終章 或る春の夜のこと 08
紅焔は枯れ果てて久しい桂花の枝を掌で転がし、それから投げ捨てる。指先に残った幽かな移り香に心を奮い立たせ、眦を裂いた。
白月の言葉が真実であるならば、明日にでも言夭家に軍が押し寄せる。後々の憂いをなくすために、皇帝は言夭家の血を根絶やしにするだろう。
「父上」
その前に、必ず父は来ると思っていた。若々しい父を見つめて、紅焔は泣き笑った。彼ならば、最後の最後まで言夭家に残ると信じていた。
「月が明るい。今宵は、良い夜だな」
「ええ。けれども、わたくしたちのような闇に生きる者にとっては、少々明るすぎますね」
戦乱の世ならいざ知らず、光差す泰平の世に闇は必要なかった。
父が皇帝の暗殺を企てたとは考えていない。だが、呪術を嫌う皇帝にとって言夭家が邪魔なのは明白だ。
出る杭は打たれる。そして、不要となった道具は捨てられるものだ。この結末は必然だったのだろう。
「あれに、そっくりに育ったな」
遠い過去を追慕する父の眼差しに、紅焔はわずかに口角をあげた。
「それほど、母上に似ていますか?」
紅焔が父と瓜二つであるならば、当然、亡き母とも似ている。性差を考えるならば、父よりもいっそ母の生き写しだろう。
「亡霊を見ているかのようだ。……あれが亡くなったのは、十六のことだったか。血の薄くなった言夭家のために、私などの子を孕んで亡くなった哀れな娘だ」
紅焔は口元に手を宛て、小さく息を呑んだ。十六歳ということは、今の紅焔と同い年だ。
「血の濃い子どもは母体にとって毒となる。私たちに流れるのは災いの血だと言うのに、どうして、無事でいられようか」
「まさか、悔いて、いらっしゃるのですか?」
父は紅焔の問いに答えなかった。彼の眦に光った涙の粒に、紅焔は凍りつく。
「
紅淵。何故、お前は傍にいない」
彼が涙を流しながら口にしたのは、母の名前だった。
父にとって、紅焔は道具ですらなかった。母の代わりに閉じ込めておくための人形に過ぎなかったのだ。
紅焔と同じ音を持った娘――母さえいれば、父は満たされていたのだろう。
頬に伸ばされた父の手から逃れるために、紅焔は咄嗟に身を引いた。彼はわずかばかり傷ついたような顔をする。
「……裏切り者を、始末せねばなるまい。私たちが逃れられなかった血から、逃れる者など赦さぬ」
何もかも手遅れとなってから、紅焔は父が裏切り者に固執する理由を知ってしまった。
ばかな人だ。一族のためではなく、死んだ妹のために同族を手にかけ続けていたなど呆れてしまう。
「いいえ。裏切り者は、もういません」
紅焔が手を下さなかった者たちは、皆、父の手によって亡き者とされただろう。静まり返った本邸には、おそらく屍が積み重なっている。
「終わりにしましょう。このような血も、力も、泰平の世には必要ありません。……いいえ、始めから、きっと、こんな異能あってはならなかった」
――
言夭とは、災いを意味する。
異能の宿った神秘怪奇な言葉を操り、人々に災いを齎す一族こそ、紅焔が生まれついた言夭一族だった。
最初から、災いなどあってはならなかった。戦乱の世であろうとも、平和な世であろうとも、人が人を呪う業は赦されない。
「わたくしたちは滅びるのですよ、父上」
紅焔は室の文机に隠された恋文たちを思い出す。文末に記されていたのは、呪術師が秘匿すべき名だった。
――愛の証に己の名を記すほど、父は母に心を向けていたのだ。
紅焔は深く息を吸って、血の繋がった唯一の家族の名を歌に載せた。声を張り上げ、今までで一番の声量で歌いあげる。
父は目を剥き出しにして、苦悶の表情を浮かべる。紅焔は目を逸らすことなく、青白い顔をした彼を見つめた。
一瞬にして、父の身体に火がついた。
絶叫し、炎に焼かれて喘ぐ男に、紅焔は改めて自分の罪深さを思い知った。この苦しみを、数え切れないほど多くの者たちに与え続けてきた。
紅焔が生まれさえしなければ、いったい、どれほどの命が永らえただろうか。
肉の焼け焦げる匂いが鼻を衝く。爛れた肌から滴り落ちる赤い血は毒となり、板張りの床を溶かした。
必死にこちらに手を伸ばす父の手を、紅焔はとらなかった。焼け爛れ、灰となっていく父の眼差しが絶望に染まり、紅焔を責め立てる。
「おやすみなさい、父上」
父親の灰を前にして、紅焔はか細い声で呟いた。無論、応える声はなかった。
灰を掌で巣食って抱きしめ、紅焔は目を瞑る。ほんの少しだけ残る熱は、終ぞ知り得なかった父の温もりだった。
紅焔はゆっくりと目を開いた。まだ、自分にはなすべきことが残っている。最後の始末を、言夭家で最も血の濃い者を消してしまわなければならない。
静寂を破る足音が聞こえたのは、その時のことだった。紅焔は反射的に顔をあげ、深衣の胸元を握る。
現れたのは、慣れ親しんだ男だった。紅焔が知る中で、唯一、自分を人として扱ってくれた青年だ。
「白月」
紅焔は瞠目して彼の名を零した。喉が引き攣って、声は老婆のように掠れてしまった。
「紅焔」
穏やかな声に名前を呼ばれる度に、紅焔の心は打ち震える。名を呼ばれる喜びさえも、教えてくれたのは彼だった。
「わたくしは、たくさんの命を奪いました。貴方は、そのことをちゃんと理解していたのですね」
己を道具と嘯いていた紅焔に分からなくとも、白月は出逢った日から紅焔がしてきたことの意味を理解していた。
――人を殺めることは、その命を背負うことだ。
無慈悲に、無関係に、生きていくことなど赦されはしない。死の意味を理解した途端、その重みは紅焔に重く圧し掛かった。
「言夭家の呪術師は、わたくしが最後になりました。……だから、すべて、終わらせたいと思います」
この呪われた血に終焉を齎そう。二度と悲劇が生まれることのないように、誰かを呪うのは自分が最後にする。
「どうして、戻ってきたのですか。……はやく、逃げて。貴方だけなら、あの美しい世界を生きることができるでしょう」
この先、呪術は滅び、新しい世は人の力だけで廻っていく。その美しい世界こそ、白月が生きる場所だった。
紅焔の言葉に、白月は応えなかった。
「白月! 去りなさい、命令です」
叫んだ紅焔に、彼はゆっくりと首を横に振った。
「いいえ。紅焔、それは聞けないよ」
彼は一歩、一歩と紅焔に近づいてくる。そうして、彼は灰に塗れた紅焔の手に触れた。骨ばった指が紅焔の手の甲を撫ぜ、乾いた掌が肌を滑る。
「本当、ばかな女」
似合わぬ口調で吐き捨てた白月は、今にも泣き出しそうなほど顔を歪めていた。
「なあ、憶えている? 俺はあんたに呪い殺され、目の前で焼かれた人間を知っているんだよ」
紅焔は呆然としながら頷いた。白月がそのことを告げた日、彼は嫌がる紅焔に無理やり務めを果たさせた。否応なしに重ねてきた罪を突き付けた。
「この火傷は、火に包まれた母の手が触れた痕なんだ。父を焼かれて狂った母は、俺に縋るように手を伸ばして灰になった。――十一年前の、春の夜のことだったよ」
――十一年前の春の夜。
忘れもしない、齢五つ、紅焔が初めて人を呪い殺した日だ。
白月の言わんとすることを察して、紅焔は青褪める。
「まさか」
あの日呪い殺した夫婦について、紅焔は顔さえ知らなかった。当然、彼らの間に子どもがいたかどうかなど分かりようもない。
「呪術師としての才もなく、子どもだった俺は見逃された。……だけど、一瞬たりとも忘れたことはなかったよ。父母を燃やした呪いの炎を」
紅焔の目から涙が溢れ出し、視界が霞んでいく。ならば、白月は両親の仇を守っていたというのか。
殺したいほど憎かっただろう。彼の両親が言夭家を裏切ったとしても、そのようなことは白月には関係ない。彼にとっては、理不尽に父母を奪われ、消えない傷痕を負った恐ろしい出来事だったはずだ。
「どうして、わたくしを守ったのですか」
桃華に殺されそうになった日とて、彼は紅焔の命を守った。見殺しにすることもできたというのに選ばなかった。
「あんたを苦しめるためだよ」
白月は端正な顔立ちに嘲笑を浮かべ、紅焔の身体を床に押し倒した。大の男に圧し掛かられて、紅焔は苦しげに息を漏らす。すぐさま彼の腕が首にかかった。
彼は柔和な顔立ちに反し、目を釣り上げ唇を歪めていた。だが、不思議なことに、紅焔の頭は少しずつ冴えていった。
まるで、白月が痛みを堪えているかのように見えたのだ。
「簡単になんて死なせてやるかよ! あんたが殺した命と同じように、苦しんだ末、絶望に抱かれて死ぬべきだ。……目の前で父母を焼かれた時から、ずっと、あんたをそうやって殺してやりたかった!」
呪いの炎に焼かれた、白月の傷痕を紅焔は見つめた。様々なことが繋がり、紅焔はすべてを理解する。
「……桃華を唆したのも、白月だったのですね。だから、あの日、貴方だけがわたくしのもとに駆けつけてくれた」
紅焔の暮らす離れには、桃華だけが残る手筈になっていた。白月とて、本来ならば本邸から戻るべきではなかった。
彼が助けに入ってくれたのは、偶然ではない。桃華が紅焔を殺そうとしたことさえ、彼が仕組んだことだったのだろう。
「貴方にとって、他者は復讐を果たすための駒に過ぎなかったのですね。――満足しましたか? 貴方の望んだ通り、わたくしはここで死に、言夭家は滅びを迎えます」
すべては、言夭家を滅ぼすために白月が仕掛けた復讐劇。
天下を獲った皇帝は、武勇に優れ、呪術を厭う男だ。そのような男が言夭家を出し抜いて罪を着せたことも、おそらく白月が一枚噛んでいたのだろう。
問い質すことも無意味だが、彼は皇帝とも繋がっていたのかもしれない。
「ああ、満足だよ。……父母の仇をとって、一族を滅ぼして! 俺の望みは全部叶ったのに……、なのに、何で、こんなに苦しいんだ。痛い、ままなんだよ!」
白月の頬を一筋の涙が滑り落ちた。燭の明かりに照らされて、輝いた涙の粒が紅焔の頬に落とされる。
冷たい滴を感じた時には、首を絞める彼の指は緩められていた。
「あんたが、……自分の意志で人を殺して、のうのうと生きている外道だったら良かった! そうしたら、俺は、きっと、あんたを……」
まるで血を吐くような叫びだった。紅焔は恐る恐る彼の頬に手を伸ばす。
「白月」
躊躇いがちに、引き攣って爛れた火傷の痕を撫ぜる。遠い日に彼の母がそうしたように、紅焔は傷痕に触れた。
「貴方は可哀そうな人。――貴方こそ、誰を切り捨てても、傷つくことのない人であれば良かったものを」
たった一年と誰かが嘲笑っても、紅焔は一年も白月と共に過ごした。彼は紅焔の前で仮面を被っていたが、すべてが偽りだったとは思っていない。
父母の仇にわずかにでも憐れみを抱いてしまった瞬間から、彼はどれほどの苦痛を味わっただろうか。
「可哀そうなのは、あんただろ」
頬に垂れた彼の涙が口端に触れた。滲む塩辛い味に、紅焔は唇を引き結ぶ。
首を絞める彼の腕に、既に力はなかった。
「この血を終わらせるなら、俺も連れて行け」
白月は泣き笑って、近くにあった燭台を乱暴に薙ぎ倒した。蝋燭で揺れていた小さな炎は、板張りの床に火をつける。並べられた書物や棚を巻き込み、炎は燃え上がった。
彼は紅焔の身体を覆い被さるように抱き締めた。
見慣れた炎が、視界の端で大きく育っていく。肌を舐める熱は恐ろしいものであるはずなのに、母の胎内に戻るような懐かしさがあった。
「……一緒に、いってくれるのですか」
答えとばかりに、紅焔を抱き締める腕に、白月はことさら力を籠めた。紅焔は彼の胸板に頬を摺り寄せ、大きな腕に包まれて安堵する。
「ごめんなさい。生きて欲しいと願っていたはずなのに……、貴方が共に来てくれることが、とても、嬉しい」
紅焔の心は幸福に満ちていた。死出の旅を彼が共にしてくれるならば、この身を抱いたままでいてくれるならば、怖いものなど何もなかった。
「憎かった。ずっと、あんたのことを殺してやりたかった」
優しく囁く大好きな声に、紅焔は頷いた。
――それでも、この人を愛している。
誰よりも、何よりも、心を教えてくれたこの人を愛おしく思う。
すべてが彼の憎悪が齎した結果に過ぎないとしても良い。道具でなくなったからこそ得た痛みや苦しみさえも、紅焔は抱え込んで笑う。
「だけど、……愛していたよ。紅焔」
噛み締めるような囁きに、紅焔の瞳から涙が零れ落ちた。
その言葉が、優しい嘘でも、愚かしい真実でも構わない。
最後の災いの血を焼き払うように、炎は燃え盛り、二人を包み込む。すべてを喰らい尽くす熱を感じながら、紅焔は彼の鼓動に耳を澄ませた。
あり得たかもしれない未来など、想像するだけ無意味だ。辿った道は変わらず、この結末以外、きっと、選べはしなかった。
されど、いつか何処かで、違う形で出逢うことができたならば。
――今度こそ、その手をとって、共に美しき世界を歩きたい。
愛しい人の腕に抱かれ、紅焔はそっと目を閉じた。