永遠は菫色

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  02  

 エリクとの生活は、ひどく穏やかなものだった。
 王女として制限された生活を送っていたヴィオレットは、はじめ何をすれば良いのか分からず途方に暮れた。
 だが、おろおろとするヴィオレットに、エリクはいろんなことを教えてくれた。
 彼は、本当になんでもできた。会話のなかで、刺繍や、ダンスが苦手と言ったら、まるで王宮付きの教師のように指南してくれた。
 また、彼は驚くほど博識だった。いろんな世界のこと、それぞれの理を、御伽噺でも読み聞かせるように教えてくれた。
 そして、家の中に籠もっていると塞ぎ込んでしまうから、と、エリクはヴィオレットを連れ出す。
 素足は危ないから、とヴィオレットの足元は革製の靴に覆われている。
 この靴も彼の手作りだ。靴だけでなく、ヴィオレットが着ている刺繍のされたワンピースも、暇なとき作ったのだと言う。あまりにも器用でびっくりする。
「エリクは、どうしてなんでも知っているの?」
「なんでもは知らないよ。ただ、《挟間》には、いろんな世界のモノが棄てられるから、いろいろ解っちゃうんだよね」
「……あなた、理解しようとしちゃいけない、って言ったじゃない。頭がおかしくなるから」
「僕は良いんだよ? ヴィオレットとは頭の造りが違うから」
 ヴィオレットは頬を引きつらせた。なんとなく察していたが、この男、いちいち失礼にも程がある。
「ふうん。わたくしと違って優秀な頭の造りでも、こんなところに棄てられたなら意味がないでしょう。頭を使うこともないんだから」
 言った後で、ひどく後悔した。こんなものはエリクへの八つ当たりだ。
「意味ならあるよ。君の退屈を埋めてあげられるもの。それに、僕の話が、君が帰るための手掛かりになるかもしれない」
 ヴィオレットの子ども染みた癇癪を、エリクは何てことのないように流す。そうして、ヴィオレットを心配するように、目線を合わせてくる。
「ごめんなさい。あなたが羨ましくて、八つ当たりしただけよ。こんなに良くしてもらっているのに、ひどいことを言ったわ」
「良いよ。僕、何も言われても傷ついたりしないから。いまのが、ひどいこと、になるのも分からなかった」
「あなた、そんなに優しいと悪い人に付け込まれちゃうわ。ひどいことを言われたら、ちゃんと怒らなくちゃダメなのよ」
 エリクは首を傾げる。それから、何も言わずに道端にしゃがみ込むと、何かを地面から引き抜いた。
「僕が悪い人に付け込まれても、ヴィオレットのせいじゃないよ。だから、そんな顔しないで。哀しい人は、みんな、そんな顔をする」
 彼の掌には、小さな菫の花があった。それを両手で半分に引きちぎって、ヴィオレットの掌に押しつけてくる。
「あげる。半分こ」
 ヴィオレットは面食らった。花束を贈られたことはあるが、このような形で花を貰うのは初めてだ。引き裂かれた花に唖然としていると、彼は続ける。
「僕には分からないけれど、分け合うことは、幸せなんだって教えてくれた人がいるんだ。一人じゃできない、誰かと一緒にいる証だから、と。ヴィオレットが哀しくないように、幸せなんだって思えるように、半分こにしようよ」
 小さな子どもが秘密を告げるように、彼は囁いた。
 ヴィオレットは、顔をぐしゃぐしゃにした。
「なあに、それ」
「菫は嫌い?」
 ヴィオレットは首を横に振った。ヴィオレット。自分の名前の由来となった花だ。どんな美しく、大輪の花よりも好きに決まっていた。
「嫌いじゃないわ。……あなたの髪みたいな、綺麗な色ね」
「僕の髪じゃないよ。ヴィオレットの瞳みたいに可愛い色だよ」
『お揃いではないけれど。すごく可愛い色だから、ヴィオレットの瞳、私は好きですよ』
 脳裏に、異母弟の声がよみがえった。弟とは似ても似つかない容姿が嫌いで、塞ぎ込んでいたヴィオレットを、彼はやさしく抱きしめてくれた。
「同じことを、言ってくれた人がいたの。弟なの。優しくて、あなたみたいに美しかった。わたくし、あの子のことが大好きだったのよ」
「ヨハン? 君が、眠っているとき呼んでいたよ。ヨハンとも、半分こした?」
「子どもの頃は、そうだったの。仲良しだったから、いつも一緒にいたから」
 王位を巡って対立するまでは、本当に幸せな姉弟でいられた。それぞれの縁戚に担ぎあげられるまでは、誰よりも近しい家族でいられた。
「そうね。エリクの言うとおりよ。分け合うことは、幸せね」
 どんなことでも、誰かと――ヨハンと分かち合うからこそ、あんなにも輝いていたのだと、今さらになってヴィオレットは思い知った。
 ひとりの時間はつらく苦しく、その度に過去を思って塞ぎこんだ。ヨハンと過ごした日々、二人でやった楽しい事は一人だと味気なかった。
 王位争いのとき、ヴィオレットは人形のように黙り込むだけだった。
 争いたくない、弟と戦いたくない、と目を瞑るばかりで、自ら何かを為そうとしなかった。嫌だ、嫌だ、と駄々を捏ねて、王位争いが熾烈になっていくのを眺めていただけ。
 子どものようにぐずって、ただ、この争いが終わって、昔に戻れることだけを夢見た。
 ヨハンから恨まれて、憎まれて当然だろう。
 自分だけが不幸な顔をして、ヨハンを一人きり矢面に立たせた。王位争いが長引けば、たくさんの人が不幸になると知りながら、終止符を打つための努力をしなかった。
 王女だったのに、一人きりで被害者面して、何も為さなかった。それは間違いなく罪深いことだった。
「わたくし、何も分かっていなかった。棄てられて当然よ」
「そうなのかな? でも、そうだとしたら、君が何も分かっていなくて良かった。だって、君が棄てられないと、僕のモノにはなってくれなかった」
「……あなたのモノじゃないわ」
 故郷に帰らなくては、と思った。帰って、ヨハンに謝りたい。
 そうして、今度こそ国のために生きるヨハンを支えてあげたい。何もできず、弟のことすら守ってやれなかった不甲斐ない姉だが、今度こそは力になりたかった。

◇ ◇ ◆ ◇ ◇ ◆ ◇ ◇

 窓の外は真っ暗だった。星も月も隠されて、まるで光がない。
 寝室の扉近くのオイルランプだけが、闇に浮かんでいる。
 ヴィオレットは寝台で膝を抱える。出逢った日と違って、エリクの姿はない。
 ヴィオレットを拾ってから、彼は寝台を使わない。居候だから、とヴィオレットがリビングのソファを使おうとすると、にこにこ笑いながら拒否する。
「お人好しが過ぎるのよ」
 何の役にも立たない、お人形のような女を拾って世話を焼く。自分のモノ、なんて言うくせに、何かを強要することはない。
 その優しさが、ヴィオレットは少し怖い。
 見返りのない想いを向けてもらえるほどの価値は、自分にはない。
 せめて、ヴィオレットが弟のような優れた魔法使いであったならば、エリクに何か返すことができた。王族のくせにろくに魔法の使えない、こんな紫の瞳をした出来損ないでなければ良かった。
 そんなことを考えていたら、ますます眠ることができなくなった。
 ヴィオレットは寝台から抜け出して、リビングに続く扉を開いた。
「エリク?」
 古びたテーブルにオイルランプを置いて、エリクが手元で何かを弄っている。後ろから覗き込むと、見覚えのある耳飾りが見えた。
「わたくしのピアス!」
「ヴィオレット? 夜なのに元気だね」
「ねえ。ピアス、あなたが持っていたの?」
 《狭間》に棄てられた火、落としたとばかり思っていた。
「壊れていたから、修理しているんだ。もう少し待ってね」
「そう、だったの。わたくし、ずっと落としたと思っていて。良かった、ここにあったのね」
「大事なモノ?」
「異母弟とね、お揃いなの。わたくしの手元に残ったのは、それだけ。他は処分されてしまったの」
 正妃であった母親は、実子であるヴィオレットだけでなく、自分が産んだ王子ではないヨハンのことも、分け隔てなく育てた。だから、異母姉弟である二人は、幼少期は仲の良い家族として過ごすことができた。
 だが、母が死んだことで、ヴィオレットたちの環境は大きく変わった。
 それぞれが、次の王となるべく、縁戚たちに担ぎあげられる。周囲の思惑によって、二人は引き離されて、何年も対立することになった。
 思い出の品は、ほとんどがヴィオレットの意思に反して処分された。
 手元に残すことができたのが、お揃いのピアスだけだった。
「僕、余計なことをした? 自分で直したかったよね。ヴィオレットは魔法使いだから」
「いいえ、助かったわ。わたくしは魔法があまり使えないの」
 いくら王族に生まれついても、肝心の魔力が備わっていなかった。母親の身分のおかげで祀り上げられたが、実際は何もできない小娘である。
 ヴィオレットは知っている。自分は、王となれる器でないことを。
「君の国の王族は、みんな優れた魔法使いだったと思うけれど。僕の記憶が古くなければ」
「まだ、祖先の血が強かった時代の話ね。いまは、こんな出来損ないが生まれるくらいだもの。気持ち悪いでしょう? 灰を被ったみたいな髪に、気味の悪い紫の目だもの」
「ああ。魔法使いにとって、紫は凶兆だったね。君の世界でいちばん悪い魔法使いが、紫の瞳をしているから」
「そうよ。災厄の色なの、紫は」
 過去、ヴィオレットの世界を崩壊寸前まで追い込んだ魔法大戦の元凶。今もなお災厄として君臨するその魔法使いが紫の瞳をしているから、紫は忌み嫌われる。
 王族として、最もふさわしくない瞳だった。
「でも、淡雪みたいな髪は、とっても綺麗で優しい色をしている。紫の瞳だって、菫の花みたいに可愛いよ」
 灰色の髪を、優しい淡雪の色だと褒めてくれた人がいる。凶兆と呼ばれた紫の眼を好きだと告げてくれた人がいた。
「ヴィオレット。どうしたの」
 胸がつかえて息ができない。嗚咽を無理やり飲みこんで、ヴィオレットは肩を震わした。
「なんで……なんで、あなたが。同じことを言うの?」
 この前、菫色の瞳を可愛いと言ってくれたように。やはり、エリクは異母弟と同じことを言うのだ。
 ヨハン。半分だけ血のつながった弟は、ヴィオレットにとって、唯一の家族だった。
「あの子は、そんなに、わたくしが憎かったの? ずっと嫌いだったのかしら」
 この《狭間》に棄てられた日から、子どもの頃に過ごした日々を疑ってしまっている。
 微笑んで手を引いてくれたときでさえ、弟はヴィオレットに対して憎悪を募らせていたのだろうか。
「どうして、君は泣くの」
「哀しいから、よ。わたくしが、どうして《狭間》に棄てられたか教えてあげる。弟にね、棄てられたのよ。王位争いの決着がついて、あの子が即位した夜に。わたくし、能天気に喜んでいたのよ! これで、また弟と一緒にいられるって。家族に戻れるんだって! ヨハンは、きっと、わたくしを恨んでいたのに」
「ヨハンに裏切られたから、泣くんだね」
 ヴィオレットは首を横に振った。本当に哀しかったのは、薬を盛られ、《狭間》に捨てられたことではなかった。
「違うの。わたくしが、ずっと、あの子を傷つけていたことが哀しいの」
 己よりも身分の高い異母姉に対して、強く出ることなどできなかっただろう。どれほど憎かろうとも、優しく接すること以外、ヨハンには許されなかった。
 ヴィオレットと過ごした日々が、彼にとっては身を切られるような屈辱だったはずだ。
「君は、ヨハンが大好きだったんだね。だから、哀しいんだ。僕、知っているよ。君みたいに哀しんだ人を。その人はいつも泣いていたんだ」
 エリクの冷たい唇が、ヴィオレットのそれに重なった。
 驚いたヴィオレットは、言葉もなく目を丸くする。
「涙、止まったね」
 悪びれもせずに、エリクは笑った。ヴィオレットの紅が移って、彼の唇がほんのり色づいている。
 ヨハンに与えた、頬に口づけるだけのものとは違う。触れ合った唇には、言い知れぬ熱と痺れるような甘さがあった。
「君が泣いていると、なんだか変なんだ。泣かないで、と言いたくなる。――あの人のときは何もできなくて、すっごく怒られたのに。泣きやませてあげることもできなかったのに」
 誰かを慰める術を知らない、とエリクは自嘲する。
 ヴィオレットは思う。彼はきっと何も知らない無垢な人なのだ。
 誰かを憎悪するような強い感情を抱くこともないが、同時に、誰もが当たり前に知っている簡単な、されど大事なことを知らない。
「エリク。哀しいときは、何も言わずに抱きしめてくれたら、それだけで良いのよ。言葉も要らないの」
「そっか。それで、それだけで良かったんだ。知らなかったよ」
 エリクは恐る恐る、ヴィオレットの背に腕をまわす。
 彼はヴィオレットの肩に額を宛てて、その腕に力を籠めた。誰かを抱きしめることさえ知らずに、彼は生きてきたのだ。
「あなた、なんでも知っているようで、何にも知らなかったのね」
「なんでもは知らないけど、何にも知らないは違うよ。僕は、ヴィオレットとは頭の造りが違うもの」
「そういうところが、なんにも知らないのよ。だから、わたくしが教えてあげる。分けてあげる、あなたに。哀しいときの慰め方も、嬉しいときの笑い方も」
「半分こ?」
「ええ。半分にしましょう? そうしたら、きっと幸せだもの」
 幼子のような男の背に腕をまわして、ヴィオレットは目を伏せた。
「分かった。ヴィオレットが帰るまで、半分こ、だね」
「わたくし、帰れると思う?」
「帰れるよ。君が帰りたいと願うなら、僕が君を故郷に帰してあげる」
 エリクの言うとおり、ヴィオレットは故郷に帰りたい。だが、ヴィオレットは気づいてしまった。故郷に帰っても、この人はいない。
「エリクは、故郷に帰りたくないの?」
「帰れないんだ、もう。言ったでしょう? この《挟間》から、もとの世界に戻るためには縁が要る。僕の帰りを待つ人は、僕を望む人は、もういないんだよ。誰も。だから、僕はこの場所に棄てられてしまった」
「なら、あなたのことを」
 あなたのことを、わたくしが拾ってはいけないのだろうか。
 誰も要らないなら、棄てるくらいならば、ヴィオレットがこの人を自分のモノにしても許されるのではないか。
 そんな風に思ってしまったから、ヴィオレットは気づいてしまう。
「ヴィオレット?」
 この男のことが、ヴィオレットは好きなのだ。小さな子どものように無垢で、優しくて、誰よりも独りきりに見える人を、自分のもとに繋ぎ止めたい。
 ヴィオレットは顔をあげて、彼の額に唇を落とした。
「お返し。さっきの」
 きっと、この気持ちは彼には伝わらない。エリクは恋も愛も知らない。それでも、ヴィオレットの恋心が、彼にとって何かを与えるモノであれば良い。
 首を傾げたエリクに、ヴィオレットは微笑んだ。

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