farCe*Clown
第一幕 囚われ人 04
重たい瞼を開けて、希有はゆっくりと身を起こす。
「……うん、大丈夫」
思いの外すっきりとした頭で、希有は小さく声を上げた。
昨晩も悪夢を見たが、心はそれほど乱されなかった。むしろ、あの悪夢を回避して生きたいという思いが深まり、今までになく強かでいられるような気がした。
不意に襲いかかる寒さに、希有は身を震わせる。
薄い毛布を羽織っていても、皮膚を刺すような冷気が寒さを助長する。吐息は白く、随分と冷え込んでいることを実感する。
左手首の傷に視線を遣ると、未だに血が滲んでいた。多量な出血はしなかったようだが、断続的に生を訴えてくる痛みがそこには在った。
――今日で、牢に入れらてから五日が経った。
食事の運ばれてくる回数から考えて、間違ってはいないだろう。死刑が執行されるまで残り九日、留置期間はもう少しで折り返し地点に差し掛かる。
未だに心を取り巻く闇を振り払うことはできていないが、現実を訴えかける痛みが、心を落ち着かせてくれる。
正常に近い場所に戻った思考が、常の希有を呼び覚ましていく。
この異常な状況に完全な適応はできないが、それでも、希有は自分を見失ってはならない。自我を亡失することは、生を絶つことと何ら変わりはない。
「本当……、ばかだな」
いくら、八方塞がりだからといって、死を選ぶのは莫迦げている。
大丈夫、と希有は自分自身に言い聞かせる。根拠などないが、不思議と希有に元気を与えてくれた。
「……、生きて、いるんだ」
胸に手をあてれば、一定のリズムを保ちながら、心臓は生を刻んでいる。
小さなネックレスを握り締めると、力強い勇気が湧いてくる。
――あの子との過去が、思い出が、希有を生かす。
生きているのならば、最期の瞬間まで生きなくてはならない。希有には、生きる義務がある。
未来を諦めなければ、確率は低いだろうが、これから事態が好転することもあり得る。自分で事態を好転させることもできるかもしれない。生きてさえいれば、可能性はあるのだ。
これだけ、吐いて、泣いたのだ。
完全ではなくとも暗く荒い衝動は収まり、絶望に取り上げられていたような感情は希有の意識下に戻ってきた。
状況は何一つ変わらずとも、これからについて考えることができる程度には、希有の心は落ち着きを取り戻している。
昨日までと違って、視線を上げて、前を見据えることができる。
突然聞こえた扉の開く音に、希有は反射的にそちらを見た。
乾いた涙の付着する目の淵を擦りながら牢獄を見渡すと、監守の男が牢獄に足を踏み入れるところだった。その男は、初日の少年や昨日の者と異なっている。ここの監守は交代制らしい。そんな些細なことに気づく余裕も、今の希有にはあった。
「あ……」
思わず漏れた声に、希有は口元を手で押さえる。
希有の目を引いたのは、監守の男が引きずるように連れてきた、一人の人間だった。
傷らだけの青年だ。
まだ年若く、二十代を迎えたばかりであろう。乱れて弱弱しい呼吸が牢獄の静寂に、やけに大きく響いた。
髭を生やした監守は、乱暴な手つきで青年を引きずっている。その度に、青年から漏れる苦悶の声が希有の耳朶を打った。
「部屋が足らないな。カルロス様も死刑囚を増やし過ぎだ」
監守は牢獄全体を見回してから、希有の牢の前で止まった。
希有は、嫌な予感に体を強張らせる。
「……あの、……その方は?」
自分の予感が外れていることを願いながら、希有は意を決して監守に尋ねた。
「新しい住人さ。殺人罪のお嬢ちゃん」
それは、この牢獄に入れられる新しい住人と言う意味だろう。だが、生憎と牢は満室なのだ。
まさか、希有と同じ牢屋の住人という意味ではないと思いたかった。
しかし、希有の不安を肯定するように、監守は言った。
「たった九日のの我慢だ。子どもにとってここは苦痛だろ?」
監守は腰に掛かっている鍵を取り出し、希有の牢を開ける。
「良かったな、話し相手ができて。それとも、俺と遊ぶか?」
舐めるように希有を見回した後に、監守は引きずっていた青年を勢いよく希有の傍に放り投げた。
男の下卑た笑いが、牢に響きわたる。
「……っ……!」
鈍い音と共に投げ出された青年が、一際大きな呻き声をあげたので、希有は思わず身を竦めた。
「飯はここに置いておく。腹減ってたら二人分食べたらどうだ?」
牢屋の鍵が再び閉められる。
監守はいつものように、牢獄の外へと戻っていく。唯一の出口、鉄の扉を見張っていれば、この牢獄からは誰一人出られない。
監守の背中を恨みの籠った目で見送った後、希有は嘆息を漏らした。
やっとのことで落ち着きを取り戻していた頭に、様々な疑問が浮かび上がる。しかし、どれも希有が考えたところで答えが出るはずもなかった。
希有は渋々と立ち上がり、床に転がる青年に近寄った。
このまま放っておいて、苦しむ姿を見ているのは、何故だかとても嫌に感じた。
捨てたはずの良心や偽善が、未だに希有の中に残っていたようだ。
屈んで彼の顔を覗き込むと、青年が精巧な人形のような美しい顔をしていることに気づく。
血で薄汚れているが、透明感のある白い肌に鼻筋の通ったはっきりとした顔立ちをしている。青白い顔は具合の悪さによるところもあるのかもしれないが、地の白さもあるのだろう。
何よりも目を引いたのは、床に散らばる彼の髪だった。
春に咲き誇る桜。
見たこともない、薄紅色をした髪だった。日本人にはありえない色をしたそれは、襟足は肩につくほど長く艶がある。
男に与えるには可愛らし過ぎる色だが、不思議と彼の美しさに良く映えていた。
視線を青年の体に移すと、毒々しい赤色が視界を侵す。かなり新しい傷なのだろう、左腕の傷からは止め処ない血が流れていた。
「――数日中に、何回惨い光景を見せれば気が済むんだよ」
青年の傷から滲み出る血液に、オルタンシアの無残な死体が思い浮ぶ。
生きている限り、死は何処にでも転がっている。遅かれ早かれ、死は必ず訪れるものだ。
希有も、荒い呼吸を繰り返す青年も、いつ死んでもおかしくはない。
希有が死ぬ運命から逃れ、生きようとしているように――この青年も生きている。
そう思った刹那、希有の頭から彼を見捨てるという選択肢は排除された。随分と自分らしくない感傷だ。
「――とりあえず、止血、か?」
とにかく、血を止めなければならない。
使う場面に出くわすとは思ってもいなかったが、止血法は、保健体育の授業で習ったはずだ。
希有は、自らが纏うドレスの袖口に躊躇することなく噛みついた。糸切り歯で切れ込みを入れて、力任せに手で勢いよく引き裂く。
横たわる青年の頭を自分の膝の上に乗せて、力ない彼の左腕を高く掲げる。心臓より高い位置に持っていくと、効果的だったような気もする。
青年の来ている上着を、傷に触れないように慎重に脱がせる。肌触りのいい服は、かなり上質な物のようだ。一般の人間が纏うような代物ではない。
この青年は、身分の高い人間なのだろうか。
上着を脱がせた後は、白いシャツの左袖を捲っていく。
まずは左腕の傷口を、引き裂いたドレスの袖で直接圧迫する。清潔な布を使うべきなのだが、この牢獄に、そのようなものは存在しない。
「あ……」
止血する布に染み込んだ青年の血が、希有の手を赤く染め上げる。希有の左手首の傷さえも覆い尽くした彼の血は、美術で使った赤の絵の具に似ていた。
彼の血液も絵の具と変わらない。ひたすらに頭に念じれば、血に対する恐怖は誤魔化されるように薄らいでいった。
「……、え?」
青年の傷口を圧迫している間に、希有は違和感を覚えた。
傷口が、奇妙な傷つき方をしている。
流れる血のせいで最初は気付かなかったが、圧迫する傷痕の周囲が、不自然なまでに綺麗なのだ。
外的要因で傷がついたとして、――ここまで周囲を傷つけることなく、怪我を負わせることができるのだろうか。
そもそも、これくらいの傷で、ここまで衰弱した状態になっていることもおかしい。
傷の大きさから考えると出血も激しいが、この怪我一つで、このような状態に陥るとは考えにくい。
この傷だけが、彼を苦しめている原因ではないのかもしれない。
希有は目を細めて、美しい青年を観察する。
良く見ると、白い頬が僅かに紅潮していた。汗ばんだ首筋に手を当てると、脈が少し早まっている。
確信をもって額に手を伸ばすと、思ったとおり熱があった。
「……熱かよ」
おそらく、牢に入れられるまでに、かなり悪い扱いを受けたのが原因だろう。希有は医者ではないので正確な判断は下せないが、彼の熱は風邪によるものと思われる。
「……、……うっ……あ」
掠れて妙に艶めかしい、苦しげな喘ぎ声が希有の耳に届く。
青年の頭に、希有はそっと手を伸ばした。
寒さで震える彼を安心させるように髪を梳いて、希有は自分が羽織っていた毛布を一枚、彼にかける。本来なら、病人に全ての毛布を譲るべきなのかもしれないが、全部渡せば希有が凍える破目になる。
傷口は止血したのだ。毛布も一枚とはいえ被せてやった。十分恩を感じてもらえるようなことをしただろう。
他人に割けるような余裕は、希有にはない。いくら泣くのを止めて前を向いたからといって、完全に闇を振り払えたわけではない。
心に多少の余裕は生まれたのは真実だが、それは他人に構っていられるような種類のものではないのだ。自分のことだけで手いっぱいだった。
第一、自分は、赤の他人に対して優しくできるような人間ではないのだ。
よく、こんな偽善的な行動をしたものだ。
優しさは美徳で尊いものだが、無駄なものでもある。どれだけ優しくしたところで、人は平気で裏切るのだ。他人に与える優しさに、何の価値があるというのか。
何より、希有は善人という人種が苦手だ。
――、希有が青年の面倒を見た理由は、優しさや善意ではないはずだ。
きっと、希有はこの青年を利用してやろうと思ったのだ。
この牢獄から逃れる術は、鍵を奪い牢から出るしかない。しかし、その鍵は剣と共に監守の腰にぶら下がっている。
希有の運動能力は、一般の女子高生の平均値を大きく下回る。大の男から鍵を奪って逃走することなど、希有に到底できるはずもない。
それ故に、この青年を利用しようとしたのだろう。
だから、この行動には打算しかなく、青年に対する気遣いなど欠片もない。優しさなんて吐き気がするものは含まれていない。
まるで自らに言い聞かせるように、希有は内心で呟いた。
仮に、青年に対する手当が善意から来るの行動であったとする。考えれば考えるほど、それほどに気味の悪いことはない。
希有の考える、一般的な人間像に反している。
窮地において、傷を負った厄介者など身捨てるべきだ。優しさなんてもので人を助けて何になる。
単純に損得を考えて、青年に利用価値があるから助けただけだ。
「くそっ……」
鉄臭さの蔓延した牢獄で、希有は己の頭をかき乱す。
冤罪で牢獄に収容され、得体のしれない青年の看病をする少女。言葉だけ聞けば、健気過ぎて泣けてくる。
今の希有は、傍目から見れば悲劇のヒロインと呼ばれるに値するのかもしれない。この後は、目覚めた美しい青年と、希有が恋に落ちるのが定石なのだろうか。
何て莫迦らしい。どこの三文芝居だ。
薄暗い牢獄に、希有の大きな溜息が響き渡った。
*物語の都合上、止血法を用いていますが、鵜呑みなさらぬようにお願いします。
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