第三章 冬天に赤き太陽は沈む 07
その日は、早朝から異様な一日だった。
本邸から時折聞こえる絶叫と、響き渡る甲高い悲鳴に、紅焔は自らの身体を強く抱き締めた。
ただならぬ雰囲気に、白月が本邸の様子を窺いに行ってから数刻が経つ。薄闇に包まれていた室は陽光に照らされ、既に日が高くなっていた。
冷や汗が額に滲むのを感じながらも、紅焔は耳を塞ごうとは思わなかった。幽かな音さえ聞き漏らさぬよう、ひたすら神経を尖らせて集中する。
――もう、逃げないと決めたのだ。
室の外から近づいてくる足音に、紅焔は面をあげる。間も無く、勢い良く室の扉が開かれ、息を切らした白月が現れた。彼は焦ったように紅焔の傍に駆け寄った。
「ここを離れよう」
突然の誘いに、紅焔は目を見張る。
「本邸で、何があったのですか」
口内が乾いて、舌がうまく回らなかった。焦りの滲んだ白月の表情が、言夭家がよほどの事態に陥っていることを告げる。
「言夭家が、皇帝の暗殺未遂の罪に問われている。このままだと、明日にでも軍が押し寄せてしまう」
「暗殺、未遂」
紅焔は白月の言葉を繰り返して、目を伏せた。予期せぬ報告だったが、紅焔は納得している自分がいることに気づく。
元から存在していた皇帝との不和が、決定的なものとなったのだ。言夭家は駆け引きに負け、逃げ場のない断崖に追い遣られたに過ぎない。
「皇帝陛下は呪術師に対して容赦しない。言夭家は、もう終わりだ。だから、紅焔」
白月は痛みを堪えるかのように、きつく唇を噛んだ。そうして、彼は意を決したように紅焔に手を差し伸べる。
「逃げよう、外の世界へ。……ここにいたら、だめだよ」
差し出された白月の手は小刻みに震えており、唇には鮮血が滲んでいた。
だが、瞳の奥には確かな覚悟が刻まれていた。
優しい男だ。足手纏いになる紅焔を見捨てられずにいる。本邸の様子を探りに行ったまま行方を眩ませることもできただろうに、紅焔の傍に戻って来てくれた。
「貴方だけ、逃げてください」
彼がここにいるだけで十分だった。紅焔には白月の手をとり、外の世界に行くことはできない。
「紅焔!」
白月は紅焔の手首を掴み、強引に抱き寄せた。紅焔は腕を上下させて彼を振り払おうとするが、骨が軋むほど力を籠められて叶わない。
「ばか言うな! 残ったところで、貴方は嬲り殺されるだけだ! 自分がどれほど恨まれているのか、憎まれているのか……、もう、分かっているだろ!」
紅焔は深く息を吸い込んで、白月を真っ直ぐに見据えた。
「わたくしは! たくさんの、罪を犯しました。それはわたくしが背負うべきもので、誰にも肩代わりはできない。もう、目を逸らしていた頃には戻れません。……戻りたくなんて、ないもの」
あの日々に戻るということは、再び道具に成り下がるということだ。
苦痛を拒むために、光溢れる世界さえ目隠ししてしまう。傷つかないために、犯した罪に背を向けてしまう。
「貴方が、わたくしを人にしてくれました」
瞬間、白月は目を見張った。手首を握る彼の力が弱まった隙に、紅焔は乱暴に彼の手を振り解いた。
「わたくしは道具なんかじゃないと、貴方が教えてくれました! だから……っ、だから、赦されなくとも、わたくしは人としてこの罪を償います」
紅焔は息を乱して白月を睨みつけた。彼が近寄って来ないように、赤く燃える瞳で射抜く。
「命令です。御逃げなさい。貴方は言夭家とは関係のない、ただの男です」
呪術師である紅焔と異なり、白月は災いの血など宿さないも同然だ。
「僕だって言夭家の人間だ!」
「いいえ! 貴方は違う。だって、……わたくしと違って、貴方には災いの血などほとんど流れていない。人を呪い殺す力なんて何処にもない! そうでしょう? ねえ、分かって」
白銀の瞳をした白月に呪術の才はない。代を重ねるごとに血が薄くなった言夭家には、彼のように呪術を扱えない者もいる。彼ならば、疑われることなく他の民に混じって生きていける。
「お願い。わたくしのことは、ここに置き去りにして」
白月の目に映る己を見ていられず、紅焔は顔を伏せた。眦に力を籠めて、涙することのないように拳を握る。
「もう、わたくしは貴方に醜い自分を見られたくはないのです。罪を犯す姿なんて、見せたくないのです」
「紅焔、まさか……」
「自分の足で立ちます。――もう、逃げたりしない」
互いの間に長い沈黙が横たわる。二人は微動だにせずひたすら口を噤んだ。
声一つ赦さぬ緊迫感の中、先に動いたのは白月だった。
遠ざかっていく足音に、紅焔は息をついて、零れ落ちそうな涙を堪えた。
これで良い。これで白月は生きていける。
差し伸べられた手をとれば、安寧を得ることはできただろう。色濃い災いの血を継いだ紅焔に遺された余生は短くとも、穏やかな幸福に浸ることはできたはずだ。
だが、紅焔は人でいたかった。白月が与えてくれたものを、手放したくなどなかったのだ。
瞼の裏に光に満ちた美しい世界が広がっている。白月と共に浴びた太陽の光、感じた緑の気配、吸い込んだ土の香り、愛らしい桂花に触れた指先を思い出す。
――綺麗な世界は、やはり夢物語だった。
あの世界を生きるのに相応しいのは、紅焔が殺した数多の人々だった。彼らから幸福を奪い去った紅焔には、外の世界を白月と共に歩くことなど赦されない。それは何よりもの罪過となっただろう。
胸がつかえて息が詰まる。心が血を流して痛みを訴えている。泣き叫びそうな喉に爪を立てて、紅焔は歯を食い縛った。
――紅焔が呪い殺した人々は、もっと苦しんだ。
だからこそ、二度と悲劇が生まれぬようにしなければならない。そのために、紅焔にできることは一つだけだった。