マグノリアの悪魔

モドル | ススム | モクジ

  第三幕 皇族殺し  

 
 マグノリア帝国史上、最も陰惨な時代の幕開けには、美しい皇女の死があった。
 春を告げる白木蓮の花が咲く頃、皇女マルティナの遺体は見つかった。
 帝都いちばんの歓楽街、ダールベルク通りの小川に彼女は浮かんでいた。眠っているようにも思えたが、その身に流れる魔女の血が、川面の花を染めゆく。
 容疑者として捕縛されたのは、ザシャ・ダールベルク。
 ダールベルク通りの主にして、公爵の位を持つ貴族でもある。否、彼を示すに最もふさわしい言葉は別にあった。
 マグノリアの悪魔。
 血を被ったような赤毛に、葡萄酒の目。
 天上の神々が手塩にかけたのではなく、悪魔が端正込めてつくったかのような、美貌の男だった。
 十代のはじめから軍属となった彼は、降嫁した皇女を母に持つ、優れた魔法使いでもあった。
 第三皇子フランツのもと頭角を現し、軍部でいくつもの戦果をあげる。
 最大の功績は、神聖王国の女王の首を獲ったことにある。
 水の都とも謳われた城砦国家に、女王の夫の一人として潜入した彼は、女王を含めた王族を皆殺しにした。
 王族が与える治癒の奇蹟によって、周辺諸国に影響力を持っていた神聖王国は、ただ一人の青年によって陥落したのである。
 そして、彼はレナ・ダールベルクの養父でもあった。
 戦災孤児だった彼女を養女に迎えたのは、ザシャが十九歳、レナが七歳のときだった。義理の親子であった彼らについて、とある興味深い記録が残されている。
 ダールベルク通りの男娼キリルの日記は語る。
 ふたりはまるで親子に見えず、年の離れた恋人のようでもあった、と。
 その残虐さで知られる男は、彼女といるときだけ、まっとうな人間の顔をしていた。年の離れた恋人を溺愛する、ごく普通の男のように。
 されど、彼らの関係は行き止まりで、幸福な未来など存在しなかった。許されざる二人は、坂を転がり落ちる石のように、最悪の結末に至る。
 そうして、遠い日に彼らが交わした約束は、帝国に牙を剥いたのだ。

 ◆◇◆◇◆

 暗幕の垂らされた部屋は、日中でありながらも薄暗い。オイルランプの光だけが、灯火のように浮かんでいた。
 ダールベルク通りで、いちばん人気を誇る娼館《廃園》。
 男娼キリルの居室は、館の最上階に設けられている。
 教養深く、学者や貴族、果ては皇族からも指名される彼の室には、そこかしこに本が並べられており、小さな図書館のようだ。
 キリルは後片付けが得意・・・・・・・なので、それだけの本があっても、雑多な印象はないが。
 この部屋は、レナにとって第二の家のようなものだ。キリルがいないときも遊びに来るので、正直なところ隅々まで把握している。
 たとえば、幼い頃のレナが書いた手紙を、失くした、なんて言いながら、本棚の奥にこっそり隠していることなど。
 大切にしたいものほど隠して、腕のなかに仕舞い込もうとする。この幼馴染は、昔から、そういった気質を持っている。
「公爵が捕縛された、ね。それで僕のところに来たのですか? 僕、本当ならば寝ている時間なのですけど」
 寝台から、キリルのくぐもった声がする。
 昼夜逆転の生活を送っている彼は、通りの営業が行われなかった昨日も、夜遅くまで起きていたらしい。
 一緒にオペラを観に行ったときが、特別だったのだ。
「ごめんなさい。起こしたのは悪いと思っている」
「口だけの謝罪は要りませんよ、反省なんかしていないくせに。そもそも、レナだって診療所の仕事があるでしょう?」
 日中のレナは、ダールベルク通りにある診療所で働いている。また、併設された学習所にて、小さな子ども向けに、読み書きや教養の授業も行っていた。
「みんなに追い返されたの。こんな日に来るんじゃないって、怒られて」
「ああ。それは皆が正しいですね。君、公爵のことで頭がいっぱいで、患者の治療とか間違いそうです」
「そんなことないもの」
 レナは目を逸らして、自信なくつぶやいた。
「そんなことありますよ。何年の付き合いだと思っているんですか? 君が、ぴいぴい泣いてばかりだった頃からですよ」
「とにかく! ザシャの潔白を証明するために協力してほしいの」
「はあ。探偵ごっこなら、余所でどうぞ? むかし君に貸した小説みたいにはいきませんよ。だいたい、君といったら、最後まで読まずに返してきましたし」
 毛布から顔だけ出して、キリルは眠たそうに欠伸をひとつ零す。
「だって。本当の犯人を探して、ザシャを取り戻さないと」
「公爵は、君が危ない真似をすることを望みません。それに、本当に、公爵が皇女を殺したのかもしれませんよ」
 レナとて、頭では理解している。
 マルティナは優れた魔法使いだった。ただの人間が、彼女を殺すことができるとも思えない。
 劇場でマルティナと一緒にいたこと、遺体の発見現場がダールベルク通りであったことを考えれば、真っ先に疑われるのはザシャだ。
「ザシャには、そんなことをする理由がないの」
「君が知らないだけで、公爵にはマルティナ様を殺す理由があったのでしょう。そう考えるのが普通です」
「……違う。ザシャは犯人じゃないもの」
「なるほど。君は、そう信じたいのですね?」
 生返事ばかりで、キリルはまともに取り合ってくれなかった。
「今日は、意地悪なのね」
「寝ているところを起こされたら、意地悪にもなります。……まあ、でも。僕は君に甘いので、折れてあげますよ。――犯人は公爵ではない、と仮定します。それで? 君は僕に、何を望んでいるのですか?」
 キリルは血統書つきの猫のように微笑む。ザシャはレナのことを猫と呼ぶが、本当の猫はキリルみたいな男のことだ。
 基本的には優しい男だが、美しく気まぐれな面もあり、愉しいことに目がない。こういうとき、彼も魔女の民なのだと思い知る。
 かつて神聖王国の民であったレナとは、根本的に違う生き物なのだ。
「もう一度、わたしと出かけましょう? マルティナ様の死体があったダールベルクの小川。もとを辿ると、帝都劇場の地下に繋がっているの」
 レナは寝台の隅に羊皮紙を広げて、万年筆で帝都の地図を描く。
 この都は、十年前まで神聖王国そのものだった。
 小さな都市国家。清らかな水の流れる、いと高き天上から堕ちた女神のための箱庭。
 水の都とも謳われた都市は、蜘蛛の巣のように、水路や小川が張り巡らされている。
「川の上流は、帝都の裏にある山ですよ」
「ええ。でもね、劇場の地下に入ると、その川は極端に狭くなるの。あそこは水路の分岐点のひとつで、水流を調節する機能があるのよ。もしマルティナ様が上流から流されてきたなら、必ず劇場の地下で引っかかる」
「偶然、うまく流れた可能性は? マルティナ様はそこまで大柄ではありません」
「仮に流れたとしても、狙ってダールベルク通りの小川に流すことはできない。分岐した水路の何処に行くか限定できないもの」
 劇場の地下は、上流からの水を複数の水路に分ける。
 帝都の中には、そういった分岐点がいくつも存在すること、それらがどのように張り巡らされているのか、おそらく犯人はすべて知っていた。
「彼女の死体はダールベルク通りまで流された。つまり、劇場からダールベルク通りに至るまでの何処かで、マルティナ様の遺体は川に落とされた、と?」
「無理よ。劇場からダールベルク通りの小川まで、水路はずっと地下を潜っている。だから遺体を流すことができるなら、劇場の地下以外はないの。マルティナ様を殺したのも、きっとあそこね」
 地図上に水路の巡りを記し、レナは帝都劇場に丸をつける。
「……君は、どうして水路のことを知っているのですか?」
 キリルは唇を指で叩く。子どもの頃から変わらない、考え事をするときの癖だ。
「常識でしょう? こんなこと」
「帝国が公にしている資料では、都の構造について確認することはできません。神聖王国時代の記述がある資料は、帝城が厳重に保管しているので、難しい許可を得ないと見ることもできないのです」
「でも、知っているのよ。キリルが教えてくれたんじゃないの?」
 幼い頃から、キリルは聡明な子どもだった。ダールベルク通りにある学習所で一緒だったとき、何でもレナに教えてくれた。
 レナが一番に教えを請う相手は、今も昔もキリルだ。
「いいえ。だから、その知識は、君が公爵に拾われる前に身につけたもの」
「そんなこと言われたって。わたし、憶えていない。何処で、誰に、こんなことを教わったかなんて。みんなが知っていることだと思っていたのよ」
「レナ、やはり君の記憶喪失はおかしい。自分にまつわることだけ忘れて、他のことは憶えたままなんて。もし、そんなことができるとしたら、それは……」
「魔法?」
 レナの記憶喪失には、奇妙な点が多い。自分の生い立ちや家族について丸々忘れてしまったが、他の知識は欠けることなくある。
 まるで誰かにとって都合の悪い記憶だけ、忘れさせられたように。
「誰かが、君に魔法をかけたのです」
「何のために?」
「分かりません。レナ、本当の君は、いったいなのですか?」
 レナは首を横に振った。レナが口にできる答えはひとつしかない。
「わたしはザシャの義娘よ。……それじゃあ、ダメなの? お願い。劇場の地下に入れるように手配してほしいの。あなたのお客様には、それができるでしょう?」
 キリルは顔が広い。仕事を通じて、数えきれないほどの伝手を持っている。
「珍しいですね、君がそんな風に僕を頼るのは。だって、仕事をしている僕のことは嫌いでしょう? 君が慕ってくれるのは、幼馴染のキリルであって、男娼の僕ではない」
「嫌いじゃない。でも怖いと思っていたの、わたしの知らないキリルだもの」
 レナの知っている彼は、兄のように、あるいは弟のように思っている家族だ。男娼として仕事をする彼のことは、別世界の人のように感じていた。
「残酷なことを言いますね。君といる僕も、仕事をしている僕も、同じ僕なのに。君は勝手に差別する」
「そうね。わたし、ダールベルク通りのこと、ぜんぜん分かっていなかった。キリルたちの仕事だって、本当は何も。……ザシャがいないとダメよ。ここを潰すわけにはいかないの。あなたがいる、お世話になった人も、たくさん」
 レナだけでは、ダールベルク通りを維持することも、働く者たちを守ることもできない。しばらくは保たれるかもしれないが、いずれダメになる。
 ここの主は、ザシャ・ダールベルクでなければならない。
「ばかですね」
 上半身を起こして、キリルは自分が被っていた毛布を投げてきた。降ってきた毛布で視界が薄暗くなったと思えば、そのまま毛布ごと抱き寄せられる。
「ひどい。こっちは真剣なのに」
「だって、ばかでしょう? 僕たちには、僕たちなりの生きる道があります。侮辱しないでください、弱者ではないのですよ。自分の命の使い方くらい、自分で責任を持てます。そんなことは、学習所のおチビさんたちでも弁えています」
「痛い」
 毛布越しに背を叩かれて、レナは情けない声を洩らす。
「ここで一番弱くて、一番守らなくてはいけないのは君ですよ」
「弱いのは本当のことだけど。そう言われると、傷つくわ」
「傷つきませんよ、僕が守ってあげますから。――ねえ、レナ。君のためなら、僕は銃弾の雨に打たれることも、剣の山に立つことも、かつての魔女のように火刑にされることだって、ためらいません」
「どうして、そういうこと言うの。わたし、キリルのために、そんなことできない」
「知っています。君が命を賭けるのは、僕ではなく公爵のため。……だから、対価をください。僕が君を守るのは、対価があるからです。ずるい女。そうしたら、君の心は軽くなるのでしょう?」
 キリルは自らの頭を叩く。いつもレナが髪飾りをつけているあたりだ。
 恐る恐る、レナは自らの髪飾りに触れた。毎日欠かさずつけている白木蓮の飾りは、ずっとレナの宝物だった。
 はじめてザシャが作ってくれた、十年も大切にしてきた髪飾りだ。
 だが、ザシャの存在には代えられない。
「わたしのお願い、叶えてくれる?」
 キリルは微笑んで、白木蓮の髪飾りを受け取った。


 夕方になると、レナとキリルは帝都劇場に向かった。
 エントランスに入ったとき、レナは覚えのある頭痛に襲われた。痛みをこらえるよう、こめかみに指をあてる。
 この前、キリルと観劇に来たときと同じだった。
 頭の奥が締めつけられるように、何かを訴えかけるように痛むのだ。
 瞬きのうちに、視界が知らない景色に塗りつぶされていった。
 そうして、レナはここではない何処かの光景を見た。眼球、あるいは脳に直接、鮮やかな場面が焼きつくようだった。
 劇場とよく似た造りの建物だが、まったく同じ場所ではないのだろう。壊されることなく、完璧な形で存在する女神像が、その証拠だった。
『お祈りはね、こうやってするんだよ。女神様に届きますように、って』
 舌足らずな、幼い少女の声がした。聞き覚えがあると思ったのは、レナ自身の声と似ているからだった。
『ばからしい。俺は女神に祈らない。祈ったところで、女神は誰も救わない』
 誰かが、女神像を見上げている。しかし、薔薇窓から零れた光のせいで、その人の姿かたちは分からなかった。
『お前は知っているか? この都の外では、毎日、毎日、人が傷つき、死んでいく。踏みにじられて、尊厳すら奪われて、救われることはない』
『あなたも?』
『そうだな。俺も、踏みにじられて、奪われてばかりだった。本当の意味で、俺を救ってくれる者はいない。……もう、どうでも良いことだが』
 淡々とした声には、諦めが滲んでいた。
 言葉どおり、どうでも良いのだろう。どのような悲惨な目に遭っても、この人は気にしない。
 痛みさえ感じられぬほど、深く傷つき、立ち直れなくなっている。
『なら、わたしが救ってあげる。女神様の代わりに、あなたのこと』
 そう言ったとき、その人は笑ってくれた。
 顔も分からない相手だというのに、その笑顔が、あまりにも優しく、綺麗なものであったことを憶えて――。
「レナ!」
 強く肩を揺さぶられて、レナは我に返った。
「あっ、わたし、いま……」
「しっかりしてください。公爵の潔白を証明するのでしょう?」
「ごめんなさい。ええと、帝都劇場の支配人さん、キリルの知り合いなのよね?」
「僕が店に出た頃からのお客さんですよ。僕と寝ても、生きている人」
「……自分でそういうこと言うから、誤解が解けないのよ。客殺しだって」
 キリルには、共寝をすれば幸福のあまり死人が出る、という不穏なうわさがある。
 人気の男娼であり、高値の花であるからこそ、実しやかに悪評が囁かれるのだ。キリルは気にも留めないが、家族同然の青年を悪く言われるのは嫌だった。
「仕方ありませんよ、本当のことですから。みんな殺してしまうんです」
「笑い事じゃないのよ、もう」
 通常であれば、夜の公演を行っている時刻だが、あまりにも人気がなかった。場内は閑散として、まるで眠っているかのようだ。
「キリル! よく来てくれたわ」
 仕立ての良いドレスの女性が、エントランスで迎えてくれる。劇場の支配人である彼女は、うっとりと目を細めた。
「お忙しいところ、ありがとうございます」
「良いのよ、あなたに会えるなら! 地下に入りたいのよね? あそこは私たちではなく帝城の持ち物なの。鍵は預かっているけれども、たまの点検をするのも帝城の人間だから、詳しいことは何も」
 支配人は忍ばせるように、地下の鍵をキリルに渡す。
「このことは、僕とあなたの秘密にしてくださいますか?」
「もちろん、私とあなたの仲だもの。ダールベルク通りの営業は大丈夫? 軍部が押し入った、とうわさになっているわ。そちらのお嬢様、ザシャ様の娘さんでしょう? うちもしばらく営業はできないし、なんだか変ね、最近」
「営業できないんですか? 遷都十周年の公演がはじまったばかりなのに」
 思わず声をあげると、支配人は微笑んだ。
「見に来てくれていたの? なら、この前の騒ぎは知っているでしょう」
「あの日はレナの具合が悪くなって、途中で退席してしまって」
「まあ、そうだったの。新聞も読んでいない?」
「ええ。少し慌ただしくて」
「そうよね、大変なときだもの。帝都の西に集まっていた連中が、劇場に押し入ったの。劇は中止になって、対応がようやく終わったくらいなのよ」
「お客さんに怪我は?」
「なかったと思うけれど、ひどい混乱だったから、ちょっと自信ないわ。いやね、この前から。神聖王国の民なんて、やっぱりさっさと追い出すべきだったんじゃないかしら。下手に保護するからつけあがるのよ」
 現在の帝都は、もともとは神聖王国そのものだった。
 十年前に生き延びた神聖王国の民は、融和政策の末、帝国の民となった。帝国はかつての神聖王国の民を隷属させるのではなく、時間をかけて懐柔することにしたのだ。
 実際、つい先日まで帝都はうまく回っていた。
 西と東で住み分けをし、女神を奉じることも禁止しなかった。極端に彼らを弾圧することはなく、手厚く保護していた。
 故に、今になって暴動が起きたことが信じられない。
「神聖王国の王墓が荒らされたと言うけど、私たちには関係ないもの。いい迷惑」
「王族の亡骸・・が盗まれたっていう?」
 たしか、墓荒らしを契機に、暴動が起きるようになったのだ。
「亡骸?」
 首を傾げた支配人の頬に、キリルが口づける。
「鍵、ありがとうございます。また会いに来てくださいね?」
 流れるような口づけに、レナは溜息をつく。
 やはり、仕事をしているときのキリルは苦手だ。家族のように親しい幼馴染ではなく、レナとは別世界を生きる人のように感じてしまう。
 劇場の奥、誰も近寄らないような場所に、地下に続く扉はあった。
「鍵を借りた意味、なかったみたいですね?」
 扉の鍵は、銃弾でも打ち込まれたのか、無理やり壊されていた。まるで、この場所で何かが起きたことを物語るように。
 オペラの上演中であれば、銃声は音楽にかき消される。観客たちは、地下で起きた異常など知りもしなかったであろう。
「……行きましょう」
 ランプを頼りに、レナたちは階段をくだった。
 地下空間は薄暗く、明かりがないと歩くこともできない。こぽりこぽりと水の流れる音がして、肌に湿気がはりつく。
「血がありますね」
 入ってすぐ、石造りの床に血痕があった。色褪せているが、ここで惨たらしい出来事があったことを感じさせる。
 マルティナは、毒殺されたあと、頭を潰されたという。
 つまり、死因は頭部破壊ではなく、毒だった。
 優秀な魔法使いでもあった彼女は、身に纏うものに守護魔法をかけていた。故に、魔法使いにとっての致命傷――頭部の破壊などというヘマはしない。
 犯人は、彼女の頭を潰すことができないと分かっていた。だから、毒を使った。
「劇場が暴動で混乱しているとき、犯人はマルティナ様をここに連れ込んだのね」
 ザシャが拘束されるのも無理はない。
 帝都劇場では、ザシャとマルティナを目撃している客も多かった。劇場場を飛び出したマルティナの息子も、二人が一緒にいたことを証言できる。
 彼女の死体が、ダールベルク通りの小川に流れたことも含めて、疑うには十分だった。
「マルティナ様が死んで、いちばん得をするのは誰だと思いますか?」
 なにより、ザシャの上司は、マルティナと皇位を争っている。
「第三皇子フランツ様。ザシャの上司で、あなたの上客ね。通りまで会いに来るくらいだから、よほど気に入られているんでしょう?」
 キリルは苦笑する。
「あの人が僕のところに来るのは、僕を気に入っているからではありませんよ。ダールベルク通りのことを、探りに来ているのです」
「……? 通りのことなら、ザシャに聞けば良いじゃない。自分の部下なのに」
 まして、ふたりは上司と部下である以前に、従兄弟であり乳母兄弟なのだ。彼らの仲が良いことは、良くも悪くも有名な話だった。
「あそこはあそこで、複雑な関係ですから。もし、黒幕がフランツ第三皇子なら、それこそ犯人は公爵になりますよ? フランツ様に命じられて、マルティナ様を殺した」
「決めつけるのは早いと思う。――キリル、言っていたでしょう? 神聖王国の王墓が荒らされて、王族の亡骸が盗まれた、と。劇場にも暴動が押し入った」
 神聖王国の民であった者たちが、帝国への恨みを募らせて、マルティナを殺したのかもしれない。
「亡ぼされた国の復讐ですか」
「この前、ザシャが殺したのも神聖王国の人間だったもの。あの死体、どうなったの?」
 皇帝が毒殺された夜のことだ。
 娼館までザシャを迎えに行くと、彼は神聖王国の支持者らしき者を殺していた。彼はネズミと言ったが、何を目的に潜んでいたネズミだったのか。
「どうもできませんよ。公爵が頭を潰したせいで、魔法で記憶を抜き取ることもできませんでしたから……」
 言いかけて、キリルは眉をひそめた。レナもまた、彼と同じ答えに辿りつく。
「いくら魔法使いでも、頭が破壊されたら、死体から真実を探すことはできない・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・。だから、犯人はマルティナ様の頭を潰したの? マルティナ様は、犯人にとって不都合なものを見ていたってこと? それは何?」
「わざわざ頭を潰したのならば、そうなのでしょうね」
 死人には語るべき口がない。
 だから、魔法使いは、死体の頭から記憶を抜き取るのだ。
 頭部さえ損傷していなければ、マルティナを殺した犯人とて、すぐに判明した。容疑だけで、ザシャが逮捕されることはなかった。
「レナ、探偵ごっこは終わりにしませんか?」
「嫌よ」
「このまま関わったら、命の危険があるかもしれない。こんなもの、公爵に守られて、のうのうと生きていた君が首を突っ込んで良い事件ではありません」
「ザシャを取り戻したいの。……家族なのよ。孤児だったわたしを拾って、十年間も育ててくれた。大事にしてくれた。今度は、わたしが助ける番だから」
 癇癪を起した子どもを宥めるように、キリルは首を横に振った。
「公爵が君にしたことは、大したことではありません。君を育てたのは、ダールベルクの娼婦や僕です。公爵は養父として失格でしょう」
「そんなこと、言わないで」
「あの人は父ではなかった。だから、君が公爵に向けるのは、親への愛情ではありません。もっと性質が悪くて、もっと不誠実なもの。レナ、あの人だけは愛してはいけない。あれは悪魔のような人だ、君が身を滅ぼすだけです」
 キリルは見透かしていた。
 膿んでしまった、レナの恋心を。あの人が好きで、気を引きたくて、強く抱きしめてほしいと願った心を。
 決して告げることのできない恋だった。それでも、棄てることができなかった。
「ばかですね。どうして、僕を好きにならなかったのですか。身近にいる男ならば、僕でも良かったでしょう? あんな酷い人に恋をしたところで、同じ気持ちを返してはくれません」
 レナは、この恋心に期待しない。
 芽生えてしまった想いは、どうしようもないほど爛れて、膿んでしまった。甘い恋心の面影はなく、ひたすらに痛みを齎す、癒えることのない傷のようなものだ。
「報われなくても良いの。だって、恋は信仰と同じよ。見返りを求めない祈りだと、わたしは思っている。好かれたいから恋をするわけでも、振り向いてほしいから惹かれるわけでもないの。……わたし、ザシャのことなら、何だって赦してしまうもの」
「それは信仰ではなく、病気、と呼ぶのですよ」
「なら、一生治らなくて良いの」
 キリルは額に手をあて、呆れたように溜息をつく。
「ばかですね、つける薬もない。……もう行きますよ。こんなところ、長居するべきではありません」
 結局、ここでマルティナが殺されたであろうことしか、分からなかった。
 新しい手掛かりがない。レナは藁をもつかむ思いで、現場を見渡した。隅々まで目を凝らして、ようやく、地面に転がっているものを見つける。
 それは白い塊だった。
 白木蓮の花のような白ではない。薄っすらと黄ばんで、指で突くと崩れてしまいそうなほど脆くもあった。
「レナ」
 レナは少しだけ迷ったあと、白い塊をハンカチに包み、袖口に仕舞った。
 ダールベルクの邸に戻れば、馬車が留まっていた。紋章を見るに帝城からの遣いだ。
 不思議に思ったレナたちに、馬車の前に立つ男が礼をとった。
「遷都十周年を祝した式典です。ご参加くださいませ、ダールベルクの御令嬢」
 差し出されたのは、帝城からの招待状だった。

 ◆◇◆◇◆

 帝城。もとの名を女王の聖域、あるいは神域。
 その身に癒しの奇蹟を宿したという、神聖王国の女王ならびに王族の暮らしていた場所であった。
 十年前、帝国が神聖王国を亡ぼしたとき、そのまま帝城に塗り替えられてしまったが、そこかしこに当時の名残があった。
 装飾や意匠には、神聖王国時代ものが色濃く残されており、帝都の西部――神聖王国の街並みを残す区域と雰囲気が似ている。
「緊張しているのですか? 浮かない顔ですよ」
 キリルの気遣いに、レナは困ったように眉を下げた。
「ザシャの代わりなんて気が重くて」
 ザシャは皇女マルティナ殺しの嫌疑で拘束されたが、犯人と確定したわけではない。
 公爵家であるダールベルクを無視することは、帝城もできなかったのか。はたまた、別の思惑があるのか。
 こうして、養女であるレナが式典に招待される運びとなった。
「まあ、ただでさえ悪趣味な式典ですからね。かつて神聖王国の民だった君にとっても、面白くはないでしょう?」
 遷都十周年記念式典。
 神聖王国が亡ぼされ、帝国に乗っ取られてから十年の節目である。参加するのは皇族、貴族、軍のお偉方ばかりと聞いている。
「わたしにはもう、神聖王国の民を名乗る資格はないから」
「そうですね、売国奴みたいなものですから。君は、薄情な人です」
 にっこり笑うキリルは、レナが反論できないことを知っている。
 神聖王国の民でありながら、帝国貴族の養女となった。それも、神聖王国を亡ぼしたザシャ・ダールベルクに引き取られたのだ。
 レナは憶えていないが、ザシャが本当の家族の仇である可能性すらある。彼は直接、あるいは間接的に、多くの神聖王国の民を殺している。
「そんな薄情者に付き合って、こんなところまで来てくれたのね。頼りにしているわ、優しいお兄様」
「君ときたら、都合の良いときだけ、僕を兄と呼ぶのですから」
 兄、あるいは弟のように育った幼馴染は、美しい碧眼を細めた。
「ごめんなさい。でも、キリルが一緒に来てくれて良かった、というのは嘘じゃないの。ザシャは慣れていたみたいだけど、わたし、こういう集まりに参加したことないから」
「公爵は昔の経験でしょう。もとは皇族に近い立場でしたから」
「ザシャのお母様が、皇女様だったのよね? お会いしたことはないけれど」
 ザシャにとって、マルティナやフランツは従姉弟であり、毒殺された皇帝は伯父にあたるのだ。
 世が世ならば、ザシャにも皇帝への道が開かれた。
 帝国の皇位は、皇族の血を継ぐ魔法使いに与えられる。
 重要なのは、直系であることではない。魔女の血が色濃く顕れていることこそ、一番に求められるのだ。
 ザシャのような皇族の血が流れる魔法使いは、帝位への可能性を持つ。逆を言えば、皇子、皇女であろうとも、魔法使いでなかった者は皇帝になれない。
「公爵の母君は、君が拾われた頃には、もう殺されていましたから。ダールベルク家で生き残っているのは公爵だけ。みんな皇位争いに巻き込まれて、皆殺しにされました」
「皆殺し?」
 思わず耳を疑ったレナに対し、キリルは何てことのないように続ける。
「公爵には、帝国に復讐する動機があるのです。だから、僕はマルティナ様を殺したのが公爵でも驚きません。皇帝となりたいフランツ様の望みとも合致する。……君は疑問に思ったことがあるはずです。なぜ、公爵の家族と会わなかったのか。君とふたりで小さな邸宅に住んでいるのも奇妙な話です」
 引き取られてから十年、ザシャの家族を見たことはない。
 疑問を抱きながらも、レナは気づかぬふりをしてきた。ザシャの家族のことなど、知りたくもなかったのだ。
 いくら恋い慕っても報われないのに、家族という居場所まで奪われたくなかった。
 血の繋がっていないレナでは、きっと血の繋がった家族に敵わない。
「……あのね、このドレス素敵でしょう? ザシャが刺繍してくれたの」
 レナは両手でドレスの裾を掴んで、見せびらかすようにくるりと回る。
 裾にかけて広がった花の刺繍は、その道の職人が施したものと、何ら遜色ない仕上がりである。
「いきなりどうしたのですか? 知っていますよ。あなたの着ているもの、身につけているもの、すべてに公爵の手が入っている。宝物だと言った白木蓮の髪飾りも同じだ。そうすることで、弱いあなたを守っているつもりなのでしょうね」
 魔法使いの刺繍には、ある種の魔法が宿される。
 だから、レナが身につけるものすべてに、ザシャは刺繍をする。それらは、レナを守護する強力な魔法となっていた。
 この十年間、レナは文字どおり傷ひとつ負わなかった。
「ザシャは、わたしのために色んなものを作ってくれた。裁縫をしているザシャは好きなの。でも、他のザシャは大嫌い。だって、わたしのためのザシャじゃないもの」
 レナにとっての彼は、軍属の魔法使いでも、公爵でもなく、自分を拾ってくれた男だ。ただの男である彼以外は要らなかった。
 ただの男であれば、そこにレナだけの彼、と夢を見ることできた。
「公爵が針をとるのは、魔法使いだからですよ。裁縫は魔法使いの嗜みですからね。君が特別なわけではない」
 魔法とは、命という繭から糸を紡ぎ、布と成し、裁ち、縫い合わせたもの。
 レナには理解できない感覚だったが、魔法使いたちにとって、魔法と裁縫は限りなく重なるものらしい。
 ザシャが針をとるのは、商売道具を手入れするのと同じだ。キリルが肌を磨いて、教養を身につけることと変わらない。
 知っている。本当は、ザシャの特別ではないことを。
 だから、レナは忘れてしまった記憶を求めない。その記憶が、誰かの魔法によって奪われたものならば、一生、解けないでほしい。
 魔法が解けなければ、特別でないレナでも、きっと彼の隣にいられる。
「魔法は嫌い。裁縫みたいなものなら、きっと、いつか糸が解けてしまうもの」
「糸が解けたら、君の記憶も戻るかもしれませんよ? 忘れるとは、消えるという意味ではありません。頭の奥で眠っているだけ」
「思い出したいと願ったことなんて、一度もないの。昔の記憶なんて要らなかった。ザシャがいるなら、それだけで幸せだったから」
 レナは、この十年間を愛している。過去など要らなかった。ザシャに拾われた自分以外には、もうなりたくなかった。
「だから、ザシャを取り戻すの」
 公爵邸に保管してある白い塊を思い出す。劇場の地下で拾ったそれが、マルティナの死に繋がる手がかりだ。
 皇族殺しの謎を解いて、ザシャを連れ帰る。
 幸せだった日常を取り戻すのだ。


 式典会場は、入る前から熱気が伝わってくるようだった。
 職人が丹精込めて造った空間は、レナの知る何処よりも贅を凝らしていた。ダールベルク通りの娼館や賭場も瀟洒なものだが、やはり帝城とは趣が違う。
 会場に入ろうとすると、勢いよく少年が飛び出してきた。
 皇族には多い、輝くような金髪に、帝都劇場でぶつかった少年の姿がよみがえる。
「マルティナ様?」
 少年の顔は、ダールベルク通りの小川で死んでいた皇女マルティナと瓜二つだった。
 マルティナは三度結婚し、三度夫を殺している。
 たしか、彼女は最初の夫との間に、男児をひとり設けている。この少年はマルティナの遺児だろう。
「エドガー皇子」
 少年は唇を引き結んで、逃げるように走り出した。傷つくことがあったのか、涙を我慢するような仕草に、ひどく胸が痛んだ。
 ザシャに引き取られたばかりの、泣き虫だった自分を重ねてしまう。
「……っ、キリル、ごめんなさい! 式典が始まる前に戻るから!」
 エドガーは会場近くの控え室に入ったよう。続けざまに飛び込めば、不機嫌そうな視線が突き刺さる。
 誰もいない部屋のなか、彼はひとりきり立っていた。
「慌ただしい娘だな」
「ぶつかったところ、痛くありませんか?」
「痛くない。マルティナと知り合いか? さっき、あれの名を呼んだだろう。あれが魔法使い以外に興味を持つとは思えないが。息子ですら放り出した女だぞ」
 エドガーは、実の母親のことを他人のように語る。
 皇子エドガーの名は、悪い意味で有名だ。
 皇族でありながら魔法使いとなれず、はじめから皇位継承権を与えられなかった不遇の皇子。
 最も魔女の血が薄い皇子だった。
「マルティナ様とは、偶然、顔を合わせたことがあります」
「なるほど偶然か。そうだろうな。ザシャが、あなたとマルティナを会わせたがるとは思えない。ねえ、レナ・ダールベルク」
「わたしのこと、御存じだったのですね」
 ザシャが所属している隊は、皇族の警備を担っている。直属の上司である第三皇子フランツだけでなく、エドガーとも面識があって当然だった。
「ザシャの養女でしょう? 彼はね、私にだけ、こっそりあなたの話をしてくれる。よほど大事にされているみたいで、羨ましい限りだ。……ねえ、ザシャは教えてくれなかったけれど。どうして、彼はあなたを引き取ったの? 家族を奪われた人が、ただの女の子を拾うなんて。殺されたザシャの家族の代わり?」
「わたしはザシャの家族を知らなかったので、代わりかどうかも分かりません」
「ダールベルクの悲劇は有名なのに、あなたは知らないのか。いまと同じで、とても恐ろしいことが起きた。皇帝の座が空くと、いつも悲劇が繰り返される」
 もう二十年も前のことだという。
 毒殺された皇帝は、自らの妹が嫁いだ家――ダールベルク公爵家を皆殺しにした。
 皇位争いに勝つため、皇帝は自分とその子ども以外の血の濃い皇族を排除したかった。公爵家に限らず、あの時代、様々な家が犠牲になった。
 いまでも細々と続いている家は、当時は脅威とならないと判断され、運よく目こぼしされた家々だ。今はマルティナの異母弟妹たちが婿入り、あるいは嫁いだことで、魔女の血が濃くなった家もあるようだが、ザシャの生家ほどではないという。
「ザシャが助かったのは、フランツ叔父上の情けだな」
 ただ一人生き残ったザシャは、何を思って生きていたのか。
 ザシャの無実を信じたかったが、かつて家族を殺されたザシャには、皇族を殺す動機があったのだ。
 ――誰が犯人であっても、魔女マグノリアの血を殺す理由がある。
 神聖王国の信奉者が、国を亡ぼされた復讐のために。
 皇帝になりたい第三皇子フランツが、他の候補者を排除するために。
 かつて家族を皆殺しされたザシャが、報復のために。
 あるいは、第三者がいたとしても奇妙ではなかった。諸外国を蹂躙してきた帝国は、それだけの恨みを買った。
「レナ、そろそろ時間になります。エドガー様も会場へ。独りは危険ですから」
 焦ったように、キリルが控室の扉を開いた。
「キリルもいたのか。フランツ叔父上の招待か? あなたは叔父上の気に入りだから」
 二人は面識があるらしく、エドガーがほっとしたように笑った。
 歳の割に大人びた少年だと思ったが、笑うと年齢相応の可愛らしさがあった。学習所に通ってくる子どもたちと変わらない。
「いいえ、今日はレナ・ダールベルク嬢の付き添いですよ」
「ああ。今のあなたの主人はレナになるのか、ザシャは拘束されているから。……フランツ叔父上も無駄なことをする。どうせ、適当な理由をつけて解放するつもりだろうに。何があっても、叔父上がザシャを手放すことはない」
 レナは眉をひそめた。
 ザシャと、その上司である第三皇子フランツについて、レナはあまり知らない。
 以前は、乳母兄妹であり、従兄弟であるからこそ、良好な主従関係にあるのだと思っていた。彼らの仲の良さは、良い意味でも悪い意味でも有名なのだ。
 だが、いまは分からない。
 ザシャにとって、フランツは家族を殺した男の息子でもある。そんな相手に、憎しみを抱かずにいられるのか。
 いつ命を落とすかも分からない戦場まで追従する価値が、フランツにはあったのか。


 会場に戻ると、ちょうど式典が始まる頃だった。
 あちらこちらで華やかなドレスの裾が踊っている。たくさんの話し声が重なって、会場を満たしていく。
 身体が強張って、ひどく喉が渇いた。
 レナは、ほとんどダールベルク通りから出たことがない。見知らぬ人間に囲まれることが、こんなにも緊張するものだと思わなかった。
「大丈夫ですか?」
 青ざめたレナに気づいて、キリルがささやく。
「大丈夫に見えるの?」
「いいえ。今すぐにでも帰りたい、という顔をしていますよ。エドガー様の方が、よほど立派ですね」
「慣れているだけだ」
 エドガーは表情ひとつ変えずに答えた。
「ご立派ですよ、本当に。ねえ、レナ。君がエドガー様と同じ年頃だったときなんて、それは泣き虫で、大変でしたから」
「……ここで昔のこと引っ張り出すの、良くないと思うの」
 エドガーと同じ年頃と言えば、ザシャに引きとられたあたりだ。もう十年も前のことになる。
「泣き虫だったのは、否定しないのか? ザシャの娘のくせに」
 エドガーは肩を震わせて、ほんの少しだけ笑う。
「公爵は、血も涙もありませんからね。娘のレナと違って」
「そうだな。でも、ザシャは魔法使いだから仕方ない。あの人たちには、魔女の血が流れている。私たちとは違う生き物だから。キリルなら、よく知っているでしょう?」
「ええ。僕のお客様にいる魔法使いたちは、みんな血も涙もありませんからね」
 キリルが相手をしている客人のなかには、魔法使い、それも魔女の血が濃い者たちも多いと聞く。
「フランツ叔父上をはじめとして?」
 その一人が、ザシャの上司である第三皇子フランツだった。
「あの方が、いちばん無慈悲ですからね。……レナ、すみません。そんな無慈悲な方のご機嫌を損ねるわけにはいかないで、あちらに少し顔を出そうと思っています」
「……呼ばれているの? フランツ様に」
 不安が顔に出てしまったのか、キリルは申し訳なさそうに眉をひそめた。
「僕が参加することを、ご存じのようでした。もしかしたら、公爵のこと、何か教えていただけるかもしれません」
 キリルの言うとおりだった。フランツならば、ザシャがどのような状況にあるのか、正確に把握しているはずだ。
 探偵ごっこしかできなかったレナとは、そもそも立場が違う。
「すぐに戻りますので、良い子にしていてください。……エドガー様、お願いしてもよろしいですか? 僕の幼馴染を」
「安心すると良い。私と一緒なら、レナに話しかけるような者はいない」
 エドガーが頷くと、キリルは会場の中心へと向かった。
 直後、周囲から探るような視線が向けられた。レナに対してというより、エドガーへのまなざしだった。
 きょろきょろとあたりを見渡したとき、ドレスの袖を引っ張られる。
「エドガー様?」
 レナは屈みこんで、小さな男の子と目線を合わせる。
「あまり周囲に視線を向けない方が良い。さっきも言ったでしょう? あの人たちは――魔法使いは、血も涙もない。簡単にレナのことも傷つける」
「ご心配ありがとうございます、エドガー様」
 優しい少年からの忠告、その意味はすぐさま理解できた。
 不躾なまなざしを辿り、耳を澄ませば、エドガーに対する陰口ばかり聞こえてくる。
 口さがない者たちの大半は、おそらく、多かれ少なかれ皇族の血を引く者だった。つまり、魔女の系譜たる魔法使いたち。
 彼らにとって、魔女の血の薄いエドガーは身内ですらない。マルティナが亡くなって、なおさら風当たりも強いのだろう。
「フランツ叔父上も意地が悪い。レナの付き添いだと分かっていながら、キリルを自分のところに呼び出した」
 エドガーの視線の先には、キリルと、その話し相手がいる。
 短い金髪に紫の目をした、三十代に入ったばかりといった男だ。
 表情という表情を削ぎ落したような、ひどく冷たい美貌だった。ザシャとは従兄弟らしいが、遠目にする限り、あまり似ているとは思えない。
 髪の色のせいで、そう感じるのかもしれない。ザシャの髪色は、皇族には多い輝くような金ではなく、血を被ったような赤だ。
 ふたりが並んだら、きっとまったく違う印象を受ける。
「どのような方ですか? フランツ様は」
 第三皇子フランツ。マルティナ亡きいま、最も皇帝の座に近い男だ。
「自分のことしか考えていない。自分にとって有益なモノだけが、あの人の大事なもので、あの人の守るべきものだ」
「分かりやすいですね、ある意味」
「ふふっ、そう、分かりやすいんだ。あの人の願いは皇帝になることだけ。だから、絶対に皇帝として選ばれることのない私には興味がなく、マルティナのことは大嫌いだった。……私はね、フランツ叔父上がマルティナを殺したとしても驚かない。叔父上がザシャに命じて、殺させたのかもしれない」
 レナは何も言えなかった。今の段階では、確証を持てることはひとつもない。
「乾杯のワインです」
 給仕の者が、式典の参加者にワインを配りはじめる。
「エドガー様もワインでよろしいのですか?」
「子どもあつかいするな。ワインくらい飲める」
 唇を尖らせた少年は、幼いときの自分を見ているようだった。
 レナも、ザシャに子どもあつかいされる度に不満だった。思えば、いつだって彼と対応でありたくて、実らない恋心を捨てられずにいる。
 いつも守られている立場で、贅沢な悩みだった。
 ワインの配膳が終わると、壇上にあがったのは話題になっていたフランツだ。
「もう皇帝気取りか」
 エドガーが吐き捨てる。
 マルティナが死んだことで、実質的に皇位争いは決着した。フランツが死にでもしない限り、次の皇帝は彼に決まっている。
 フランツの演説は堂々としたものだったが、あまり頭には入らなかった。それよりも、周囲にいる他の皇族たちのことが気になった。
 フランツが皇位に就くことを、彼らはどのように感じているのだろうか。
「フランツ叔父上はずるい。ぜんぶ、ザシャのおかげなのに。神聖王国を亡ぼしたのも、叔父上が軍部を掌握できたのも、ザシャが叶えたからだ。――むかし、地上に堕ちた女神が悪魔と契って、願いを叶えたように。叔父上も悪魔と契約したんだ」
 マグノリアの悪魔。
 それが、ザシャ・ダールベルクの代名詞だ。
「願いを叶えるのですか? ザシャが」
「そうだ。対価の代わりに願いを叶える悪魔だよ、あの人は」
 ふたりして顔を見合わせたとき、ちょうどフランツの話が終わる。
「帝国のさらなる発展を祝して」
 グラスが掲げられて、皆が口をつける。
 拍手が沸き起こり、楽隊の演奏が流れてしまえば、式典の参加者たちは思い思いに歓談をはじめる。
 ――だが、異変はすぐに訪れた。
 はじめに倒れたのは、レナの斜め前にいた貴婦人だった。
 グラスの割れる音がして、直後、彼女は床に倒れた。ぴくり、ぴくりと痙攣するように身体を撥ねさせたあと、そのまま力尽きる。
 虚ろなまなざしが、じっとレナを見ている。
 悲劇は止まらず、次々と人が倒れていく。
 気づけば、式典の会場にはいくつもの骸が転がっていた。無事だった者たちはあまりの光景に絶句し、顔を青くしたまま座り込む。
 少年の悲鳴に、レナは我に返った。
 エドガーが必死になって唇をこすっている。飲んでしまったワインを吐き出そうとする男の子は、咽喉を掻きむしった。
 レナは咄嗟に、エドガーの口に指を入れる。
 喉の奥を指で突いて、無理やり嘔吐を促した。恐慌状態に陥ったエドガーを強く抱きしめて、悲惨な光景を見せないようにする。
 あとはもう、ただ嵐が過ぎ去るのを待つしかできなかった。レナたちを囲うように、おぞましい地獄絵図が広がっていた。


モドル | ススム | モクジ
Copyright (c) 2020 東堂 燦 All rights reserved.
 

-Powered by HTML DWARF-