マグノリアの悪魔

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  第七幕 ふたりの約束  

 帝歴二七九年の春から始まった皇族殺しは、男娼の死を最後に、いったんは幕引きを見せたかのように思えた。
 しかし、本当の幕引きは、この後に行われた。
 皇族殺しの最後の舞台として選ばれたのは、かつて神聖王国の女王が坐した聖堂――帝城の最も奥深くにある白亜の建物だった。
 第三皇子フランツが、正式に皇帝となる直前のことだ。
 一連の皇族殺しの真相と、そのばかげた理由。
 即位後のフランツは、幼い甥に語った。
 あれはまさしく悪夢のような出来事だった、と。
 当時の心労が祟ったのか、フランツの在位はさほど長くなく、また帝国はこのときから斜陽の時代を迎えることとなった。
 マグノリア帝国、最後の皇帝の名をエドガーという。
 伯父であるフランツに次いで、砂上の城のような皇帝の座に就いたのは、魔女マグノリアの血を継ぐことなく、魔法使いですらなかった男だった。
 彼の代で帝国は解体され、それぞれの領地は近隣諸国へと吸収される。
 天上から堕ちた二柱の女神の伝説は、これにて歴史から姿を消すことになった。神話の名残は地上から消えて、本当の意味での人間の時代が始まった。

 ◆◇◆◇◆

 深夜、レナはひとり帝城の書庫に忍び込んだ。
 何度もエドガーと一緒に訪れた書庫は、たいていの資料の位置を把握している。
 帝城の外に出されることのなかった神聖王国時代の記述が、何処にあるのか、今のレナは知っているのだ。
 本棚の奥から、神聖王国時代の史書を抜き取った。
 古い記述は飛ばして、ぱらぱら、と近年の記録を拾っていく。
 一番新しい女王こそ、神聖王国の最後の女王であり、ザシャによって首を獲られた女性だ。替えの効く装飾品のように、山ほどの夫を囲っていた彼女は、父親の違う子どもたちをいくらか設けている。
 だが、子どもたちの名前だけ、何処にも記録が見当たらない。
 不自然に切り取られたかのように、隠されたかのように。
 はじめてこの本を開いたときの違和感は正しかった。やはり、いくつかのページが、意図的に抜き取られているのだ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
「……神聖王国の王族は、みんな殺された」
 十年前、ザシャの手によって殺された。
 遺体は激しく損傷されたあと、三日三晩炎で焼かれ、女王以外は、顔も性別もわからないほどだったという。
 そのうえ、頭を執拗に潰されていたはずだ。
 ザシャが、どうして、そのような殺し方を選んだのかも分かる。頭が残っていたら、軍部の魔法使いによって、死体から記憶が抜き取られてしまう。
 ザシャには、王族たちの記憶を隠す理由があった。
 記憶が公になってしまえば、ザシャが隠したかった真実が、すべて白日の下にさらされてしまう。
「王族は、本当に全員殺されてしまったの? 治癒の力を持っていた聖女の血は、本当に絶えてしまったの?」
 損傷が激しく、黒焦げになった遺体のすべてが、本当に王族のものだったのか。
 それを知っているのは、ザシャだけだ。
 十年前よりも、さらに昔から、レナとザシャは知り合いだった。忘れていた記憶がよみがえる度に、その確信が強まっていく。
 ならば、ザシャに拾われたレナは、もともと何者だったのか。
 レナは震える手で、エドガーに押しつけられた懐剣をとる。
 鞘から抜いて、何度も深呼吸をする。美術品のように瀟洒な鞘と違って、その剣には人を傷つけるだけの鋭さがあった。
 まずは、懐にしまっていた白木蓮の飾りに、ひと思いに剣を突き立てた。この飾りが、レナの過去を閉じ込めているのなら、壊すことによって、魔法は完全に解けるはずだ。
 そして、過去の記憶のほか、どうしても確かめなくてはいけないことがある。
「聖女の血は絶えていなかった。まだ、残っていたとしたら」
 聖女とは、致命傷を負っても再生するのだという。その命が瀕死になったとき、勝手に傷は塞がり、病は治癒するのだ。
 神聖王国の史書には、悪趣味な見世物が載っていた。
 王族たちは、諸外国の者たちに治癒の奇蹟を示すために、彼らの前で胸を衝いたという。
 レナはずっと、ザシャが刺繍したドレスや装飾品を身に着けていた。強力な守護魔法がかけられたそれらは、文字通りレナに傷ひとつ負わせなかった。
 けれども、それを脱ぎ捨てた今ならば、きっとレナは傷を負うことができる。
 あれはレナを傷つけないための装備ではない。傷を負ったところで、すぐさま治ってしまうことを隠すために、与えられたのだ。
 レナは懐剣を掲げて、ひと思いに自らの胸へと引き寄せた。
 痛みに目を瞑り、歯を食いしばる。
 意識を飛ばしたレナは、瞼の裏にまぼろしを見た。

 ◆◇◆◇◆

 その男は、女王の新しい夫として現れた。
 真っ赤な血のような髪に、葡萄酒みたいな瞳。まだ少年の名残のある儚げな美貌は、レナが持っているどんな人形よりも綺麗だった。
 あれは一目惚れだったのかもしれない。
 神域から出ることのできないレナは、外界から現れた美しい人と、どうしても仲良くなりたかったのだ。
「遊んでくれる?」
 彼の名前を呼ぶ。それは偽名だったが、当時のレナは知る由もない。
「六つ、七つにもなって人形遊びか? 神聖王国の人間は気楽だな」
 ばかにするように言うのに、声音はいつも柔らかだった。革の手袋に包まれた手で、そっと頭を撫でられると、飼い猫みたいに喉を鳴らしてしまう。
 この人は母の――女王のもので、レナのものにはならない。けれども、ただ傍にいてくれることが嬉しかった。
 春、花見をした。庭の白木蓮に触れるよう、抱きあげてくれたのが嬉しかった。
 夏、木陰でまどろんだ。子どもように幼い寝顔に、胸が苦しくなった。
 秋、書庫でふたり秘密の時間を過ごした。なんでも叶えてくれる、と彼は言った。
 冬、冷たくなったレナの指を、手袋越しに握って、温めてくれた。
 いつだって、レナは彼が好きだった。大好きな女王、異父兄や異父姉たちと同じくらい、否、それ以上に愛しかった。
 王族としての義務も、権利も、立場すらも忘れて、いつまでもその腕に抱かれていたかった。
 ――だから、あの日のことは、ただ悪い夢を見ているようだった。
 燃える大聖堂、割れたステンドグラスが散らばっていた。折り重なった骸の傍に、その人は立っていた。
 大聖堂の真中には、女王の首があった。
 頭を吹き飛ばされたのか、彼女の顔は半分かけて、年老いてもなお美しかった面影はない。兄も姉も、同じように無残な姿で倒れている。
 実に呆気ない。死んでしまえば、治癒の奇蹟も意味をなさない。
 一歩、一歩と赤髪の男が近寄って来た。
「殺して」
 レナの幼い唇から、まるで呪詛のように願いが溢れた。涙はとうに枯れ果て、身体は凍りついたように冷たい。
 だが、胸の奥底には、燃えたぎる炎のような怒りがあった。
「帝国の血を、魔女の血を殺して。わたしから母を、兄を、姉を奪ったように。あの人たちに終わりを」
 レナは折れそうな足で立ち上がると、ザシャの胸に飛び込んだ。その背に爪を立てながら、胸に頬を寄せながら、呪いのように恨み言を零した。
「……っ、独りに、しないで」
 掌から零れていったものが、戻らないのならば。
 せめて、優しくしてくれた男くらいは、この手に残してくれても良いではないか。家族を殺したのが、この男だとしても。
 もう、レナには彼しかいなかった。
「お前の願いを叶えよう。だから、対価を。お前のすべてを、俺にくれるか?」
 ――代わりに、ぜんぶ忘れろ。俺が憶えているから。
 彼はそうして、何も知らない幸福な十年を、レナに与えたのだ。

 ◆◇◆◇◆

 薄暗い書庫を、オイルランプの明かりが照らす。
 そこで、レナは夢が覚めたことを知った。まどろみのなかで見えた記憶は、レナが予想したものと同じだった。
「レナ! 怪我をしたのか、いま侍医を」
 倒れるレナを覗き込んでいたのは、エドガーだった。
 青ざめた彼を余所に、レナは身を起こして、胸元に手をあてる。傷はなく、剣の形に穴が空いたドレスと、血の痕だけが残っていた。
「怪我はしていません、大丈夫です」
「そんな血だらけで何を!」
「もう、治りました」
「治った? そんなわけ」
「治るんです、だって、わたしはっ……、わたしは、あなたたちとよく似た、けれども正反対の化け物だったから」
 次々と涙が溢れて、止まらなかった。
 乱暴に涙を拭いながら、一度だって涙を拭ってくれなかったザシャを思う。
 ザシャに引き取られてから、泣きわめく度に突き放された。それは泣くような弱い娘は要らない、という意味ではなく、レナの涙がザシャにとって毒となるからだ。
 ――相反する女神の血は、互いにとって猛毒となる。
 ザシャが毒に倒れてしまえば、レナの安全は損なわれる。レナを守るために、ザシャは折れるわけはいかなかった。
 傷だらけになりながら、何度も戦場から帰ってきたのも同じことだ。
 レナのためにすべてを擲つ覚悟を、ザシャは十年前から決めていた。そうして、今日このときまで、あの人は短い命をすり減らした。
 ただ、レナのためだけに生きてくれた。
「行かないと」 
 立ちあがって、ふらつきながら書庫の外を目指す。
「何処に行く!」
 レナの腰に抱きついて、エドガーはぐずった。だが、レナにはもう彼を抱きしめてあげる資格はなかった。
「エドガー様。あなたは賢くて、立派な人になるでしょう。魔女の血が薄くとも、いいえ魔女の血が薄いからこそ。これからの時代には、きっと魔女も聖女も必要なくなる。……だから、けじめをつけないと」
 エドガーは首を横に振った。レナの言葉の半分以上も理解していないだろう。だが、レナが二度と戻らないことだけは分かっているのだ。
「ザシャは! 悪魔のような男だ。化け物なんだ。国ひとつ亡ぼして笑っていられる。誰の血が流れても、誰の悲鳴が聞こえても、あの人には響かない。そんな男のために、レナが犠牲になる必要はない! ねえ、ここにいて。私を独りにしないで。いやだ」
 まだ七つの男の子だった。
 次々と殺されていく皇族のなか、運良く、あるいは運悪く生き残ってしまった皇子は、レナにすがって涙する。
 こんな女にすがるしかないほど、彼の手には何も残っていないのだ。
 幼い頬を伝っていく涙に、胸が引き裂かれるようだった。
 皇帝の座から最も遠い少年は、神聖王国が亡ぼされたときのレナと同じだ。
 本来であれば敵対するべき存在に、独りにしないで、とすがりつくところさえ、そっくりだった。
「私には、独りにしたくない人がいます。ひどい人。それでも愛してしまったの。ザシャだけが、私にとっての唯一でした」
「レナを大事にできる人は、他にいるでしょう? レナを愛してくれる人は、ザシャ以外にもいたのに!」
 思い出のなかで、金髪の男が笑っている。
 レナの兄であり弟であり、レナのためにすべてを捧げた人。自分の命よりもレナを愛してくれた人に応えず、その命すらも見殺したのはレナの罪だった。
 キリル。笑って死んだ彼の願い、レナの幸福を祈ってくれた想いすらも、レナは踏みにじるのだ。
「でも、わたしが大事にしたい人は、ザシャだけ」
 エドガーはうつむいた。何を訴えても、レナの心が動かないと覚ったのだ。
 レナは屈みこんで、少年と視線を合わせた。涙でぐしゃぐしゃになった彼の手を握って、ゆっくりと首を横に振る。
「わたしたち、きっと罪を犯したのです。だから、償わないと」
 ザシャに罪を犯させたのは自分である、とレナは知った。この馬鹿げた喜劇の幕を開いたのが、幼いレナの願いならば――。
 幕を下ろすのも、レナでなくてならない。
「西にある聖堂。……むかし、大聖堂と呼ばれていた建物があるんだ」
 エドガーはつぶやくと、レナの手を乱暴に振り払った。
「今日、叔父上たちはそこで即位式の下見をしている。……ねえ、どんな結果になっても後悔しないで。幸せだって、胸を張って。それができるなら行っても良いよ。私は、レナには幸せでいてほしいから。ほんの少しだったけれど、あなたは一緒にいてくれたから」
「エドガー様」
「あなたのこと、母のように、姉のように思いたかった。だから、あなたの願いを叶えてさしあげる」
 レナは頷いて、エドガーが教えてくれた場所に向かう。そこで、皇族殺しの舞台は幕を下ろすはずだ。
 振り返ったレナは、エドガーに微笑んだ。これが最期になる。
「わたしもあなたが息子で、弟だったら、きっと最高に幸せでした」
 うそつき、と言ったエドガーの声は、レナの耳に届くことはなかった。

 ◆◇◆◇◆

 ザシャ・ダールベルクは、聖堂の天井を見あげた。
 十年ぶりに足を踏み入れたその場所は、一度は何もかも燃えたとは思えぬほど、当時と変わらない姿で再建されている。
「懐かしいのか?」
 聖堂の奥、祭壇の傍に玉座はある。そこに座って、フランツは笑った。まだ皇帝の座に就いたわけでもないというのに、気が早いことだ、と思う。
 かつて、その玉座には美しい女王が座っていた。
 此の世の不幸など何一つ知らぬよう、いつも微笑んでいた女だった。
 救われる者がいる一方で、切り捨てられる者がいる。その道理を知りながらも、切り捨てられた屍に心を痛めることはなかった。
「少しだけ、懐かしく思います」
 聖堂は十年前と同じだ。かつてザシャが壊した聖女の坐す場所は、あの頃の美しい姿に、時を巻き戻している。
 ただ、この聖堂に抱かれているのが、聖女ではなく魔女の血族であることを除いて。
「神聖王国の女王は毒に倒れて、信奉者どもはお前の業火に巻かれた。魔女を火炙りにしてきた愚か者たちは、自分たちが炎に焼かれるとは思わなかっただろうよ」
「生き残ったのは、俺だけでしたからね」
 ここで聖女の血筋を殺したザシャは、混乱する周囲の者たちを含めて、すべてを炎で焼き尽くした。
 公式の記録では、あのとき生き残ったのはザシャだけとされている。
「十年前のことを、昨日のことのように思い出す。皇帝は、神聖王国を亡ぼすなんていうバカげた建前で、女王の夫のひとりとして、お前を王国に送りこむよう命じた」
 十年前、ザシャが神聖王国に潜入し、山ほどいた女王の夫の一人となったことは、そもそもフランツや軍部の本意ではなかった。
 単純に、皇帝からの圧力だ。
 たった一人で、長らく殺し合ってきた神聖王国を亡ぼせ。それは始める前から負けが見えていた戦いだった。
「あれは、私からお前を取り上げるための口実だった。目障りだったのだろうな、軍部で功績をあげ、自分の地位を脅かすかもしれない息子が。お前を神聖王国で犬死にさせ、お前が任務を果たせなかったことを理由に、主人である私のことも処分する。どうせ、そんな腹積もりだったんだろうよ」
 ザシャは否定しない。フランツの言うとおりで、あのときの皇帝からの命令は、端から失敗することを望まれていた。
 ただ、ザシャとフランツを排除するために仕組まれた茶番だった。
「皇帝陛下は臆病な方でした。そんなことは、俺たちが一番よく知っているでしょう? フランツ様」
「……いい加減、その他人行儀な呼び方を戻さないのか? 昔のようにフランツと呼べ、
 どうせ二人きりなのだから」
「すみません。つい癖が抜けなくて。二人きりにしていただくことなど、ほとんどありませんでしたから」
 基本的に、フランツの周りにはザシャ以外の護衛もつく。幼い頃ならともかく、二人きりになることは珍しい。
 王墓を尋ねたときも、馬車の外ではフランツの部下が目を光らせていた。
 フランツは、ザシャを重用する一方で、常に裏切りを恐れていた。たった一人で神聖王国を亡ぼした日から、その傾向は強まったように思う。
 ザシャの炎が自分に向くことを、フランツは恐れているのだ。
 ――まして、フランツは自分自身で魔法を使うことを嫌っている。
 魔法使いは、魔法を使えば使うほど、死への階段を駆け上がる。幼い日に戦場に追いやられたフランツは、自らの命の残量がさほど多くないと理解しているのだ。
 それ故、他者に魔法を使わせる。
 身を守るための守護魔法とて、複数人の魔法使いによるもので、フランツ自身は一切の魔法を使っていない。
 結局のところ、臆病なところは父親である皇帝譲りなのだ。あれだけ嫌っていた男と同じと言えば、フランツは激昂するだろうが。
「私が、お前を信用していない、と言いたいのか?」
「そのように聞こえましたか」
「いつだって信じている。だからこそ、今回の件にも噛ませた」
「キリルを使っていたこと、隠していたでしょう?」
 フランツは不愉快そうに眉をひそめた。
「キリルのことは謝らないぞ? はじめに隠し事をしたのは、お前の方だ。自分の息子を殺したなんて嘯いて、よくも十四、五年も匿ったものだ」
 ザシャは苦笑する。フランツからしてみれば、隠し事は裏切りに等しい。彼は、ザシャのすべてを握っていないと安心できないのだ。
「隠し事は、お互い様でしたね」
「だから、赦そう。お前は私の望みを叶えてくれたのだから」
 皇帝となることはフランツの悲願だった。いつか自分を虐げたすべてに復讐する、いつか自分を辱めたすべてを殺す、と誓ったとおり、彼は次の皇帝となる。
「慈悲深き御心に感謝いたします」
「お前だけだ、私が慈悲を向けるのは。なあ、マグノリアの悪魔。私の願いを叶える化け物よ」
「なら、あなたは魔女ですか? 神話の再演にしては、いささか血なまぐさい」
「天上の神々は、さぞかし愉快に見物しているだろうよ、堕ちた女神の末裔たちの争いを。互いを亡ぼさなければならなかった憎悪と情熱を。――なあ、ザシャ。女神は、何故、地上に堕とされたと思う?」
 ずっと表情を失くしていたフランツは、楽しげに頬を緩ませている。笑っている、とはっきりと分かった。
「罪を犯したからです。だから、罰として地上に堕とされた」
 その罪が何であるか、誰も知り得ない。
 だが、二柱の女神は天上にある神々の世界から追放された。片や悪魔と交わり魔女の祖となり、片や悪魔を退けて聖女の祖となった。
 しかし、ザシャが考えるに、あの神話は最初から破綻している。
 地上には悪魔などいない。
 いたのは、二柱の女神と交わり、血を遺した人間だけだ。故に、本当の悪魔とは、人間のことなのだろう。
 人間が悪魔ならば、この下界こそ地獄だった。天上の神々からしてみれば、悪徳と禍しかない、穢れた世界なのである。
「なるほど、罪人は裁かれなければならない。罪には罰を、そして」
「功績には褒美を?」
「違いない。お前にも褒美を与えなければならない。何が望みだ? お前は昔からずっと私のものだった。それだけの働きをしてくれた」
 ザシャは微笑んで、胸に手をあて一礼する。そして、懐から銃を引き抜いて、真っ直ぐに掲げる。
「ザシャ?」
 古びた銃口が向かうは、玉座に座る男だった。
 瞬間、聖堂の空気が張り詰める。
 二人きり、というフランツの言葉は大嘘だったらしい。最後まで、ザシャはフランツに信用されることはなかったのだ。
 フランツが密かに控えさせていたのか、軍属の魔法使いたちが、銃を掲げながら聖堂に雪崩れてきた。
 だが、ザシャはもう彼らに撃たれても構わなかった。
「あなたの死を賜りたく」
 たとえ此処で命尽きようとも、この男を殺せるならば構わない。
 ――魔法とは、命という繭から糸を紡ぎ、布と成し、裁ち、縫い合わせたもの。
 すなわち、費やした命が多ければ多いほど、より強力なものとなる。それは他者の魔法を吹き飛ばすほどの威力になる。
 皇族の血が色濃く流れたザシャの魔法は、他のどんな魔法使いにも打ち勝つだろう。唯一の例外であったフランツが、自ら魔法を使わないのだから、なおのこと。
 微笑んで、迷いなく引鉄を引いた。
 同時、聖堂に複数の銃声が響く。銃弾の雨に打たれながら、ザシャは生まれてからずっと自分を支配してきた男を射貫いた。
 痛みよりも先に、ザシャの胸を打ったのは安堵だ。
 ようやく、約束を果たすことができる。

 ◆◇◆◇◆

 レナの目に飛び込んできたのは、銃弾の雨に打たれる赤髪の男だった。
「ザシャ!」
 玉座に銃を向けていた彼は、冷たい石床に倒れゆく。
 銃口の先にいる男は、傷こそ負っているものの、まだ命尽きてはいない。燃えるようなまなざしで、ザシャを睨みつけている。
「……臆病な御人だ。最後の最後で、自分で魔法を使われましたか?」
 つぶやいて、血だらけのザシャはもう一度、震える腕をあげた。玉座のフランツへと、まっすぐに。
 ザシャを狙うように、再び周囲から銃が向けられる。
「もう、もう止めて。もう良いの」
 彼のもとに駆けつけて、レナは膝から崩れる。縋りつこうとしたレナを、葡萄酒の目が射貫いた。触れるな、と、その瞳は何よりも雄弁に語っていた。
「まだ終わっていない。……まだ、約束を果たしていない」
 流れ弾で砕けたステンドグラスが、月の光を乱反射させる。その美しい光は、レナの脳裏に記憶が呼び起こす。
 十年前、この聖堂でふたりは約束を交わした。
『帝国を亡ぼして。マグノリアの血を殺して』
 七歳だったレナが願ったのは、愛する家族を亡ぼした血を殺すこと。殺された聖女たち――レナの家族と同じように、魔女の血が絶えることを願った。
 神聖王国の女王。レナの母親の首を獲ったザシャは、その願いを受け入れた。
「ばかな人。わたしなんかのために、ぜんぶ捨てて」
 ザシャは魔女の血を継ぐ皇族を絶やそうとした。最後には、自らが仕えるフランツを殺し、自分自身さえも殺すつもりだったのだろう。
 そうして、レナの願った皇族殺しは果たされるはずだった。
「私よりもその娘をとったのか。ずっと、裏切っていたのか? ザシャ! 誰がお前の命を拾ってやったと思っている」
「フランツ。はじめから、あなたに忠誠などなかったよ。家族を殺された日から、俺は空っぽだった。何もなかった。憎しみさえ抱けなくなるほど、死への恐れすらも感じないほどに」
 皇族争いによって一族郎党殺され、十代のはじめから軍属となったザシャは、命じられるがまま戦場を蹂躙した。
 そうしなければ生きることを許されなかった。
 そんな彼に与えられた役目が、聖女の血筋を殺し、神聖王国を亡ぼすこと。
 ザシャは命令を遂行し、女王をはじめたとした王族を殺した。王族を喪った神聖王国は崩れて、帝国の支配下に置かれることとなった。
 あのとき、本当であればレナの命も終わるはずだった。
「どうして、わたしを生かしたの? わたしの、願いを叶えようとしたの。ぜんぶ忘れさせたくせに」
 ザシャは憑き物が落ちたように、穏やかに笑う。はじめてみる顔だった。
「お前が、俺を人間にしてくれたから。すべて失った俺に、もう一度、人の心を与えてくれた。お前といるときだけ幸せだった。道具ではなく、人に戻れた気がした。……夢を、見てしまった。殺さなければいけない子どもを殺せなかった」
 優しく笑いかける人は、レナの知る悪魔のような男ではなかった。
 穏やかで優しげな顔こそ、彼が本来持っていた気質だったのかもしれない。
 可哀そう、と言って、捕まえた蝶を逃がしてしまう。気弱で心優しい少年の心は、消えることなくザシャのなかに在った。
 幼い頃から、ザシャのことを強者と信じていた。
 だが、本当のところ、ザシャは常に搾取される側であり、一番の弱者だった。
 愛する家族を皆殺しにされて、穏やかな人生を歩むことも許されなかった。命をすり減らし続けた少年にとって、此の世は奪われるばかりの地獄だったろう。
 血まみれのザシャは、レナに手を伸ばさない。その血がレナにとって猛毒であることを、最初から彼は知っていた。
 だから、一度も抱きしめてくれなかった。素手で触れることも赦してくれなかった。機械仕掛けの冷たい手だけが、レナの知る唯一だった。
「愛している。お前を脅かすものすべて、殺してやりたかった。俺は、どうせ長く生きられない。ならば、せめて。お前が傷ひとつなく生きる未来を」
 十年前、ザシャ・ダールベルクは、女王の夫の一人として神聖王国に潜入した。魔女の血を引くザシャにとって、毒となる血を持つ女の下に控えた。
 そのとき、ザシャは堕ちた女神をめぐる真実に気づいたのだろう。
 どのようにして、ザシャは神聖王国の女王たちを殺したのか。
 その答えは、彼の片腕にあった。聖女の血を殺せるのが魔女の血肉ならば、ザシャは自らの腕をもって彼らを殺したのだ。
 不死身に近い治癒能力を持つ神聖王国の王族――聖女を殺せるのは、魔女の血だけ。
 かつて天から落とされ二柱の女神は、相反する性質を持ち、互いを互いの毒とした。魔女の血が聖女を殺し、聖女の骨は魔女をも殺した。
「わたしだって。あなたが殺すものぜんぶ殺したかった。あなたが心を傾けるものすべて、憎くてたまらなかった」
 ザシャを戦場に連れていく第三皇子フランツも、ザシャを誘惑した第一皇女マルティナも、ザシャが殺してきた数多の命にさえ嫉妬していた。
 キリルが語ったとおり、レナの特別も一番もザシャだけだ。他の何を天秤にかけたところで、何度だってレナはザシャを選ぶ。
 十年前、彼と約束した日から、この心は変わることができなかった。
「でもね、わたしたち、きっと罪を犯したのよ。だから償わないと」
 命は等価であり、死は平等でなければならない。数多の屍のうえに二人の命があるならば、ザシャにもレナにも死は訪れるべきだ。
 だが、レナは臆病で、卑怯な娘だから。
「あなたが罪を犯したなら、それはわたしの罪よ」
 レナは皇帝の地位を得るはずの男を、帝国にとって、最後の魔女の末裔となるであろう男を見据えた。
「お願いがあります、フランツ様」
 この十年間の幸福は、ザシャが与えてくれたものだった。
 復讐心に駆られることもなく、幸福な娘でいられた。飢えることも虐げられることもなく、愛すべき日々を過ごすことができたのは、彼が守ってくれたからだ。
「わたしの首を差しあげます。すべての罪はわたしに。だから、ザシャはどうか」
 フランツのまなざしは氷のようだ。ザシャを誑かした悪魔のように、彼はレナのことを憎んでいた。
「お前の首ひとつで贖える罪などない。ザシャは裏切った、そんなものは要らぬ」
「これからも戦乱の時代が続きます。ザシャが長くなかったとしても、マグノリアの悪魔は諸外国への牽制となるでしょう。……それに、わたしが死ねば、今度こそ聖女の血は絶える。遺体は燃やしてください、骨さえも遺さず。フランツ様の命を脅かすものは、此の世から消えるのです」
 ザシャは信じられないものを見るように瞠目していた。止めろ、と震える唇が嬉しくて、レナは首を横に振った。
 ザシャにとって、自分はどんな存在なのか。
 そんな小さなことに囚われて、悩んでいたことの愚かさを知る。
 この男は、たったひとつ、レナの願いを叶えるためだけに生きた。それこそが、彼の捧げてくれた愛だった。
 数多の屍と、罪なき人々の不幸を積み重ねた先に、レナの願いを叶えようとした愚かな男。だが、それを喜んだレナとて血も涙もない外道だった。
 聖女の血を継いでいたところで、レナは聖女になどなれない。
 顔も知らぬ誰かの幸福のために身を切ることも、傷ついたすべての人々を癒すための道も選べなかった。
 ただ一人の男以外を、愛することができなかったのだから。
「ありがとう、わたしの願いを叶えてくれて」
 触れ合うことさえできなかった男が、レナの運命だった。


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