春告姫

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  二の章 06  

 静かに降る雨は、やがて訪れる朝を告げるように、夜明けの光を帯びていた。
 どれくらいの時間、ここに立ち尽くしているのか分からなかった。
 雨に打たれながら、美春は一歩も動けなかった。縫いとめられて動かない両足は、感覚がほとんどなく、棒切れのようだ。
 かつては雅やかだった木造の建物は、見る影もなかった。
 精密な絵の描かれた屏風や几帳。繧繝縁の畳から、庭を駆けまわる美春を眺めていた咲哉。思い出は走馬灯のように駆け巡るというのに、その光景は、最早、はるか彼方に失われていた。
 咲哉の局は倒壊し、腐り落ちた木材があちこちに折り重なっている。
 青紫に濡れた土は、毒に冒されて病んでいる。草一本生えていなかった。この土地に新しい命が芽吹くことはないだろう。
 記憶にある咲哉の国は、いつだって美しかった。こんな惨たらしい光景はなかった。
 惨憺たる景色の奥には、朱塗りの鳥居だけが疵一つなく残っていた。鳥居の向こう側には何もなく、ぽっかりとした闇が嗤っている。
 ――咲哉は、あの鳥居に近づいてはいけない、といつも言っていた。
 美春は頭を抱えるように、両手をこめかみに押し当てた。四年前、別れの夜のことを思い出す。雅やかな箏の音色がよみがえる。
 美春があの鳥居を潜ったのは、もとの世界へ戻ることになった、あの夜だけで――。
 堪らず、美春は鳥居に近づこうとする。だが、踏み出した途端、見えない力に弾かれて尻餅をついてしまった。
 淡い赤に染まる膜があった。鳥居を守るようにして、半球状の膜が張っていた。
「ひどい景色だろう」
 視線をあげれば、咲哉と同じ顔をした男がいた。
 咲哉の皮を被った、咲哉を殺したという人形。
 だが、彼を責める言葉が、喉から零れることはなかった。今は誰が咲哉を殺したのかよりも、残酷な現実ばかりが胸を占めていた。
「本当に、咲哉は死んじゃったの」
 咲哉の死を受け入れることができない。彼が死んでしまったならば、どうして美春はこの国にいるのだろうか。
「百五十年だ」
 その意味を理解できないほど、幼くはいられなかった。
 ずっと、考えないようにしていたことを突きつけられる。
 十二歳だった美春は、この国で一年の歳月を過ごした。しかし、現代に戻ったとき、時間は十日ほどしか経過していなかった。
 この国と、美春の生まれ育った世界では、流れる時の速さが異なる。
 美春にとっての四年間が、こちらでは残酷なほど長い歳月に変わり果て、百五十年もの時の流れをもたらした。
「咲哉は骨すら残らなかった。その身は神域に打ち捨てられ、今も還ることができずにいる。……愚かだな。本当に会いたかったならば、どうして、もっと早く現れなかった。たとえ咲哉が殺されなかったとしても、百五十年も経てば、とうに寿命を迎えていた。どのみち、お前は手遅れだった」
「家族が、いたの」
 行方不明になった美春を心配して、いつも気にかけてくれた。何処にも行かないで、と懇願されて、何処にも行ってはいけないと我慢を重ねた。
 現代にいた頃は、違和感ばかり募り、自分の居場所はないと思った。だが、あちらでの日々を嫌っていたわけではないのだ。
 母と一緒に食事の用意をする時間が嫌いではなかった。家に籠りがちな美春を連れ出そうとする、秋穂の優しさは心地良くもあった。季節の折に届く祖母からの便りに励まされていたのも本当だ。
 愛されているという実感は、それに応えられない申し訳なさだけでなく、たしかな喜びも与えてくれた。
「望みがあるならば、何かを捨てるのは当然のことだ」
 咲哉のために何もかも捨てる覚悟を決められなかったのは、美春の弱さだった。惑い迷っているうちに、大切にしたかったものを取りこぼした。
 もとの世界にいた家族も、咲哉もどちらも大切で、どちらも捨てられなかった。選ぶ勇気を持てずにいた結果、永久に咲哉と会えなくなった。
「どうして、死んじゃったの」
 悪いのは咲哉ではない。だが、どうして、と嘆いてしまう。
 咲哉が故人となっていることなど、想像すらしていなかった。
 引き留めてくれた家族の想いを踏みにじってまで、咲哉に会うために帰ってきたというのに、彼はもういない。
 ここで生きて行かなければならないのか。
 ――生きていけるはずない。咲哉がいないのに。
「恨むならば、咲哉ではなく私を。あれの死は、すべて私のせいなのだから」
 美春は声を失くした。滑らかな帝の頬を、まるで涙のように雨粒が伝っていた。
 自分を恨めと言う唇は、悔いるように歪んでいた。ガラス玉の瞳の奥には、隠しきれない懺悔が滲んでいる。
 この人は、咲哉の死を嘆いているのだ。自らが殺したと謳った唇で、彼の死を悼んでいた。
 帝は膝をついて、美春と視線を合わせる。
「ずっと、ここで泣いているつもりか。泣いても、咲哉は戻らない」
 美春は返事をしなかった。唇を噛んで、はらはらと涙を流す。
 突如、膝裏に腕を回される。抱き上げられたのは一瞬のことだった。美春を抱えても揺らがない力強さは、かつての咲哉が望んで、されど持てなかったものだ。
 腕を振りあげて帝の胸を叩くが、彼はものともしなかった。
 幼子のようにぐずる美春の背に、大きな掌が触れる。美春を抱えながら、彼は赤子をあやすように美春の背を叩いた。
「会いたいか? 咲哉に」
 ささやく声は、毒でも滲ませるかのように甘い。
「……っ、会い、たい!」
 溢れ出したのは、どうしようもなく不毛な願いだった。最早、生きている咲哉には会えないと理解していながらも、口にせずにはいられなかった。
「この先にある神域に、咲哉はいる」
 神域。鳥居の向こう側のことを意味するならば、咲哉と別たれた場所であり、桜の大樹が根づく地だ。
「死ん、で」
「そう。神域で死んだために、骨すら残らず、まともに弔われることもなく。ただ独りきりで、閉ざされた場所にいる。ずっと」
 たった一人きりでいる咲哉を想像して、胸が張り裂けそうだった。美春の大好きだった男の子の骸が、尊厳が穢されているのだと思うと、また涙が溢れる。
 美春は、彼を独りきりのままにするのか。
「どうすれば、咲哉は還ってくることが、できる?」
「鳥居が見えるだろう。あれは神域への門だ」
 倒壊した局の奥には、近づくことを禁じられていた朱塗りの鳥居がある。鳥居の向こう側には何もなく、闇だけが広がっていた。
「だが、門は閉ざされてしまった。咲哉が死んで皇族の血が途絶えた今、神域の門を開くことができるのは異姫だけだ。門を開けば、桜の病を治すことも、咲哉の骨を拾ってくることもできるだろう」
 閉鎖された神域に行くことが、咲哉に会うための唯一の手段なのだ。それは桜の病を治すという帝たちの願いとも合致する。
 両者の目的は異なるが、取るべき手段は同じだ。
「わたし、あなたたちの言う異姫じゃ、ないかもしれない。でも、咲哉を取り戻したい。せめて、弔ってあげたい」
 痛みを堪えるように、美春はセーラー服の胸元を握りしめる。
「お前は異姫だよ。異なる世から現れて、我らに春を告げにくる」
「それで、良いよ。それなら、咲哉に会えるんでしょ?」
「……ああ。ずっと、咲哉はお前を待っているよ」
 咲哉を殺したという傀儡の腕に抱かれて、美春は声をあげて泣いた。
 涙が枯れ果てた頃には、歩き出すことができるだろうか。
 いくら心が軋んでも、哀しみや遣る瀬無さに満たされたとしても、うずくまって立ち止まっていたら、美春はまた大切なものを失くしてしまう。
 骸に成り果てても、彼が美春を待ってくれているならば。
 たとえ、もう名前を呼んでくれないとしても、咲哉に会いたい。



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