春告姫

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  四の章 15  

 気づけば、美春は庭奥にある築山に立っていた。
 青々とした枝葉に、きらきらと月の光が散っている。好き放題に枝を伸ばす大木は、荒れ果てた庭のなかで、唯一、しなやかな生命力に満ちていた。
「あまり手間をかけさせるな」
 美春を追いかけてきたのは、仏頂面の柊だった。
「帝は……」
 自分で手を振り払ったというのに、追いかけて欲しかったなど笑わせる。それでも、心の何処かで、あの人ならそうしてくれるという期待があった。
「まだ修理をはじめたばかりだから、無理やり押し込めてきた。帝だけは、壊してしまうわけにはいかない。多少の欠損ならともかく、決定的に壊れてしまえば、俺にはつくり直せないから」
「自分の傀儡なのに、直せないの?」
「違う。お前は、ばかなのか? 帝がつくられたのは、咲哉様が死んだ直後のことだぞ。百五十年も昔のことだ。俺の傀儡なわけあるか」
 帝がつくられたのが百五十年前ならば、柊は生まれてすらいない。
 今は柊が操り手なのだろうが、百五十年間、ずっとそうであったわけではないのだ。
 はるか昔につくられた傀儡ならば、帝が決定的に壊れてしまったとき、柊にはつくり直せないという理屈も分かる。自分でつくった傀儡ではないから、細かい修繕はできても、致命的な損傷は直せないのだ。
「じゃあ、誰が! 誰が、あんな」
 生きていた咲哉を冒涜する人形をつくったのか。
 帝に非はない。帝が自ら望んで、咲哉の場所を奪ったわけではない。魂なき傀儡としてつくられた彼は、自らの意志も持たぬはずなのだ。
 ならば、帝に咲哉の居場所を奪わせ、成り変わるよう命じた何者かが存在する。
「つくったのは当時の傀儡子だが、誰よりも傀儡を望んだのは咲哉様だ」
「咲哉、が?」
 柊の視線の先では、常葉にまぎれて枯れた葉が揺れていた。黄ばんだ病葉わくらばを摘み取って、彼はくしゃりと握り潰す。
「常葉にまぎれた病葉こそ、咲哉様だ。身体が弱く、いつだって死に怯えていたと聞いている」
 咲哉は自らの弱さを誰よりも嘆いていた。あの年頃の少年にしては薄い身体つきは、命を脅かされ続けた結果だった。
「咲哉様が、いちばん傀儡としての帝を求めていた。病に負けぬ身体、朽ちることのない器。永久に変わらぬ強さこそ、我らが春宮の望みだった。……犯した罪の、償いでもあったのかもしれない」
「罪?」
「そう、罪だ。桜姫と出逢い、過ちを犯した」
 また桜姫の名だ。咲哉の死は、美春の知らぬ女性と繋がっている。
 咲哉は、何を想って死んだのか。
 必ず帰ると約束しながら、現れることのなかった美春を恨んだろうか。冷たくなっていく身体に絶望しながら、約束を破った美春を憎んだろうか。
 それとも、死の間際の彼にとって、大事なのは愛する桜姫だけだったのか。
「なんなの、桜姫って! いつも、そう。柊たちは何も言わない。罪ってなに。具体的なことなんて、何一つ分からない。みんな隠している!」
「桜姫のことなど、知ってどうする。春を呼ぶことに必要なのか? 違う。お前はただ、桜姫に嫉妬しているだけだ。春宮に愛された女が憎いんだ。いや、春宮だけでなく、帝からも大切にされる桜姫が妬ましいのか」
 柊は唇を吊りあげる。醜い気持ちを言い当てられて、美春は歯を噛んだ。
 同じ異姫であったならば、桜姫ではなく、ずっと美春を想ってくれても良かったではないか。幼い頃の、最早恋とは呼べなくなった未練がざわめいて、咲哉を責める。
 咲哉を殺し、異姫としての役目を果たさず逃げた女を、どうして帝は庇うのだ。自らが咲哉を殺した、と嘘をついてまで、そのような女を大事にするのか。
 咲哉に愛されて、帝からも大切に想われている桜姫のことが、憎くて堪らなかった。
「ずっと愛してほしかったのか? 自分だって心変わりしているくせに」
 柊の声が鋭い刃となり、美春の胸を貫いたときのことだった。
 遠くで緋色の光が揺らいだ。目を凝らした美春は、その光が何であるのか察した。
「炎?」
 夜風に乗って、灰色の煙があがっていた。煌々と燃え盛り、隠れ家を呑み込みはじめていたのは、火花を散らす巨大な炎だ。
 火事だ。柊の隠れ家が燃えている。
「火を、つけられたのか? 伯に見つかったのか。いや、それにしたって、こんな、ばかみたいな真似は」
 動揺のあまり独り言つ柊と違って、冷や水を浴びせられたように美春の頭は冴えわたっていく。
「待って! なかに、帝も荷葉さんも残っている」
 美春の叫びに、柊の頬から血の気が失せた。戸惑いをあらわにした彼は、一瞬だけ視線を落とす。彼のためらいの理由が、美春にはよく分かった。
「わたしが! わたしが、帝のところに行く。だから、柊は荷葉さんのところに行って!」
 柊は、血の繋がった妹と仕えるべき主人を、天瓶にかけてしまったのだ。
 柊が返事をするよりも先に、美春は邸へと走り出した。南庭を抜けて、簀子から一息に隠れ家へと駆けあがる。
「……っ、おい、待て!」
 振り返らず、美春は踏み抜けそうな廊を走った。逸る心臓をいさめながら、帝が修理を施されていた室へと向かう。
 火の手は恐ろしいほど早く、隠れ家のあちこちに燃え移っていた。進めば進むほど火の粉が近くなり、灰鼠色の煙が立ち込めている。
 唇を袖口で覆いながら、低く屈んで移動する。室へと飛び込んで、帝がいるであろう塗籠を勢いよく開いた。
「美春?」
 傀儡の吊るされた塗籠で、帝は不思議そうに首を傾げた。
「……っ、よか、った!」
 ここまで走っているとき、ひたすら恐ろしかった。帝が炎に呑まれてしまうと思えば、目の前が真っ暗になった。
 安堵した途端、咳が止まらなくなる。膝をついて噎せ込んでいると、帝が駆け寄ってきた。
「いったい、どうした?」
「火が。燃えているの、隠れ家」
 美春の背を撫でながら、帝は細い眉をはねさせた。密閉された塗籠にいたため、隠れ家を燃やす炎に気づかなかったのだろう。
「それで、私を助けに来たのか? ……お前は、やはり意地の悪い娘だな。こんな木偶(でく)のために、炎のなかに飛び込んできたのか。吐くほど、傀儡を拒んでおいて」
 言葉こそ棘があったが、声音は柔らかだった。真綿で首を絞められるような切なさが、胸の奥からせりあがってくる。
 開かれた帝の身体。臓器もなく、魂も宿らないはずの伽藍堂を思い出すだけで、今も忌避感が募る。
 だが、この人を失うことが恐れる気持ちも真実だった。
 認めなくてはいけない。もう、見ないふりはできない。柊が責めたように、美春とて心変わりをした。咲哉のことだけを想ってはいられなかった。
 この冷たく、空っぽの傀儡に心を寄せている。
 炎が爆ぜて、丸柱が軋んでいく。煙で視界が悪く、うだるような熱気が肌を舐めた。
 美春の手を掴んだのは、冷たい指だった。帝は美春の手を引いて、炎に巻かれた隠れ家をあとにする。
 庭に出ると、ちょうど柊が現れる。彼につき従う八重は、煙を吸ってぐったりとしている荷葉を背負っていた。
「火の手は治まりそうか?」
「だめです。伯も、何故、このような真似を。異姫が焼き殺されたら、困るのは向こうも同じでしょうに」
「さあな。今は、ここを出るのが先だ。予定を早めることになるが、このまま箏を取りに山荘まで向かう」
 星々の光を消すように、高く炎が燃えあがっていた。煤けた顔を歪めて、美春たちは走り出した。



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