春告姫

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  四の章 13  

 立ち並ぶ町屋のはずれに、隠れ家はあった。
 打ち捨てられた邸なのか、築地塀にも小さな穴がところどころ空いていた。檜皮葺の屋根は剥げて、雨漏りした天井から、一昨日の雨の名残が滴っている。
「帝。御無事で何よりです」
 美春たちを迎えた柊は、安堵の息をつく。
「手間をかけさせたな」
「いいえ、手間など。御霊会のとき、肩を傷められていたでしょう? 他にも調子が悪いところはありませんか」
「ああ、直してくれ。まだ壊れるわけにはいかない」
「もちろん。そのために俺がいるのですから」
 柊は、帝だけを壊れ物のように心配していた。美春や荷葉のことなど、すでに意識の外にあるらしい。
「本当、兄さまはいつも帝のことばかり」
「うるさい。だいたい、なんでお前がここにいる。神祇庁の狗のくせに」
「飼い主に嫌気が差して、主人を変える狗もおりましょう。狗もばかではないので。私はもともと余所者ですから、神祇庁に居場所はありませんでした」
 神祇庁での日々を思い浮かべたのか、荷葉は切なそうに睫毛を震わせる。
 伯に従っているとき、つらい目に遭ったことも山ほどあったはずだ。それでも耐え忍んでいた彼女が、勇気を出して、美春たちに力添えをしてくれた。
 できることならば、彼女の想いに応えたかった。
「居場所がない? 今さら、そんなことに気づいたのか。傀儡子は異民族、京で悠々と暮らしていた奴らとなんて分かり合えるはずがないだろ。帝のことまで煩わせて、本当、迷惑な女だな。いつまでも過去に囚われて、立ち止まってばかりで苛々する」
 柊は早口で捲し立てた。実の妹に厳しい言葉を浴びせる彼は、大人になり切れない少年の顔をしていた。
「そう。囚われているのは、本当に私だけですか? ……異姫、行きましょう。こんな人、付き合っていられませんもの」
 荷葉は眉根を寄せて、邸を進んでいく。美春は慌てて彼女のあとを追った。
 破けた天井から、麗らかな午後の陽気が零れる。退廃した邸とはいえ、太陽に照らされているおかげか、おどろおどろしさはまるでない。
 先ほど異形に襲われたことが嘘のような、穏やかな時間が流れている。
「ありがと」
「はい?」
「お礼。遅くなったけど、帝とわたしを助けてくれて、ありがと。荷葉さんがいなかったら、神祇庁を抜けるのも難しかったと思うから」
 神祇庁で暮らしていた荷葉の協力があったからこそ、無事に逃げることができたのだ。柊の助けを待っていたら、状況は悪化していたかもしれない。
 荷葉は目を丸くして、おかしそうに口元に手をあてる。
「勘違いしないでほしいのですが。異姫、助けたかったのは、あなただけ。あなたがいなければ、帝など。あんな化け物など助けません」
「……帝は化け物じゃないよ。荷葉さんまで、そんなこと言わないで」
 伯と同じように、荷葉が帝を化け物と呼ぶことが悲しかった。
「だって、この百五十年、帝はいったい誰を救ってくれましたか? 誰も救ってはくれませんでした。私の双子の弟、《八重やえ》のことも」
 弟。明らかに、荷葉が口にした《八重》は、柊の傀儡のことではない。
「まさ、か」
 今までの違和感の数々が、線となって繋がっていく。柊と八重、八重と荷葉。三人の容貌を似ていると感じたのは、当然の結果だ。
「悪夢のようでしょう? 死んだ弟が、あの頃と変わらない姿でいる。まるであの子の魂が何処にも行けないまま、そこに在るようで。……もちろん、あの子の魂なんてないのは分かっています。だって、きちんと八重のことは弔った。火にくべて、雪の下に埋めてきたの」
 それは美春にも覚えのある感情だった。
 ――帝と出逢ったとき、悪い夢を見ていると思った。
 帝と咲哉は違うと理解してからも、大人になった咲哉がそこにいる気がして、胸が張り裂けそうになる。たった数日しか過ごしていない美春でさえ傷ついたのだから、荷葉の苦しみは想像を絶する。
「傀儡なんて大嫌いなのに、八重を見ていると嫌いになれない。あれは柊兄さまがつくった人形だと分かっているのに、弟と重ねてしまう」
 顔をあげて、荷葉は悲しげに口角をあげた。まるで美春の向こう側にいる誰かに、微笑みかけるように。
「いた」
 振り返れば、傀儡の少年がいる。背を向けていた美春は分からなかったが、荷葉にはこちらに駆け寄ってくる八重が見えていたのだ。
「異姫に用事ですか?」
「ううん。荷葉に」
 水干の袖口から、八重は漆塗りの櫛を取り出した。見事なつくりの櫛には、大振りの蓮の花が描かれている。
「私に?」
「あげる。ずいぶんと前、京に出たとき、柊が買えと言ったから」
 美春は溜息をついた。ものを贈るならば、もう少し言い方がある。仕方なく買わされたからあげる、と言われても素直に喜べないだろう。
「嬉しい」
 だが、荷葉は心から嬉しそうに、櫛を受け取っていた。
 その光景はとても幸せそうだった。傀儡である八重を悪夢のようだと感じながらも、荷葉は生前の弟と傀儡を完全に別つことができないのだ。
「嬉しいの? なら、もっとたくさん買うよう、柊から命じてもらえば良かった」
「いいえ。数ではありません。八重が私に贈ってくれたことが嬉しいのです」
 十歳程度の姿かたちの少年と、その倍近く歳を重ねた美女は、本来であれば双子の姉弟だった。しかし、これから年の差が縮まることはなく、むしろ開いていくばかりなのだ。
 育っていく我が身と、歳をとることのできない八重を比べながら、荷葉はどんな想いで日々を過ごしていたのだろう。
 美春は口を閉ざして、その場をあとにした。荷葉と八重に流れる時間は二人のものであり、邪魔してはいけない。
 簀子から階段を下りて、汚れた白砂の庭に立つ。
 荒れ果てた邸の庭も、やはりずいぶん寂れている。築山の木々は好き放題に伸びて、浮島のある池だけが綺麗なまま保たれていた。
 池に架けられた反橋まで歩くと、水面では鯉が数匹、浮かんでは潜っていた。揺れる尾は天女の羽衣にも似て、触れた途端に溶けてしまいそうだ。
 泳ぐ鯉を眺めていると、懐かしさが胸を刺す。
 かつて、池に落ちた十二歳の美春を引き上げた少年がいる。彼は鯉に餌をやるために、反橋に立っていたのだ。
咲哉さくや
 咲哉は亡くなったというのに、思い出が心を揺らすときがある。
 彼の死を知ったことで、あの頃に抱いた想いは変質してしまった。きっともう恋ですらない。傷んで、膿んでしまったそれは、未練とでも呼ぶべき代物だ。
「そのまま鯉の餌にでもなる気か」
 顔をあげれば、心底うんざりした様子で、柊がこちらを睨んでいた。
「帝は?」
「修理の準備が整うまで、お待ちいただいている。お前こそ荷葉と一緒ではないのか」
「八重が来たから」
 それだけですべて察したらしく、柊は額に手をあてた。
「荷葉もばかな女だ。いつまで経っても、八重のことばかりで困る。いい加減、弟離れしろというのに」
「弟離れできないのは、柊の方じゃない? 自分の弟そっくりの人形なんてつくって」
「俺は、八重と弟を混同させたりしない。あの傀儡は、弟の死で塞ぎこんだ荷葉のためにつくった道具だ。……あんなものに心を傾け、執着すると分かっていたならば、八重などつくらなかった」
 言葉こそ辛辣だったが、声には荷葉を案じる響きがあった。
 帝のこと以外に関しては、血も涙もないような男だと思っていた。しかし、情が深いところもあるらしい。
 荷葉の好きにさせてあげて、とは言えなかった。妹の将来を憂う兄の気持ちを、正面から否定することなどできない。
「柊の気持ちも。きっと、荷葉さんは分かっていると思う」
 心配されていると分かっていても、荷葉は傀儡に情を傾けてしまった。
 愛してくれる家族がいて、とても幸福だったはずの美春が、咲哉への想いを捨てきれなかったのと同じだ。
 どれだけ幸福で、恵まれていると知りながらも、諦められなくて手を伸ばしてしまう。
「分かっているならば、傀儡になど囚われず、とっくに幸せになっているだろうよ。いつまでも死んだ弟に未練を残さず」
 柊は、傀儡を想うことを不幸だと信じている。だからこそ、荷葉の生き方を咎め、叶うならば八重のいない遠くに行ってほしいと願っている。
「まあ、囚われているというならば、俺も人のことは言えないか」
 柊は口元に手をあて、迷子の子どものように眉を下げた。
 それは、おそらく柊がはじめて見せた弱さだった。美春の知る彼は、常に不遜な態度を崩さない青年だ。
「むかし、反橋から落ちた童がいた。いや、自ら身を投げたと言うべきか。命からがら京へと逃がれたものの、家族を喪い、妹は塞ぎこんで弱ったまま。疲れ果てた童は、ふと鯉を見て思った」
 ゆらりゆらり、太陽に照らされた池で鯉が泳ぐ。柊の双眸は、鯉を映しながらも、何処か遠く、美春の知らぬ場所を眺めている。
「何を思ったの?」
「鯉になれたら、楽になれる。狭い池で揺蕩うだけならば、きっと幸も不幸も感じることなく、いつまでも穏やかな心でいられる」
 柊はつまらなそうに零してから、何かを池に落とす。八重が荷葉に贈った櫛と同じものだと気づいたときには、すでに櫛は水底に沈んでいた。
 八重が荷葉に贈った櫛。
 つまるところ、八重の操り手である柊が、彼女のために選んだ櫛なのだ。素直に口にすることはできなくても、たしかに柊は妹を想っていた。
 自分では櫛を贈ることもできず、同じものを傀儡に託すくらいには。
「池に落ちた童を拾ったのは、人ではなく傀儡だった。優しく背を撫ぜてもらったとき、この人のために死にたいと思った。捨てた命を拾いあげてもらったならば、この命は俺のものではない。すべてあの人のために使うべきだと信じている、今も」
「帝のために、死ぬの?」
 自らの傀儡を道具と称した柊が、同じ傀儡である帝に命を懸ける。
 荷葉が八重を特別視し、他の傀儡を化け物と呼ぶのと変わらない。柊は帝だけを敬愛し、他の傀儡を道具としてあつかうのだ。
「そうだ。たとえ、あの人が本当に助けたかったのは、俺ではなかったとしても。……なあ、異姫。お前は役目を全うするよな? そうでなくては、いつまでも帝が救われない」
 逃げた桜姫とは違って、という言葉が聞こえてきそうだった。
「桜姫と同じにしないで!」
 叫んだ美春は、はっとして口元を押さえる。
「どうだか。異姫の言葉は信用ならない」
 美春は怒りを堪えて、柊の横を大股で通り抜けた。
 嫌われているのは知っていたが、よりにもよって咲哉を殺した女性と同一視するなど、意地が悪いにもほどがある。
「わたしなら、咲哉を殺したりしない」
 ――ああ、でも。
 あの桜の下で別れてから、咲哉が生きているうちに帰って来ることはできなかった。
 身勝手な約束だけを与えて、彼を置き去りにした。それは彼を殺して、神域に置き去りにした桜姫と変わらないのではないか。


 柊から逃げた美春は、荒れた邸のなかで、ことさら綺麗な室を見つける。
 そこには、横たわる美しい人がいた。
 畳に敷かれた布に、赤みがかった白髪が広がっている。その姿を前にすれば、情けないほどに記憶が揺さぶられた。
「みかど」
 膝をついた美春は、吸い寄せられるように帝に近づく。
 帝は咲哉ではない。別の人なのだ、と頭では分かっている。
 だが、文机にうつぶせた咲哉が、すぐ傍にいる気がした。
 遠い日、室には太陽の光が満ちていた。十二歳の美春は、音を立てないよう忍び寄って、大好きな少年を見下ろした。
 意識が揺らいで、あの頃の記憶が再生される。映画でも見ているかのように、美春の眼前に、二度と戻れぬ日々が現れる。
 瞼さえ閉じていないのに、思い出に溺れてしまう。
「咲哉」
 藍色の直衣に、緩く結わえられた白髪が流れる。文机に頬を寄せるようにうつむいた咲哉の横顔、光を帯びた産毛さえも愛おしかった。
「好き」
 十二歳だった美春には、好き、という言葉でしか、この気持ちを表現できなかった。
 胸が苦しくて、切なくて、生まれ育った世界を懐かしむ痛みさえも、この想いがあるなら耐えられる気がしたのだ。
 そっと咲哉に顔を近づけると、不意に、手首を握り込まれた。いつのまにか目を開けていた咲哉が、歪に唇を釣りあげていた。
「起きて、いたの?」
 美春がうつむくと、咲哉は猫が咽喉を鳴らすように笑う。
「起きていたよ、ずっと。僕のこと、好き?」
 美春の言葉を聞いていただろうに、彼はたしかめるように問いかけた。美春が頷けば、彼はますます笑みを深める。
「僕は、お前のことなど好きではないよ。……殺したい、いっそ。春告げ鳥のように現れたお前の羽を、僕はいつだってむしってしまいたい。そうしたら、お前は何処にも行かない。ずっと僕と一緒」
 殺したいなんて、ひどく恐ろしい気持ちだった。だが、彼が泣きそうな顔をして告げるから、美春は堪らなくなった。
 そっと咲哉の額に自らのそれを重ねる。
 好きではない。けれども、傍にいてほしい、と彼は口にする。
 それが彼にできる精一杯の愛情表現なのだ。憎からず想ってくれているからこそ、咲哉は美春を試そうとする。
 少しでも求めてくれるなら、応えてあげたかった。
「一緒にいる。だって、咲哉は寂しがり屋だもの」
 美春がいなければ、彼は独りになってしまう。
 美春には愛してくれる家族がいて、支えてくれる人もいて、憂うことなく日々を送るだけの幸福が与えられていた。だが、咲哉にはそれがないのだ。
 ならば、美春が咲哉を大事にしてあげたかった。
 たくさんの愛情を注がれて育ったから、咲哉にも同じことをしてあげたい。体温の低い掌に熱を与えて、生白い肌の下を流れる血潮ごと彼を抱きしめてあげるのだ。
 そうすれば、きっと、冷えた咲哉の心にも温かい季節が訪れる。
 美春は咲哉の背に腕をまわして、薄い肩に頬をすり寄せた。
「僕が寂しがり屋なら、それはお前が僕のもとに落ちてきたからだよ」
 嗚咽しながら、咲哉は美春を抱きしめた。背に立てられた指の強さを、すがるような吐息を憶えている。
 ――ぱしゃり、と音がして、美春は息を呑む。
 遠くの庭池で鯉が跳ねて、美春の意識を現実へと引き戻す。
 眼前で身を投げているのは、あの頃の咲哉ではなかった。咲哉とよく似た人形であり、彼よりずっと大人の男だった。
 美春は首を横に振って、乱れた呼吸を整えようとする。
 咲哉が死んでしまったならば、彼の愛する国を守ってあげたい。その願いは嘘ではないというのに、後ろ髪を引かれてしまう。
 どうしたって、咲哉を忘れられない。前に進もうと決意しても、何度だって彼との思い出を刻み直してしまう。
 寝転ぶ帝は、あの日の咲哉が成長した姿を思わせた。生白い肌と赤い唇、長い睫毛、そんな細かな造形さえも重なり合う。
 否、薄れてしまった咲哉という少年が、帝に塗り潰されていく。
「どうして、死んじゃったの」
 美春が迷い、家族を捨てられずにいた四年間で、咲哉は遠くに旅立った。
 一緒に文机を並べた記憶も、分け合った木菓子くだものの味も二度と還らない。咲哉が死んでしまったならば、綺麗な思い出のまま終わってしまう。
 ともに記憶を懐かしむことさえ、彼がいなければできないのだ。
 眠っている男の子に口づけようとした、十二の少女の気持ちがぶり返す。この傀儡ひとは咲哉ではないと知りながら、咲哉に触れたかったあの日の願いに抗えない。
 噛み締めた唇を近づけようとした。しかし、それ以上は動くことができなかった。
 咲哉の皮を被った別の存在ならば、口づけた途端、綺麗な思い出を穢してしまう。
 ――何よりも、それは美春の背を押してくれた帝への冒涜だった。
「口づけてはくれないのか」
 帝は咲哉と同じ紅紫の、されど決定的に違う目を開いた。生気のない瞳には、みっともない顔をした美春が映っていた。
「あなたは、咲哉じゃない」
「そうだな。だが、死んだ男に義理立てしたところで、何も与えてはくれまい」
「……っ、あなたが、殺した。そう、言ったくせに?」
「ああ。私が殺したようなものだ。か弱く、いつ死ぬかも分からぬ春宮に価値はない。冬に冒されたこの国に必要だったのは、あのような弱き皇子ではなかった」
「その弱さがあったから、咲哉は優しかったんだよ。きっと、とても。とても素敵な帝に」
 咲哉。生きていたら、優しくて、素晴らしい帝になっていた。そう思ってしまうのは、美春の未練だろうか。
「……すまない。そんな顔をさせたいわけではなかった。お前が、咲哉のことばかり気にするから、意地の悪い真似をしてしまった。咲哉、咲哉とばかりで、お前は私を見ない」
 私を通して咲哉を見ているのだろう、と帝は笑う。
 美春は声を詰まらせた。図星だったからではなく、そうではない自分もいると知っていたから、答えられなかった。
 咲哉と似ている場所を探しながらも、帝という傀儡が何であるのかを知りたかった。二人を重ね合わせると同時に、春が欲しい、と言った帝の願いを叶えてあげたかった。
 美春は、この男が嫌いではないのだ。
「どうして、殺したなんていうの。桜姫のせいだって、そう、言ってくれたら良いのに」
 美春のあと、この国に来ていたであろう異世の女。桜姫が咲哉を殺したならば、帝の罪にはならない。
「言わない。それは、お前を楽にするだけだ」
「……ごめん、なさい」
 もし、帝が咲哉を殺していないならば、彼に惹かれても赦されると思ってしまった。
 咲哉を忘れられないのに、咲哉ではない人に惹かれる自分を正当化したいがため、美春は帝の心さえ踏みにじろうとしたのだ。
「私は、お前の知る咲哉ではない。この身は熱を持たず、眠ることさえ許されぬ人形だ。……それでも、お前の箏を聴いていると、優しい夢を見ることができる。御霊会で箏を聴いたとき、そう思ったよ。お前が私だけのために箏を爪弾いてくれたら、どれほど幸せだろう」
 帝の掌が、そっと美春の頬を包む。つくりものの手は氷のようで、されどこの掌を恐ろしいとはもう思えない。
 ――あなたが優しい夢を見られるなら、いくらでも箏を弾いてあげたい。
「多くは望まない。永遠だって要らない。ほんの少しで良いから、傍にいてくれ。私に優しい夢を見せてほしい」
 どうして、この人は咲哉と同じ顔で、同じように傍にいてほしいと願うのだろう。
 感情がぐしゃぐしゃになって、自分の心さえ分からず途方に暮れる。
 咲哉が好きだった。忘れられないくらい大切な人だった。その初恋が潰えてしまった今、帝に対して芽生えた想いは、咲哉への気持ちと何が違うのだろうか。
「優しい気持ちになれるって、咲哉は言ってくれた。だから、箏が好きになったの。だって、どんなに下手でも、弾けば笑ってくれたから」
 美しい演奏など飽きるほど聴いただろう。咲哉は望めば何でも手に入る立場にあったのだから、美春より上手な奏者をいくらでも傍に置くことができた。
 それにもかかわらず、あんなにも拙かった音を大事にしてくれた。
 何もできなかった美春でも、咲哉のためにしてあげられることがあった。
「なら、私のためではなく、咲哉のために弾いてやってくれ。あの愚かで、間違いを犯してもなお後悔のできなかった弱い子どものために」
「咲哉は、何を間違えたの」
「守るべきものを。桜姫を守るために、あれは国を犠牲にした」
「……なら、あなたは間違えない?」
 咲哉と違うならば、同じ選択を前にしたとき、帝は異なる道を選ぶのだろうか。
 彼は笑うだけで、答えを与えてはくれなかった。



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