春告姫

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  四の章 14  

 夜風に木々がざわめいて、背筋がぞくりとする。
 虫も鳴かぬ深夜、灯台を片手に、美春は隠れ家を歩いた。灯された炎は振り子のように揺れて、深い闇をまばらに照らす。
 目が冴えて、いくら横になっても眠気に襲われることはなかった。
 帝の修理が終わったら、神域の門を開く箏を手に入れるため、保管場所である山荘に向かう予定だ。今のうちに身体を休めるべきなのだが、どうにも落ちつかない。
 鼻を突く腐敗臭と、潰れてしまった異形の姿が、瞼に焼きついた。
 神祇庁や京に異形が現れたのは、桜の神が弱っている証だ。こうしている間にも、神域の桜は枯れて、国を守る力は損なわれていく。
 一刻も早く、美春たちは神域に行かなければならない。
「やっぱり分かんないよ。異姫が神域に行けば桜が咲く。でも、どうして?」
 箏の姫君の形見によって、神域の門は開く。しかし、門が開いたあとのことが、美春には分からないのだ。
 何故、美春が神域に至ることで、病に冒された桜が咲くのか。
 ――神域に行くだけで桜が咲くならば、どうして、桜姫は役目から逃げたのか。
 その場に向かうだけで役目を果たせるならば、彼女には逃亡する理由がない。何より、愛してくれた咲哉を殺す意味が分からない。
 衝動的に、何の理由もなく咲哉を殺して逃亡したとは、とても考えられない。
「夜更けに出歩くのは感心できません」
 板敷きの床が軋んで、美春は肩を揺らす。驚きのあまり、手に持っていた灯台を落としそうになる。
「荷葉さん? 起きていたの」
 美春が落としそうになった灯台は、寸前のところで拾いあげられる。灯台で揺れる炎が、冴え冴えとした美女の姿を浮き彫りにした。
「異姫こそ、何故、起きているのですか。お願いですから、休んでいてください。あなたに万が一のことがあれば……」
「桜姫みたいに逃げられると困る?」
 被せるように問えば、荷葉は目を丸くした。
「逃げられると困る、というのは柊兄さまの台詞でしょう。私は、こんな夜更けに若い娘がうろつくことを心配しているのです。……箏爪を盗んだ者が潜んでいるかもしれませんし、明かりに気づいて良からぬ者が忍び込んでくるかもしれません。伯や神祇庁の者たちとて、今頃、血眼になって異姫を探しているでしょう」
「うん、ごめんね。意地の悪い質問だった」
 いくら兄妹とはいえ、別個の人間である。柊と違って、荷葉は純粋に美春の身を案じてくれている。
「どちらに向かわれるつもりだったのですか?」
「何処に行くつもりもなかったんだけど。眠れないから、ちょっと風にあたりたくて」
「なら、お付き合いします。ちょうど私も眠れないところでしたから」
 眠れぬ美春のために、荷葉は優しい嘘をついてくれた。
「お喋りに付き合ってくれるの?」
「ええ。異姫さえよろしければ」
「なら、荷葉さんのこと教えて」
「私のこと、ですか? 異姫にお聞かせするようなことではないかと」
「知りたいの。わたしは、この国で生きていた人間ではないから」
 荷葉は思案するように頬に手を当て、ゆっくりと語りはじめる。
「私は、北方に住まう傀儡子の一座に生まれました。もちろん、北方と言っても、京からそう離れているわけではありません。私が生まれた頃には、もう京の近辺ですら冬に呑まれはじめていましたから」
「一座? そういえば、柊もそんなこと言っていたけど」
「芸をしながら、旅をするのです。守るべき家もなく、田圃も耕さなければ税も治めない。この国に生きていながら、この国の民ではない。だから、かつて傀儡子は京から締め出されていたのですよ」
「国に従わないけれど、保護もされない存在、ってこと?」
「はい。傀儡子は異民族なのです。今となっては確かめようもありませんが、もとの血筋は、この国より遠い、はるか海の彼方とも言われています。私たちは渡来の民だった」
「海の彼方。他にも国があるんだ」
 美春は咲哉の国しか知らなかったが、この世界にも他の国々があるのだ。思い返せば、こちらに戻ってきたばかりの頃、柊も別の国について示唆していた。
 この国は、この世界の何処にあるのか。陸続きの国はあるのか、隣国もない孤島なのか、そんなことさえも考える余裕はなかった。
「冬枯れに冒されているのは、この国だけではありません。豊穣の女神を祀る国、竜の血筋が生きる火山、妖精が隔離した島、春の魔女のお膝元。あらゆる土地が、あらゆる手をもって、冬を退けようとしました。たまたま、この国は異世の桜に頼っただけのこと」
 美春は困ったように眉尻をさげた。
 こちらの世界を知りたいと願う一方で、知れば知るほど迷子になる。荷葉の話した余所の土地はもちろんのこと、この国を守る桜とて、美春にとっては幻想であり、お伽噺だった。
 その幻想が、当然のように存在し、冬枯れから人々を守っている。
 ――そもそも、冬枯れの呪いとは、いったい何なのだろうか。
 きっと、誰も答えを知らない。
 災厄のように襲いかかる不毛な季節を退けることもできず、朽ちていった人々、滅びた土地は数えきれないほどある。そして、この国もまた滅びの道を転がっている最中だ。
「難しいでしょうか? あなたには分からないでしょうね。だって、異世は冬に冒されることはない。あなたは冬に呑まれる恐怖を味わったことはない」
 棘のある言葉だったが、そのとおりだった。
 世界を冒す冬枯れ。命も芽吹かぬ極寒の地へと変わり果てる呪い。その片鱗に触れたとはいえ、美春はこちらの住人として体験したわけではない。
「冬に呑まれるのは怖い?」
 異なる世から現れた桜が、冬に立ち向かうことのできなかった人々を救った。
 しかし、余所者の神によって手に入れた季節は、本来こちらにあるべきものではない。この国が冬枯れの呪いに冒されるとしたら、あるべき姿に還るだけとも言える。
「怖いです。だから、私たちは桜花神を枯らすわけにはいかなかった。どんな犠牲を払っても」
 荷葉のまなざしは凪いだ海のようだった。思わず、美春は後ずさる。
 遠い日、咲哉が問うてきたことがある。桜を咲かせるために必要なのは何か、と。美春はあのとき祈りと答えたが、咲哉は答えを教えてくれなかった。
 ――異なる世から現れた桜が咲くために、必要なものは何だったのか。
 ずっと分からずにいる問いが、また頭を駆け巡っった。誰に尋ねてもはぐらかされて、肝心な部分を知らぬまま、現在に至っている。
 煙に巻かれ、誤魔化されたとしても、繰り返し帝を問い質すべきだった。
 それができなかったのは、桜姫を庇うために、帝が口を閉ざしていると知っていたからだ。桜花神を咲かせ、春を呼ぶという異姫について問えば、帝が大事に想い、咲哉が愛した女に触れずにはいられない。
 そのことが、美春の心に暗い影を落とす。
「ねえ、異姫。あなたは帝が好きですか? 好きですよね」
「荷葉さん? いきなり、どうしたの」
 荷葉の言う好きは、好ましいという意味ではなかった。かつての美春が咲哉に抱いたような、恋い慕うという意味での好きだ。
「あなたは、帝のために、すべてを捨てることはできますか」
 荷葉は知らないのだろう。その問いが、過去の美春を糾弾するものであることを。
 十二歳の美春は、咲哉のためにすべてを捨てることができなかった。
十六歳の美春は、帝のためにすべてを捨てることができるだろうか。
「できないのならば、あなたは逃げた方が良い。永久に変わらぬ相手を想うことは、とても苦しいから」
 傀儡は永久に変わらない。過去も未来も持てず、ただ存在し続ける。
「荷葉さんは、苦しかった?」
 双子の弟と、傀儡の八重を混同し、家族のように重ね合わせてしまう。そんな風に過ごしていた荷葉だからこそ、説得力のある忠告だった。
「いいえ。苦しかったのではなく、今もなお苦しいのです。……異姫、あまり風にあたり過ぎぬよう、気をつけてください。身体を壊してしまいますから」
 荷葉は泣き笑って、美春の前から去っていく。
 取り残された美春は、その場にしゃがみ込む。
 帝を好ましく思っている。咲哉の死を知って心が折れそうになったとき、美春を支えてくれたのは咲哉との記憶だけではなかった。
 傀儡の帝が、美春の背を押してくれた。咲哉のいない世界を進む力を与えてくれた。
「美春。どうして、こんなところにいるの」
 冷たい手に肩を掴まれて、美春は竦みあがる。
「八重」
 八重は瞬きすらせず、じっと美春を見下ろしていた。
「帝を探しているの? さっき、柊が調整をはじめたばかりだよ。聞いていない? 帝は旧いから、小まめに修理をしないとガタが来る」
 修理。何でもないことのように告げられた単語に胸がつかえる。帝は人ではないから、治療ではなく修理が正しい。
 だが、いくら正しくとも、感情が追いつかない。
「ねえ。八重は、荷葉のことが好き?」
「……? 別に」
「なら、嫌い?」
 しばしの沈黙のあと、八重は首を横に振った。
「その問いの意味は? 好きも嫌いも知らない。僕たちは道具だから」
「違う! 道具なんか、じゃない」
「美春は、人と傀儡の違いが分からないんだね。たまにいる、そういう人。頭では分かっていても、心が、魂が追いつかない。荷葉もそうだった。――美春は信じている、ここにあなたと同じものがあると。だから、傀儡が分からない」
 八重は自らの左胸に両手を宛がう。脈打つ心臓があるべき場所であり、心が、魂が宿るべき場所だと美春は信じていた。
「案内してあげる、帝のところ。会えば、あなたにも分かる」
 八重は隠れ家の奥へと奥へ、美春を手招きした。ところどころ陥没した床に足をとられながら、美春は淡い光が洩れる室に通される。
 分厚い布が垂らされた室は、頑なに外界を拒んでいる。
 心臓がはち切れそうなほど脈打って、目が乾いて仕方がない。美春は小刻みに震える手を叱咤して、布を割り開いた。
 室の四隅では、灯台の明かりが揺れている。
 ほとんど何も見えない闇のなか、手探りで室を動いていた美春は、妻戸を発見する。この先に、塗籠があるのだ。
「帝?」
 つぶやいて、美春は妻戸を開いた。
 ――暗がりに、生白い肌が浮かびあがっていた。
 それは梁から吊るされ、宙に浮かんだ無数の傀儡だった。
 首筋に縄をかけ、だらりと舌を出した傀儡たちはぴくりとも動かない。瞼を伏せた彼らの表情は一様にして虚無だった。
 風も入らぬ塗籠を、灯台の炎が照らしている。
 中央に置かれた畳には、一人の男が寝かせられていた。
 艶やかな白髪が緋色の敷布に広がっている。襟元は大きくくつろげられ、上半身はほとんど裸に近い状態だった。
 帝の胸は、左右に割り開かれていた。
 驚いたのは、惨たらしい光景そのものではなかった。
 彼の中には一切の臓器がなく、伽藍堂だった。あばらの代わりを成すのは木の骨組みで、あれほど滑らかだった肌は、捲れあがってしまえば布きれ同然だ。
 柊はためらうことなく、帝の内側に手を入れた。
 身体を弄られながらも、帝は顔色ひとつ変えていなかった。痛みなど感じず、ましてそれが奇妙な光景だとも分かっていない。
 ふと、畳に身を投げていた帝の視線がこちらを向く。
 光のない瞳は、路傍に転がる石に似ていた。
 迫りあげる嫌悪感に、美春は口元を押さえた。ほとんど反射的に塗籠を飛び出した瞬間、胃から逆流したのは数刻前に採った食事だった。
 消化しきれていない食べ物が溢れて、掌を汚す。薄暗い室のなか、美春は胃を空にする勢いで吐いた。
 口のなかに広がる酸味で、咳が止まらない。
 腕が外れる様を目の当たりにしても、冷たい肌に触れても、美春は実感できずにいた。帝が傀儡だと理解しているつもりでも、本当の意味では何一つ分かっていなかった。
 鼓動を刻まぬつくりものの身体に、美春と同じ魂が隠れているのだと信じて疑わなかった。そう信じていたかったのだ。
「大丈夫か」
 足音もなく現れた男が、美春を見下ろしている。慌てて衣を着こんできたのか、襟元が乱れていた。
 彼は自らの衣の袖で、汚れた美春の口を拭った。
「ごめん、なさい」
 帝は何も言わず、空いている手で背を撫ぜてくれた。美春をあやす手つきは柔らかで、優しいと感じるのに、また吐き気を催してしまう。
 これほど近くに在りながら、ひどく帝が遠かった。
 梁に吊るされていた無数の傀儡が、瞼の裏に焼きついている。動きはじめる前の傀儡は抜け殻そのもので、だらしなく舌を出した姿は生への冒涜そのものだ。
 たとえあの傀儡たちが動き出したとしても、そこに魂が宿っているなど信じられない。
 帝も同じなのだ。どんなに人と似通っていても、彼は人にはなれない。
「ひどく、残酷なものを見せたな」
「……ひどいのは、わたしの方だよ」
 傀儡として当然の姿に、嘔吐するほどの忌避感を抱いた。
「傀儡は嫌悪されるものだ。お前と一緒にいるうちに、そのことを忘れてしまったらしい。お前は、いつだって私を人と同じように見つめたから。……ばかだろう? 分かっていたつもりだった。私は人にはなれぬ」
 甘い花の香りがした。抱き寄せられて、大きな身体に閉じ込められる。互いの衣越しでも分かるほど、帝の肌は冷え冷えとしていた。
「抱きしめたところで、同じ温もりが手に入るわけでもない。こんな冷たい身体では、誰も温められない」
 凍てた吐息が耳元をくすぐった。
 涙など一滴も流れていなかったが、美春には彼が泣いているように思えた。痛い、哀しい、寒くて凍えてしまう、と泣き叫んでいる。
「どうして、私はここにあるのだろう。あの室に吊るされた人形のように、もの言わぬ存在でいたかった。こんなの、要らなかった。こんな姿、お前にだけは見られたくなかった」
 美春は唇を開きかけて、力なく閉ざした。どのような想いを口にしたところで、醜い言い訳にしかならない。
 帝を慰めるための言葉が、何一つ浮かばなかった。
 弱々しい手つきで、美春は帝の胸を押し返した。この優しい傀儡に抱きしめてもらう資格など、今の美春にはない。
「美春」
 呼ばれた名を振り切って、美春は闇に向かって駆け出した。



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