花と蝶々

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  2.神の止り木  

 夜を控えた王都には、眩いばかりの夕陽が差し込んでいた。
 生成りブラウスと黒の下衣を細い帯で締め、ザフルは市場スークの喧騒に紛れていた。活気づいた市内マディーナに七年前に起きた革命の影はない。王宮を守る城塞カスバは修繕され、隣接していた神殿は公衆浴場ハンマームに改装されている。焼き払われた街並みも、元通りどころか旧王朝時代より立派になっていた。
「親仁さん、柘榴も貰って良い? ファラーシャの大好物なんだ」
「ファラーシャ? いつも話している同居人の男か。お嬢も隅に置けないな」
 馴染みの商人である男は、塩や羊肉などを詰めた大きな麻袋に柘榴も追加してくれた。ちょうど食べ頃らしく、熟れて美味しそうな色をしている。
「羨ましい? 僕とファラーシャはとっても仲良しだから、女房に逃げられた親仁さんとは違うわけ」
「言うようになったな、ちくしょう。ほら、たくさん持って行け。お嬢がいなかったら、偽物を掴まされるところだったからな」
「やった、親仁さん大好き! あんな目利きくらい、いくらでもしちゃう」
 ザフルは宝石や貴金属の目利きをする代わりに、彼から物資を受け取っている。表だって働くことのできないザフルにとって彼は貴重な取引相手だ。身元の怪しい娘を相手にしてくれる商人は少ないのだ。
「調子の良いこと言いやがって。滅多に王都に来ないくせに」
「こっちにも事情があるんだよ。で、どう? 最近の王都は。僕が来ないうちに何かあった?」
 ザフルが問いかけると、男は濃い髭に覆われた口元を大きく綻ばせた。
「平和なもんだよ。新王様は理不尽な法や税で民を苦しめたりしないし、あの方は商家の出だから俺たちのことも手厚く保護してくれる。本当、良い時代になった」
 七年前の革命によって滅ぼされた旧王朝を引き合いに出して、男は新たな王朝を興した若き男を讃えた。
「ふうん、新王様が御健勝で何より。……でも、なんだか前に来た時よりも兵の数が増えていない? 賊でも出たの?」
 さりげなく周囲を見渡したザフルは顔をしかめる。治安維持のため兵士が街を見回るのは珍しい光景ではないが、明らかに以前よりも数が増えていた。
「いいや、賊なんて出ていないさ。噂だと、王子探しを再開したせいだと」
「げ、何で今さら。王子って、旧王朝の世継ぎだろ? 死んだんじゃなかったのか」
「遺体が見つかっていないからな。新王様も俺たちも安心したいんだよ。民を苦しめた女王の子なんて、生かしておいても碌なことになりやしないだろ」
 尤もな言い分だった。新しい国、王、時代に、旧王朝のたねなど不安要素にしかならない。武力によって王都を制圧し革命を為した新王への反発は、渋々従った地方を中心に続いているのだ。安定した治世が始まりつつあるとはいえ、足を掬われる可能性は潰すべきだ。
「僕、もう行くよ。生きていたらまた来るから、仕事の融通よろしく」
「毎度のことだけど、生きていたら、なんて止めろよ。お嬢のこと頼りにしているんだぜ」
「はいはい、いつもありがとうございます」
 ザフルは男から麻袋を受け取ると、身を翻し、市場の裏手にある路地に走った。蜘蛛の巣のように入り組んだ小道を駆け、市壁に空いた穴から王都の外へ出る。兵たちも知らぬ小柄なザフルだからこそ行き来できる抜け道だ。王都への出入りは王宮の管理下にある正門に限られるが、身分を証明できないザフルには都合が悪いのだ。
 壁の外に出れば、王都の近くに聳え立つ『止まり木』と呼ばれる石造りの塔は目前だ。周囲を警戒しながら、ザフルは塔の裏口が隠された外庭へ向かう。
 抱えた麻袋の中身に心が弾む。ファラーシャは柘榴を喜んでくれるだろうか。
「こんばんは、お嬢さん」
 突如、薄闇に響いた声にザフルは足を止めた。
 反射的に下衣に隠した小刀に触れた瞬間、首筋に宛がわれたのは鋭い切っ先だった。外庭の大樹の影に隠れていたのだろう。ザフルの正面に飛び出し、剣を突き付けたのは大柄な男だった。
「……こんばんは、御客人。直に夜が来る、魔物に憑かれても知らないよ」
 ザフルが吐き捨てると男は唇を釣り上げた。十七歳のザフルの倍ほどの齢だろうか。鍛え抜かれた身体と精悍な顔つきは雄々しく、黄金の眼は獰猛な獣を連想させる。ザフルは怯える心を面に出さぬよう、小さく息を吸ってから平静を装う。
「お嬢さんこそ気を付けろ。夜の魔物は悪しき精霊だけではないのだから。こんな時刻に若い娘が一人で出歩くのは感心しない」
「御忠告痛み入るけど、誰もこんな醜い女相手にしないよ。で? 止まり木に何の用。迷ったなら道を教えてやるけど、見たところ旅人というより貴族の御坊ちゃんだな。良いものを身に着けているね」
 夜目が利くザフルには男の格好がはっきりと視認できる。頭から背にかけて被った装身具クーフィーヤから零れ落ちる髪は黄金を塗したように煌めき、青の長衣には金糸で刺繍が施されている。大振りの宝石をあしらった金の首飾りは、同じ意匠の耳飾りと合わせると邸の一つや二つ建つかもしれない。
「はははっ、よりにもよって坊ちゃん扱いか。残念だが、御貴族様の血なんて一滴も流れていない。――知りたいことがある。お前、止まり木に独りか」
「違うよ。この塔には正式な管理人がいるみたいだから。僕はこっそり休ませてもらっているだけ。王都の宿は高いからさ、仕事が見つかるまで厄介になろうと思って」
 ザフルは咄嗟に止まり木に暮らして七年の歳月を隠した。会ったばかりの男に詮索されたくはない。
「そうか。管理人、ね。なるほど」
 男は厭らしい笑みを浮かべて頷いた。すべて見透かされているようだった。男に対する言い知れぬ恐怖から背筋に冷や汗が滲む。
「もう、良い? 僕は不届き者の相手をするほど暇じゃないんだ」
 虚勢を張って突き付けられた刀身を指で弾けば、彼はようやく剣をおろした。無駄話に興じる時点で殺意はなかったのかもしれないが、剣を突き付けられて平気でいられるほど図太くはない。
「つれないな。俺たちは切り離せぬ運命で繋がれた仲だというのに」
「は? 気持ち悪いこと言うなよ、不愉快だ。僕とお前は初対面だよ」
「本当に? そう思いたいならば、それでも構わないが。俺はお前のことを良く知っているぞ。――俺はリズク。その左胸にあるものを、ずっと探していたんだ」
 ザフルは思わず自身の左胸に手を宛てた。肌に埋め込まれた赤い宝石が熱く脈打っている。リズクと名乗った男は、ザフルの抱える秘密を知っているのだ。
「……っ、お前なんて知るか、ばか!」
 ザフルは大きく足を振り上げて、男の鳩尾を力いっぱい蹴りつけた。油断していた彼が体勢を崩したのを見逃さず、止まり木の裏口に飛び込んで錠をおろす。
 ザフルは麻袋を抱え直し、大股で階段を駆け上がった。同居人である少年は、夜になるとたいてい塔の最上階で空を見上げているのだ。
 開けた空に続く最上階、複雑な紋様を描く文字が刻まれた床の中央には灼熱の赤を孕んで燃える巨大な炎がある。雨風に晒されてもなお消えることのない炎は、この地に神がいる証とされている。
「おかえりなさい。今日は早かったのですね」
 ザフルを出迎えてくれたのは美貌の少年だった。炎から離れて佇む彼に駆け寄って、ザフルは抱えていた麻袋を渡した。
「ただいま、ファラーシャ! 見回りの兵が増えているらしいから、さっさと切り上げてきたんだ。面倒事に巻き込まれたら嫌だしね」
「それならば、しばらくは外に出ない方が良いかもしれませんね。塩や割り麦も残っていますし、今日の分と庭の実りを合わせれば何とかなるでしょう」
 ファラーシャは袋の中身を確認しながら提案する。柘榴に目を輝かす彼の隣で、ザフルは大仰な溜息をついた。
「御人好し。僕は助かるけど、お前は止まり木の管理を任された神官なんだろ? 僕みたいに怪しい奴は追い出したって良いんだよ」
 旧王朝時代から変わらず、この地の守護神として祀られているのは巨大な鳥の姿をした火の精霊である。火の鳥とも呼ばれる彼は、遠い昔、旧王朝を興した王の勇敢さに惹かれ、この地を支配していた西方の異民族を焼き払った。以来、彼はこの塔を止まり木とし、羽を休めながら土地と人々を見守っているらしい。
 自身を神が休む塔の管理人と称するならば、ファラーシャはザフルなど追い出すべきなのだ。
「追い出すならば、七年前にそうしています。それより、ザフル、血が出ていますよ。何処で怪我をしてきたのですか.」
 骨ばった彼の手がザフルの首筋を撫ぜた。先ほど対峙した男――リズクの剣が掠ったのだろう。自分でも気づかないほど小さな傷だったが、彼が心配してくれることは嬉しい。
「お前は優しくて良い男だな。あいつとは大違いだ」
 人を食ったリズクの笑みが脳裏を過り、ザフルは渋面を作る。彼は初対面ではないと言っていた。実際、ザフルの秘密を知っているならば浅からぬ関係があるはずなのだ。果たして何処で出会ったのだろうか。
「誰と比べているのですか、誰と」
 ザフルが考え事をしていると、ファラーシャは拗ねて頬を膨らます。比べられたことが不満なのだろう。とても可愛いらしい反応に、つい頬が緩む。
「誰でも良いだろ? お前より素敵な奴なんていないんだから」
 ザフルはファラーシャの細い身体に飛び付いた。強く抱き締めると、左胸に埋め込まれた宝石が早鐘を打つ。彼に届いてしまいそうなほど早く大きな脈動だった。
「素敵なのは、ザフルなのに」
 ザフルの銀髪を梳きながら、彼は慈しみに満ちた声で囁いた。
「そう思ってくれるなら、……僕は、本当に幸せ者だったな」
 優しいファラーシャと暮らした七年間を、リズクと名乗った不穏な男は根こそぎ奪い去ってしまうのだろう。
 いつか醒める眩い夢の終わりが訪れたのだと、ザフルは覚った。


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