マグノリアの悪魔

モドル | ススム | モクジ

  第四幕 死に至る毒  

 時の皇帝。
 その娘たる皇女マルティナ。
 そして、遷都十周年式典に参加した多くの皇族。
 彼らの死により、マグノリアの皇族の大半は鬼籍に入る。
 死因はすべて毒。当時の医師や学者は、とある嘆きを記している。
 ――神聖王国の王族が生き残っていれば、と。
 堕ちた女神が悪魔を退けて、聖女となったと説いた神聖王国。
 そんな聖女の血を継ぐ王族には、特別な奇蹟が宿った。彼らはあらゆる病を治す奇蹟を持っていたのだ。
 長らく覇権争いに揺れていた北方大陸において、小さな都市国家が生き残り続けたことは、この治癒の奇蹟による外交の成果である。
 毒に倒れた皇族も、この癒しの奇蹟さえあれば助かったかもしれない。
 生き残ったのは、マルティナと皇位を争っていた第三皇子フランツ。
 他にも皇族の血を継ぐ者はいたが、フランツほど血は濃くなかった。
 誰もが次の皇帝は彼になると確信した。同時期に存在した皇女マルティナの遺児エドガーは魔法使いではなく、その血筋を疑われてもいたので、他に候補がなかったというのが正しい。
 こうして、第三皇子フランツは皇帝のへの道を進んだ。
 その先にあるのが栄華ではなく、斜陽の時代だとも知らず。

 ◆◇◆◇◆

 皇族が次々と倒れて、遷都十周年の記念式典は中断された。
 ワインに毒を盛った者は給仕をしていた使用人とされ、捕えられた彼は、白木蓮のペンダントを持っていたという。
 帝城に留められた参加者たちも、程なくして解放される。
 これで一件落着というのが、軍部の結論である。
 だが、誰もが疑問に思う。たかが使用人ひとりの力で、あの場にいた皇族のほとんどを殺す毒を手に入れることができるのか。
 不自然なほどに早く、軍部が事件を解決させたことも不可解だった。
「ザシャ」
 帝城の地下。軍部の有する牢には、赤毛の男が座っている。いま収容されているのは彼だけらしく、他の姿は見当たらない。
「早起きだな、こんな時間に面会に来るとは」
 皇女殺害の嫌疑で捕らえられたザシャは、想像していたより元気そうだった。清潔そうな見目からも、丁重にあつかわれていることが分かる。
「だって、ようやく面会の許可が下りたから。キリルあたりが、あなたの主に上手く掛け合ってくれたのかしら。……もう聞いている? 遷都十周年の式典で皇族が殺された。乾杯のワインに毒が盛られていたそうよ」
「ああ。皇帝のときと同じか」
 それは初耳だった。皇帝が毒殺とは聞いていたが、ワインに混ぜられていたことまでは知らなかった。
「式典にいた皇族は、ほとんど死んでしまったの」
「フランツは?」
「無事よ、あの人はワインを飲まなかったから。……エドガー様も、なんとか」
 軍医の見立てでは、エドガーに毒の兆候は見られず、ひとまず安心だという。
 エドガーのワインには毒が盛られていなかったのか、それとも別の理由があるのか。ワインを飲んで無事だった皇族は、エドガーだけだった。
 また、殺されたのは皇族だけで、それ以外のワインを飲んだ者に異常はない。
「なら、次の皇帝はフランツに決まったな」
 平時のザシャは、皇族の身辺警護を担っている。そのような立場でありながら、ザシャは、守るべき皇族たちの死を悼むこともなかった。
 道端で踏みつぶされた虫けらのことなど、興味がないように。
「人が、たくさん死んだのよ。そんな風に言わないで」
「お前は優しいから、人が死ぬことに耐えられない。だが、俺は違う。自分が大切にしたい者にしか、もう愛情を持てない」
「……フランツ様が、そんなに大切?」
 ザシャは応えない。代わりに、はぐらかすような言葉を重ねる。
「フランツを皇帝にすることが、俺の生かされた意味だった。それで良い。その先で、俺の願いも叶う」
 耳を塞ぎたくなった。ザシャを信じたいが、これでは信じられない。
「……っ、マルティナ様のことも、そうなの? あなたが殺したわけじゃないって、信じたいのに。なら、誰があの人を殺したの? ううん、違う。おかしいのよ! どうやったら、マグノリアの皇族を毒殺なんてできるの」
「どれほど否定しても、すべて現実だ。皇族を殺す毒はある。魔女の血を継ぐ者たちを、魔法使いを死に至らしめる毒。三日三晩火あぶりにするよりも、頭を吹き飛ばすよりも、よほど効率的に殺せる方法だろう」
 遠い日、火刑に処された魔女は、三日三晩生き続けたという。また、手足をもがれ、腸が零れてもなお、頭が無事ならば動き続けたとも伝えられる。
 それは、魔女の系譜――魔法使いたちにも受け継がれている。
 彼女たちは死から遠い、強靭な身体を持っている。それ故、あらゆる病毒さえも、意味を成さないはずだった。
「ザシャたちが、みんな殺したの?」
「式典で皇族を殺した犯人は、白木蓮の飾りを身に着けていたのだろう? かつて神聖王国に仕えていた者が、マグノリア帝国に復讐していると考えるのが妥当だな」
 ザシャは自分たちの仕業だと、否定も肯定もしなかった。別の可能性を示して、レナの質問をかわす。
「皇位争いが絡んでいるなら、話は違うもの。神聖王国の残党の振りをして、自分以外の候補者を殺しまわった皇族がいるのかもしれない」
 もしかしたら、それはザシャの仕える皇子かもしれない。
「確証はあるのか?」
 レナは黙り込んでしまう。すべて何一つ証拠のない憶測だった。
「やはり名探偵にはなれないな、お前は。何も掴んでいない」
「ザシャは、どう思うの? 疑われているのに」
 捕縛されるときも抵抗せず、今も大人しく牢屋にいる。重要なことを語らない彼の本心が、恐ろしくて堪らなかった。
「レナは、女神を信じるか?」
 突然の問いだった。ほとんど反射的に、レナは自らの頭に触れる。キリルに渡した、白木蓮の髪飾りを思い出すように。
「信じている。知っているくせに」
 天上にある神々の世界から、此の世に堕とされた一柱の女神。その女神をめぐって、帝国と神聖王国は敵対した。
 堕ちた女神が悪魔と交わり、魔女になったと謳う帝国。
 堕ちた女神が悪魔を退けて、聖女になったと説く神聖王国。
「それはどちらの女神だ?」
 意地の悪い質問だった。かつてのレナが神聖王国の民であったと知りながら、彼は問いかけるのだ。
 美しく清らかな水の都。治癒の奇蹟を持つ聖女――女王陛下が治めた美しい国は、レナの生まれ故郷であるはずだった。
 だが、今となってはレナの信仰心などゴミのようなものだ。
 戦災孤児だったレナを拾い、家族として迎えてくれたのは、王国を亡ぼした魔法使いザシャ・ダールベルクだ。
 魔女の血を継ぐザシャに迎えられた時点で、レナは売国奴であり、裏切り者だった。
「ザシャが信じている女神を、信じている」
「……俺は女神など信じない。祈ったところで、女神は誰も救わないからな」
 ザシャは葡萄酒のような目を細めて、くすりと笑った。
 いつもどおりの喰えない笑みだったが、そのまなざしは、何かを懐かしむかのように穏やかだった。
「帝国と神聖王国の溝は深い。堕ちた女神の解釈によって、何百年と対立した。それこそ、帝国が帝国と呼ばれるよりも昔、魔女の民として迫害されてきた頃から変わらない。――だが、おかしいと思わないか? 俺たちはなぜ、決裂したのか。同じ女神を信じるならば、殺し合う必要などなかった」
「無理よ。聖女を魔女だなんて、そんなの認められないでしょう?」
「聖女と魔女の違いは? 神聖王国の連中は、魔女の血を淫蕩と罵るが、向こうの女王とて多数の夫を囲って、聖女の血を遺してきた。やっていることは変わらない」
「……それ、は。でも、血なまぐさい魔法使いと、治癒の奇蹟を、一緒になんて」
「どちらも等しく、人には過ぎた力だ。俺たちと同じく聖女とて化け物だろう。あれは不死身に近く、あらゆる怪我も病も効かない。そのうえ、その奇蹟を他人に施せる。迫害されるには十分だろう」
 レナは唇を噛んだ。ザシャが何を言いたいのか、察してしまう自分が嫌だった。
同じではないから争った・・・・・・・・・・・。あなたは、そう言いたいのね」
 ザシャは唇をつりあげる。
「そう、堕ちた女神は二柱・・いた。帝国も神聖王国も、どちらも嘘はついていなかった。信じるべき女神が異なったから、ふたつの国々は敵対した」
 神話の解釈によって二国が争っていたならば、まだ救いがある。
 帝都に不満を持っている神聖王国の者たちも、魔女マグノリアと聖女が同一存在の女神を起源とするのであれば、和解の余地はあった。
 長い時間が必要になったとしても、最終的にはひとつになれたかもしれない。
 だが、一柱の女神ではなく、二柱の異なる女神であったならば話は別だ。
 信じるべき女神が相反するならば、いつまでも争いを繰り返すだけだ。
「なんで、そんな誤解が? いつのまに、二柱の女神は一柱となったの」
 レナの脳裏に、帝都劇場で上演されていた演目が過った。
 女神降臨譚。天上の世界から堕とされた女神をめぐる話。
 その神話を支える最も重要な部分が、どうして、誤ったまま後世に伝わったのか。
「マグノリア」
「え?」
「帝都中に咲く、あの花木――白木蓮のことを、今はもう使われていない古い言葉で《マグノリア》と呼ぶ」
「マグノリアって、魔女の名前」
 帝国は、魔女の名をとって、マグノリア帝国と対外的に認識される。
 マグノリアとは魔女の名前――悪魔と交わった女神の名前として、帝国民の間で語り継がれてきたものだった。
「そう。混ざってしまったのだろうな」
「魔女の名と、聖女の化身たる花木の存在が混同されて、二柱の女神は一柱の女神として誤認されるようになった?」
「あるいは、二柱の女神は、まったく同じ名前を持っていたのかもしれない。だから、神聖王国側には、聖女となった女神の名前が残っていない。……もう今となっては、憶測でしかないが」
 帝都を白く染めゆく白木蓮は、神聖王国にとって聖なる花木でもあった。それが魔女と同じ名前など、とうてい許されることではない。
 だから、歴史のなかで聖女の名前――悪魔を退けた女神の名前は消されてしまった。
「ばかげている、ぜんぶ。こんなときに、神話が何だっていうの? 国が荒れて、人が死ぬだけじゃない。かつて神聖王国に暮らしていた民の、帝国への帰化政策はうまくいっていた。多少の揉め事はあったけれど、このまま折り合いがつくはずだったのに」
 十年前、マグノリア帝国は帝都を遷した。神聖王国の領土を塗り替えるように。
 遷都の際、留意された点はいくつかあるが、主なものは西と東による住み分けだ。
 東にはダールベルク通りのような歓楽街、華やかな劇場などを固めたのに対し、西には神聖王国らしい街並みが残された。
 帝都にふたつの側面を持たせることで、反乱の兆しを少しずつ削いだ。帝国の民も、神聖王国に暮らしていた人間も、差別することなく手厚い保証もした。
 結果的に、それが帝国の国力となる、と時の皇帝は判断していた。
「そうだな。そもそも、神聖王国の王族は皆殺し、聖女の奇蹟によって甘い汁をすすっていた教会の連中も殺した。不穏分子は存在しないはずだった」
「誰かが気づいたの? 二柱の女神の真実に。そして、神聖王国をもう一度復権させようとしている。だから、皇族を殺しはじめた」
 言葉を交わしながらも、茶番だと思った。
 尤もらしい言葉を並べて、有耶無耶にしているだけだ。
 ザシャたちが神聖王国の民の振りをして、皇族を殺しまわっている。その疑いは、何ひとつ消えていない。
「こんな趣味の悪い真似をするくらいには、神聖王国に愛着があるらしい。まだ、たったの十年間だ。恨みや憎しみが消えるには早い」
「……神聖王国の、王族の墓が荒らされたって。キリルが言っていたの」
「荒らされただけか?」
「王族の亡骸が奪われた、と。王墓に納められていた遺骨のことよね? だから、よけい神聖王国から帰化した民の怒りを買った。帝都の西では暴動が起きたくらいよ。なんのために墓荒らしなんて」
「必要だったからに決まっている。………さて、話を戻そう。神話の女神は二柱いた。悪魔に犯された女神、すなわち我らが祖たる魔女。悪魔を退けた神、神聖王国に奇蹟を与えた聖女。言わずもがな、二柱の女神は相反する存在だ。すなわち、互いが互いの毒となる存在だった・・・・・・・・・・・・・・・、とは考えられないか?」
 ザシャは牢屋にある燭台のひとつ、その炎のうえで水差しをひっくり返した。実に呆気なく炎は消えてしまった。
 ようやく、レナは彼が言わんとすることを理解した。
 皇族殺しにおける一番の謎は、魔女の系譜たる皇族をはじめとした魔法使いに毒が効いたことだ。
 彼らを害する毒など存在しない、というのが学者や医師たちの見解だった。
 ――彼らを殺せるほどの毒とは、すなわち始祖たるマグノリアを殺すほどの毒。
 そんなものを持ち得ているとしたら、亡んだ神聖王国の王族だけ。
 レナは、劇場の地下で拾った白い塊のことを思い出す。
「神聖王国の、王族の骨? 聖女の血族が、魔女の血族を害する毒となる。墓荒らしが起きたのは、皇帝陛下が死ぬ前のことよ」
「繋がったな。いよいよ我らを滅ぼそうと、神聖王国の亡霊が牙を剥く」
 良くできました、と言わんばかりに、ザシャは気だるげに拍手する。
「どうして、楽しそうなの? わたしは怖い」
 牢屋の柵の隙間から、すがりつくように手を伸ばす。冷たい義手で、彼はレナの手を握り返してくれた。
「怖がる必要はない、直にすべて終わる。お前だけは守ってやる」
 レナは思う。ばかみたいだ、と。こんな言葉に一喜一憂して、ザシャへの恋を捨てられない自分が愚かだった。
「あなたを守りたい、わたしの気持ちは?」
「迷惑だ。……そろそろフランツが来る。お前は鉢合わせしないように戻れ」
 レナは唇を引き結んで、牢屋を後にした。急いで地上への階段を駆けあがったとき、向こうから金髪の男が歩いてくる。
「フランツ、様」
 護衛も連れていないのは、彼自身、優れた魔法使いだからかもしれない。
 マルティナを筆頭に、有力な皇族が死んだ今、果たしてフランツを殺せる人間がいるのだろうか。可能性があるのは、腹心の部下であるザシャくらいだろう。
 すなわち、フランツの脅威は存在しないも同然だった。
「ザシャの義娘か。面会の許可を出したな、そういえば」
 レナは咄嗟に礼をとった。まともに彼と会うのは、初めてのことだった。
「お聞きしたいことがあります! 本当に。本当に、毒を盛ったのは使用人だ、と、お考えですか」
 恐る恐る、レナは問うた。どれほど無礼だとしても、尋ねるならば今しかない。
「言葉に気をつけろ。誰に口をきいているつもりだ」
「式典の日、あなたがワインを飲まなかったのは偶然ですか? あの日、無事だった皇族はあなただけです」
「エドガーがいる」
「でも、あの方は魔法使いではありません! フランツ様は、皇族だけを……魔女の血を継ぐ者を殺す毒を、御存知だったのではないですか」
「さあ? 皇帝もマルティナも、死因が毒だったかさえ憶えていない。死んだ人間のことなど、考えるだけ無駄だろう?」
「ザシャを利用しないでください。あなたの望みに巻き込まないで」
 ザシャは、神聖王国の者が犯人だ、と匂わすことを言った。しかし、レナには亡国の残党の仕業とは思えない。
 一連の皇族殺しは、皇帝になりたいフランツが裏で糸を引いているのではないか。
「むかし、ザシャの命を救ったのは私だった。自分の持ち物を好きにあつかって、何が悪いのだ? 私でなければ、あのときのザシャは救えなかった」
 かつて、皇位争いの最中、ダールベルク公爵家は皆殺しにされた。ザシャだけ助かったのは、フランツが掛け合った結果だ。
 少年だった頃のザシャを助けたのは、レナではない。
「余計な詮索は命取りだと、お前の養父は教えなかったか。私はザシャと違って、うるさい猫が嫌いだ」
 フランツは肩を竦めて、地下への階段を降ろうとする。このままザシャに会いに行くのだろう。おそらく、遠くないうちにザシャは釈放されるのだ。
 フランツは、自分の望みを叶えるためにザシャを利用し続ける。
「ザシャは、あなたのものじゃない」
「では、お前のものか? あれは血も繋がらない小娘よりも、血の繋がった私をとる。勘違いするなよ、あれの家族は私だ。お前ではない」
 取り残されたレナは、強く拳を握った。怒りをやり過ごそうとするが、うまくできず、情けない声が洩れる。
 恋い慕っても報われない。かといって、本当の家族にもなれない。
 ――ザシャが本当に困っているとき、助けるための力もない。
 ザシャに命の危機が迫ったとき、レナでは助けられない。その力を持つのはフランツなのだと思い知らされて、胸が張り裂けそうだった。

 ◆◇◆◇◆

 地下牢の椅子に、血を被ったような赤毛の男が座っていた。
 口元に指をあてるのは、子どもの頃から変わらない、考え事をしているときの癖だと知っていた。
「ザシャ」
 従兄弟であり、乳母兄弟でもあるフランツは、誰よりもザシャを理解している。どこの馬の骨とも分からぬ義理の娘よりも、ずっと。
「お一人ですか? 護衛もつけずに、珍しいことで。今の俺には、あなたを御守りすることはできませんが」
 帝城の地下にある牢は、魔法使いを閉じ込めるために造られた特別製だ。いくらザシャであろうとも、魔法の行使はできない。
「だから、一人で来た。魔法を使えないならば、お前を恐れる必要はないからな」
 そこまで言って、ようやくザシャは理解したらしい。
 ザシャが魔法を行使できない――フランツを殺すことのできない状態だからこそ、一人で現れたのだ、と。
 長い付き合いなので、ザシャは知っている。
 対外的には隠しているが、戦場にいた頃と違って、今のフランツは魔法を使わない・・・・・・・。それ故、魔法使いとしてのザシャを、自分を殺せる存在として脅威に感じている。
「しばらく牢に入れられているにしては、平気そうだな。少しくらい、憔悴している素振りを見せろ」
「フランツ様こそ、可愛い異母弟妹(きょうだい)が殺されたにしては平気そうな顔をしています」
「私の兄弟は、後にも先にも乳母兄弟であるお前だけだ。あれらはぜんぶ血が繋がっているだけの他人だろう?」
「いつか、俺のように使える道具になったかもしれません。魔法使いは貴重だ」
「なに、皇族のなかでも、帝城の外にいる連中は何人か泳がせている。あとは、そうだな。いまも残っている貴族連中には、多少なりとも皇族の血が流れているだろう? 魔法使いならば、そちらで十分だ」
 年々数を減らす魔法使いは、軍部にとって確保したい戦力でもある。
 だが、帝城で甘やかされていた異母弟妹が、戦場で使い物になったとは思えない。戦う覚悟も持たず、されど力だけはある人間など足手まといになるだけだ。
 蛆虫のような連中に利用されて、襤褸切れ同然に使い捨てられるくらいなら、ここで死んでいた方が、彼らは幸福だろう。
「それに、魔法使いならば増やせば良い。臆病者の皇帝陛下は死んだのだから」
「あなたの子どもが魔法使いになるとは限りませんよ。マルティナ様が産んだ、エドガー様がそうであったように」
「そのときは、お前の子がいる。お前の子は必ず魔法使いになる・・・・・・・・・・・・・・のだから」
「他を当たってください。子どもならば足りています」
「レナ・ダールベルクか。お前の義娘は可愛げがないな。あれでは、他の子どもが欲しくなるのではないか?」
「レナと会ったのですか? 鉢合わせにならないよう戻らせたはずですが」
「お前が長らく隠していたものだから、どんな娘かと思えば。生意気だな、あれは。従順ではないだろう?」
「可愛いでしょう? そこが」
「お前とは昔から趣味が合わない。義娘など、とうに放り投げたと思っていたが、ずいぶん大切に育てたのだな」
 フランツは内心で驚いていた。ザシャが娘を拾ったことは知っていたが、その後のことまでは追っていない。
 非力な小娘など、魔法使いであるザシャと違って警戒するまでもない。
 フランツと懇意にしている男娼キリルも、ザシャの義娘のことには一切触れないものだから、とうの昔に手放したとばかり思っていた。
 まさか、人並みに愛情を注いで、人並みに大事にしているなど夢にも思わなかった。
 この男は、そういった情を、家族を殺されたときに捨てたはずだ。
「代わりのつもりか? 育てられなかった家族の。お前は恨んでいたはずだ。我が父上を、見て見ぬふりした私を」
「何年前の話ですか、とっくに割り切っています。レナも気まぐれに拾っただけ」
「では、私のもとに置いても構わないな?」
 ザシャは葡萄酒色の瞳を細めた。珍しく動揺していることが、フランツには手に取るように分かった。
「あなたに差しあげるには、とてもふさわしくない」
「お前が執着している、それだけで十分だ。ああ、逃がすなよ? それもまた裏切りだ。お前はあいかわらず愚鈍だな。大切ならば手元に置かず、もっと前に国外にでも遣ればよかったものを」
 尤も、そのようなこと不可能だとフランツは知っている。
 たとえ国外に出ることができたとしても、戦乱の続く時代、幼い少女が独りで生きていくことはできない。
 死ぬか、あるいは死んだ方がマシな目に遭うか。
 そもそも、ずっと監視されているザシャには、義娘を逃がすことなどできやしない。
「フランツ様」
 すがるような、そのまなざしが心地良かった。この男を支配しているのが、自分である、と再認識できる。
 フランツにとって、この男は生まれたときからの付き合いだ。
 ザシャはずっと自分の従者であり、家族であり、なによりも忠実な駒だった。邪魔な兄二人を殺したときも、戦時中で功績をあげる必要があったときも、いつだってフランツの望みを叶えてくれた。
「心配しなくとも、手を出したりはしない。私にも選ぶ権利はある。エドガーの世話をする人間が欲しかったところだ」
「人質のおつもりですか? いつになったら、あなたは俺を信じてくださる」
「信じているからこそ、何もかも差し出してほしいのだ。なあ、ザシャ。お前のいちばん大切なものは私だろう? 私が望むなら、何でも与えてくれるはずだ」
 暗に、義娘より自分を優先させろと告げる。
 ザシャは逆らわないだろう。昔から、実に優秀な駒で、いつだってフランツの願いを叶えてきたのだ。
「……仰せの、ままに」
 神話の女神が、悪魔と交わり、願いを叶えてもらったように。
 フランツもまた、この悪魔を使って願いを叶えるだけだ。

 ◆◇◆◇◆

 地下牢でザシャと面会してから、数日が経った。
 帝城に留められていたレナは、エドガーを訪ねるため、医務室に入った。式典の一件以来、彼は自らの部屋に戻るのを拒んで、医務室の奥に居座っている。
 毒の盛られたワインを飲んでしまった。そのことで、侍医の診察を受けた今も、死に怯えているのだ。
 しかし、おそらく彼が死ぬことはない。
 殺された皇族は、エドガーと違って魔法使いだった。皇族殺しの毒――神聖王国の王族の骨は、魔法使いではないエドガーを殺すことはない。
「ザシャが、釈放されることになりました」
 今朝方、その報せは実に呆気なく届いた。
 釈放されたザシャは、レナを帝城に置き去りにして、すぐさまダールベルク通りに戻ったらしい。
「そうか。レナも、ダールベルク通りに帰るのか?」
「ええ。あの人、一人では身の回りのこともできませんから」
「なら、ザシャも帝城で暮らせば良い。……ねえ、レナ。私の侍女になって」
 傍にいて、とエドガーは甘えるように言った。
 彼を保護していた母親は殺された。命の危険はなかったとはいえ、式典で行われた皇族殺しにも巻き込まれた。
 この状況で、誰ひとり味方のいない帝城に残されることは、ひどく心細いのだろう。それこそ、知り合ったばかりのレナに、すがってしまうくらいには。
「寂しいなら、キリルだって呼んであげる」
「キリルは、もう娼館に戻っていますよ? さすがに、呼び出すとなると……」
 一晩で、家どころか親子どもを売り払わなくてはならないほどの男娼だ。彼の時間を買うには、莫大な金銭が必要となる。
「私がキリルの時間を買う。どうせマルティナの遺産だ、使い潰しても良い」
「いけません。それは、あなたを助けるためのものですから」
 エドガーが使おうとしているのは、彼の私財だろう。
 マルティナが個人的に持っていた資産は、息子であるエドガーに受け継がれた。多少は帝国に持っていかれただろうが、それでも十分過ぎるものが遺されたはずだ。
「持っていても腐らせるだけだ。明日生きていられるか分からないのに」
「不安なお気持ちは、よくわかります。でも、帝城にいれば、フランツ様が守ってくださいます。もう、皇族殺しなんて起こりません」
「嘘が下手だな。本当に信じているの? 給仕の男が毒を盛ったなんて」
 皇族殺しの毒は、神聖王国の王族の骸だ。王墓を荒らし、骨を砕いて、犯人は式典で饗されたワインに混ぜた。
 だが、たかが給仕の者が王墓を荒らし、皇族殺しの毒を持てるとは思えない。
 そもそも、皇帝陛下の死も、皇女マルティナの死も、権力を持たない人間が行うには無理がある。
 後ろで糸を引いている者が、必ずいるのだ。
「フランツ叔父上だ。生き残ったのはあの人だ。あの人が犯人に決まっている」
「……いいえ」
「レナが否定するのは、ザシャがいるからでしょう? 叔父上が皇族殺しの犯人なら、必ずザシャも動いている。あの人が釈放されたって言ったけど。どうせ叔父上が動いたからに決まっている」
 図星だった。皇女マルティナの死について、何一つ解決はしていない。それにもかかわらず、フランツは自らの護衛として、ザシャを釈放させた。
 ザシャが無抵抗で捕らえたことも、容易く釈放されたことも、最初から仕組まれていたことなのかもしれない。
 何もかも茶番だ。レナやエドガーたちも、踊らされる駒のひとつだった。
「侍女のこと、よく考えて。ザシャのところは危ないよ」
 レナは口を閉ざして、力なく笑うことしかできなかった。


 久々に戻ったダールベルク通りには、軍人たちが、ぽつりぽつりと立っていた。
 白木蓮の花が流れる小川を見て、皇女マルティナの死体がよみがえる。毒殺された彼女は、一枚の絵画のように川面に浮かんでいた。
「あたま、痛い」
 マルティナが毒殺された前後から、時折、頭が痛む。そのときは決まって、瞼の裏にレナの知らない光景が浮かぶのだ。
 ――白木蓮の花びらが、ひらりひらり散っている。
 まばゆい太陽に照らされた花の小路を、遠い日のレナは歩く。その隣には、レナよりもずっと背の高い誰が並んでいた。
 あのとき、レナは此の世でいちばんの幸せを感じていた。
 幼い自分が、誰かの名を呼ぶ。もう名前も思い出すことのできない、誰かを。
 ――あの人はいったい誰だろうか。
 とても大切な人だった。それなのに、何もかも分からない。
「ぼうっとしていると、川に落ちますよ。子どもの頃みたいに」
「キリル?」
 肩を掴まれて、レナは振り返った。外出先から戻ってきたところなのか、日傘に手袋をしたキリルが立っていた。
「どうして、通りにいるのですか? あのまま帝城に残るとばかり」
 キリルは唇に指をあてながら、小首を傾げた。
「エドガー様から聞いたの? わたしみたいなのには、エドガー様の侍女は無理よ」
 レナの家はダールベルク通りだ。帝城に仕えるつもりはなかった。
「侍女? いえ、君の嫁ぎ先が決まったからですよ。公爵から、何も聞いていません? 僕はてっきり、もう話があったとばかり」
 一瞬、何を言われたのか分からなかった。
「嫁ぎ……? ザシャは何も。結婚なんて、そんなの」
「早い? でも、君の年ならば適齢期でしょう」
「そういうことじゃなくて! そもそも、相手が誰かも知らないのに」
「フランツ様ですよ」
 レナは青ざめた。笑えない冗談だった。
「ありえない。わたし、養女なのよ? とても、皇族になんて」
「関係ありません、あなたは公爵に対する人質ですから」
「人質? ごめんなさい、意味が分からないわ」
「ダールベルク通りは、公爵の持ち物です。この土地に遷都する前から、歓楽街は公爵家が管理するものだった。でも、僕が生まれる前から、通りの警備にあたっているのは軍部です。この意味、分かりますか?」
 レナは息を呑んで、ドレスの胸元を握りしめる。
「ザシャへの牽制? それとも監視?」
 呑気なレナが気づかなかっただけで、昔から不穏な影はあったのだろう。
「フランツ様は公爵を重宝していますが、同じくらい裏切りを恐れています。公爵の家族を殺したのは、フランツ様の御父上――皇帝陛下ですから、なおのこと。人質くらい手元に置かないと安心できないのですよ」
「でも! わたしには無理よ。ふさわしくないでしょう? ねえ」
「そう言って欲しい? でも、君がどんな娘であっても。公爵が大事にしているなら、人質としての価値はあります」
「嫌よ! せっかく、またザシャと暮らせるのに」
「ずっと一緒にはいられない、と分かっていたでしょうに。帝国で最も高貴な方のもとに嫁ぐなんて、都中の女性が嫉妬します。この上なく名誉あることだ」
「本気で言っているの? わたしの家は、ここよ。ここ以外なんて要らない!」
 キリルは呆れたように、レナから視線を逸らした。
「君だって、以前、同じことを言いました。僕に、ダールベルク通りから出て行け、と」
「それは、あなたが身請けの話を断っていたから! あなたの未来を考えるなら、通りにいるより、ずっと良い生活ができる」
「同じことです。君の未来を考えるなら、帝城にいた方が良いんですよ。公爵といても未来はありません。あの人は誰とも結婚できませんし、君の望むような気持ちを返してくれることもない」
「聞きたくない!」
「帝国だって、もうすぐ斜陽の時代になるでしょう。皇帝陛下はよほど聖女様にご執心だったのか、ばかばかしい遷都までして、結果的に国力を落としただけ。属国となった他国は、そのうち帝国に反旗を翻す。一騎当千と謳われた魔法使いだって、戦争で遣い潰されて、どれだけ残っているのか」
「……やめてよ、もう」
「可哀そうなレナ。そんなに嫌なら、僕が遠くまで攫ってあげましょうか?」
 赤い唇が見えた。熟れた果実のような舌が、まるで誘うように蠢く。聞いてはいけない、見てはいけない、と思いながらも、意識せずにいられない。
「無理よ。遠くになんて、行けるはずない」
 レナが知らなかっただけで、ザシャはずっと監視されていた。キリルをはじめとした、この通りにいる人々も、同じように見張られているはずだ。
「君が望むなら、僕は無理だって通しますよ。何だってしてあげます。何度も、そう言いました。――でも、君はできないのですよね? 君はいつだって公爵を選ぶ。どんなに傍にいても、どんなに君を想っても、僕を見てくれません」
「……わたしには、キリルが想ってくれるような価値はないもの」
 家族のように育った幼馴染は、昔からレナを甘やかした。そのような価値はない、と何度訴えても、君の願いならば何でも叶えてあげる、と囁くのだ。
 その度に、レナは苦しくて仕方なかった。
 キリルのことは好きだ、家族のように愛している。だが、彼と同じだけの想いを、同じだけの熱量を持って返してあげることはできない。
「それを決めるのは君じゃない。……ねえ、僕がダールベルク通りにいたのも、幸せだと胸を張れたのも、君が傍にいてくれたからです。僕の幸せを願うなんて言葉で、僕が大事にした、永遠に続いてほしいと願った十年を否定しないで」
 不意に、その碧玉の瞳が細まった。泣くのを堪える子どものように。
 視えない涙の粒が、キリルの切れ長の眼で光っている気がした。その涙を拭ってあげたいと思いながら、決して拭ってはいけないとも感じた。
 どうしたって、レナの頭には、赤毛の男が浮かぶ。
 決して、世の人々が称賛する父親ではなかった。
 キリルが何度も諭したように、レナが夢を見たいだけで、本当のザシャはひどい人なのかもしれない。レナのことも、子どもが飽きた玩具を下げ渡すように、何処かへ遣ってしまう。
 そのときが来ただけなのに、どうして、こんなにも胸が痛む。
「わたしだって。わたしだって、この十年が続けば良いのに、って願っていたの」
 少女でいたかった。ただ永遠に、この日々が続くことを祈った。
 そんなこと叶うはずがない、と心の奥底で分かっていながらも、子どもだったレナは見ないふりを続けた。
 キリルの視線から逃げるように、レナは通りを駆けた。十年間を過ごした邸に飛び込むと、釈放されたザシャの姿があった。
「わたしを、フランツ様のところにやるって」
 ザシャはゆっくりと瞬きをして、唇に指をあてた。
「誰かから、聞いたのか? 悪くない話だろう。少なくとも、未来のない俺のもとに置くより遥かにマシだな。フランツはともかく、エドガー様は、お前のことをいたく気に入ったようだ。きっと守ってくれる」
「嫌よ」
「嫌なのか? だが、俺はお前のためにならないことはしない」
 子どものように、美しい男は首を傾げる。自分が残酷なことをしているとは、露とも思っていない顔だった。
「それは、ザシャの考えるわたしの幸せでしょ? わたしの幸せは、ここで、皆と一緒にいることだって分かってくれないの?」
「分からないな」
「良い子にしていたら、守ってくれるって言った!」
「お前が傷ひとつなく生きる未来を創れたならば、それがお前を守ることになる。可愛いレナ、お前だけは決して裏切らない。お前だけは俺のものだから」
 ならば、何故、手放すのか。
 決して裏切らない、自分のものだ、と謳う唇で、突き放すような真似をする男の、いったい何を信じれば良いのか分からない。
 座り込んで泣きじゃくるレナを、彼は微笑んで見つめるだけだった。手を伸ばして、抱きしめてさえくれなかった。
 幸せだった十年間の夢が終わる。
 大好きな人と一緒にいたかった。そんな少女の幻想が砕け散った音を、レナは確かに聞いた。


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