右腕を直してからですよ。だいたい、心当たりはあるのですか? あなたの言うとおり、ずいぶんとじゃじゃ馬のようですか」
「あれは咲哉に会いに来たそうだ。だから、分かる。咲哉のことならば、誰よりも良く知っているから」
「……は? 春宮に、って。まさか! そんな、こと」
 柊は青褪めた。信じられないとばかりに開かれた眼には、怒りや悲しみ、様々な想いが渦巻いている。
「起きるはずがない? だが、起こってしまった。咲哉の春告げ鳥は、再び舞い戻ってきた。今さら、今になって約束を果たすために」
 だから、あの娘が向かう場所など、ひとつしかないのだ。
 かつて春宮だった少年が暮らしていた、内裏の一番奥にある局。その場所で、咲哉と、彼の大事にしたかった小鳥は過ごしていた。
 もう戻ることのできない、遠い過去の話である。



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