春告姫

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  七の章 22  

 桜花神のそびえる丘は荒れて、冬景色が続く。
 草木を枯らした不毛な丘では、時折、かさりかさりと異形が蠢いていた。彼らは美春たちに襲いかかることはなかったが、薄闇に無数の目を光らせていた。
「襲ってはこないよ、異形は。この丘には、まだ桜の力が行き届いているから、異形が暴れることはない。自分で自分を痛めつけるのは、桜だって嫌だろう」
 美春の疑問に答えるように、咲哉が零した。
「異形が、桜の一部だって言うの」
 彼は大仰に首を傾げた。その仕草は、まだ少年だった頃の彼を彷彿とさせる。
「お前が言ったんだろう? 熱は戦っている証だと。冬枯れの呪いは、此の世を冒している。けれどもね、他のどの国でも、異形の話だけは聞いたことがない。当然だ。異形は、桜の出した熱だから、この国にしか存在しない」
 荷葉が教えてくれた、海を渡った先の国々を思い出す。
 豊穣の女神に守られた国、火山に棲まう竜の血筋、妖精が隔離した島、春の魔女が住まう場所。どれもかれも冬から国を守る存在はあっても、異形には一切触れられていない。
 どうして、異形が絃に繋がれているのか不思議だった。まるで、泣いていた姫君を慰めるために花弁を揺らし、箏の音色を奏でた桜の神のようで。
 異形は、美しい桜とは似ても似つかない姿をしていながらも、同じように絃を持っていた。その絃が繋がっていたのが、箏の桜と呼ばれた神ならば、二つの根っこは同じだったのだ。
 ふいに、帝がよろめいて、その場に崩れ落ちた。
 ぎちぎちとした音は、帝の身体から響いていた。
 彼の襟元から覗くのは、ひび割れて捲れあがった肌や、飛び出した木組みの骨だった。露出している場所だけでなく、おそらく、あちこちで同じことが起きている。
「あなた、もう」
 修繕して、どうにかなるものではない。長い時間で劣化し、修理を繰り返したが故に、帝は傀儡として限界を迎えているのだ。
「百五十年間、耐えたんだ。上出来だろう?」
 百五十年。
 美春の身代わりとなった咲哉の過ごした時間を想像しようとして、失敗した。
 どれだけ思いを馳せたところで、その重みも、苦しみも、痛みさえ一分ほども理解できるはずがなかった。
「わたしの約束は、あなたを苦しめた?」
 桜舞い散る場所で、必ず帰ると約束した。
 されど、その約束は優しいものにはならず、残酷な痛みだけを咲哉に与えた。
 たった四年間ですら美春は苦しくて堪らなかった。百五十年間も約束に縛られた彼の日々は、想像を絶する苦難に満ちていただろう。
「苦しかった。傀儡に宿った僕の心を、魂を証明してくれたのは、お前のくれた約束だった。なのに、僕を苦しめるのも、その約束だった。……愛している。愛していたよ、ずっと。だから、お前が憎い」
 四年前の美春は、こんなにも想ってくれた人を捨てて、生まれた世界に戻った。
「ごめんね」
「それは、何に対する謝罪?」
 帰らなかったことか。咲哉ではない人を好きになろうとしたことか。だが、美春が最も謝らなければいけなかったのは、別のことだった。
 美春は膝をついて、咲哉と視線を合わせる。
「憎ませてしまって、ごめんね。ずっと、つらかったよね。咲哉は優しいから」
 優しいからこそ、美春を憎むことで、血を吐くような苦しみを味わってきた。
 帰らぬ美春を憎めば憎むほど、心の傷は膿んで、爛れて、息ができなくなっただろう。そんな風に、百五十年もの間、咲哉を傷つけた。
 瞬間、頬に衝撃が走る。
 手を振りあげた咲哉は、壊れた玩具のように笑っていた。
「優しい? 優しかったら、僕は誰も殺したりしなかった! お前を捨てて、たくさんの人を……、京の外で朽ちてしまった人を、選べたはずだ。お前を選んでしまったことこそ、僕の罪だった。僕の弱さだった。……っ、お前を守りたいなんて思わなければ、こんな痛みを味わうことなく楽になれた!」
 病弱で、寝込んでは唇を青くしていた少年を憶えている。
 熱に浮かされた手を握ってやると、ほんの少しだけ笑んだ男の子だ。
 死なないで、と願いながら握った手を離してあげることこそ、咲哉にとっての幸福だったのかもしれない。引き留める手がなければ、美春という未練さえなければ、彼は安らかな死出の旅に向かうことができた。
 あるいは、美春が供物として死ねば良かったのだ。
 美春がこの国に攫われたことで、咲哉は神に捧げられる運命から逃れられるはずだった。しかし、美春がもとの世界に戻ってしまったから、当初の予定通り、彼は供物として死ぬしかなかった。
「どうして、戻ってきた」
 会いたかった。惑い迷って、恐ろしいほどの時間が流れてしまったが、それでも笑いかけてくれた彼を諦められなかった。
「どうして、僕を好きだなんて、言った」
 小さな男の子への想いを終わらせて、傀儡の帝に惹かれた美春は、終わらせた恋に未練を残したまま新しい人を好きになった。
 初恋を貫けなかった浮気者と謗られても、新しい人に惹かれた軽い女と罵られたとしても、美春は二人ともに恋をしたのだ。十二歳の美春は美しい男の子を好きになって、十六歳の美春は変わってしまった彼を恋い慕った。
 同じでありながら違う人を愛したことを、嘘にはできない。
「一緒に眠ってあげる」
 美春は手を伸ばして、咲哉の頭を胸に抱く。
 美春から逃れようと、咲哉は壊れかけた傀儡の身で暴れる。美春は決して彼を離さぬよう、強くかき抱いた。
「痛かったよね、寂しかったよね。あなたが痛くて寂しいことが、いちばんつらい。……そんなことに、いまさら、今になって気づいたの。わたしは一度、あなたを捨てた。あなたを選ばなかった」
「止めろ、聴きたくない!」
「今度は、一緒にいてあげられる。桜の下でも、冷たい土のなかでも良いよ。もう一度、手を繋げるなら」
 死ぬのは恐ろしい。怖くて堪らない。
いくら割り切ったつもりでも、抱きしめてくれた母、泣いてくれた姉、信じてくれた祖母、優しくしてくれた人たちの顔が浮かんでは消えてくれない。
 だが、美春はもう、この人を独りきりにしたくない。いちばん恐ろしいのは、このまま咲哉を置き去りにしてしまうことだ。
「好きだよ。変わる前のあなたも、変わってしまったあなたも」
 瞬間、最後の力を振り絞るようにして、咲哉は美春の肩を突き飛ばした。
 衝撃のまま倒れた美春に向かって、咲哉はひび割れた頬を緩ませる。一粒の涙さえ浮かべることのできない傀儡の身で、悲鳴をあげて泣いていた。
「意地の悪い女。……でも、忘れられなかった。冷たい僕の心に、あたたかな春を連れてきてくれた。僕が好きだと笑ってくれた。僕は、だめな春宮だ。何度だって同じ過ちを繰り返してしまう」
「咲、哉」
「帰って、お前を愛する人たちのもとに。願えば、桜は帰してくれる。……あれは優しい神だ。自分の子どもたちを犠牲にして、咲かなければならない身を嘆いていた。だから、大丈夫。たとえ、すべて朽ちてしまっても、それはお前が背負うものじゃない。生きて。笑っていて。どうか僕の我儘に、未練になど惑わされないで」
 彼は微笑む。憑き物が落ちたかのような顔が恐ろしくて、美春は必死になって手を伸ばした。
 彼の魂をここに留めていたのが、美春への想いだとしたら――。
「僕に春をくれて、ありがとう」
 それがなくなってしまったとき、ここで苦しむ理由も消えてなくなる。
 冷たい身体が美春に覆い被さってきた。ぴくりとも動かぬ傀儡は重たく、美春の腹部や足にしなだれかかっている。
 横を向いたとき、安らかな表情のまま動かなくなった傀儡がいた。
 ――梁に吊るされていた物言わぬ傀儡のように、彼を動かしていた魂が消えた。
 否、本当にあるべき場所へと還ったのかもしれない。
 涙を堪えて、美春は咲哉だった傀儡の下から這い出る。顔をあげれば、丘には咲哉が囚われた桜がそびえていた。
「もう、独りに、しないから」
 喪われてしまった少年がそこにいるならば、二度とその瞼を開くことはなくとも、彼に会いたい。

◆ ◆ ◆

 月明かりの下で、切り灯台の炎は絶えることなく燃えていた。人魂のように浮かんでは揺れる火は、神である桜のために煌々と燃えあがっている。
 皺の刻まれた太い幹には注連縄が巻かれ、折れた枝は空を目指すことなく萎れている。大ぶりの花房をつけていたあの頃と違って、桜は今にも枯れそうな風情だった。
「咲哉」
 桜の大樹に抱かれて、青年は瞼を閉ざしていた。
 まだ少年の面影を残しており、帝より幼く、されど四年前に別れた少年より大人びている。
 桜の樹に囚われてしまった人は、百五十年の時を経てもなお朽ちることなく、美しいままだった。
 生贄として捧げられるはずだった美春の代わりとなったとき、咲哉はどんな気持ちだっただろう。少年だった彼は、あらゆる痛みを堪えて、その道を選んだ。春宮として間違っていると悩みながらも、美春を捨てることもできなかった。
 ここは寒くて、とても痛かっただろう。ずっと独りで寂しかっただろう。
 だから、こんなところに彼を独りきりにしたくなかった。
 枯れてしまいそうな桜に、美春は頬を寄せる。このまま咲哉と同じように眠るのならば、悪くない。
 あのとき選ぶことのできなかった彼を、今度こそ選ぶことができる。
 しかし、桜が美春を受け入れることはなかった。
 無数の淡い光が、頭上から降り注いでいた。
 美春の身体に触れては、光は形を失くして崩れる。舞い散る花弁のように、ひらりひらりと美春の血肉に溶けていった。
 神祇庁で目にした《魂》の欠片と、その輝きは良く似ていた。
 美春は唇を噛んで、自らに溶けてゆくものを受け入れる。
 そうか、そうだったのだ。桜が枯れそうになるとき、異姫が攫われてくるのは、供物となるためではない。
「ずっと待っていたの? わたしを」
 ――あなたの血を継ぐ、桜の末裔を。
 冬枯れという病に冒された桜の神は長くなく、枯れてしまうのは必然だ。
 故に、神は願った。自らの後継となる存在を。器が枯れてしまえば、力を揮うことができない。ならば、病に冒されていない器に、自らの魂を移せば良い。
 この国で血を繋げてきた皇族では、だめだった。彼らは冬枯れの世界で生まれたから。
 同じ桜の子孫でも、美春のように異世の血しか持たぬ者でなければいけなかった。
 四年前、薄紅に染まったこの瞳は、桜の力が美春に移りはじめていた証だったのだ。
 だが、美春は生まれた世界に戻った。咲哉がそう望み、美春もまた心の奥底で故郷を恋しがっていたからだ。
 そのため、力の譲渡は中途半端にしか行われず、桜の神は弱っていくしかなかった。
 しかし、今は違う。十六歳の美春は、ここにいることを心から望んでいる。
 幹に抱かれた咲哉は、凍てた肌をしていた。けれども、たしかにその細い手首は脈打ち、唇からはあえかな吐息が零れている。
 美春は祈るようにして、眠る彼の瞼に、そっと口づけた。何処にも行けず、迷子になってしまった彼の魂が、どうか戻ってくるように。
 一瞬とも永遠ともつかぬ時が流れていく。
 やがて、血管の透けるほど白い瞼が開かれて、濡れた目が現れる。睫毛を震わせた彼は、信じられないものを見るかのように瞳を揺らす。
 美春はうつむかず、もつれそうになる舌を動かす。
「ただい、ま。……っ、ただいま、咲哉!」
 言えなかった言葉があった。伝えたかったはずの少年の死を聞かされてから、行き場を失っていた想いが溢れて止まらなくなる。
 望むということは、選ぶことだ。
 そして、美春は咲哉を選んで、向こう側にあった大事な家族を捨てた。想いを踏みにじって、咲哉を選んだからには、必ずや彼を幸せにしてあげたい。
 愛されてきたからこそ、長い孤独を味わった彼を愛してあげられると信じたい。
 咲哉はあたたかな涙をはらりはらりと流して、幼子のように顔をぐしゃぐしゃにする。
 おかえり。
 声にならない声で応えた咲哉は、美春の肩に額を寄せた。彼の身体を抱いて、美春は何度もその背を撫ぜた。
 かつて途方に暮れる美春に、彼がそうしてくれたように。



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