春告姫

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  六の章 19  

 春の夜を、幽玄の音色が揺らしていた。
 眠れずにいた十二歳の美春は、御帳台から這い出る。室の外では、青白い月が昇っていた。
 おぼつかない足取りで、美春は廊を歩きはじめる。
 音の在り処は、すぐに見つかった。簀子に座った咲哉が、箏を爪弾いている。
 瞬間、きいん、と張りつめた何かが切れて、激しい突風が吹いた。
 振り返れば、朱塗りの鳥居があった。決して近づいてはいけない、と言い聞かせられた鳥居である。
 月明かりが、鳥居を照らしている。否、鳥居を覆うようにして、半球状に張られた膜を照らしていた。
 半透明の膜は、箏の音色に合わせるように亀裂が入り、やがて割れてしまう。
「おいで」
 咲哉が手を差し伸べていた。けぶるような睫毛が震えて、透明な滴を滲ませている。
 ほんの一瞬、彼は泣き笑った。だからこそ、美春には拒むことができなかった。そっと掌を重ね合わせると、咲哉は急ぎ足で歩きはじめる。
「ねえ! 何処に、行くの?」
 咲哉は返事をしなかった。無表情に近いその横顔が恐ろしかった。ずっと仲良くしてくれた少年が、まるで知らない男の子のようだ。
「女房たち心配するよ。明日は大事な儀式があるって、言っていたのに」
 咲哉が局から抜け出せば、傍仕えの者たちは慌てるだろう。
 明日はとても大事な儀式がある、と彼女たちが話していたのを、偶然、美春は聞いていた。咲哉が消えたとなれば、内裏は上から下まで大騒ぎになる。
 賢い咲哉ならば、自分の立場をよく分かっているはずだ。
「明日になってからでは遅い」
 咲哉の声は上擦っていた。繋がれた掌がしっとりと汗ばんでいる。
 彼は、いつだって美春の先を歩いている少年だった。いつも余裕があって、美春よりも成熟した心を持っている。
 その彼が、緊張した面持ちをしている。すがるように掌に込められた力は、弱く、あまりにも儚かった。
 咲哉のまなざしの果てには、朱塗りの鳥居がある。
 その向こうでは、薄紅の桜がはらりはらりと闇に散っていた。



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