第一幕 勇者と聖剣 07
春風に頬を撫ぜられて、由良の意識はゆっくりと深淵から引き摺り出された。
ほのかに甘い春の香りに目を開けば、横になった由良の下には、虹色の花弁ではなく清潔なシーツが敷かれていた。上半身を起こしてあたりを見渡すと、わずかばかりの調度品が置かれた部屋が広がっている。
――ここは、一体、何処なのだろうか。
意識が途絶える前、由良は
未来樹の根付く神殿にいたはずだ。
「目が覚めたのか」
突然聞こえた声に振り返ると、そこには実に十日ぶりに見る青年がいた。輝く銀の髪に蒼穹の瞳をした
勇者は、初めて会った時と変わらない凍てた美貌を由良に向けていた。
「長居している暇はない。これから魔獣討伐だ、出るぞ」
「え……?」
白銀の鎧を纏い、魔宝石の埋め込まれた大剣を背負っていた勇者は、由良を一瞥して扉へと歩き出した。由良は慌てて寝台から飛び降りて、床に並べられていたローファーを履く。
由良は勇者を追いかけて、廊下に飛び出した。途中、擦れ違う人々が怪訝そうに由良たちを見ていたが、気にしている余裕はなかった。背の高い彼の歩幅は小柄な由良よりも大きく、走らなければ置いて行かれてしまう。
必死になって走っているうちに、気づけば景色は屋外へと移り変わる。ついには正面に巨大な門が現れ、由良は思わず振り返って息を呑んだ。
先ほどまで由良がいたのは荘厳な城だった。途轍もなく大きな城で、端から端まで視認することができない。古びた灰色の外壁は積み重ねた歴史を感じさせ、高くそびえる姿には異様な威圧感がある。
由良の想像する、御伽噺や童話に出てくる美しい城とは違う。この城は綺麗に飾り立てられた張りぼてなどではなく、敵から身を守るための堅固な要塞なのだ。
「何をしている、行くぞ」
「あ……、すみません!」
呆けていた由良は、我に返って、勇者の隣に並ぶ。
彼の視線の先に在るのは長い螺旋階段だった。ひたすらに続く階段は薄闇に包まれており、由良は目眩を覚える。神殿に籠っていたため気付かなかったが、この地は随分と標高のある場所だったらしい。
――未来樹曰く、世界は上界と下界に別たれている。
由良がいるのは上界だと聞いていたが、まさかこれほどまでに高い場所にあるとは思っていなかった。
「下界に降りる。付いて来い」
彼は人気のない螺旋階段を躊躇うことなく降りていく。身一つである由良は、不安を抱きながらも彼に続いた。
階段を下りながら、由良は調子の良い身体に違和感を覚える。未来樹の神殿にいた時、自分は
魔子不足で苦しんでいたはずだ。それにもかかわらず、今ではあの苦しみが嘘のように不自由なく動ける。
「あの、もしかして、魔子を与えてくれたんですか?」
由良が勇気を振り絞って問いかけても、勇者が振り返ることはなかった。この距離で声が届かない、ということはないだろう。
「ありがとうございました、勇者様。わたし
由良です。
由良・
香月。貴方の御名前は?」
彼は由良の言葉に反応を示さなかった。意図的に無視されているに違いないが、鬱陶しがられていることを承知で由良はめげなかった。
由良が元の場所に帰るためには、魔王を倒さなければならない。故に、勇者との険悪な関係は望ましくない。これから共に戦っていくならば、互いに歩み寄って理解し合う必要がある。
震え出しそうな身体を戒めて、強く拳を握った。
――本当は、戦いたくなどない。
由良はごく平凡な人間だ。優しい父母に育てられ、他愛もない会話で友人と笑い合う十七歳の少女だったのだ。
荒事の経験などあるはずもなく、想像すらしたことはない。この先に待ち受けるであろう生命の遣り取りなど知らない。知りたくもなかった。
それでも、戦わなくては帰ることができないのだ。兄が守ってくれた命で生きた、あの愛おしく幸せだった世界へ手が届かない。
「ブレイクとは、古代語で勇者を意味すると
未来樹に聞きました。貴方ご自身の名前は?」
由良が独り言のように話していると、ようやく勇者は足を止めて振り返った。眉間に皺を寄せた顔は青白く、明らかな機嫌の悪さと疲労感が窺えた。
「……アルヴィス・アーヴィング」
「アルヴィス。素敵な名前ですね。アルヴィス、と呼んでも構いませんか? わたしのことは、由良と呼んでください」
彼の名前を知って、自然と由良の口元は綻んだ。握手を求めるために手を差し出すと、アルヴィスは大きく溜息をついた。
「黙ってくれないか。耳障りなんだ。魔獣の巣までそれなりに距離がある。無駄な会話で体力を使いたくない。――もう、喋らないでくれ」
何処までも突き放すような冷ややかな声と氷の眼差しに、由良は言葉を失くした。音にならない乾いた空気だけが、唇の隙間から零れ落ちる。
たった一瞬で、由良は気づいてしまった。こちらがどれほど彼に好意を向けて、上手くやっていこうとしても、今のままでは決して叶わない。
勇者――アルヴィスは、端から由良の想いなど受け止めるつもりはないのだ。出会った時から、彼は由良のすべてを否定し拒絶している。
「ごめん、なさい」
考えてみれば当然のことだ。彼の対応に傷つく由良が間違っている。
本来ならば、彼の
聖剣となるはずだったのは由良ではない。由良と同じ魂を持ち得た女性、アルヴィスの姉であるリヴィエラ・アーヴィングだったのだ。
アルヴィスは由良の謝罪に応えず唇を引き結んだ。
胸の奥がひどく痛んで、不意に泣きそうになる。理不尽な運命に巻き込まれて人ですらなくなった自分の境遇や、アルヴィスの態度が、ひたすらに胸を穿った。
だが、ここで涙を見せてはいけない。由良よりも、ずっと、傷ついている人がいる。
姉に再び
見えることだけを願い、勇者になるための道を歩んできた人は、最後の最後で裏切られた。蒼穹の瞳は帯剣の儀の日と変わらず傷ついたままなのだ。
その傷ついた人を責めるような真似を、由良はしたくなかった。