マグノリアの悪魔

モドル | ススム | モクジ

  第五幕 魔法使いの罪科  

 帝歴二七九年、夏の終わり。
 レナ・ダールベルクは、第三皇子フランツに輿入れする。
 腹心の部下の娘とはいえ、養女でしかない彼女を迎えたのは、ザシャ・ダールベルクへの牽制だった。
 なにせ、フランツがそうであるように、ザシャもまた皇族の血を継ぐ。
 遷都十周年を祝した式典で、有力な皇族のほとんどが死に絶えたことを思えば、最も強力な敵となり得る存在ですらあった。
 第三皇子フランツは、ザシャを重用する一方で、常に反逆を恐れていた。
 レナの輿入れは密やかに行われた。皇族殺しで揺らぐ帝城で、彼女の輿入れを心から祝福する者は一人だけだった。
 それも夫君となったフランツではなく、第一皇女マルティナの遺児エドガー。
 レナは時に姉のように、時に母のようにエドガーに接した。幼い彼は、すぐさま彼女に夢中となり、常に傍に置こうとするほどであった。
 当時のレナを巡って、後世の学者たちは二つに割れる。
 幼い皇子に手を差し伸べた心優しき聖女か。
 それとも、言葉巧みに誑かした淫蕩な魔女か。
 彼女がどのような人物であったのか。残された記録は少なく、真実を突き止めることは難しい。
 ただ、後に皇帝となったフランツは、その生涯で一度だけ、レナについて語ったことがある。
 その言葉を思えば、彼女の人格はともかく、彼女の存在は帝国にとって悪しき毒そのものであった。
 親兄弟の屍のうえに帝位を継いだフランツは、その命尽きるとき語った。
 あの女を十八まで生かしたことが、この生涯において最大の過ちだった、と。

 ◆◇◆◇◆

 帝城は、レナが想像していたよりも穏やかな時が流れていた。
 否、怯えている、というのが正しい。皇族殺しの恐怖が伝播して、誰もがうつむき、口を閉ざしていた。
 レナが嫁いたところで、夫であるフランツが訪れることもなく、侍女や身辺警護の軍人たちとも口を利くことはない。
 そんな生活を送るレナの、唯一の話し相手が、マルティナの遺児エドガーだった。幼い少年は、寂しさのあまりか、不思議なほどレナを慕ってくれた。
 帝城の図書室で、レナとエドガーは隠れるように本を開いた。長椅子に隣あって座りながらも、開くのは別々の本である。
 ぱらぱらと本を捲りながら、レナは小首を傾げる。
 頁数が印字されていないので、はっきりとは分からない。だが、背表紙に対して、どうにも中身が薄いような気がした。
 まるで、密かにいくつかのページが抜き取られたかのように・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
「今日は、神聖王国の歴史書?」
 エドガーはレナの手元を覗き込んだ。
 分厚い書は、かつてこの地にあった神聖王国の史書である。
 帝城はもともと神聖王国の王族が暮らす神域であったため、この本のように、当時のまま残されているものが数多く存在した。
「外には、流れていないものですから」
 神聖王国時代の記録は、帝城に留められ、外に出されることはない。フランツに嫁ぐことがなければ、亡びた王国を知る機会もなかっただろう。
 思えば、記憶を失い、されど神聖王国の女神への信仰は捨てられなかったレナにとって、その王国はいつも気がかりなものだった。
 たとえ、神聖王国を亡ぼしたのが、ザシャだったとしても。
「残酷な絵。これは何の場面だ?」
 史書の挿絵は、自らの胸に懐剣を突き立てる女だった。絵を指でなぞりながら、エドガーは眉をひそめた。
「女王が、胸に剣を突き立てる場面です。諸外国に治癒の奇蹟を示すため、あの国の王族たちは、公の場で自らの胸を衝(つ)くそうです」
「胸を衝いたら、死ぬのではないか?」
「瞬く間に傷が治った、とあります。聖女たちは死に瀕すると、身体が再生するそうです。だから、その身は治癒の奇蹟を宿した。その身の血肉を分け与えることで、どんな傷も病も治してみせた」
 聖女とて化け物、とザシャは語った。
 その力が人間たちにとって有益なものだったから排斥されなかっただけで、神聖王国の王族たちも、得体の知れぬ存在だ。
 魔法使いと同じく、堕ちた女神の血を継ぐ異端者。
 自らの血肉を以って、治癒の奇蹟を成した人ならざるもの。
「聖女の血が絶えていなければ、マルティナたちも助かったのだろうか。治癒の奇蹟は、人々を死から救うのだろう?」
 レナはそっと目を伏せた。
 エドガーには、とても伝えることができなかった。皇族殺しの毒、魔法使いを死に至らしめるそれが、神聖王国の王族たちの亡骸だったことを。
「本当は、そんな奇蹟あってはいけないのかもしれません。わたしは、ダールベルク通りでは、診療所で働いていました。怪我や病気をした人たちをお世話する場所です」
「苦しむ彼らも、奇蹟があれば助かるのでは?」
「それが、すべての者に与えられるものなら、救いとなるのでしょうね。でも、誰もが等しく救われるわけでもないのに、そんな奇蹟を見せられたら苦しい。だって、神聖王国の時代ですら、治癒の奇蹟を与えられたのは諸外国の権力者だけでした」
 皆が平等に救われるわけではない。ならば、その力は禍(わざわい)を呼ぶだけだ。
「癒しの奇蹟ですら、争いの種となるのか。難儀なものだな」
「人には、人の領分があるのかもしれません。だから、都合の良い奇蹟も、強大な魔法も、誰かを傷つけることしかできない」
 瞼の裏に、ザシャの姿が浮かんだ。
 古びた銃を手に、戦場を駆けた魔法使い。魔法使いでなかったら、ただの青年として幸福に生きることができたはずだ。
 魔女の血は、ザシャに当たり前の幸福さえ許さなかった。
「……レナは、診療所では、どのように過ごしていたの?」
「怪我人や病人の看護と、あとは隣にある学習所の手伝いもしていました。子どもたちに読み書きや計算を教えて、教養を身につけてもらうんです」
「子どもがいるのか? あそこに」
 ダールベルク通りは歓楽街の印象が強く、子どもは客人の前に姿を見せない。子どもたちは昼間だけ外出を許され、通りの一角にある学習所に集まる。
「いずれあそこで働く子どもたちは、みんな通います。幼い頃は、わたしもキリルも一緒に通っていました。彼はとても優秀で、いつも先生に褒められていました。今だって、わたしたちには教えられないことを教えに来てくれます。……だから、たぶん何処でだって生きていける」
 エドガーは目を丸くして、それから苦く笑った。
「何処でだって生きていけるのと、何処で生きたいかは違う」
「でも、できれば不自由なく生きてほしい、と思うでしょう?」
「それはレナの勝手だ。キリルは、あなたが大好きなんだ。ザシャも、そう。私はね、レナと会う前から、あなたのことをたくさん知っていた。はじめて書けるようになった文字は、自分の名前ではなくザシャ・ダールベルク。白木蓮の花弁を追いかけて、小川に落ちたあなたと、それを追いかけて落ちたキリルのこと、それから……」
 エドガーはすらすらとレナのことを語りはじめる。それらをエドガーに教えたのが誰なのか、考えるまでもなく分かった。
「あなたが彼らを愛する以上に、彼らはあなたを愛しているよ。とても羨ましく思う。そして、それだけの愛を向けられるあなたは、きっと優しい人なのだろう、と」
「買い被りすぎです」
「そう? だって、レナは母上のようだ」
「エドガー様の御母上とは、まったく似ていないと思いますよ?」
「マルティナとは似ていないよ。……あのね、私に母親というものがいたら、レナみたいな人が良かった。姉でも良い。あなたは、すべて受け入れてくれる人だと思うから。どんな化け物も愛する人だと思うから」
「そんなこと、ないです」
「ザシャを心から愛する人は、たぶん、あなただけ。彼は美しいけれど化け物だよ。魔法使いは、みんなそう。人の姿をした化け物。私たちとは違う」
 違う、という言葉には、蔑みではなく羨望が滲んでいた。
「魔法使いになりたかったですか?」
「……前は、そうだったよ。今は分からない。レナこそ、魔法使いになりたい?」
「魔法使いだったら、今もザシャと一緒にいられたかもしれませんね」
 血の繋がった家族にも、想い合う恋人にもなれないから、ザシャとの確かな繋がりが欲しかった。同じ魔法使いであったならば、今も彼の隣にいられたのではないか、と未練がましく思う心がある。
「でも、魔法使いは、魔女の血族はみんな不幸になるよ」
 エドガーは力なく笑って、レナの膝に倒れ込んできた。甘えるようにレナの膝に頭を預けた少年は、想像していたより小さく、頼りない身体つきをしていた。
 まだ七つ。記憶を失ったレナが、ザシャに拾われたときと同じ歳だった。
「マルティナはいつも言っていた。魔法使いは不幸になる、と。……不幸になりたくないから、殺し合うのかもしれない。最後の一人になるまで」
 エドガーは目を閉じて、そのまま眠ってしまった。つられるように瞼を閉じれば、遠い日の見知らぬ記憶がよみがえるようだった。
 キリルと劇場を訪れたときや、釈放されたザシャに会うためにダールベルク通りに戻ったとき。
 頭の奥が痛んでは、レナは知らない記憶を見た。そのときと同じことが、帝城に迎えられてからも、幾度かあった。
 この城には、いまだ神聖王国の名残が多いからだろうか。
 忘れてしまった過去の幻が、頭に浮かんで、懐かしさが胸を穿つ。
『レナ』
 小さな頃、レナも誰かに膝枕をしてもらったことがある。白木蓮の木陰で、その人はレナに笑いかけてくれたのだ。
 顔も思い出せないのに、その声が、その笑みが、まるで日だまりのように優しかったことを知っている。
 あの人がザシャであれば良いのに、と願ってしまう。
「もうエドガーを手懐けたのか? さすが、ダールベルクの女だな。人を篭絡するのは、お手のものか」
 図書室の入口に、いつのまにかフランツが立っていた。
 レナは何も言わずに首を垂れる。立場上は夫にあたるが、帝城に輿入れしてから、顔を合わせたのは初めてだった。
「エドガーと何を話していた?」
「……魔法使いは不幸になる、と」
 瞬間、フランツは笑い声をあげる。表情はまったく変わらないのに、その声だけは愉しげで、不安を掻き立てられる。
「不幸、なるほど不幸か。たしかに、魔法使いは人間に比べて脆い生き物だからな」
「冗談でしょう? 頭を潰されるか、三日三晩火炙りにされるか。そうでもしない限り、魔法使いは死にませんでした」
 皇族殺しの毒。あのようなものが表舞台に出てこなければ、魔法使いとは、極めて死から遠い生き物のはずだった。
「代わりに短命だ。魔法使いの命は繭のようなものだからな。私たちは命という繭から糸を紡いで、魔法を織り成す。だが、繭にも寿命がある。糸を紡ぐことができなくなったら、魔法使いは死ぬ。特に、軍属の魔法使いは短命だ。ザシャも例外ではない」
「あなたが、そうしたんでしょう!」
「だが、俺が使ってやらなければ、あれは家族と一緒に殺されていた。死ぬのが早いか遅いかならば、遅い方が得だろう? お前がザシャに拾われたのも、私があれを生かしたからだ」
「それで、ザシャに神聖王国を亡ぼさせて? あなたは何もせず無傷なまま」
 ザシャの命が繭ならば、彼の繭はあとどれくらい糸を紡ぐことができるのか。彼が戦場に立ったのは、年端も行かない少年の頃だ。
 きっと、もうほとんど時間は残されていない。いつ死んでもおかしくないほどに、フランツはザシャを乱暴にあつかった。
 自らが皇帝となるために、この男はザシャの命を食い潰したのだ。
「ザシャを神聖王国に送ったのは、私ではなく皇帝だ。――皇帝は、いつも怯えていた。聖女は殺さなければならない。そうしなくては、火炙りにされる、と」
 フランツは図書室の天井を指差した。そこには火炙りにされた魔女の絵がある。悪趣味な天井画は、神聖王国時代に描かれたものだ。
「炎は魔女を象徴するひとつだが、魔女の命を奪うものでもある。迫害されていた頃の魔女の民、我らの祖はそうして数を減らした。神聖王国の聖女どもは、己の手を汚さず高みの見物だ。治癒の奇蹟をちらつかせ、周辺諸国に魔女の迫害を進めさせた」
 神聖王国は小さな都市国家だった。
 自分たちは戦う力を持たず、城砦都市から頑なに出ない。あらゆる病や怪我を癒す奇蹟を対価にして、周辺諸国によって守られた。
 そうして、天敵である魔女の民を迫害し続けた。
 北方大陸における魔女とは、災いの代名詞であり、虐げられる存在だ。
 聖女の血を継ぐ者たちによって、そのように仕立て上げられたのだ。
「聖女がいる限り、魔女の民は殺される。ならば、聖女を殺すしかない。皇帝は臆病な男だった。自分の地位を脅かすかもしれない血縁を殺して、実の子どもさえ疑う。あの男は自分以外のすべてが恐ろしかったのだ。だから、神聖王国を亡ぼし、それを塗り替えるような馬鹿げた遷都まで行った」
「臆病な方が、あちこちに戦争を仕掛けたりしますか?」
「臆病だからこそ、すべてを殺したかった。……皇帝の孫はエドガーだけだ。マルティナがこれを可愛がったのは、魔法使いではなかったからだ。何の力も持たぬから、エドガーは皇帝に殺されずに済んだ」
「あなた様に、御子は?」
「私には妃も子もいない。ザシャのように殺さたくはなかったからな」
 息が詰まった。信じられなくて、フランツの顔を凝視することしかできない。
「ザシャ、の」
「教えられていないのか。あれには子どもがいたよ」
「……愛する、方が?」
 レナが知っているのは、自分が引き取られてからの十年だった。その前にザシャが結婚して、子を成していたとしても奇妙な話ではない。
「いや、相手の顔も忘れたのではないか? 皇帝の命令で子どもを作っただけだ。あれの子どもが魔法使いになるのか、ならないか調べるために。赤子は魔法使いだったから殺された」
 ひどく残酷なことを、フランツは淡々と教えてくれた。
 ザシャの家族を皆殺しにした皇帝は、その後も、彼の血に怯えていたのだ。いつかザシャの子が魔法使いとなり、自分に牙を剥けるかもしれない、と。
 そんな不安から、罪なき赤子の命さえ弄んだ。
「フランツ様は、止めてくださらなかったのですね」
「当時の俺は、ザシャと同じようなものだ。皇帝に逆らえるはずもない」
「ザシャが可哀そうです。どうして、もっと大事にしてくださらないのですか? わたしは、どうなっても構いません。でも、せめて。ザシャを家族とおっしゃるならば、あの人のことを大事にしてください。次の皇帝はフランツ様なのだから」
「大事にとは、どのように?」
「傷ひとつなく、穏やかに生きられるように」
「戦場で悪魔と呼ばれた男が、いまさら穏やかになど生きられるものか。どれだけの人間を殺したと思っている」
「生きられます! 生きられるように、してあげたかった。だって、わたしはあの人のための《レナ》だから」
 骨の髄まで、血の一滴さえも、ザシャのためにある。空っぽだったレナは、彼の手で生まれて、彼の手で育てられた女だ。
 傷も痛みも、憎悪さえも、すべて受け入れて、赦してあげたかった。
「あれは、人の皮を被った化け物だ」
「化け物だとしても! 化け物を、愛してはいけませんか?」
 フランツは眉をひそめた。
「なるほど、もともと頭のおかしい娘だったのか。ああ、よく分かった。だから、ザシャはお前を手放さなかったのか。何物にも執着できなかった男が、お前にだけは固執したのか。不愉快な小娘だな」
「不愉快ならば、顔など見せなければよろしいでしょう。何故、こちらに? 一度も、会いに来てくださらなかったのに」
「なに、ずっと城にいては息が詰まるだろう。喜べ、外に連れていってやる」
 レナは驚いて、じっとフランツを見つめた。
 自分の価値は、ザシャに対する人質だ。故に、この城で飼い殺しにされるしかないと思っていた。まさか外に連れ出すつもりがあるとは思わなかった。
「どちらへ?」
「神聖王国の王墓だ。弔ってやっていることを、たまには示してやらなければ、な。近頃の帝都は、どうにも神聖王国の忘れ形見が悪さをしている。このあたりで手を打っておきたいところだ」
「皇族が弔意を示すことで、民衆の感情を抑えると?」
「多少は気が済むだろう? そうすることによって、奴らは大義名分も失う」
「神聖王国の墓が荒らされたから、王族の遺体が辱められたから、彼らは怒っています。王族を弔っていることを示して、反発する理由を奪うのですね」
「いま暴れている連中も、帝国から手厚い保護を受けている。そもそも、帝国に帰化した時点で、神聖王国を裏切ったのも同然の奴らだろう。大義名分もなく帝国相手に暴れるほどバカではない。旨味がないからな」
「わたしが同行する意味は?」
「ザシャに会える。お前が同行する理由としては十分だろう」
 フランツは問いに答えず、意地悪く誘いをかけた。

 ◆◇◆◇◆

 ダールベルク通り《廃園》の館。
 その奥にある、店の人間しか立ち入らない部屋で、ザシャは煙草を吹かした。長椅子にぐったり身体を預けて、ぼんやりと宙を見る。
 夜となれば、館の者たちの大半は表で働いている。裏方は静かなもので、一人で考え事をするにはちょうど良かった。
 この時間なら、キリルと顔を合わせることもないので、なおのこと。
「……最悪。なんで、うちに来てんだよ」
 扉から、背の低い少年が現れる。まだ幼く、客前に出るような年頃ではないので、おおかた預かっている子どもの一人だろう。
 いずれは表で働くことになるのだろうが、まだ時期ではない。
「挨拶もなしか?」
 嫌いな物を食べてしまったときのように、少年は眉間にしわを寄せた。整った顔立ちが台無しだった。
「レナを捨てた奴に、なんで挨拶しなくちゃいけないんだよ! ばか! お前のせいで、学習所も診療所も、葬式みたいな空気なんだからな?」
「なるほど。あれは、ずいぶん慕われていたらしい」
 相手にしないザシャに苛立ったのか、彼は親指ほどの小石を投げてきた。難なく避ければ、苛立ち混じりに地団太を踏む。
「こら、なんで起きているのよ。ちゃんと寝なさい。明日も学習所に行くんでしょ?」
 酒を持ってきた年かさの娼婦が、少年を窘める。
「やだ。レナがいないなら、行かない!」
 彼はザシャに向かって舌を出して、足早に戻っていく。
「もう、あんまり興奮させないで? あの子、眠れなくなってしまうわ」
「先に絡まれたのは、俺の方だ。あちらが悪い」
「嫌ね、そんな子どもみたいなこと言って。ああ、子どもみたいなものかしら? そんなものを吸うのは止めなさい。似合わないから」
 ザシャが煙を吐き出せば、娼婦はひどく嫌そうな表情をした。
「似合わないか? 昔よりは、ずっと様になっていると思うが」
「泣き虫だったお坊ちゃんが、よく言うわ。飴でも舐めたらいかが?」
 ザシャは溜息をついて、義手で煙草を潰した。
「忘れてくれ、そのような昔のこと」
 ダールベルク通りで暮らす者たちのなかには、遷都する前から働く人間もいる。ザシャより年上の彼女たちとは、ずいぶん長い付き合いになる。
 なにせ、ザシャの家族が殺されるよりも前、まだダールベルクが貴族の体を為していたときからの知り合いだ。
「どうして、レナを帝城に遣ってしまったの?」
「お前も、俺を責めるのか? さっきのチビのように」
「責めているつもりはないのよ。むしろ、責めているのは、あなた自身ではなくて? 本当は、手元に置いておきたかったでしょうに。あの子だけが、あなたが大事にできるものだもの」
「……この通りのことだって、俺は大事にしているつもりだが」
「嘘つきね。良いのよ、気にしなくて。ここにいる連中は、あなたの手なんか借りなくても生きていけるもの。あなたがいないと生きていけないのは、レナだけよ」
「あれは、俺がいなくとも生きていける。そうでなくては困る。戦場に駆り出されてばかりで、ろくに隣にいてやれなかった。帝都に戻ってからも、遊び歩いて邸に居つかない。そんな父親、いなくなっても大した問題ではないだろう?」
「笑っちゃう。遊び歩いているの? ぜんぶ仕事でしょうに。レナだけよ、勘違いして、あんなに傷ついているのは。……知っているのでしょう、あの子の気持ち」
 ザシャは目を逸らそうとした。しかし、射貫くような娼婦のまなざしは、それを許さなかった。
「……俺の願いは、レナが幸せに生きることだ。その隣に、俺は要らない」
「情けない男ね。自分の手で幸せにする、くらい言えないの? 言えないわね、損な性分だもの」
 娼婦は苦笑して、それ以上の追及はしなかった。グラスの酒をあおって、ザシャは立ちあがる。
「帰る」
「そう。帰っても、レナはいないけれどね。可哀そう」
「慰めるのか、傷口に塩を塗るのか、どちらかにしてほしい」
「駄目よ。みんなから、慰めるのと同じくらい、ずたずたに傷つけて、って頼まれているの。あなた、それくらいしないと、またお人形みたいになっちゃうでしょ?」
 娼婦はひらひらと片手を振って、館の奥に消えていった。
 ザシャが邸に戻ると、真っ暗で明かり一つなかった。夜になれば、レナが明かりを灯してくれた生活は、二度と戻ることはない。
 邸の奥にある、レナの私室を開ける。帝城に私物を持っていくことは許されなかったので、今もレナが生活していたときのままだ。
 寝台に並べられた人形を、ひとつ、ひとつ手にとる。どれも、ザシャが針を入れたものだった。衣装棚のドレスにある刺繍も、同じようなものだ。
 ザシャは神を信じない。だから、何かに祈ることはない。
 それでも、レナのために針を入れる行為は、祈りにも似ていた気がする。
「レナ。約束を果たそう。お前の願いだけは、俺が叶えてやる」
 あの娘は、過去など思い出さなくて良い。代わりに、ザシャが憶えている。
 いまは失われてしまった、泣きたくなるほど優しかった日々を。

 ◆◇◆◇◆

 神聖王国の王族たちが眠る墓は、帝都の西にある。
 東部と違って、いまだ神聖王国時代の街並みを色濃く残している地区だ。
 白亜の建物、寸分の狂いもなく敷き詰められた石畳、あちらこちらに刻まれた白木蓮の意匠。西部に足を運んだのは数えるほどだが、闇のひとかけらさえも許さぬよう、後ろ暗いことを許さぬよう、とかく明るい印象を受ける場所だ。
「レナ。元気そうで何よりだ」
 王墓に向かうレナたちの護衛は、ザシャだった。
 馬車に乗り込んできた養父は、以前とまったく変わらない。そのことに安心するのと同時、嫌な感情が込みあげる。
 襟元や裾まで皺ひとつない軍服、それを着せてあげるのは、レナの役目だった。今は別の人間が、その役目を担っているのだろうか。
 表情ひとつとっても、レナとの別れる前と同じだった。
 レナがいなくなっても、ザシャの日常は変わらないのだ。
「元気でなければ、お前が怒るだろう? こんな小娘のせいで、ザシャの機嫌を損ねるのは御免だ」
 揺れる馬車のなか、フランツは行儀悪くレナを指差した。
「当然です。俺の宝を預けるのですから、大事にしていただかなくては」
 レナはふたりの会話に口を挟まない。すると、ザシャの義手で頭を小突かれる。
「顔色も悪くない。エドガー様は良くしてくださるか?」
 横目でフランツを見るが、咎める様子はない。どうやら、ザシャとの世間話くらいは許してくれるようだ。
「ええ。エドガー様は優しい御方よ」
「俺と違って、か?」
「そう。あなたと違って。ダールベルク通りの営業は再開したの?」
「とっくに再開しているが、帝城からお前を取り戻せ、とうるさい。診療所の連中や学習所のチビたちなんて、俺に石を投げてきたぞ。通りの人間は、お前のことを身内と思っているが、俺は家族失格らしい」
「だって、わたしの世話をしてくれたのは通りの皆だもの」
 懐かしい人たちの話に、レナは笑った。久しぶりに笑えた気がした。
 記憶を失う前の、ザシャに拾われる前のことなど知らない。たとえ、もう二度と帰ることができなかったとしても、あの場所こそ、レナが生まれ育った故郷だ。
「そうだな。俺は、お前の親ではなかったのだろうな」
 なんてことのないように、ザシャは残酷なことを言う。
「……なら、何になってくれるの?」
 血の繋がった家族にも、思い合う恋人にもなれないのだ。せめて、義理の親子としての関係性くらい、取り上げないでほしかった。
「浮気の相談ならば余所でしろ。いまは俺の妃だ」
 ザシャの答えを遮るよう、フランツが溢した。
「預けているだけです。指一本たりとも触れないでください」
「心配するな、お前とは女の趣味が合わない。私は従順で賢い女が好きなんだ」
「ああ。お人形趣味ですからね、昔から」
 フランツとザシャは軽口を叩き合った。傍目からすると、主従というより友人のような気安さである。
「こんなじゃじゃ馬娘ならば、まだ死体の方が可愛げがあるだろうに」
「墓の下に、ご興味が?」
「墓を荒らす者たちの気持ちは分かる。死体の方が、私の役に立ってくれたからな。そうは思わないか? 娘」
 フランツの言わんとすることを察して、レナは顔をしかめる。どうやら、もう隠す気もないらしい。
 第三王子フランツは、神聖王国の王族たちの亡骸を使って、皇族殺しを成した。
「まだ多少の生き残りはいるが、どうせ時間の問題だ。後片付けが得意な者もいるしな。待っていれば、残りも消える」
「物騒な御人ですね」
 やがて、王墓に馬車がつく。
「白木蓮の、森」
 王墓はあたりを白木蓮に囲われていた。
 女神の化身とも呼ばれるその花は、大きく、香しく咲く。
 盛りの季節はとうに過ぎているというのに、神聖王国の王族たちを悼むかのよう、狂い咲いている。
 周囲には軍部の者たちの姿があり、そのさらに向こうには民の姿がある。かつて神聖王国で暮らしていた者たちだろう。
 白木蓮の木々に囲われて、白い墓石は建つ。
 レナは誰に言われるわけでもなく、跪いて、そっと両手を合わせた。周囲のざわめきすら、遠い世界の出来事のようだった。
 フランツは咎めない。それどころか、レナに寄り添うように並ぶと、胸に片手をあて一礼する。
「ご冥福をお祈り申し上げますよ、聖女の方々」
「……冥福は地獄へ留められる者に捧げる言葉です。どうか、いと高き神々の国に召し上げられることをお祈りください」
 死後の幸いは、此の下界――地獄ではなく、天上界にあるものだ。
 レナが睨みつけると、フランツは肩を竦めた。
「堕ちた女神の末裔が、いまさら天上にある神々の国に戻れるとは思えぬ」
「いいえ。きっと、逝けます」
「白々しい。ここに眠る者たちも、マグノリアの悪魔の娘にだけは言われたくないだろうに」
 この墓碑の下には、ザシャが首を獲った女王をはじめとした王族たちが眠っている。
 ザシャが、神聖王国を亡ぼした。その事実を、レナは何処か他人事に思っていたのかもしれない。
 王墓に刻まれた名を見て、ようやく本当の意味で分かった。
 ――レナが幸福に過ごしてきた十年間は、彼らの犠牲のもとに始まったのだ。
 そのことを忘れてはいけない。両手をきつく握って、墓石に連なった名を頭に刻みつける。
 だが、そこでレナは違和感を覚えた。
「名前が、足りない?」
 何故、そのような疑問を抱いたのか分からない。だが、虫に食われた葉のように、石碑に刻まれた名が足りないように思ったのだ。
「魔女の血を殺せ!」
 墓に気をとられていたレナは、一発の銃声によって、現実に引き戻される。
「ザシャ?」
 咄嗟にザシャを見るが、彼が銃を放った音ではなかった。
 半透明の膜が、ザシャを中心に、レナとフランツを守るように展開されている。
 銃声は止まない。立て続けに数十発もの弾丸が撃ち込まれている。
 周辺を警戒していた軍部の者たちが、一斉にレナたちを囲う。ザシャはつまらなそうに銃を構えて、フランツに目を向ける。
「フランツ様。茶番は、もう結構で?」
「ああ。燃やせ、すべて。先に手を出してきたのは向こうだ」
 ――混乱とは、瞬く間に起こり、そして静まらないものだと知る。
 穏やかで慎ましやかな、弔意を示すための場は、あっという間に暴徒たちによって様相を変えた。
 銃声があちらこちらで鳴って、周辺を囲っていた民たちが雪崩れ込んでくる。
 思えば、すべては仕組まれていたことなのかもしれない。
 これみよがしに、フランツが神聖王国の王墓を訪れたのは、いまこの瞬間を狙ってのことではないか。
 波のように、人々が押し寄せる。
 ザシャはためらいなく銃を掲げた。銃身に浮かび上がった刺繍のような紋様が、青白い光を放って、そこに刻まれた魔法を展開する。
 ザシャがあつかうのは、魔法使いにしか使えない特別制の銃だ。
 より効率的に、より効果的に魔法を展開させるために、魔法使いたちはあらかじめ武器に、魔力を以って刺繍を――魔法を紡ぐための仕組みを、潜ませることがある。
 赤く、赤く燃える炎を纏って、銃弾が宙を駆けた。
 瞬間、ひと塊になっていた暴徒たちの大半が火達磨となった。絶叫があがる。炎から逃れようと、苦しみもがいても、ザシャの放った炎は獲物を離さない。
 辛うじて第一撃を逃れた者たちが、蜘蛛の子を散らすように王墓から逃げていく。だが、周囲に配された軍人たちに足止めされて、地面に座り込むしかない。
 頭の奥で、小さな子どもの泣き声がした。脳髄を揺らされるような、恐ろしい何かがよみがえるようだった。
 レナは、この炎を知っている・・・・・・・・・
 あのときも、半壊した建物のなか、砕けたステンドグラスが反射したのは、あたりを包む紅蓮の炎だった。
 記憶の底で、誰かが泣いている。泣いているのは、小さな頃のレナだ。
「美しいだろう? ザシャの炎は」
 フランツはうっとりと目を細めた。
「やめて。……っ、やめさせてください、こんなこと!」
 人々の絶叫は止まらない。炎に包まれた王墓は、曇り空を撥ねのけるように燃える。
「何故? 先に手を出したのは向こうだ。奴らは神聖王国の王墓を荒らし、手厚く葬ったはずの王族たちの遺体を盗んだ罪人だ」
 レナは肩を震わせる。神聖王国の王族の遺体は、皇族殺しの毒となった。遺体を盗んだのは、一連の皇族殺しの犯人だ。
 すべては神聖王国の残党の仕業、と軍部は発表したが、それは真実ではない。
「王墓を荒らしたのは、あなたでしょう?」
 皇帝になりたかったフランツが、邪魔な皇族を殺したのだ。
「お前のような小娘の戯言など、誰も取り合わない」
「ぜんぶ他人に押しつけて、自分だけ高みの見物ですか。まだ、先代の方が良かったのではないですか? あの方は、自分の罪を隠さなかった」
 先代の皇帝は、自らが皇帝となるために邪魔な血縁者を殺した。フランツと同じ所業を行った。
 だが、それはこんな風に卑怯な手段を使ってではなく、すべて自らの御名の許に命じたことだ。
「罪があったとして、誰がそれを裁くというのだ? あいにくと、私は神聖王国の者たちと違って女神を信じない」
 絶叫が木霊する。血と臓物が焼ける臭いは、此の世のものとは思えぬほど醜悪だった。
 レナは瞬きさえ忘れてしまった。
 レナが知る由もなく、知ろうとしなかった現実が悪夢となって現れた。
 穏やかに過ごした、愛しくて堪らなかった十年間が、いったい何を代償にして得られたものか突きつけられる。
 ザシャが戦場で人を殺し続けた。罪を犯し続けたからこそ、あの日々は守られていた。
 顔色ひとつ変えることなく、誰かの命を踏みつける。そうすることで、レナを守ってきたのがザシャだった。
 業火のなかから、幼い手が飛び出した。焼け焦げて、今にも崩れそうな小さな掌に、レナは遠い日の幻を見た。
 あんな風に、炎に巻かれた場所で、幼い日の自分は手を伸ばした。
 なにもかも失ったから、ただひとつだけは、この手に、と願った。
 だが、いま炎から飛び出した手は、何も掴むことができなかった。やがて魔法によって燃えあがっていた炎は、煙のように立ち消える。
 遺体の積み重なった墓地で、ザシャの足元には小さな骸がひとつ。不格好に手を伸ばした姿で息絶えていた。
 おそらくレナよりも年下の、子どもの亡骸だった。
 ザシャが軍靴でその骸を蹴飛ばした。
「ザシャ!」
 レナは飛び出した。このままでは、ザシャは彼らの遺体を粗雑にあつかう。
「レナ?」
「死は、誰にでも等しく訪れるもの。なら、……死者だって等しく弔われるべきよ。たとえ、この男の子がどんな罪を犯したとしても、この子の尊厳まで奪って良い理由にはならない」
「なるほど。お前は、優しい娘だからな」
 レナは首を横に振った。優しい娘ならば、この場が炎に包まれる前に、身を挺して、すべて止めるべきだった。
「あなたに、これ以上の罪を重ねてほしくない」
 ザシャには、もう誰も殺さないでほしい。
 ようやく、レナは腑に落ちた。ずっと言いたくて、けれども喉の多くにひっかかっていた言葉は、きっとこの気持ちだった。
 幼い頃からずっと、ザシャを戦場から引きずり下ろしたかった。
 穏やかな場所で穏やかに生きてほしかった。そんなこと叶うはずがないのに、そんな夢物語を夢見ていたのだ。
 レナの過ごした優しい時間は、ザシャが罪を重ねることによって成り立ってきたことから、目を逸らして。
「俺の罪は、俺が墓まで持っていく。お前が気にすることではない」
 ザシャが笑って、レナの額に銃口をあてる。
 そこで、レナの意識は途絶えてしまった。

 ◆◇◆◇◆

 夢を見ていた、遠い日の夢を。
「おっきいでしょう? 国で一番なの。ずっと昔から見守ってくれる、女神様なのよ」
 レナは白木蓮の大樹に触れながら、隣にいる誰かを見上げた。
 その人の顔は黒く塗りつぶされていたが、まだ年若い青年のようだ。仕立ての良い上衣に、わずかばかりの装飾品をつけた彼は、声をあげて笑った。
「神を信じているのか?」
「女神様はね、いまもレナたちを見守ってくださるの。悪魔の誘惑に負けないように」
「悪魔の意味も知らぬ娘に言われても、な。……この花が女神の化身か。お前の髪と同じ色だな。太陽の下だと、お前の髪は白く輝いているから」
 レナは自分の銀髪を一房掬って、そっと陽の光にかざした。彼の言うとおり、太陽の下だと、散りゆく花と同じ色となった。
「女神様と同じなら、綺麗?」
 彼は白木蓮に背を預けるように座って、レナを手招きする。レナはいつもどおり、彼の隣に腰かけて、その膝に甘えるように頭を預けた。
 どんな場所より、彼の隣で眠るのが一番安心した。
「いちばん綺麗だ、お前が」
「わたしも、いちばん綺麗だと思う。あなたが」
 身をよじって、膝枕してくれる人を見つめる。顔は分からないが、彼が微笑んでいることはその雰囲気で分かった。
 やがて、場面は移り変わっていく。
 穏やかな光景が黒く塗りつぶされて、目の前にはぼろぼろに傷ついたザシャがいた。寝台に横たわる男は、息も絶え絶えで、血の匂いが消えない。
「泣くな。これくらいの怪我では死ねない」
 顔や首筋に巻かれた白い包帯が痛々しい。熱に浮かされて、白磁のような頬には赤みが差していた。
 戦場に向かうザシャは、いつも無事に帰ってくるわけではなかった。レナがどれだけ祈っていても、時には瀕死の状態で帝都に戻された。
 だから、彼が戦場に向かう度、不安で堪らなかった。
「独りにしないで」
 いつか、レナの手が届かないところで、この人が死んでしまうのではないか、と。
「約束はできない。俺は、必ずお前を置き去りにする」
「聞きたくない!」
「聞け。本当は、お前に生きてほしいなら、最初から遠くへ遣るべきだった。誰もお前を引き留めない場所へ、俺のいない場所に。なのに、俺の我儘で、お前を傍に置いてしまった。……だから、どうか赦さないでほしい。お前の手を離せなかった俺を、お前だけは赦さないでくれ」
 普段のザシャならば、決して口にすることのない言葉だ。だからこそ、それが彼の本心なのだと痛いほど伝わってくる。
「ばか。ザシャのことなら、ぜんぶ赦してあげる。あなたが何をしても、ぜんぶ。だって、わたしはザシャのためにレナ・ダールベルクになったの」
 記憶や家族、持っていたはずのたくさんのものを失って、レナは生まれ変わった。ザシャに拾われてからの自分は、血の一滴さえも彼のために流れている。
 拾われたときからずっと、ザシャ・ダールベルクのために生きると決めている。
「赦さないでくれ。俺は罪を犯した」
「だめ。赦してあげる、ずっと。あのね、あなたが罪を犯したというのなら、それはぜんぶ、レナが食べてあげる」
 女神は言った。罪深き魂は、死後も地獄で苦しむ、と。
 天上に住まう神々の世界から堕とされた女神のいう地獄とは、この地上世界のことを意味する。
 此の世は、地獄なのだ。
「ザシャは、いと高き神の国まで逝けるよ。苦しまなくて良いの、もう」
 そのときの彼の顔を、レナは生涯忘れることはないだろう。たとえ、もう一度記憶を失ったとしても、魂に刻み込まれたかのように思い出す。
 迷子になって途方に暮れる幼子のように、ザシャは泣いた。
 後にも先にも、彼の涙を見たのは、このときだけだった。

 ◆◇◆◇◆

 目が覚めたとき、傍にいてくれたのはザシャではなかった。
 泣きそうな顔をしたキリルが、寝台の傍でレナの手を握っていた。彼の嵌めた絹の手袋の、さらりとした感触が懐かしい。
 そういえば、素手で触れてこないのは、ザシャだけでなくキリルも同じだ。レナにとって家族に近しい男は、二人ともレナに触れない。
 だから、あんなにも近しい場所にいたはずなのに、レナは彼らの温もりを知らない。
「お見舞いに来てくれたの? よく帝城まで入れたね。フランツ様に我儘を言った?」
 見覚えのある内装は、帝城にあるレナの室だった。やすやすとキリルが訪れることができる場所ではない。
「ええ。フランツ様の計らいで。……公爵でなくて、申し訳ありません」
「意地の悪いこと言わないで。ザシャがいなくても、キリルが来てくれただけで本当に嬉しいもの。ありがとう」
 輝くような金色の髪が、室の灯りで煌めく。ザシャの血を被ったような赤い髪とは似ても似つかないが、レナにとって馴染みある色には変わりない。
「公爵は、もうフランツ様のところに戻りましたよ。君を見舞うつもりもありません。冷たくて、ひどい人です。最近の公爵は、君を拾う前に戻ってしまったのでしょうね。まるで人形みたいだ」
「ううん。ザシャは、なにも悪くないの」
「いいえ。あの人が一番悪いに決まっています」
 男娼としてダールベルク通りで働くキリルは、レナの知らないザシャを知っている。だからこそ、時に辛辣な言葉を吐く。ことあるごとに、盲目的にザシャを慕うレナを咎めてきた。
 彼ならば、きっとレナの知りたいことの答えを持っている。
「怖い顔しないで。……ねえ、キリル。聞きたいことがあるの。あなたは知っていた? ザシャの、本当の子どものことを」
 キリルは舌打ちをした。いつも微笑んでいる彼にしては珍しい。
「余計なことを言ったのはフランツ様ですね。生きていたならば、十四歳くらいでしょうか。可愛い男の子だったそうです。まあ、生きていたところで、あの人は、きっと持て余したでしょうけど」
「殺された、と聞いたの。生まれた子どもに罪はないのに」
 望まれない命として此の世に生まれ、産声をあげた途端に殺された赤子。その存在を想うと心がざわつく。様々な感情が渦巻いて、冷静ではいられなくなる。
 レナは、育てることのできなかった我が子の代わりだったのか。あるいは、そう思うことすら、烏滸がましいのか。
「罪ならあります、魔法使いとして生まれたという罪が。学者や医師のお偉方が言うに、魔法使いは繁殖に向かない。魔女の血は遺りにくいのです。近親婚を繰り返した皇族だって、エドガー様みたいな子が生まれるようになった」
 マルティナの遺児エドガーは、魔法を使えない皇族だ。両親ともに魔法使いでありながら、彼には魔女の血が流れなかった。
「だから、公爵の子が魔法使いならば、その子が皇位争いに噛んでもおかしくない。当時の皇帝陛下は、自分を害する可能性のある赤子を生かしてはおけなかった」
「わたし、何も知らなかったのね」
「レナは、どうして魔法使いが重宝されるか分かりますか?」
「魔法使い一人には、兵士千人分の価値があるから」
 一騎当千。たった一人で千人を殺すことのできるのが、魔法使いという生き物だった。彼らは、一人で千もの敵兵を蹴散らし、帝国を勝利に導いた。
 神聖王国の王墓で、ザシャが多くの命を奪ったように。
「千の兵に、一人の兵士では勝てない、けれども千の兵に一の魔法使いなら互角に戦うことができる。魔法使いが百人集まれば、それは十万の軍勢となる。だから、帝国は周辺諸国を蹂躙することができた」
 マグノリア帝国が台頭したのは、かつて統一されていた北方大陸が、細々とした複数の国に分裂してからの話だ。帝国の魔法使いたちは、小さな国々をひとつひとつ相手にすることで、覇権を手にした。 
「さて、問題です。いまの軍部に、いったいどれくらいの魔法使いが属しているのでしょうか? 彼らには、どれくらいの寿命が残っているのでしょうか?」
 民衆は魔法使いを不死身の化け物と勘違いしているが、実際のところ、魔法使いとて死ぬ。フランツいわく、普通の人間より、よほどその中身は脆い。
 魔法を使えば使うほど、彼らは死への階段を駆けあがる。
「帝国に未来はない、と言いたいのね」
「だから、はやく公爵から離れたら良かったんです。帝国など捨て、君のことなど誰も知らない土地へ行ってほしかった。僕はもう、これ以上、君が傷つくのを見たくなかったんですよ」
 喉から絞り出すような声は、ひどく震えていた。
 あいもかわらず美しい青年だが、不思議と印象が以前と異なった。 
 一緒にいたときは気づかなかった。彼はレナよりも賢く、達観していたので、迷子になった子どものような、幼い顔を見たことはなかった。
「キリル」
「公爵は勝手です。君のためを思うなら、もっと早く手放すべきだったのに。帝国になんか置いておくべきではなかった! ずっと手元において、ずっと君の愛情を独り占めにして! ずるくて、卑怯です」
 もう一度、強く手を握られた。手袋越しでも、彼の手が震えていることが分かった。
「僕だって、君が大好きなのに。君の一番にはなれない」
 子どものような物言いだ。兄のように、弟のように過ごした幼馴染みが、幼子のように顔をぐしゃぐしゃにする。
 物語の王子のような碧の瞳が、涙で潤んでいた。
 慰めてあげたい、と思った。だが、レナには、彼を抱きしめる資格はない。
「だから、わたしなんか忘れて、外に出ていってほしかったの。だって、何も返せない。わたしは、絶対にザシャを選ぶの。レナ・ダールベルクは、血の一滴さえも彼のために作られたから!」
 それを不幸と呼ぶことはできない。強制されたのではなく、レナは望んで、そんな風に十年を過ごした。
 家族のように大事なキリルさえ、ザシャのためなら捨ててしまう自分がいる。この命さえも、彼のためなら捧げてしまう。
「僕は、そんな君の生き方が嫌でした。だって、そんなの幸せではないでしょう? 君は幸せだと言うけれど、君たちの関係は行き止まりだ。始めから、ずっと」
 魔法使いとして命をすり減らす男と、彼しか後ろ楯を持たない孤児の娘。
 いまにも切れそうな綱を渡るような、今にも砕けてしまいそうな薄氷を踏むような関係は、いつだって破滅と隣合わせだった。
 互いに互いの手を離せば、いくらでも楽に生きられた。そうするべきだと知りながら、レナは見ないふりを続けた。
 ただ一緒にいたかった。叶うなら、振り向いてほしかった。
 ザシャの隣ならば、どんな地獄でもよかったのだ。ザシャがいないならば、どんな美しい場所も、幸いなる場所も要らなかった。
「待っているのが終わりでも、どんな結末でも良かったの。だから、わたし、ザシャのぜんぶを赦す」
「僕なら、君をつれていってあげます。君が本当に幸福になれる場所に」
 言葉どおり、この幼馴染みは、レナを遠くに連れていってくれる。
 レナのためなら、どのような無理も通す。きっと、軍部に監視されたザシャにはできないような、レナを国外に連れて、戦禍の届かぬ安寧の土地に送ることだって。
「ありがと、キリル。あなたのことが大好き。でも、一緒には行けない」
 そっとキリルの手を握り返して、祈るように自らの額に引き寄せた。キリルのために何もできないならば、せめて彼の幸福を祈りたい。
「幸せに生きて、あなただけは」
 十年間、家族のように過ごした。一番にはできなくとも、彼のためにすべてを投げ出すことはできなくても、親愛の情はある。
「君も公爵も、よく似ている。身勝手で、ひどい人。……僕はずっと君を抱きしめてあげたかった。でも、僕では意味がないなら、仕方ないですよね。僕だって、勝手に君を愛します」
「キリル?」
「さようなら、レナ」
 そう言ったキリルは、笑っているのに泣いているかのようだった。

 ◆◇◆◇◆

 その夜、レナの室を訪れたのはエドガーだった。
「見舞いに来た。良いか?」
 可愛い男の子を、レナは笑顔で迎え入れた。
「お会いできて嬉しいです」
「しばらく遠慮するつもりだったが、キリルが来たと聞いたから。長居はしない」
「フランツ様の計らいで、見舞いに来てくださったそうです。エドガー様もありがとうございます」
「私もレナが心配だったから。見舞いの品のひとつでも持って来れば良かったのだが、何か持ち込まれると困るだろう? ワインとか」
 洒落にならない冗談だった。だが、強がりであろうとも、そんなことを言えるくらいには、エドガーの心は快復したのだ。
「皇帝陛下たちのようには、なりたくありませんものね。皇族殺しの毒はとても恐ろしいですから」
 エドガーが目を丸くした。
「毒殺? 皇帝は自殺だと聞いている。頭を銃で一発だろう」
 エドガーは自分のこめかみに銃をあてるような仕草をした。
「……いえ、そんなはずありません。毒殺でしょう? その、マルティナ様だって、同じように殺されたではありませんか」
「マルティナも頭を潰されたのでは? 少なくとも、僕はそう聞いた」
「毒殺されたあと、頭を潰されたのです」
 唇に指をあてながら、エドガーはゆっくりと首を傾げた。皇族には多い、輝くような金髪が流れる。
「毒殺されたと言ったのは誰だ? そもそも、皇族殺しの毒は、十周年記念式典のとき初めて現れたのだろう? だから、帝城は荒れた」
 式典の日、招かれた皇族たちは警戒もせずワインを含んだ。エドガーの言葉どおりなら、彼らが何の警戒もしていなかったのは、皇帝やマルティナの死因が毒と知らなかったからなのだ。
 あのとき、皇族殺しの毒の存在を、いったい何処までの者が知っていたのか。
「ザシャは知っていた。フランツ皇子も」
 皇帝とマルティナの死因が毒である、と教えてくれたのはザシャだ。
「キリルは? どうして」
 そして、当たり前のようにそれを知っていたのがキリルだった。
 何故、キリルは皇族殺しの毒を知っていたのか。
 思えば、王墓が荒らされた件も同じだ。劇場の地下に向かったとき、支配人の女性は墓荒らしについて言及したが、王族の死体が盗まれたことは知らなかった。
 神聖王国の王族の骸が盗まれたことは、つい先日まで秘匿されていたのだ。
「繋がっていたの? キリルも」
 エドガーが不安そうに、レナの袖を引いた。
「ダールベルク通りに戻るなら、夜のうちに」
「え?」
「察しが悪いな。誤魔化してあげる、と言っている。――ザシャ、あなたはレナについてあげて」
 レナは振り返る。室の入り口に立っていたのはザシャだった。今日のエドガーの護衛は、彼だったらしい。
「俺がこの場を離れると、お独りになりますが」
「そうだね。だから、せいぜい私が死なないことを祈っておくと良い。行って、レナ。私には何が起きているのか分からないけれど、あなたは、きっと間に合う。マルティナの死に立ちあうことのできなかった、私と違って」
「エドガー様」
「あの人を母と思ったことはないよ。でも、あの人が私を守ってくれたことは知っている。魔法使いではない出来損ないを、あの人なりに可愛がっていたことも。……だから、マルティナを看取れなかったこと、助けられなかったことは、今もずっと後悔している」
 母と息子。それだけの言葉では語れないほど、マルティナとエドガーの関係は複雑だったのだろう。しかし、そこに情がなかったかと言われたら、そうではないのだ。
 あの美しい魔法使いの女性は、魔法の使えなかった我が子を、おそらく宝物のように可愛がっていた。自分とは違う普通の子どもだったからこそ、思い入れが強かったのかもしれない。
「ありがとうございます、エドガー様」
 ザシャに連れられて、レナは帝城を抜け出した。息を潜ませて、ふたりは帝都の闇を駆けていく。
「良いの? ついて来て」
「良い子にしていれば守ってやる。今も変わらない」
「フランツ様は怒るでしょう」
 ザシャは唇を釣りあげるだけで、否定はしなかった。
「悪い報告があがっている。数日前、ダールベルク通りの娼館で死人が出たらしい」
「たまに、あることよね?」
 通りで死者が出るのは、時折、あることだった。賭場での喧嘩や、支払いの揉め事、禁止されている薬物の持ち込み、不幸なことは起きるときは起きるのだ。
 診療所で働いていたレナは、実際、その手の被害に遭った遺体を見たこともある。
「珍しいが、有り得ないことではない。だが、今回は廃園の館からの報告だ」
「キリルの」
 廃園は、キリルが所属している娼館だ。
「そう。キリルの上客だった魔法使いが死んだ。……フランツの異母妹のひとりらしい。つまるところ、皇族が死んだわけだ」
 遷都十周年式典には、参加していない皇族もわずかにいた。その後の彼らは、皇族殺しを警戒して、帝城からも姿をくらませていたはずだ。
「おそらく、今回だけの話ではない。キリルの噂は知っているだろう?」
 キリルには、共寝をすれば幸福のあまり死人が出る、という不穏なうわさがあった。それは、彼の人気の揶揄したものと思っていたが、本当の意味で的を射ていたのかもしれない。
「キリルが殺したって言いたいの?」
「実際、あれと寝た後に死んでいる人間は多い。魔法使い以外にも死んだ奴らはいるが、魔法使いの客は例外なく死んでいる。この意味が分かるな?」
 魔法使い。つまり、多かれ少なかれ魔女の血を――皇族の血を交えている。
 ダールベルク通りでも指折りの高級男娼だったキリルは、相手にする客も、当然のように身分ある者か富裕層に限られる。
 必然的に、キリルは魔法使いの客を多く抱えていた。
「あれは性質の悪いうわさよ」
「うわさでも、偶然でもなかった。何年も前から、キリルは魔女の血を殺してきた。皇族殺しの毒は、ずっと前から使われてきた。――フランツ様も、俺に黙ってよくやる」
「でも! 神聖王国の王墓が荒らされたのは、そんな昔のことじゃないでしょう?」
 この春、皇帝が毒殺されたときが、最初の墓荒らしとなったのではないのか。
「そう言ったのは、キリルか? 残念ながら違う。露見したのがこの前というだけで、王族の遺体は以前から持ち出されていた」
 そのような事実は知らなかった。王墓が荒らされ、王族の遺体が盗まれたことを教えてくれたのは、他ならぬキリルだったのだから。
 ダールベルク通りに着くと、二人は裏手から廃園の館に飛びこんだ。
 目当ての一等上質な部屋は、いつも本の匂いがする。小さな図書館のような、レナにとって第二の家にも等しい場所だった。
 月明かりが照らす寝台に腰かけて、キリルは膝を抱えていた。その姿は、小さな子どものようにあどけない。
「レナ。公爵と一緒ということは、僕を捕まえに来ましたか?」
 兄のように、あるいは弟のように慕った幼馴染は、美しい碧の瞳を細めた。
「嘘よね? ぜんぶ」
「嘘だと言ってほしい? これくらいが潮時なのでしょうね。僕にしては、上等な結果でしょう?」
 すべての罪を認めるかのように、キリルは笑った。
 彼に纏わる噂はデタラメではなく真実だった。この男娼は、ずっと客として現れた魔女の血を殺してきたのだ。
「どうして。あなたには、皇族を殺す理由なんてなかったでしょう?」
「魔女の血は亡びるべきです。僕の愛するものを守るために、そうするしかなかった」
 彼は懐から白木蓮の髪飾りを取り出し、そっと口づけた。レナの髪飾りだ。
「フランツ様に命じられて、でしょう? あなたは利用されていただけで」
「利害の一致ですよ。僕はずっと、魔女の血を亡ぼしたかったから。ただ、あの方にとって、僕はもう不要な駒なのでしょうね」
 だから、処分される、とキリルは笑った。自分のことでありながら、まるで他人事のように語るのだ。
「逃げて。今なら、まだ間に合うから」
 まだ、フランツの手は及んでいない。軍部が駆けつけていない今ならば、帝都の外へ逃げ延びることができる。
 キリルは首を横に振った。
「何処へ逃げるのですか? 僕の家はここです。レナのいた、この場所だ。だから、何処にも行かない。何処にも行かせないでください」
「こんなところじゃなくても、あなたは生きていける!」
「こんなところが、僕の愛する場所です! ねえ、公爵。僕は良くやったでしょう? だから、最期くらいは願いを叶えてください」
 薄闇のなか、キリルの碧眼が鋭い光を放った。黙り込んでいたザシャは、ただ一度だけ目を伏せて、それから口元を歪ませた。
「望みは?」
「あなたの銃を賜りたく」
 ザシャは自らの銃を放り投げた。
 キリルが受け取った途端、古びた銃は青白い光を放った。銃身に浮かんだのは、あらかじめ刺繍された紋様だ。
 銃に仕込まれた魔法が、起動する合図だ。
「魔法使い、だったの?」
 ザシャ・ダールベルクの銃は、魔法使いにしか起動できない特別製だ。だから、レナのような人間が触ったところで、弾の込められていないガラクタにしかならない。
 あの銃をあつかえるならば、キリルは皇族の血を継いでいる。魔女の系譜に連なる、魔法使いということになる。
「ダールベルク通りには、魔法使いが二人いました」
「……俺と、お前だな。そうか、すべて知っていたのか」
 ザシャは額に手をあて、溜息をつくように言った。
「皇帝に命じられて、あなたが作った子ども。あなたの子が魔法使いにならないことを、皇帝の脅威とならないことを確かめるための」
 レナは口元を両手で覆った。理解したくないが、理解してしまう。
 かつて、ザシャの家族が皆殺しにされたのは、皇帝の地位を脅かす可能性があったからだ。皇帝は、ザシャの血を継ぐ子どもについても、確かめずにはいられなかった。
 ザシャの息子は、皇帝が危惧したように魔法使い――皇族の血を色濃く継いだ。
 フランツが殺されたと言った赤子は、実際は密やかに生かされていた。
「ザシャが、キリルをここに隠したの?」
 キリルは実年齢を知らない。ダールベルク通りの娼館で育てられた者としては、珍しいことではない。
 裏を返せば、赤子を隠すのにここまで適した場所はない。軍部の監視があるとはいえ、この通りの住民ならば、ザシャの保護下に置くこともできる。
「僕を隠すために、あなたは別の赤子を攫って殺した」
「……ああ。乳飲み子だったから、うまく誤魔化せた」
「本当に、血も涙もない外道です。罪のない赤子さえも、あなたは殺してしまうのだから。……でも、そんな外道の心が、僕にも分かってしまうんです。だから、気づかぬふりはできませんでした。僕とあなたは、とても似ています。同じ気持ちを抱いている」
 くるくると片手で銃をまわしてから、キリルは自らの頭にあてた。ためらうことなく、彼は引き金に指をかける。
「やめて。……っ、ねえ!」
「道化は、道化らしく退場しましょう、僕もまた皇族殺しの対象です。レナ、糸を解きましょう、それは女神の御許にある・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・。君なら、きっと見つけてくれますよね」
「キリル!」
「どうか哀しまないで。僕の可愛い妹、優しい姉さん。……ぼくの愛する人」
 キリルは笑った。レナよりも年下の、まだ幼い男の子のように。
「たとえ女神が赦さなくとも。僕が、君の愛を、罪を赦してあげます」
 銃声がひとつ鳴った。
 傾いでいくキリルを、ただ茫然と見つめる。
 獣のような絶叫をあげて、レナは駆け出そうとした。しかし、後ろから強く手首を掴まれて、一歩も動けなかった。
「離して!」
「触れるな! 死体は軍部が片付ける!」
「片付ける? そんなことしたら、キリルはっ……!」
「乱暴にあつかわれることはない。頭部が損傷しているなら、魔法で情報を引き出すこともできない、共同墓地に埋葬されるだけだ」
「キリルは、わたしたちの家族で! あなたの子どもでしょう?」
「血が繋がっているだけだ。あれも俺も、親子とは思っていなかった」
 耐え切れず、レナは泣き崩れた。酷いめまいに襲われて、咽喉の奥からは悲鳴ばかり溢れてしまう。
 彼らが親子でないならば、ザシャにとってのレナは何なのだろう。
 いつか捨てるための駒なのか。それとも、本当に娘として愛しているのか。
 レナはいつだって、この人の特別になりたかった。
 キリルだって変わらない。ザシャのことを心から慕っていたはずだ。そうでなくては、彼がダールベルク通りに残り続けた理由が分からない。
 レナがいたから、と彼は語ったが、その心には父親の存在もあったはずだ。
 幼い頃のように、キリル、と名前を呼ぶ。名を呼べばいつも応えてくれた人は、伽藍洞の目をこちらに向けるだけだった。
 澄んでいた碧眼が、頭から垂れた血で葡萄酒の色に染まった。
 その美しい死に顔は、どうして気づかなかったのか分からないほど、ザシャとよく似ていた。


モドル | ススム | モクジ
Copyright (c) 2020 東堂 燦 All rights reserved.
 

-Powered by HTML DWARF-