マグノリアの悪魔

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  第一幕 マグノリアの悪魔  


 あれは白木蓮の花が咲き乱れる、麗しい春のこと。
 白亜の聖堂は、燃えさかる業火に包まれていた。薔薇窓のステンドグラスは砕けて、純白の女神像は灰に犯される。
 身も世もなく泣きじゃくるレナは、まだ七つの娘だったという。
 けれども、自分の年齢すら、当時のレナは憶えていなかった。思い出さえも、血のように赤い炎に融けてしまった。
「約束だ」
 男が微笑んでいる。
 血を被ったような赤い髪に、葡萄酒の瞳をした男は、悪魔のように美しかった。
 約束。その約束が何であるのかも分からぬまま、レナは頷いた。
 彼は微笑んで、機械仕掛けの手で頬を撫でてくれた。その冷たい掌だけが、あのときのレナにとって救いだった。
 ほとんどの記憶を忘れて、空っぽになったレナにとって、その男はすべてとなった。

 ザシャ。
 愛しくて憎らしい、わたしの養父。わたしを形づくった男。
 わたしはあなたほど美しく、あなたほど優しくて残酷な人を知らなかった。

 ◆◇◆◇◆

 帝都一番の歓楽街、ダールベルク通りの夜は明るい。
 娼館や賭場がひしめく通りには、一夜の夢を求めて人々が群れをなす。老いも若きも男も女も問わず、瀟洒な街並みは賑わっていた。
 昼間は静まりかえった通りは、夜を迎え、息を吹き返したかのようだった。
「ザシャのばか。何処にいるのよ」
 レナ・ダールベルクは、養父への不満をつぶやく。
 顔馴染みの娼婦たちがこっそり手を振ってくるのに応えながら、カンテラに照らされた舗道を進んでいく。人ごみを避けるように早足で歩けば、波打つ銀髪で、白木蓮の花飾りが揺れた。
 路傍に親しい顔がいることに気づいて、レナは唇を開いた。
「キリル!」
 一番人気の娼館《廃園》の前で、男娼が馬車を見送っていた。
 金髪に碧眼、お伽噺の王子のような青年だ。
 レナにとっては家族同然の幼馴染だが、一晩過ごすためには、家財どころか、親子どもを売り払っても足りない高級男娼である。
 駆け寄ろうとしたとき、ちょうど彼が見送っていた馬車とすれ違う。
 一瞬だけ見えたのは、細やかな刺繍のされた軍服姿の男だ。帝国貴族としては珍しく髪を短く切りそろえており、輝かんばかりの金髪が印象的だった。
「レナ。おはようございます」
 往来を歩く客人が、物珍しそうにキリルの挨拶を聞いていた。
 外界から来た人間にとっては、奇妙な挨拶なのだろう。しかし、通りの住人は昼夜逆転の日々を過ごしている者が大半なので、おはよう、で間違いなかった。
「おはよう、キリル。あの人、誰なの? よっぽどの上客よね」
 馬車に乗っていた男の軍服は、袖や襟元をはじめとし、至るところに刺繍があった。
 厳重に守護魔法をかけられている証だ。よほど高位の軍人でなければ、あれほど細やかな刺繍が施されることはない。
「フランツ皇子ですね。公爵――君のお養父(とう)様の上司」
「軍属の第三皇子ね。いつのまに皇族なんて相手にするようになったの?」
「昔からご贔屓にしていただいていますよ。そんなことより、レナが夜に出てくるなんて珍しい。診療所で何かありましたか?」
 普段のレナは、通りにある診療所で働いている。とはいえ、それは昼間の話であり、急患でもない限り、夜まで詰めていることはない。
「診療所は大丈夫よ。いまはザシャを探しているの」
「ああ、公爵なら《斜陽》の館にいますよ。きな臭い客がいる、と報告があったので。他国の密偵か、あるいは亡国の残党か」
「物騒なこと言わないでよ。また戦争でもする気なの? 皇帝陛下は」
「さあ? 僕みたいな男娼に訊かれても困ります。レナ、まさか一人ですか? 怒られますよ。大事な公爵家の御令嬢なのに」
 キリルは笑いを堪えように、口元を手で覆う。嫌味なほどに美しい手には、絹の手袋がよく映えていた。
「もう。ただの戦災孤児だって、みんな知っているくせに」
 公爵家の養女となっているが、その実、戦時中に拾われた孤児である。それも、ほとんどの記憶を失い、自分が誰なのかさえも忘れてしまった厄介な娘だ。
「公爵が娘を拾った、と当時は騒ぎでしたからね。養女にするなんて言うので、余所で作ってきた子どもなのでは、と。姐さんたちなんて、血の雨が降る、って怯えていましたよ。あの人が子どもを引き取るなんて、似合わないにも程があるから」
「もう、ばかなこと言わないでよ。わたしとザシャ、十二歳しか離れていないのよ? 自分の子どものわけないじゃない」
「帝国の男なら、十二どころか十歳で父親になってもおかしくないですよ。公爵は、皇族の血も濃い。悪魔に誑かされて、悪魔と交わった魔女マグノリアの血。子どもの一人や二人いても驚きません」
「……違うって言っているでしょう。ぜんぜん似ていないもの」
 レナは腰に手をあて、わざとらしく頬を膨らませた。
「似ていない親子なんて、たくさんいます」
「髪、目、ぜんぶ色が違うもの。顔立ちだって、ぜんぜん」
「否定したい気持ちは分かりますけれど、公爵は君を溺愛していますからね。やっぱり本当に血が繋がっているのでは? あの人、君がひどい目に遭わないか、いつも心配していますよ」
「心配? ザシャはわたしのこと、娘じゃなくて猫か何かと勘違いしているの。気まぐれに拾った猫がひどい目に遭っても何とも思わないでしょう」
「そう? 自分の猫が、悪い大人に誑かされるのは嫌がると思いますけれど。案外、心が狭い方なので」
 キリルはまるで誘惑するように、碧玉の目を細めた。視線ひとつで人を手玉にとる青年は、優しげな顔立ちのわりに、少しだけ意地悪なところがあった。
「気をつける。ここにも悪い人がいるみたいだから」
「残念。君が望むなら、いくらでも誑かしてあげるのに。公爵のところまで送っていきますよ、性質の悪いお客様もいますからね」
「仕事は良いの?」
「今夜の僕は、レナに差し上げます。今ならタダで僕を買えるんですよ、贅沢ですね」
「タダより高いものはないのよ、後で何を要求されるか分からないから。対価のない取引はするな、って昔からザシャに言われているの」
「それはまた、公爵らしい。では、明日、帝都劇場まで付き合っていただけますか?」
「帝都劇場? 良いの? わたし、一度も行ったことなくて」
 レナは、養父であるザシャから、一人でダールベルク通りから出ることを禁じられている。ザシャ本人か、あるいはザシャが許した人間と一緒でなければ、自由に帝都を歩くこともできない。
 キリルは数少ない、ザシャ以外の一緒に出掛けて良い人だった。
「なら、ちょうど良いですね。オペラの初演チケットをいただいたのですが、相手が亡くなってしまって」
「なあに、また殺したの?」
 キリルには、共寝をすれば幸福のあまり死人が出る、という不穏なうわさがある。
 そんなうわさが実しやかに囁かれるほど、キリルという男娼は高値の花で、多くの者たちから求められている。
 尤も、レナにとっては、男娼というより、幼馴染であり家族のような存在だ。正直なところ、男娼としてのキリルのことは、あまり知らない。
「ひどい人だ、ぜんぶ僕の仕業みたいに言うのですから。殺したのは僕ではありません。先日、帝都の西で暴動が起きたでしょう? あれの鎮圧で亡くなりました。軍人は嫌ですね、すぐに死んでしまいますから」
 そういえば、数日前、帝都西部で暴動が起きた。
 西は、ダールベルク通りと真逆に位置するので、暴動を直接見たわけではない。
 ただ、新聞では死者や歴史的建造物の損壊が報じられており、それなりに大規模な暴動だったことが窺えた。診療所に通ってくる町医者も大忙しだったらしく、レナにまで愚痴を零していた。
「みんな、ザシャみたいに図太かったら良いのにね?」
「あの人は殺しても死にませんよ」
「そうだと良いのだけれど」
 レナの養父は、軍属の魔法使いである。十代のはじめから軍に属し、いまは二十九歳になる。戦時下の魔法使いとしては、ずいぶんな長生きだ。
 何度か危うい怪我を負いながらも、その度に死の淵から生還しているのだから、かなり悪運も強かった。
 だが、次も無事に帰ってくるとは限らない。いまは帝都にいるが、そのうち戦場に向かうことを思えば、不安を抱かずにはいられない。
「心配する必要はありませんよ。少なくとも、レナがいる限り、あの人は死にません。君を置いて死ぬわけがない」
「……ありがと」
 気休めだとしても、幼馴染が慰めてくれることが嬉しかった。


  二人は通りを歩いて、ザシャがいるという娼館に入った。今日は営業を取りやめたのか、客はおらず、門番代わりの軍人が立つだけだ。
 エントランスに足を踏み入れたときだった。
 何発か銃声があがって、耳を塞ぎたくなるような断末魔が響いた。
 しばらくもしないうちに、階段から死体が転がってくる。
 炎に焼かれたのか、黒焦げになったそれは顔も判別することができない。血と肉の焼ける生々しい臭いに、レナは口元を手で覆った。
「飼い主に隠れて逢い引きか? 俺の猫は浮気者だな。しつけが足りなかったか」
 軍靴の音が、高らかに響く。
 階段を降りてくるのは、古びた銃を手にした男だ。複雑な紋様の刻まれた銃は、魔法使いのみ起動できる武器である。
 血を被ったような赤髪に、葡萄酒のような紫の目。端整な顔は、左の泣き黒子のせいか、どこか淫蕩にも映った。
 その美貌は、神々に愛されたというより、悪魔が趣向を凝らした芸術品のよう。
「ザシャが帰って来ないから、悪い猫になってしまったの」
 ザシャ・ダールベルク。
 レナの養父であり、帝都の歓楽街ダールベルク通りを統べる主。公爵の位を持つ貴族にして、軍属の魔法使い。
 諸外国から《マグノリアの悪魔》と呼ばれる、一騎当千の戦争兵器。
「娘には嫌われてしまったみたいですね。公爵、僕でよろしければ、お父様、とお呼びしましょうか?」
「悪夢のような冗談だな。お前にだけは、父と呼ばれるわけにはいかない。レナ、夜に出歩くな。子どもは寝る時間だ」
「邸で寝ていたのを叩き起こされたの、帝城から遣いが来て! ザシャ・ダールベルクは火急速やかに登城するように。皇帝陛下がお待ちよ」
「待たせておけ。どうせ、くだらない用事だ。俺はネズミどもの始末で忙しい」
「陛下の命令だって言ったでしょう。ばかじゃないの!」
 ザシャは鬱陶しそうに耳を塞ぐ。
 キリルはキリルで、親子の諍いに興味はないのか、平然と焼死体を眺めていた。
「ネズミ退治も良いですけど。公爵、これじゃあ何処の奴らか分かりませんよ。頭まで吹き飛ばしたでしょう? これでは魔法で記憶を抜くこともできない。軍部の方たちに怒られてしまいます」
「なに、白木蓮の腕輪だ。ひとつしかないだろう」
 レナは恐る恐る、死体を見た。
 黒焦げの死体は、頭部がぐちゃぐちゃに潰れていたが、手首に特徴的な腕輪があった。白い花の意匠は、とある国の民が好んでいたものだ。
 レナは自らの髪飾りに触れた。その花は、レナにとっても馴染みがある。
「神聖王国の、生き残り」
 十年前、マグノリア帝国によって亡ぼされた都市国家。
  清く美しき女神のおわす、清廉なる水の都。あらゆる病毒を癒した聖女の国。
 帝国にとって、長らく敵対してきた因縁の相手だ。帝国が帝国となる前、魔女の民として迫害され、流浪していた頃から憎しみ合ってきた存在だ。
「うっとうしい限りだ。敗戦から十年経っても、まだゴネている」
「恨まれて当然でしょう、あなたが亡ぼした国です。ねえ、マグノリアの悪魔さん」
「不愉快な呼び名だ」
 そのとき、娼館に人が駆け込んできた。
 公爵邸で待たせていた帝城からの使者だった。こんなところまで来させてしまい、心の底から申し訳なく思う。
「どうやら邸に戻る必要はなさそうだな?」
「どっちにしても、夜は邸に帰ってきてよ」
 父娘の遣り取りを遮るよう、使者は膝をつく。紙のように白い顔をして、彼はザシャを見つめていた。まるで、すがるようなまなざしだ。
「陛下が。皇帝陛下が、崩御されました」
 思えば、この報せこそ、帝国に影を落とすはじまりだった。


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