farCe*Clown
第一幕 囚われ人 02
闇に染まった世界を、覚束ない足取りで進んでいく。
手首にきつく巻かれたロープを力任せに引かれて、希有は転びそうになりながらも足を動かす。見えない誰かが、希有を何処かへ誘導しているのだ。
自害を防ぐために口に巻かれた布が唾液で濡れ、呼吸が儘ならず不快感が募る。所々に凹凸のある石畳を裸足で歩いているため、足裏が痛かった。
目隠しをされて見えない視界に恐怖を覚えて足を止めようとしても、希有の手を引く力は強さを増すばかりだった。
何処に向っているのかは分からないが、向かう場所が希有にとって良い場所ではないことだけ分かった。
悪い夢を見ていると思いたかったが、これが夢でないことは明白だった。
渋々ながらも、今は従うしか術がないことも、十分理解していた。
オルタンシアの死体が転がる家で、軍人が差していた剣を見た瞬間、抵抗する気力は萎んでしまったのだ。下手に抵抗して、その場で切り捨てられることを考えた途端に、恐怖で何も言えなくなった。
真剣に太刀打ちできるような術など、非力で丸腰な希有にあるはずもない。
現在、希有がいる建物はどのような場所なのだろうか。もう随分と歩かされている。途中階段を上がったので、ここは塔のような高い建物なのかもしれない
苦し紛れに今の状況に思考を巡らせていると、突如、ロープを引く力が弱まった。
扉の開く小さな音が、希有の耳に届く。
「目隠しを外します」
冷たい手が希有の米神に触れて、すぐに目隠しが外された。
圧迫されていた目が解放され、希有は静かに瞼を開ける。目隠しを外された部屋は薄暗かったが、数時間ぶりの光は、わずかな量でも眩しく感じられた。
「目は見えますか?」
聞こえてきた声に、希有は反射的に頷いた。その声は想像していた野太い男のものではなく、思いの外高く澄んだ声だった。
希有の目隠しを外したのは、少年だった。
背は低くはないが、青白い顔をした弱々しい少年だ。綺麗な顔立ちをしているのだが、何処か儚く、不思議と印象には残らないような容貌をしている。
少年の姿を見た後に、希有は部屋の中に視線を遣った。
部屋自体は何の変哲もない造りだったが、壁には鈍い光を放つ凶悪な武器の数々がかけられていた。初めて見る本物の凶器に、希有は思わず肩を震わせる。
だが、そんな恐ろしい武器よりも目を引いたのは、部屋の奥に鎮座している巨大な扉だった。
鉄製のその扉は、何かを閉じ込めるためのものにしか思えなかった。背中に冷や汗が伝う。
怯えた様子を不憫だと思ったのか、希有を連れてきた少年は、悲しげな顔をして希有を見ていた。哀れまれるような視線は慣れているが、何度受けても心地良いものではない。
「罪人を連行いたしました」
少年は小さく息を吸ってから、大きな扉の前に立っている男に声をかけた。
少年よりも随分年上の年配の男は、無表情で希有を一瞥する。
「ご苦労。次の交代は七時間後だ」
「はい、……お疲れ様です」
少年は年配の男に頭を下げて、そのまま希有の腕を縛る紐を引っ張る。向かう先は、威圧的で巨大な扉だった。折れそうなほどの細腕で、少年は苦しそうに扉を開けた。
希有は連れられるがままに、奥へと入っていく。
――、そこは、牢獄だった。
四方を石の壁で取り囲まれ、湿気に充ちた室内には澱んだ空気が蔓延していた。蝋に灯る僅かな火で照らされ、仄暗い薄闇に包まれた場所だった。見るからに不衛生で、酷い黴臭さに希有は眉間に皺を寄せる。
思わず足を止めた希有を促すように、少年は容赦なく縄を引く。
彼が足を止めたのは、入って左手にある牢屋だった。
石の壁を跨ぐようにして牢屋を囲うのは、備え付けられた柵だった。錆びているものの太く頑丈で、通り抜けられそうで抜けられないような幅が厭わしい。
中には、カーテンで隠すことのできるトイレと小さな洗面所がある。寝台はなく、牢の隅に薄い毛布が数枚重ねられているだけだった。
抵抗することもできず、希有は黙って牢屋の中に放り込まれる。
体を震わす希有に、監守の少年は居た堪れないような表情をする。
「環境の悪いとこですが、十四日間の我慢です」
声変わりを迎えていない少年特有の、何処か少女めいた声が牢獄に響いた。
希有の拘束具を丁寧に外す少年の瞳には、大きな陰りが窺える。
深く考える必要もなく、十四日間の我慢の意味を理解することができた。
「……十四日後に、殺される、のですか」
このような状況だからこそ、できる限り怯えず冷静でいたいというのに、希有の声は情けなく震えていた。
「ごめんなさい……、貴方がどのような罪を犯したのか分かりませんが、それが決まりです」
少年は眉をひそめて、悲痛な面持ちで謝罪する。
「……、罪なんて……」
言いかけたところで、希有は口籠った。
ここで無実を主張したところで、誰が信じる。目の前の少年さえも、信じてはくれないだろう。
――、殺人犯として一番疑わしいのは、あの家にオルタンシアと暮らしていた希有なのだ。
希有の拘束を解いた少年は、視線を泳がしながら希有の牢の鍵を閉めた。
「想像するよりは、痛くはないと思います。執行人もそれくらいの慈悲は持ち合わせているはずですから」
何の慰めにもならない言葉を最後に、少年は希有に背を向けて歩きだした。少年の華奢な姿が、鉄の扉の向こうへと消えていく。
外界に繋がる扉が虚しく閉じて、牢獄は再び薄闇に包まれる。
希有は言葉にならない不安と恐怖で歯を鳴らしながら、力なく床に腰を下ろした。背を預けた冷たい石の壁が、早鐘を打つ鼓動さえも奪うように、体の熱を吸い取っていく。
「いた、い……」
裸足のまま歩かされたので、足の裏が切れて血が滲んでいた。その血が赤黒くなったオルタンシアの血と混じっていて、胸がいっぱいになる。
「……、どうして」
あの後、希有の事情を聞くこともなく、軍人たちは希有を連行した。希有の腕に縄を縛るときの、恐怖に染まった軍人の顔が目に浮かぶ。
乱暴をされなかった分、幸いではあった。
それは、希有が抵抗しなかったことも一因だろうが、主な理由は、希有の外見を見て子どもと判断したからだろう。実際は既に十七だが、この国リアノに住む者に比べれば背も低く、日本人特有の童顔もある。
しかし、乱暴をされなかったからといって、そのような腹の足しにもならない慈悲に意味はない。
どの道、希有は十四日後に殺されるのだ。
それも――、冤罪で希有は殺される。
あの状況で、あの現場に立っていたのだ。冤罪だと主張したところで、誰も希有の言うことなど信じてはくれない。
それに、あの軍人や彼らの上にいる人間にとって、希有が実際にオルタンシアを殺したかどうかなど、大した意味はないのかもしれない。
「――、なんで、こんなっ……!」
前方を見渡すと、大きな通路を挟んで二つの牢がある。おそらく、希有が入れられた牢屋を含めて、牢は全部で四つあるのだろう。あまりにも少ないように思えたが、牢獄はこの場所だけではないのかもしれない。
希有は出口に近い角部屋の牢に入れられていた。
向い側の全てには囚人が入れられていて、彼らは希有より早く殺される。先ほどの監守の言葉が真実であるならば、十四日の留置のあとに、死刑は執行されるのだ。
牢屋の罪人たちは、一様に生気の欠片も感じられない、虚ろな目をしている。
虚空を見つめて何かを呟いている者は心を壊したのだろう。涙を流している者は懺悔をしているのかもしれない。その全てが陰鬱な雰囲気を放っていて、既に滅入っている気を、さらなる深淵へと突き落とす。
状況は最悪だが、どうにかして死刑にならない方法を探さなければならない。易々と殺されることなど、希有には堪えられない。
だが、――、どうにかとは、どうすればいいのだろうか。
牢獄に閉じ込められて、冤罪だと主張したところで誰もが信じることはない。
何の力も持たない女子高生が、そのような場所で何をすればいい。この運命から逃れる術が、何処にあるというのだ。
「うっ…………」
希有は、この世界にとっての異物なのだ。
誰が、この世界と何の繋がりも持たない存在を信じるというのか。希有すらも現状を信じ切れていないと言うのに。
そう思った瞬間に、胸を迫り上げたのは我慢できない吐き気だった。
希有は口元を抑え込み、備え付けられた洗面台まで走る。
「げ……あ、あう……」
希有は吐瀉吐瀉した食物を目にして、その臭気に生理的な涙を滲ませる。直後、胃が空っぽになった気持ち悪さに、吐く物などないはずなのに、もう一度吐いた。
どうしようもない恐怖で震える手で、洗面台の近くにあった水瓶から備え付けのコップに水を注ぐ。
胃液の酸味を消し去るために、必死に口を漱いだ。
――、形のない闇が、心を喰らっていた。
希有は十四日後に死ぬ。謂われのない罪で殺される。
もしかしたら、それよりも早く、他の囚人のように、心を壊してしまうかもしれない。
「……あは、は……」
背筋が粟立つ想像に、零れ落ちる涙を止めることができなかった。
行き場のない衝動に、胸を掻き毟り頭を振り乱す。
嘆いて叫んでも、誰も応えてはくれないのだ。
ここは、牢獄。閉じた世界。
――思い出したくもないのに、いつか読んだ物語を思いだす。
囚われのお姫様が、蒼い瞳を涙で濡らし、ひたすらに助けを待っている。その望み通りに、颯爽と王子様が現れてお姫様を助け出してくれるのだ。
優しい手を差し出して、お姫様を救い出す王子様。甘い物語の最後は、いつだって幸福な終わりを迎える。
だが、希有には助けてくれるような存在はいない。
希有は美しいお姫様ではなく異邦人だ。希有に関する人は、この世界には一人もいない。いたとしても、それは今は亡きオルタンシアただ一人だ。
死者に助けを求めても何になるというのだ。骸は何一つ応えない。
――、ああ、何故、希有はこんな場所に閉じ込められている。
どうして、オルタンシアは死んでしまったのだ。
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