マグノリアの悪魔

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  第六幕 そして、魔法は解ける  

 いつの時代にも、権力者とともに美貌の誰かがいる。
 男娼キリル。
 貴族や高名な学者、果ては皇族までを相手にした青年は、一晩過ごすために、家どころか親や子どもを売らねばならない高嶺の花だった。
 彼の遺した日記は、彼自身の人生をなぞるためというより、レナ・ダールベルクを知るための重要な資料とされている。
 ふたりは十年を共にした幼馴染であり、非常に親密な仲であったことが、その日記からも窺うことができた。
 美しい男娼は、まだ若い、花の盛りに自ら命を絶った。
 遺体の傍には白木蓮の髪飾りがあり、また皇族殺しに加担したことが遺書から判明している。彼は亡ぼされた神聖王国の女神を信仰しており、皇族を殺すことで女神への信仰を果たした、と語る者もいた。
 当時、一連の皇族殺しは、キリルをはじめとした神聖王国に傾倒していた者たちが主犯とされ、すべては落ち着いたと考えられた。皇位を巡る争いは終着したとみられ、帝都は次の皇帝を迎えるための準備をはじめる。
 軍部を掌握していた第三皇子フランツは、彼以外の候補が殺されたがために、皇帝の地位を継ぐことが確定した。
 帝城もまた、以前の平穏を取り戻したかに見えたのだ。
 それが上辺だけのこととも、知らずに。

 ◆◇◆◇◆

 ダールベルク通り《廃園》の館。
 キリルが暮らしていた部屋は、彼の死後、いまだ片付けられていなかった。
 廃園の館も、いちばん人気の男娼が死に、それが皇族殺しに加担していたとなっては、上から下までひっくり返るような混乱だ。
 頭部を損傷した死体は、すぐさま共同墓地に埋められた。遺されたのは彼の部屋と、彼の犯行を記す遺書だけだった。
 キリルは神聖王国の残党と繋がっており、皇族殺しに加担したという。
 女神を信じているからこそ、それを亡ぼした帝国を、ザシャ・ダールベルクを憎んだ、ともっともらしいことが書かれていた。
「違うくせに」
 彼が心から女神を信じていたとは思えない。
 そして、実父であったザシャを恨んでもいなかったのだろう。
 死人に口はなく、キリルの本心を聴くことはできない。
 だが、今思えば、彼はレナを大事にすることで、父親への慕情を満たしていたのだ。息子と名乗ることはできないからこそ、義娘であるレナに寄り添うことで、疑似的な親子関係を味わった。
 キリルが、レナのことを姉であり妹と言ったことにも、意味はあったのだ。
 彼は、レナのことも、ザシャのことも、心から愛してくれた。彼のことを一番にはできないと分かっていながらも、愛し続けてくれたのだ。 
 キリルには、たくさん身請けの話があった。いくらでも好きに生きて、新しく始めることができた。それにもかかわらず、ダールベルク通りに残ることを選び続けたのは、レナたちが理由だったのだろう。
糸を解きましょう、それは女神の御許にある・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
 キリルが最期に残した言葉が意味するものを、レナは知っていた。
 勝手知ったる彼の部屋は、幸いなことに隅々まで検められることはなかった。フランツは捨て駒にも、彼が遺したものにも興味はないのだ。
 軍部が押収した遺書とて、本当にキリルが書いたのか怪しいものだった。
「あなたは、大事なものほど仕舞いこんでしまうのよね」
 幼馴染の部屋は、レナにとってもう一つの家だ。
 キリルが大事なものを何処に隠すのかも知っている。本棚に収められたいくつかの本を引っ張り出す。遠い昔、彼が貸してくれた小説たちだ。
 ページがすべて引きちぎられた複数冊の本は、外側の装丁だけが残っており、中には物を収納するための小箱が挟まっていた。
 レナが書いた手紙や、ザシャが贈ったブローチ、キリルの宝物が次々と出てくる。そのなかで、宛名のない封筒がひとつあった。
 軍部に押収された遺書ではない、一通の手紙だった。
 レナは懐から、まだらに血で染まった白木蓮の髪飾りを取り出した。
 この髪飾りは、ザシャが捕まったとき、キリルに渡したものだ。ザシャの無実を晴らすために協力してほしくて、その対価として差し出した。
 そして、キリルが自死する前、祈るように口づけたもの。
「キリル」
 けれども、彼が愛したのは、白木蓮の女神ではなかった。震える指で、レナは宛名のない封筒を開いた。

 親愛なるレナ

 君がこの手紙を読んでいるならば、僕は目的を果たすことができたのでしょう。
 願わくは、この手紙が、君の魔法を解くことを。
 忘れたままでいられたら、きっと幸せなのでしょう。けれども、忘れたままでいたら、僕の大好きな君は、きっと泣くことになるから。
 叶わぬ恋をしている君が、僕はとても愛しかった。だから、その恋を終わらせないために、君には思い出してほしい。
 ――僕の知らない、君と公爵の過去を。
 レナ、魔法と裁縫は似ている。君の記憶も同じです。昔のことを思い出さないように、針と糸で縫い合わせて、塞いでしまっていたのです。
 けれども、いつか糸は解れるもの。いつか魔法は解けるもの。
 君に魔法をかけていたのは、君がいつも傍に置くもの。君にすべてを与えたのが誰なのか、もう君は知っているでしょう。
 君の記憶を奪ったのは、ザシャ・ダールベルク。
 君があの人を愛するならば、君はすべてを知らなくてはいけない。


 手紙を閉じて、白木蓮の髪飾りに視線を落とす。
 ――さあ、糸を解きましょう、それは女神の御許にある。
 キリルが最期に零したのは、この髪飾りのことだ。
 魔法とは裁縫にたとえられる。だから、永遠ではない。いつか糸が解れて、解けてしまうものなのだ。
 レナの記憶を隠していたのは、この白木蓮――女神の化身たる花の飾りだ。
 もしかしたら、魔法がかけられていたのは、髪飾りだけではないのかもしれない。
 この十年間、レナはいつだってザシャが作ったものに囲まれていた。それが記憶を封じていると知らず過ごした十年間は、幸福そのものだった。
 だが、向き合わなくてはいけない時間が来たのだ。
「わたしは、何をザシャと約束したの?」
 瞼の裏によみがえる光景があった。
 燃える炎の色、割れたスタンドグラスの欠片、座り込んだレナに手を差し伸べた赤毛の青年。
 あれは、いったい、いつ、何の光景なのか。

 ◆◇◆◇◆

 帝城に戻って、レナは長椅子で膝を抱えた。開いていた本は、不思議なほど頭に入って来なかった。
 ふと、扉の開く音がして、レナは本を閉じた。
「勝手に抜け出したらしいな」
 訪れたフランツは、至極、上機嫌そうに見えた。
「こんな真夜中に、何の御用ですか?」
「自分の妃のところに顔を出すのに、理由がいるのか? ザシャから報告を受けた。キリルのことは残念だったな、惜しい者を亡くした」
 一瞬、何を言われたのか理解できなかった。
「惜しい? 利用するだけ利用して、使い捨てたくせに」
 自らの頭に銃口をあてたキリルを思うほど、レナの心は磨り減っていく。彼を見殺しにした自分自身も、彼を死に追いやったフランツも赦せない。
「キリルとて、最初から理解していた。私たちは共犯だ」
「そんなに。そんなに、皇帝になりたかったのですか! これだけの人間を殺して、残された人々を悲しませて」
 彼が皇位に就くために、どれだけの血が流れた。
 戦場で蹂躙された命も、ばかげた皇位争いに巻き込まれて死んでいった者たちも、キリルも、フランツが皇位を得るための道具ではない。
「生まれの遅かった皇族の人生を、想像したことがあるか? ひどいものだ。私は幼い頃から地獄にあった。命からがら帝城を出たあとも、戦場では魔法使いとして使い潰される日々だ。……何度も思った、いつか私を踏みにじったすべてに復讐しよう、と。いつか私を辱めたすべてを殺そう、と」
 フランツの声は淡々としていた。
 しかし、葡萄酒色の目には、激しい怒りの炎が燃えていた。彼は近くにあったガラスのオブジェを叩きつけるように床に捨てる。
 気圧されたレナは、ガラスの割れる音に縮こまる。
「ザシャも同じだ。私たちは同じ地獄を共有している。私が家族と思っているのはザシャだけだった。あれの家族も俺だけで良かった。ずっと昔は、な」
「……今は、違うと?」
「ザシャがどうしても、と言うのであれば、お前も混ぜてやっても良い。次の皇帝は、私の子でもザシャの子でも構わない」
 瞬間、レナは腕を振りあげていた。
 帝国で最も尊ばれる男は、難なくレナの拳をかわした。フランツは、ただ不思議そうに首を傾げる。何故、レナが怒っているのか理解できないとでも言うように。
「あなたは、……っ、どこまで、どこまで、ザシャを道具にすれば気が済むのですか! 子どもなんて、絶対にザシャの前で言わないでください」
 ザシャの子どもはキリルだけだ。後にも先にも、彼だけがそうであるべきなのだ。
 そうでなくては、父親として名乗ることもできなかったザシャが憐れだった。
 皇族の身勝手で産み落とされて、身勝手で死んでいったキリルが報われない。
「そうか、キリルの死が、ザシャを傷つけたのか。まだ、あれにも人間らしい心が残っていたのだな。そうは思えなかったが」
「心なんて、残っているに決まっているでしょう」
「心があったら、軍属の魔法使いなど務まらない。……まるで昔のザシャのようだな。幼い頃のあれは、虫さえ殺せぬほど気弱な子どもだった。可哀そう、と言って、ふたりで捕まえた蝶を逃がしてしまうような」
 レナには、そんなザシャの姿を想像することができなかった。虫さえ殺せぬ少年は、人の命を虫けらのように踏みつぶす男となった。
 マグノリアの悪魔。
 数多の屍を積み重ねたザシャを、人々はそう呼ぶ。
 女神を誑かした悪魔のように、彼は聖女をも堕落させ、神聖王国を亡ぼした。
 かつて、罪には罰を、と神聖王国の者は謳った。穢れた魔女の血を継ぐ罪人に、火炙りという罰を与えた。
 ならば、ザシャにも、いつか罰はくだるのか。
「レナ? 起きているか」
 早足で駆け込んできた少年に、レナは顔をあげる。
「エドガー様。どうされましたか」
「こんな夜更けに客人か。子守りも大変だな」
「……っ、お、叔父上。申し訳ありません」
「構わぬ、もう出るところだ。良かったな、エドガー。もう仕舞いだ」
 フランツは膝をついて、エドガーと視線を合わせる。意地悪く唇をつりあげて、彼は甥の頭を撫でた。
 だが、口元をつりあげても、表情だけは凍りついたように動かない。
 レナは、ようやく気付いた。
 フランツに表情がないのは、意図的なものではない。彼は笑わないのではなく、笑っても表情に出すことができない。
 それはフランツが歩んできた人生の過酷さの証でもあった。表情が無くなるほど、彼の人生は苦難の連続だったのだ。
「し、仕舞い? 何が、終わるのですか?」
「悪夢は終わった。お前が殺される未来はないよ、今のところ」
 エドガーが恐怖に目を見開いた。
 震える少年の頬から頤をゆっくりと撫でると、フランツはすべての興味を失くしたように去った。
 途端、少年の甲高い悲鳴があがった。床に崩れ落ちたエドガーを、レナは強く抱きしめる。
「怖い夢は、もう終わります」
 レナの胸にすがって、彼は泣きじゃくった。
「嘘だ。嘘だ! 私も殺される? 皆のように。フランツ叔父上は、どこまで殺したら安心できる? キリルのことまで使って、自分の脅威にならない皇族まで殺して! 私も、きっと」
「……犯人が、フランツ様と決まったわけではありません」
 限りなくそうだとしても、直に皇帝となるあの男を裁く者はいなかった。
「嘘つき! レナだって、そう思っている。あの人は皇帝になる。皇帝になったら、私はどうなる? きっと殺される、マルティナのように! どうして? どうして、身内で殺し合わなくてはいけない」
「いいえ。終わります、きっと」
 フランツが皇帝に就けば、皇族殺しは止まる。彼の望みは叶ったのだから。
 しかし、レナの胸には一抹の不安があった。
 霧がかかったように、すべてがうやむやにされていた。
 はっきりと裏で糸を引いている者が分からぬまま、生き残ったのがフランツだから、すべての黒幕が彼だと思っている。実際、彼はそれを隠そうとしなかった。
 しかし、本当にそれだけなのか。
 キリルの言うとおりだ。探偵小説のようにはいかない。此の世に溢れているのは、理不尽で不条理で、綺麗に解けない謎ばかりだ。
「死にたくない。マルティナのようになりたくない。それなら、今ここで死んでしまいたい!」
 震える手で、エドガーが懐に手を伸ばした。宝石の嵌められた鞘が、レナの視界に飛びこんでくる。
 懐剣だ。幼い子どもには似合わないそれを、エドガーは差し出してきた。
「殺して」
「……っ、できません」
「殺して! どうせ、ろくな死に方はできない。苦しんで、惨めに死ぬくらいなら、ここで死んだ方が幸せだろう? 仕舞いなんて、終わりなんて、そんなことあるものか。叔父上は、ぜんぶ殺し尽くす。かつて皇帝がそうしたように!」
 エドガーは、無理やり懐剣をレナの手に握らせる。
「エドガー様!」
「あなたも知っているでしょう? ザシャの家族は、皇帝によって皆殺しにされた。きっと、今回だって同じことが起こる!」
「大丈夫。大丈夫、ですから」
 この男の子を憐れだと思うのは、レナの身勝手な感傷だ。震えることしかできない、無力な子どもが、ひたすらに可哀そうだった。
「怖いんだ。いまここで殺してくれないならっ、ねえ、お願い。どうか傍にいて。約束してよ、レナ」
 約束。そのとき、レナの脳裏によみがえったのは、聞きなれた男の声だった。
 ――約束だ、レナ。
 十年前、レナは約束した。
 半壊した大聖堂、砕けたステンドグラスが雨のように降り注いだ日。レナに手を差しのべたのは、血のように真っ赤な髪をした男だった。
 あのとき、レナはいったい何を約束したのか。
 悪魔のように美しい人は、笑って、レナの願いを叶える、と言ったのだ。
 まるで天上から堕ちた女神が、悪魔と交わったときのように。
 清らかな女神を、その願いを叶える代わりに誑かした悪魔のように。


 泣きじゃくるエドガーを寝かしつけて、レナは部屋の扉を開けた。
 扉の外に控えていた、影がひとつ。まるでレナを待ち構えていたかのように、ザシャは立っていた。
「子守りは良いのか?」
「もう、お眠りになったから。傍にいても邪魔になるだけよ」
「邪魔ではないだろう。小さいときのお前だって、俺がいなくなると、すぐに目が覚めて泣いて、ずっと傍にいて、と……」
「わたし、そんなこと言っていない」
 ザシャが目を見張る。彼の瞳がわずかに揺れたのを、レナは見逃さなかった。
「それを言ったのは、今のわたしではないのね? あなたが忘れさせた、ずっと昔のわたしでしょう?」
「思い出したのか? いや、余計なことをしたのはキリルか。遺書でもあったか。あれはお前のことが小さな頃から好きだったから。ばかみたいに、お前以外は愛さなかった。だから、死んだ」
「キリルを悪く言わないで。ザシャなんかと……、ザシャみたいな、嘘つきと一緒にしないでよ! ぜんぶ、隠していたくせに。心配なんて、していないくせに。わたしのことなんて、どうでも良いのでしょう?」
 責めるような言葉を口にしたいわけではなかった。だが、胸が痛くて、いま、どんな感情を抱いているのかさえ判断できない。
 怒っているのか、恐れているのか、それともザシャを恋しく思っているのか。
「どうでも良い? 俺はいつも、お前のことだけを想っている」
 ザシャは笑っていた。その笑みからは、何ひとつ彼の心が読み取れない。
 いつも愉しげにしているのは、それ以外の感情を忘れたのではなく、それ以外の感情を覚らせないためと知っている。
 ザシャ・ダールベルクは、レナの前では嘘つきになる。
 十年間もともに過ごしながらも、彼を慕いながらも、レナは彼のことなど何も分かっていなかった。
「わたしも、あなたにとっては手駒のひとつ? キリルみたいに使い捨てる? 実の息子を捨てられたなら、義理の娘なんて簡単よね」
「あれを息子と思ったことはない」
「……っ、なら、わたしは何? あなたの娘じゃないの?」
「俺を親と思っていないのは、お前の方だろう」
 冷たい機械仕掛けの手が、頬をなぶるように撫ぜて、唇に触れる。
 かつて抱いた恋心が、腐り落ちていく。彼を慕った少女の心が、どろどろに溶けて、醜悪な匂いを放っている。
「ひどい顔だ」
 心臓が破れそうだ。今すぐこの場から逃げたくとも、足が動かない。鎖に繋がれたかのように、何処にも行くことができなかった。
 思えば、はじめからそうだった。
 自由に行動している、自分の意志で選んできたつもりが、すべての選択の根底にはこの男がいた。
 好き。
 そんな言葉では、もうこの想いは表わせない。この男がいないと息ができなくて、ずっと苦しかった。
 ――けれども、この男は、きっとレナがいなくとも息ができる。
 手を伸ばして、触れようとする。しかし、ザシャはそれを許さなかった。
 冷たい作り物の手で、レナの頬を包んで、口づけるように指先で舌を撫ぜて、まるで戯れのようにレナをもてあそんで。
 出逢ったときから、レナは彼の熱を知らなかった。抱きしめても、本当の手で触れてもくれない人だった。
 燭台の明かりに浮かびあがるザシャの姿は、人とは思えぬほど美しかった。
 マグノリアの悪魔。
 血を浴びながら戦場を駆けた美しい男のことを、皆が畏怖を籠めて、そう呼ぶ。
 この悪魔のような男こそが、レナのすべてだった。
 身も心も、ひとつ残らず彼のものだった。この血肉は彼によって守られ、この心は彼によって象られた。
「お願い。ぜんぶ教えて。知らないままでいたくない。幸せだった十年を嘘にしたくない。だから、知りたいの」
 この人がレナの記憶を封じたならば、どうか、すべてを解いてほしい。彼の魔法が解ける前に、その口から真実を告げてほしかった。
「もうすぐ終わる。約束を果たそう、十年前の」
 ザシャは葡萄酒色の目を細めて、嬉しそうに笑った。
 分かっていた。この人を繋ぎ止めることなどできない、と。
 気まぐれに優しさを与えても、レナに触れてくれることはなかった、この機械仕掛けの冷たい手だけが、レナに触れる唯一だったのだ。
 彼はひどい男で、決して褒められた父親ではなかった。だが、それは父のような男に恋をしたレナも同じことなのだ。
 レナは歯を食いしばって、遠ざかる背中を見つめた。
 誰に後ろ指を指されることになっても、彼の傍で生きて死ぬことだけを考えていた。それだけを望んで、レナは生きてきたのだ。
 この十年間、夢のように幸せだった。
 その日々は遠く、もう取り戻すことはできない。レナが蹲って、迷っているうちに掌から零れてしまった。
 何も変えることができず、誰も救うことができないまま、ただ泣くことしかできない。ザシャに拾われた、小さな女の子のままだった。


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