farCe*Clown

序幕 死に人 01

 早朝、目が覚めて階下に下りると、そこには一つの死体が在った。
 止むをえなくこの簡素な家に住み始めて一月ひとつき。家の中で一番の広さを誇る一階の大部屋には、古びたソファがある。
 いつものように、女に朝の挨拶をして朝食を貰い、希有きゆうは与えられた部屋に戻るつもりだった。
 しかし、――漸く慣れてきた朝のやりとりは、最悪の形で崩れ去っていた。
 女の気に入りであったはずの綿がはみ出したソファに、うつ伏せで女はこと切れていた。
 あまり風呂に入らないらしく、多少の脂と本来の傷みで綺麗とは言い難い茶髪が、ソファに乱れて広がる様に悪寒が走る。
 青白い腕は、力なく不自然な方向に曲がっていた。
「え、……?」
 肉塊と呼んでも過言ではない、それほどまでに女の遺体の損傷は激しかった。
 胴体は人の形を留めておらず、骨のような体からははらわたが零れ落ちている。赤黒い血に塗れた臓物が、床へと転がっていた。
 まるで止めを刺すかのように彼女の背から生えた包丁の柄が、彼女の死を希有に刻みつけた。
 それは、死体と呼ぶには、生きていた人間であったと称するには、あまりにも背徳的だった。
「――、オルタンシア?」
 数回しか呼んだことのない女の名前を、口にする。
 当然、女から返事はなかった。
 混乱で白に呑まれていく心を必死で勇めて、希有は女の元へと駆け寄った。
 裸足で感じる赤い水溜りは、独特の粘り気があって背筋が粟立つ。鼻を襲う酸と鉄の臭気に唇が震えた。
 オルタンシアの死体を間近で捉えた瞬間、希有は反射的に口元を押さえた。迫り上げる吐き気を抑え込むように、死体から後ずさる。
「う、……あ、あっ……!」
 その死体は、明らかに異常だった。
 最後に、彼女と顔を合わせたのはいつだっただろうか。昨夜、就寝の挨拶をした時のはずだ。

 それなのに、どうしてこんなにも蛆が湧き腐臭を放っているのだろうか。

 希有は恐る恐る再びオルタンシアに近づいた。
 手を伸ばし、蛆をかき分けて、ソファに突っ伏している死体の顔を自らの方向に動かした。
 一日でこんなにも腐敗が進むはずがない、この死体は彼女のものではない――、彼女のものであっていいはずがない。
 だが、希有の淡い期待を裏切るように、その顔はオルタンシアそのものだった。
「……っ……!」
 死体を見るのは初めてではない。
 だが、それは穏やかに死に化粧が施された姿だ。このような生々しい骸など、見たことがあるはずない。
 希有は普通の高校生で、今でも、そのつもりなのだ。
「どう、して……?」
 オルタンシアとは、良好な仲とは言えなかったかもしれない。だが、それなりにお互い上手くやっていた。
 彼女は、少し時間はかかるかもしれないが、希有を日本に帰せると言っていたのだ。その言葉通りに、希有が地球へ返れる方法を、調べてくれていた。 その行動は誠意からくるものではなかったようだったが、希有はそのようなことはどうでもよかった。
 所詮、打算で成り立っている他人同士の関係だと知っていたからだ。
 だが、オルタンシアが死んだとなれば事態は変わる。
「逃げな、きゃ」
 真っ先に疑われるのは希有だ。
 本人は認めなかったが、オルタンシアは身分の高い学者だった。貴族が通う学院で教鞭をとることもあり、なおかつ、時折王城にまで招かれていた。
 それだけ優秀で価値のある人物が死んで、その場には希有しか居ない。鑑識もいなければ、指紋という考えさえないこの世界では、一番疑われた者が犯人になる。
 急いで部屋に戻り荷造りをしようと思った時だった。
 何の前触れもなしに、家の扉が開かれた。
「――、リアノ国軍第三部隊の者だ! カルロス・ベレスフォード様の命で参った。オルタンシア博士、先日の御返事を……」
 後ろを振り返ると、玄関口に黒い軍服の男たちが数人立っている。
 希有の姿に目を丸くした後に、彼らは一瞬にして瞳を恐怖に染め上げた。
「……ひっ……」
 希有の向こうの死体に、悲鳴が上がる。

 それは、久住希有くずみきゆうが異世界に招かれてから、一月が過ぎたある朝の出来事だった。