マグノリアの悪魔

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  第二幕 堕ちた女神、あるいは魔女か聖女  

 帝歴二七九年の春。
 ときの皇帝が毒殺されたのは、雲ひとつない月夜のことだった。数多の国々を蹂躙し、身内さえも手にかけた男にしては、実に呆気ない最期だったという。
 帝国の者たちは死者を顧みない。誰ひとり皇帝を悼む者はなく、その日のうちに帝城は次の皇位を巡って色めきたった。
 筆頭候補は、第一皇女マルティナ。
 三度の婚姻のうち、三度夫を殺した皇女は、帝城で最も色濃く魔女の血を継いでおり、優れた魔法使いでもあった。
 次点に、軍部を掌握する第三皇子フランツ。
 過酷な戦争に身を投じ、帝国の領土を広げた立役者は、兄二人を戦時中に殺した兄弟殺しの皇子でもあった。乳母兄弟であり腹心のザシャ・ダールベルクを従えて、北方大陸を蹂躙した。
 多くの妃を囲った皇帝には、数え切れぬほど子がおり、傍系皇族も山ほど存在した。
 しかし、血の濃さ、魔法使いとしての資質から、誰しもが次の皇帝は二人のいずれかと信じた。
 皇位争いに参加することもできぬ皇族たちは、ただ嵐が過ぎ去るのを待った。どちらかが皇帝となるまで、耳を塞いで、息をひそめて。
 されど、彼らの願いが叶うことはなかった。
 白木蓮の花が咲き誇る春のこと。
 これより始まるは、皇族殺し。
 魔女マグノリアの血を絶やすべく、すでに悪夢は始まっていたのだ。

 ◆◇◆◇◆

 ダールベルク公爵邸は、歓楽街の最奥にある。
 瀟洒ではあるが、帝国貴族の住まいとしては慎ましやかな邸だ。ザシャが嫌がるので使用人もおらず、レナ一人で管理できるくらいの広さだった。
「レナ」
 衣装棚から替えの軍服を出していると、ちょうど養父が湯浴みから戻ってきた。振り向いたレナは、頬を引きつらせる。
「髪! 誰が掃除すると思っているの? びしょびしょじゃない、もう。だから、ザシャはダメなのよ」
 レナは乾いた布をとって、ザシャのもとに駆け寄る。赤い髪から、ぽたり、ぽたりと水滴が垂れて、床を濡らしていた。
「手袋は?」
 レナは両手を掲げて、手袋をしていることを示す。潔癖症のきらいのある彼は、レナが素手で触れようとすると怒るのだ。
 ザシャを屈みこませ、髪を拭いてあげると、くすくすと笑い声がした。
「文句を言うわりに、俺の世話を焼くことを嫌がらない。俺の育て方も、悪いものではなかったらしい」
「ばかじゃないの」
「ばか? 生意気なことを言う」
「だって、ザシャに育てられた覚えなんて、ぜんぜんないんだもの。ろくでなし。お金遣いも荒いし、お酒も煙草も止めないし、ちっとも父親らしくなくて……」
 不満をあげれば、きりがなかった。
 十二も年上の男は、自分の世話もしなければ、邸のこともレナに丸投げだ。生活能力がないというより、そもそも、まともに生活する気がないのだ。
 一人にした途端、今よりもさらに自堕落な日々を送るだろう。
「ひどい言い草だな」
「本当のことだもの。……でもね、感謝しているの。引き取ってくれたこと」
 ザシャの養女となって、十年の歳月が流れた。
 当時のレナは、戦禍によってか、ほとんどの記憶を忘れていた。辛うじて日常生活を営むことはできたが、親兄弟の顔も、自分が何者であるかも憶えていなかった。
 きっと、ザシャに拾われなければ、路地裏で野垂れ死んでいた。
「お前が出て行きたいならば、それでも構わないが」
「嫌よ。そんなことしたら、ザシャが死んじゃいそうだもの」
 違う。ザシャが死んでしまうからではなく、レナが彼と一緒にいたいからだ。叶うならば、ずっと彼と暮らしていたい。そうしたら、一生幸せでいられる。
「物好きだな」
「そっちこそ、記憶喪失の娘を拾うような物好きのくせに。ほら、早くして。帝城に行かないとダメなんだから」
 皇帝の訃報から一夜が明け、帝城はひどく荒れているらしい。
 戦時下を除き、普段のザシャは皇族たちの警備を担っている。皇帝の死により、休暇にもかかわらず、朝からの登城を求められていた。
「支度を手伝ってくれるか?」
 ザシャは左腕を掲げるような仕草をする。しかし、その肩から下、本来であれば腕がある場所には何もない。
 レナはテーブルにある機械仕掛けの腕をとった。
 戦時中に左腕を失ったという彼は、昔から義手を使用している。レナが拾われるよりも前のことなので、詳しい経緯は知らないが、恐ろしい目に遭ったはずだ。
 彼の肩に義手を嵌め込んでから、軍服を着せて、身支度を整えていく。
「銃は、いつもどおり?」
 腕のとなりにあった銃を、ザシャの腰元に装備させる。魔法使いにしか使えない・・・・・・・・・・・特別製なので、レナにとっては玩具のようなものだった。
 これで、彼が多くの人間を屠ってきたとは、とても信じられない。
「手際が良くなったな、昔に比べて」
「だって、十年もザシャのお世話しているんだもの」
 二人きりの邸では、ザシャの世話もレナの仕事だ。養父と二人きりの静けさは嫌いではないが、このときばかりは、通りの喧噪にまぎれたかった。
 レナたちと違って、外の者たちは皇帝の死を知らずにいる。
「皇帝陛下は、どうして?」
「毒殺らしい」
「なにそれ。皇族を殺せる毒なんて、此の世に存在するの?」
 マグノリアの皇族をはじめとし、皇族の系譜に連なる者たち――魔法使いは、古の魔女の血を継いでいる。
 彼らにはあらゆる病毒が意味を成さない。その身には、魔女の血という、此の世で最も悪辣な毒が流れている。そんな毒に耐えうる身体には、他のどのような病毒も効かないはずだった。
 魔法使いを殺すとき、毒が使われることはない。
 頭を吹き飛ばすか、あるいは三日三晩火あぶりにでもするか。中途半端な真似をしても、魔女の血族を殺し切ることはできない。
「さあ? 未知の毒か、あるいは性質の悪いカラクリがあるのか」
「……他人事みたいに言うのね」
「そう聞こえたか? もうすぐ皇位争いがはじまる、しばらく帝都は荒れるだろう。お前は邸から出るな」
「無理よ。今日、キリルと出かけるの」
 昨夜に約束したとおり、帝都劇場でオペラを観劇する予定だ。
「なんだ、相変わらず家族ごっこを続けているのか」
「ごっこ? ザシャよりもずっと家族らしいと思うけれど」
「あまり、キリルに踏み込むな。ダールベルク通りの人間は、ろくでなしばかりだ」
「あなたも含めて?」
「お前も含めて、だ」
「ふふ、お似合いね、わたしたち。ろくでなし同士だもの」
「口が減らない子どもだな。……キリルと出かけるなら、新しいドレスがある。ちょうど刺繍が終わったところだ」
 レナの部屋には、ザシャの作った人形や小物、彼が刺繍した衣類が溢れている。レナの頭にある白木蓮の髪飾りも、彼がレースから編み、縫い合わせたものだ。
 ――魔法とは裁縫のようなもの、とザシャは言う。
 命という繭から糸を紡ぎ、布と成し、縫い合わせることで奇蹟を形にする。
 だからこそ、魔法使いは鍛錬の一環として、日常的に針を持つ。軍属の魔法使いであるザシャも例外ではなかった。
 この十年、ザシャは様々なものに針を通し、レナに与えてくれた。
 強力な守護魔法の施された、文字通りレナが傷ひとつ負わないようにする衣服であり、装飾品だった。
「忙しいのに、そんな暇あったの?」
「可愛い娘のためだからな。ついでに新しい人形も作った」
「作ってもらえるのは嬉しいけど、もう一人で眠れない子どもじゃないのよ?」
「本当に? お前は寂しがり屋で、とても泣き虫だからな。邸に連れてきたばかりの頃、泣きじゃくって、勝手に寝台に潜り込んできた。うるさくて締め出したら、廊下で一晩中泣き叫んでいたものだ」
 レナは溜息をつく。
 翌日の朝、この男は悪びれもせず、義手でレナの首根っこを掴んで、キリルに預けた。そうして、自分は馴染みの貴族と賭場に出かけたのである。
 根本的に、子どもの世話ができる男ではない。実の家族とも縁遠いようで、そもそも父親という存在がどんなものか、理解していない節があった。
 ダールベルク通りにいる年嵩の娼婦や男娼、診療所の者たちの方が、よっぽどレナのことを娘あつかいしている。
 養父であるザシャが一番、親らしくなかった。
「はやく帝城に行ったら? フランツ皇子に怒られても知らないけれど」
 第三皇子フランツ。
 ザシャの直属の上司であり、戦時中から仕えてきた相手だ。従兄弟であり乳母兄弟でもある彼らは、良い意味でも悪い意味でも仲が良いことで有名だ。
「つれない。昔は、ザシャ、ザシャ、と、俺のあとを追いかけていたくせに。いつのまにか、あちらこちらに浮気ばかり」
「夜な夜な遊び歩いている浮気者はどっちなの? キリルみたいな誠実さを持ってから言って」
 ザシャは葡萄酒色をした目を、まるで猫のように細めた。
「ばかだな。この通りで一、二を争う男娼が、誠実なわけあるか。どれだけの客人を掌で転がしていると思っている」
「さあ? わたしの知っているキリルは、男娼のキリルじゃなくて、優しい幼馴染のキリルだもの」
「それは、あいつには言うなよ。……帝都劇場に出かけるのは構わないが、良い子にしていろ。そうすれば」
「そうすれば守ってくれる、でしょう? 分かっている」
 ザシャは満足そうにレナの頭を撫でた。義手の冷たさが心地良い。機械仕掛けの手で頭を撫でられることが、小さい頃から好きだった。
 抱きしめてさえくれない男は、この冷たい義手でだけ、レナに触れてくれるから。
「行ってくる」
「うん。いってらっしゃい」
 レナに背を向けて、ザシャは帝城に向かった。いつもどおり、彼が振り返ってくれることはなかった。
「ザシャのばか」
 十年も一緒にいながら、いつだって愛されているのか、愛されていないのか不安だった。少しでも愛情があるのか、それとも気まぐれに拾った猫のようなものか。
 レナは、いつまでもザシャと一緒にいたい。
 けれども、彼は違うのかもしれない。


 帝都の街は、いたるところに白木蓮の樹木がある。
 春を告げる白い花は、くるったように咲き乱れては、都を白く染めるのだ。
 帝都中に張り巡らされた水路や小川に、ひらひらと柔らかな花弁が散りゆく。その光景が美しくて、レナは何度も足を止めてしまった。
「あまり立ち止まらないでください。はぐれてしまいます」
 隣にいたキリルが、小さな子どもを叱るように言った。
 日焼けを嫌う彼は、襟元まで詰まった服を着て、絹の手袋を嵌めていた。日傘まで差す姿は、レナよりも令嬢らしく様になっている。
 昔から美しい幼馴染は、その美しさに見合う努力を忘れない。男娼である彼にとって、自分の身体は商売道具のひとつでもあるから、なおのこと。
「ごめんなさい」
 レナの生活は、いつもダールベルク通りで完結する。ほとんど通りの外に出ることはないので、つい浮足立ってしまった。
「手を繋ぎましょうか? 今日は物騒ですから」
 キリルの視線は、舗装された中央通りに寄せられていた。城砦都市である帝都の門からまっすぐに伸びているその道は、都の東と西の境目である。
 その通りへと、都の西側から多くの人々が雪崩れ込んでいた。老若男女問わず、様々な者たちが群れを成していた。
『墓荒らしを赦さない』
『魔女は火炙りに』
『今こそ女神の復活を!』
 物騒な看板を掲げながら、彼らは声を張りあげていた。軍隊のように整然と行進する様は、傍から見ると不気味だ。往来を歩く者たちは、レナたちと同じように眉をひそめて遠巻きにしている。
「墓荒らし、ですか」
 看板のひとつが気にかかったのか、キリルはつぶやく。
「何か知っているの?」
「この前、帝都の西で暴動が起きたでしょう? あれは神聖王国の墓が荒らされたことが原因です。なんでも王族の亡骸が盗まれたとか」
「それで暴動が起きたのね。西には、神聖王国の時代から住んでいる民も多いから、怒るのも無理ないわ」
 マグノリア帝国の都は、十年前まで、この地とは別の場所に構えられていた。現在の帝都は、都市国家であった神聖王国の領土をそのまま上書きしたものだ。
 帝国は、亡ぼした国家をそのまま乗っ取り、首都を遷したのである。
 それ故、帝都は東と西で住み分けがされている。
 東は帝国の色が強く出ているが、西はかつての神聖王国の街並みが残され、住まう人間も元は神聖王国の民だった人間が多い。女神を奉じる聖堂も残されているくらいなので、東と比べると異国に迷い込んだような景観をしている。
 キリルのいう墓とは、戦争の折に殺された神聖王国の王族たちの墓だ。十年前、王国が亡びたおり、女王とその子どもたちは皆殺しにされた。
 王族殺しを為した男こそ、マグノリアの悪魔、ザシャ・ダールベルク。
 天上におわす神々の世界のように麗しく、恵まれていた王国は、悪魔の手によって亡ぼされたのである。
「かつての神聖王国の民は、まだ諦めていないのかもしれません。王国の復活を」
「十年くらいでは、憎しみが消えるのは難しい?」
「十年どころか、百年でも足りませんよ。レナも神聖王国の民だったのだから、分かるでしょう?」
「意地悪ね。思い出なんて残っていないの、知っているくせに」
 レナが拾われたのは、十年前、神聖王国が亡ぼされたときだ。
 ほとんどの記憶を失くしたレナは、そのときザシャに引き取られた。
 奇妙な記憶喪失だった。日常生活に必要な知識は覚えている。帝都を歩けば懐かしさを感じ、かつての自分が神聖王国の民だったことも分かる。
 ただ、自らが何者であるのか、すっかり忘れてしまっていた。
「だって、思い出を失っても、君は神聖王国の女神に祈るから。まだ、その心は女神の御許にあるのでしょう?」
 レナは自らの銀髪に触れて、いつも身につけている白木蓮の飾りに指を這わす。
 白木蓮は、神聖王国が奉じた女神の化身とされる。
 記憶を失ってもなお、どうしようもなく好きな花だった。かつて神聖王国の民だったことを、この身体は覚えているのだ。
 女神に祈りを捧げるレナを、ザシャは何も言わず許している。
「わたしがバカなこと考えているんじゃないか、と疑っているの? ダールベルク通りに忍び込んだ人たちのように」
 ザシャが殺した者は、白木蓮の花が刻まれた腕輪をしていた。亡びた神聖王国の民であり、女神の信者である証だった。
「心配なんです。皇帝陛下が毒殺された・・・・・。これから良くないことが起きるでしょう。君が巻き込まれないか、それだけが怖い」
「他人の心配している場合なのかしら? あなた、また身請けの話を断ったでしょ。みんな噂しているわ」
「レナを置いて、何処に行けば良いのですか? 僕の可愛い妹、優しい姉さん、君だけが僕の家族なのに。ダールベルク通りが、僕の帰る家です」
「身請けされたとしても、あなたの帰る家よ。通りは、あなたを拒まない。いつだって、快く迎えてくれるはずよ」
「家を出たら、それは家と呼べますか? どれだけお金を積まれても、どんな都合の良い条件でも、あそこを出るつもりはありません」
 表情こそ穏やかなものだが、キリルの声は強張っていた。
「通りが好きなら、いつまでもいて良いの。それが、あなたが心から望むことなら。でも、わたしのことを心配してくれているなら、それを理由にしないで」
「どうして? レナが理由ではいけないのですか」
「あなたは、あなたのために生きるべきなのよ」
 優しい男だと知っている。だからこそ、レナに囚われてほしくない。彼のことを大事にして、レナより良いものを与えられる人はたくさんいる。
 レナは知っている。自分がキリルに与えられるものは、何一つないことを。
「それを決めるのは、レナではありませんよ。良いでしょう? 僕がどんな風に生きたって、君の大好きな公爵に何かあるわけではない。好きにさせてください。どのようなことがあっても、僕は後悔しません」
「キリル!」
「この話は終わりです。開演に遅れますよ」
 キリルは笑っていた。これ以上ない拒絶だった。
 やがて、帝都劇場が見えてきた。
 神聖王国時代、女神の聖堂として造られた建造物は、劇場に造り替えられた今もあちこちに当時の名残があった。
 高窓に嵌められた色とりどりのステンドグラスから、雨のように淡い光が降って、レナの足元を照らす。壁面から顔を出した、中途半端に壊された女神像が、じっとレナを見下ろしている。
 帝都劇場に来るのは初めてだが、そこには奇妙な懐かしさがあった。似たような場所を、知っている気がする。
 ふと、頭の奥が軋むように痛んだ。
 強い痛みではないが、まるで何かを訴えかけるように、繰り返し、襲われる痛みだ。
 キリルに手を引かれながら、レナは足を止めてしまう。
「レナ?」
「……ごめんなさい、少し頭が痛くて」
「珍しい。あなた、僕と同じように病気知らずでしょう? 風邪すら引かないくせに」
「わたしだって、具合が悪いときくらいあるもの。……たぶん」
「明日は槍が降るでしょうか? 本当につらくなったら、言ってくださいね。どこかで休みましょう」
「……ありがと。でも、我慢できない痛みではないから大丈夫よ。きっと、そのうち治まるもの。せっかく帝都劇場まで来たんだから、楽しまないと。今日の演目は?」
「《女神降臨譚》ですね。まあ、魔女側の話だと思いますけれど」
 エントランスには、遷都十周年記念公演の看板があった。
 演目である《女神降臨譚》は、帝国で最も有名な物語――始祖たる魔女が生まれた、神話を描くものだ。
「間が悪いわ。よりにもよって、暴動が起きたばかりのときに上演するの?」
 神聖王国のことで荒れている時期に、わざわざ女神を貶める内容を上演するのだ。
「こういうのは、ずいぶん前から予定が決まっているものですから……」
「すまない!」
 会話に気をとられていたレナは、前方から走ってきた少年に気づかなかった。
 まだ七歳くらいだろうか。すれ違いざまにレナにぶつかった彼は、そのまま劇場を飛び出していった。
「あれは……」
 よろめいたレナを支えながら、キリルが戸惑ったように目を細めた。
「知っている子?」
「いえ。とても良く似ていましたけれど、違うと思います。護衛も連れずに出歩ける方ではありませんから」
 服装から見るに、かなり裕福な家庭の子どもだろう。袖口に刺繍のされた上衣を着ていたので、もしかしたら魔法使いの血縁かもしれない。
 そもそも帝都劇場はチケット代が高く、客層も上流階級が多い。大きな商家か、軍属の魔法使いか、皇族の流れを汲むような貴族の家系か。
「一人で大丈夫なの? あの子」
 この頃の帝都は物騒だ。小さな男の子が独り歩きするには心配だった。一目でわかるほど身なりが整っていたから、厄介な事件に巻き込まれる可能性もある。
 保護者がいるのではないか、と、男の子が走ってきた方向を見て、レナは絶句した。
「ザシャ?」
 美しい女と、赤髪の男が並んでいた。
「ああ。出かけ先は帝都劇場だったな」
 ザシャは帝城に呼ばれており、観劇をしている暇はないはずだ。
 どうして、ここにいるのか、と問うことはできなかった。震える咽喉では、うまく声を出すことができない。
「もしかして、十年前に引き取った子? 可愛い子。ザシャが好きそうな、優しい顔をしている。紹介してくれないの?」
 ザシャの隣にいる女性は、まばゆい金の髪をしていた。ドレスの襟ぐりから覗く白い膚が艶めかしく、切れ長の瞳は、しっとりと濡れたような輝きを持っていた。
 幼馴染のキリルと同じ碧眼なのに、見つめられるとひどく不安になった。それはすべてを惑わせるような、妖しげな碧をしている。
「あなたには関係ない娘ですから」
「冷たいのねえ。もしかしたら、私の義娘になるかもしれないのに。ずうっとほしかったのよ、可愛い娘が」
「ばかなことを言う。俺は誰とも結婚できない、とあなたは知っているはずです。それに、もう可愛い息子がいるでしょう」
「問題ないわ、お前を邪険にしていた皇帝陛下は死んだ。フランツさえ言い包めたら、いくらでも好きにできるもの。可愛い、可愛いあの子だって、きっとお前が父親なら文句は言わない。今なら愛らしい姉もできるんだもの」
「後にも先にも、俺の子どもは一人だけですよ」
「でも、あの娘は義理でしょう? それに、皇帝陛下が死んだ今なら、お前が自分の子どもを作っても咎められないはず」
 ザシャはわざとらしく溜息をついた。
「粘りますね、珍しく」
「だって、久しぶりにお前を連れまわすことができたのだもの。いつもフランツに邪魔されるんだから。いま口説かないで、いったい、いつ口説けば良いのかしら?」
「フランツとの姉弟喧嘩に、俺まで巻き込まないでください」
「冷たいことを言わないで。大事な大事な、従姉弟のお願いなよ? ねえ、ザシャ。私のこと嫌いではないでしょう?」
 彼女はザシャの腕を掴むと、しなだれかかるように身を寄せた。ザシャはザシャで、戯れるように首元に触れた彼女の手を拒まない。
 鋭利な刃物で何度も刺されたかのように、心臓が痛かった。
 潔癖症のきらいのあるザシャは、義娘であるレナにさえ、素手で触ることを許してくれない。
 あの女性が特別だから、その手で触れることを拒まないのだろうか。
「マルティナ、もうすぐ時間になります。あなたの我儘でここにいるのだから」
「あの子は大丈夫かしら? 私と違って、とても弱い子なの。守ってあげないと、すぐにでも死んじゃうわ」
 外に行った息子を心配するよう、マルティナは零す。
「護衛に就いたのは、俺だけではありません。むしろ、あなたよりも、ずっと守りは手厚いでしょう」
「そう。なら、良いのだけれど。――ばいばい、ザシャの娘さん。次は御茶でもしましょうね」
 開演を告げる管楽器の音が鳴り響く。ザシャはこちらを振り返ることもなく、劇場へと消えてしまった。
 入口で立ち尽くすレナのことを置き去りにして、劇の幕はあがってしまう。
 女神降臨譚。
 神話をなぞる悲劇は、マグノリア帝国だけでなく、かつての神聖王国でも、たびたび上演されたという。

 《女神は悪魔に穢されて 魔女は火炙りとなる
 女神は奉じられて 聖女は奇蹟を与え錫う
 われらが女神は、いずれか》


 楽器隊に合わせて、呪いのように、おぞましい歌が紡がれる。薄暗い舞台に光があてられると、二人の女が座り込んでいた。
 ――はるか昔、天上に住まう神々の世界から、一柱の女神が地上に堕とされた。
 金髪の女が立ちあがる。女神は悪魔と交わり、魔女となった、と。
 銀髪の女が立ちあがる。女神は悪魔を退けて、聖女となった、と。
 果たして、堕ちた女神の正体は、魔女か聖女か・・・・・・
 ひとつの女神をめぐる教義の違いこそが、マグノリアの帝国と神聖王国が、長らく敵対した原因だった。
 女神が魔女となったと謳う帝国と、女神が聖女となったと説く神聖王国。
 女神の解釈をめぐって、ふたつの民は決別した。ついには魔女を祖とする帝国が、聖女を象徴とする神聖王国を亡ぼした。
 劇は続くが、まるで集中することができなかった。ザシャとマルティナが観劇していると思えば、席につくこともできない。
 気づけば、レナは帝都劇場を飛び出していた。
 ザシャの隣で笑った女、その唇の赤が脳内にこびりついている。
 どうして、ザシャの隣にいるのが、レナではないのだろう。このままでは、彼をとられてしまう。
「レナ」
「ごめん、なさい」
 劇場から追いかけてきたキリルが、心配そうに顔を覗き込んでくる。その碧い瞳は、ザシャと一緒にいた女と同じ色をしているのに、優しい光を宿していた。
「気になりますか? あの御方が」
「マルティナ様でしょう? ザシャが名前を呼んでいたもの」
 皇女マルティナ。
 毒殺された皇帝の長子にして、次の皇帝の筆頭候補だ。
 ここ数年、次の皇帝はマルティナか、軍にいる第三皇子フランツと目されていた。
 いまは隠された皇帝の死が広まれば、帝都にいる大半の者たちが、二人のいずれかを皇帝に推すだろう。
 彼らには多くの異母弟妹がいるが、その誰よりも二人こそ皇位に近い。
「三度も結婚して、三度も夫を殺した方です。今度は公爵に目をつけたのかもしれませんね。自分の父親が亡くなってすぐ、男を連れて観劇なんて。ぞっとします」
「ザシャの隣に、女の人がいるの、別に珍しいことではないの。帰りが遅い日は、いつも誰かと会っていたのも知っている」
 ザシャが邸を空けることは珍しくない。幼いレナは、ただザシャのいない夜を寂しく思うだけだったが、次第に彼が何をしているのか察した。
 明け方に帰ってきた彼からは、見知らぬ誰かの残り香がする。
 レナではない誰かと一緒にいるのだと気づいたときから、この胸はひどく痛んだが、その痛みも慣れた。
 目くじらを立てることではないのだ。
 マグノリア帝国は、かつて悪魔と交わった女神――魔女マグノリアを始祖とする。母親が降嫁した皇女であり、皇族の血を交えているザシャも、魔女の性質を色濃く受け継いでいる。
 快楽に従順で、愉しいことがすべて。
 思うままに生きる彼らは、近隣諸国からいくら蔑まれようとも、その心の性質を変えようとはしなかった。魔女の民として迫害され、彷徨っていた頃のまま、その心は奔放なのである。
 まるで、自らに流れる魔女の血――此の世で最も悪辣な毒に、侵されたように。
「でも、どうしよう。マルティナ様がザシャに嫁いだら、もう一緒にいられない?」
「レナが気にすることではありません。どうせ、君だって何処かに嫁ぎます。いつまでも公爵のもとにいられると、本気で思っていたのですか?」
 レナは十七歳になった。帝国貴族としては婚姻の適齢期である。ザシャと縁戚になれるならば、どこの馬の骨かも分からぬ養女でも良い、と考える者もいる。
 マグノリアの悪魔。
 ザシャ・ダールベルクという軍人には、それだけの価値があった。
「意地悪ね」
「君を大事に想っているからです。いつまで親子ごっこを続けるのですか? 君たちは他人ですよ」
 キリルの言うとおりだ。はじめから、親子ですらなかったのかもしれない。
 自分はザシャにとって、何なのか。
 十年前から繰り返してきた問いは、いまだ答えが見つからない。見つからないのに、何度も考えてしまう。
「甘いものでも食べましょうか。お客様から、良い店を教えてもらったんですよ。せっかく街に出たのですから、嫌なことは忘れて楽しみましょう」
「付き合ってくれるの?」
「今日は僕も休みですから。……いえ、この言い方は良くないですね。僕が、君に元気を出してほしいのです。レナは僕の妹みたいなものですから、いつだって笑っていてほしいのですよ」
「妹じゃなくて、お姉ちゃん、って呼んでよ、自称十九歳のくせに」
 ダールベルク通りに勤める者たちは、ほとんどが自分の正確な年齢を知らない。背も高く大人びたキリルは、レナより年嵩に見えるが、実のところ年下の可能性もあった。
「レナだって知らないようなものでしょう? 記憶喪失さん」
 レナの兄であり弟でもある青年は、そっと手を差し伸べてきた。手袋に包まれたその手からは、温もりの代わりに、ひんやりとした冷たさが伝わってくる。
 その冷たさは、ザシャの義手とよく似ている気がした。


 ダールベルク通りに戻ったとき、すでに日は暮れていた。
 通りの営業は始まっており、すでに賑わいができている。客の出迎えのため、華やかな衣装を纏った娼婦や男娼たちが、娼館の入口で微笑んでいた。
「遅い帰りだったな」
 通りの入り口で、ザシャは煙草を吹かしていた。あいもかわらず飄々とした態度を崩さない。
「そっちこそ、もう帰っていたの。皇女様とのオペラは愉しかった?」
 思わず、語気が強くなってしまう。
「嫉妬か? 可愛らしいところも残っていたらしい」
「今日は、帝城に詰めているんじゃなかったの。オペラなんて見ている暇はないでしょう、どうして」
「上から命令が出るまで待機になった。マルティナたちが観劇するというから、付き合わされただけだ」
「待機なら、邸に帰れば良かったのに。皇女様の護衛だって、ザシャじゃなくて、別の人がすれば良いでしょ」
「仕事だ。そもそも、俺が何処で何をしようとも、お前には関係ないだろう?」
「それは、そうだけれど……」
「だいたい、お前こそ帰りが遅い。キリル、あまり遅くまで連れまわすな。今度は許可しない」
「キリルは悪くないでしょう! 自分が勝手にするなら、わたしがキリルと出かけるのだって口を出さないでよ!」
「お前は俺のものだ。口出しくらいする」
「……っ、でも、ザシャは、わたしのものにはならないじゃない!」
 レナは青ざめる。苛立ちのあまり、言ってはならない言葉を口にしてしまった。
「公爵。レナは疲れているみたいです。お説教はそれくらいにしてください」
「甘やかすな」
「甘やかしますよ、僕は。あなたとは違いますからね。帰りが遅くなったのは申し訳なく思いますけれど、きちんと送り届けました。次もお誘いして良いですよね? それとも、あなたこそ嫉妬していますか? レナと出かけた僕に」
「言っていろ。レナ、帰るぞ」 
 ザシャに腕を掴まれて、レナは引きずられるように連れて行かれる。義手の冷たさに身震いすると、キリルが後を追ってきた。
「ついてくるな。仕事はどうした? 予約が半年先まで埋まっているだろう」
「今日は休みですよ。帰るにしたって、途中までは一緒の道です」
「察しが悪いな。なら、俺たちは邸に帰るから、お前は何処かで油を売ってこい」
「お断ります。お休みの日に僕が何をしようが、勝手でしょう? ねえ、レナ。白木蓮の花が枯れる前に、また帝都を歩きましょうね。今度は西部にある聖堂に連れて行ってあげますよ。君の信じる女神の御許に、僕も挨拶をさせて? ふたりきりが嫌なら、公爵も一緒に」
「嫌味か? 俺ほど神聖王国から恨まれている人間はいない」
「もちろん、嫌味に決まっているじゃないですか。あなたが亡ぼした国なのですから。ねえ、マグノリアの悪魔さん」
「二人とも、やめてよ。白木蓮の下で、そんな話をしないで。女神様に聞こえちゃう」
 帝都中に植えられた白木蓮は、ダールベルク通りにもある。通りの真中を流れる小川を挟むよう、たくさんの花木が並んでいるのだ。
 白木蓮は、神聖王国が奉じた女神の化身。
 その花の下で、亡びてしまった女神の国の話をしてほしくなかった。ほとんどの記憶を忘れても、レナは神聖王国の生まれで、女神への信仰は身体に染みついている。
「安心しろ、お前の女神は、俺たちのような魔女の民の話は聞かない。我らの血は、女神にとっては毒にも等しい、穢れたものなのだから。穢れた魔女の末裔の言葉に、どうして、女神が耳を傾ける?」
「意地の悪いこと言わないで」
「意地が悪いのは、俺ではなく女神様だ。なあ、レナ。お前の信じる女神様は、お前に何をしてくれる? 何もしてくれないだろう」
 レナは唇を引き結んで、ザシャが贈ってくれた髪飾りに触れた。神聖王国が奉じた女神が気に食わないならば、白木蓮の飾りなど作らないでほしかった。
 ザシャの視線から逃れるよう、レナは顔を背けた。
 ふと、花弁の散った川面が目に入ったとき、違和感を覚えた。
「赤い、白木蓮?」
 小川に浮かんだ白木蓮の花弁が、まだらに赤く染まっていた。
 まるで一枚の絵画のようだった。
 水面に浮かぶのは、頭から血を流す女性だった。
 目を閉じた姿は眠っているようにも見えるが、潰れかけた彼女の頭が、その死を確かなものとしていた。
 喉の奥から、悲鳴が零れた。その美しい顔を見たのは昼間のことだ。
「マルティナ様」
 劇場でザシャと笑っていた女性――第一皇女マルティナが、物言わぬ骸となって小川に浮かんでいた。
 執拗に頭を攻撃されたのか、後頭部が欠けて、脳みその一部が垂れている。
 川面を埋める柔らかな花弁の隙間から、どろりとした血肉が見え隠れしては、彼女の死を訴えかけてくる。
 日中は診療所で働いている身だ。怪我人や病人、果ては亡骸にも、ある程度は慣れているつもりだった。また、養父が養父であるから、ザシャが人を殺す場面にも、何度か居合わせてしまったことがある。
 だから、覚悟は決まっているつもりだった。しかし、レナの覚悟など、紙よりも薄いものだった。
 膝が笑って、立っていられなかった。吐き気を堪えることで精いっぱいだ。
「見るな」
 目元を覆ったのは、馴染みのある機械仕掛けの手だ。
 雑踏から悲鳴があがった。ざわめきは一瞬にして大きくなり、動揺した人々の声が、耳の奥で反響している。
 何もかも現実味がなかった。すべて遠い世界の出来事のようだ。
 次の皇帝の筆頭候補――皇女マルティナは、ダールベルク通りの小川で死んでいた。

 ◆◇◆◇◆

 ダールベルク通りは静まりかえっていた。明け方まで娼館に灯りがつき、賭場は客人で溢れる歓楽街は、今は死んだように眠っている。
 普段ならば公爵邸まで届く喧噪も、今はひとつも聞こえない。
「マルティナ様は、殺されたの?」
 帝城から現れた軍人たちが、小川から彼女の遺体を引き上げたのは昨夜のことだ。
 まる一日経つが、皇女の死はダールベルク通りに衝撃を与え、今夜は通りの営業を取りやめることとなった。
「軍部の連中いわく、死因は毒らしい」
「毒? 頭を潰されたからじゃないの?」
 皇族を殺すならば、頭を吹き飛ばすか、あるいは三日三晩火炙りにするか。
 魔女の血を継いだ彼らは、強靭な肉体を持ち、あらゆる病毒が効かない。皇帝が死んだときも疑問に思ったが、皇族殺しの毒など、存在しないはずだった。
「毒殺された後に頭を潰された、というのが軍医の見立てだな。――マルティナ腐っても魔法使いだ、身につけるものに守護魔法を施している。油断して頭を潰される可能性は低い」
「……頭を潰せないから、毒殺なのね。皇帝陛下と同じように、毒殺なんて。こんなの偶然と呼べるの?」
 皇帝が毒殺され、次代の皇帝と目された皇女マルティナが死んで、いちばん得をするのは誰なのか。
 マルティナと争っていた第三皇子フランツ――ザシャの上司だ。
「探偵きどりか? 犯人捜しは結構だが、安っぽい小説のようにはいかない」
「そう? 名探偵レナとは私のことかも」
「危ない真似は止せ。忘れるなよ、お前は俺のものだ。身勝手に死ぬことは赦さない。泥水を啜ってでも、どれほどの辱めを受けても生きろ。命さえあれば、俺がどうとでもしてやる」
 レナは唇を噛んだ。この前は苛立った言葉が、違う響きをもって聞こえる。
 レナを自分のもの、とザシャが言うのは、そうすることでレナを守るためだ。
 記憶を失ったレナに生きる場所を与えたのはザシャだった。彼に所有されることで、レナは今の自分となった。
 暖かな寝床、怪我ひとつすることないよう守護魔法を刺繍された衣服、飢えることのない食事。
 キリルのような家族同然の幼馴染、娘のように可愛がってくれた娼婦や男娼、ダールベルク通りで働くすべての人たち。
 幸福な十年間のすべては、ザシャがいたからこそ得たものだった。
「なにひとつ、お前の自由になるものなどない。命さえも」
 レナを構成するありとあらゆるものが、ザシャによって形づくられた。あらゆる選択肢の影には彼がいた。
 レナが自らの意志で選らんだものは、たったひとつ。
「あなたと、約束したから?」
 直後、レナは肩を揺らした。約束。その内容を、レナは憶えていない。
「思い出したのか? はじまりを」
「はじまり?」
「そう。俺とお前の、はじまりだ」
「はじまりなんて! 死にかけた孤児を拾ったときを、あなたは憶えているの? わたしだって忘れたのに」
 頭の奥で、何かが軋むような音がした。まるで、硬く結ばれた糸と糸が、無理やり引っ張られているような、そんな痛みだ。
 そうして、幻影のように瞼の裏に浮かんだのは、十年前の記憶だった。
 ――赤い炎が、聖堂を蹂躙している。
 砕けたステンドグラスが、宝石のように輝いている。泣きじゃくるレナに手を差し伸べて、約束だ、と微笑んだ男がいる。
 血を被ったような赤髪に、葡萄酒の目をした男は、悪魔のように美しかった。
  あのとき、レナはいったい何を約束したのか。
「ああ、お前の記憶はそこからなのか。憶えていないのか? 白木蓮の下を一緒に歩いたことを。白い花を集めて、俺の幸せを願ってくれたことを」
 ザシャが語っているのは、いったい誰のことか。
 心臓を握り潰されたように、胸が痛む。
 今まで語らなかっただけで、ザシャは記憶を失くす前のレナと会ったことがあるのだ。もしかしたら、親しくしていた可能性もあった。
 ザシャは、今のレナが知らない、昔のレナのことを知っている。
「どうして、わたしを拾ったの?」
 なぜ、彼はレナを拾って、十年間も所有してくれたのか。その理由が、きっと忘れてしまった記憶に隠れている。
「理由が必要か? 不安を消すために」
「怖いの。このまま、取り返しのつかないことが起きそうで」
 ザシャと過ごした十年間を、永遠に続くものと信じたかった。
 うつむいたとき、レナは石畳を叩く蹄の音を耳にした。冷たい音は邸の前で止まって、玄関扉が乱暴に開かれる。
 先ぶれもなく訪れたのは、黒い軍服の男たちだった。
「忘れるなよ。俺は、お前だけは裏切らない」
 ザシャは囁いて、ゆっくりと玄関を見据えた。
 軍服の男たちは、一斉に銃を掲げた。
「ザシャ・ダールベルク。貴殿に、マルティナ様殺害の嫌疑がかかっている」
 レナは青褪めて、男たちに抗議しようとする。されど、冷たいザシャの義手が、レナの口元を塞いだ。
「ようやく、か。否定したところで、連れていくのだろう? ダールベルク通りで死体があがった時点で、遅かれ早かれ、こうなるとは思った」
「あの日、マルティナ様と一緒にいたな」
「劇場で別れた。だが、疑われて当然だな」
 ザシャは両手を差し出した。いつもと変わらず、飄々とした笑みを崩さない。
「さて、俺の可愛い名探偵。お前は真実など探さず、良い子にしていろ」
 レナは養父を見あげた。彼の瞳には不安も恐怖も、憂いもなかった。レナはすがりつきたくなるのを堪えて、うつむくことしかできなかった。
 帝歴二七九年。
 皇女マルティナ殺害の嫌疑で、ザシャ・ダールベルク公爵が拘束されたのは、静かな夜のことだった。


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