farCe*Clown

第一幕 囚われ人 05

 何をするでもなく、希有は何時間も青年を膝の上に乗せたままにしていた。
 痺れた足は既に感覚を失くしていたが、ここで放り出してしまえば、今までの行動が無駄になる。
 青年の桜色の髪はとても柔らかそうで、思わず希有は自らの髪に触れた。
 牢に入れられて随分と経った。伸ばし続けていた髪の毛は、布を水で濡らして軽く拭いたが、脂で指通りが悪くなっている。
 心なしか、体臭もあるような気がした。
 環境の悪い牢獄には、当然ながら風呂はない。そして、気の利かない監守は湯や布など用意してくれない。
 可愛げの欠片もないことは自覚しているが、希有とて女に分類される。他の子のように大きなものではないが、綺麗でいたいと思う気持ちも多少はある。
 それ故に、薄汚れた自分と、眠る美しい青年の差に愕然としてしまった。頭では分かり切っていたはずの事実に、再び衝撃を受けてしまう。
「……、痩せたかな」
 鏡などないが、僅かながらに頬がこけたような気もする。あれだけ吐いたのだから、当然と言えば当然なのだろう。もしかしたら、似合わない隈もできているかもしれない。
 そうして自分の状態を一つ一つ確認しながら、希有は改めて思う。現実を認識することは、とても大切なことだ。
 ――、最善を考えたいならば、自分や周囲の状況を正しく見つめなければならない。
 逃避しても現実は変わらないと知っていたのに、少しだけでも楽になろうとしたことが間違っていたのだ。
 希有は天才ではないのだから、多くの情報がなければ物事の判断はできない。希有が絶望的だと思っているこの状況も、正しく認識すれば希望が持てるものかもしれない。
 生きると決めたのだから、希望を見出さなければならない。
 希有は弱者だ。それを認識することが身を守るための第一歩だ。
「う……」
 苦しげな声をあげて身じろぎをした青年を、希有は見つめた。彼が心配だからではなく、顔に似合わずとんでもない凶悪犯の可能性もあるからだ。
 止血をして膝まで貸してしまった後に警戒しても遅いことは承知だが、注意するに越したことはないだろう。
「目が、覚めましたか?」
 口汚い自分を仕舞い込んで、希有はできる限り柔らかな微笑みを作った。
 状況が把握できていない時こそ、なるべく良い印象を持ってもらうために、猫を被ることは大切だ。
 人付き合いは、笑顔から、だ。相手が警戒心を抱くことのないような、善人の皮を被れば良い。幸いにも、真似するべき人間が、昔は誰よりも近くにいたのだ。
「――、誰だっ……!」
 しかし、希有の笑顔を台無しにするように、青年は希有の姿を視界に捉えた途端に、勢いよく起き上がった。
 間の悪いことに、希有は青年の頭を膝の上に乗せたまま、覗き込むようにして彼の顔を見ていた。
 当然、凄まじい勢いで起き上がってきた青年の頭を、希有が避けることなどできるはずもない。
 鈍い音を立てて、希有と青年の頭は衝突した。
「いっ……!」
「……っ、……!」
 当たり所が悪かったため、希有の目には痛みで涙が滲む。
 いくら驚いているからと言っても、希有との距離くらいは測れただろう。あそこまで勢い良く身を起こせば、衝突するのは目に見えていたはずだ。
「……、いた、い」
 零れ落ちた小さな悲鳴に、青年が慌てふためく。
「あ、……す、すまない」
 青年は、謝罪の言葉を口にして、宙に手を彷徨わせている。
 希有は怒りに身を任せて怒鳴りつけようとしたが、寸前のところで思い止まる。
 ここで怒れば話が進まない上に、今まで彼に対してしてきたことが水泡に帰すことになる。
「いえ……、貴方こそ大丈夫ですか」
 いかにも無害そうな笑顔をして、希有は青年を心配するふりをした。邪気のない笑顔と言うのは難しいため、見苦しいものになっていないことを祈る。
 そのまま小首を傾げると、青年は呆気に取られたような顔で固まっている。
「あ、ああ……」
「そうですか、それは良かったです。腕は平気ですか?」
 青年は思い出したように自らの左腕に視線を移した。巻かれている布と、希有の格好を交互に見て、納得したように頷いた。
「――お前が手当てをしてくれたのか?」
「はい……」
「助かった、ありがとう」
 幽かに微笑した青年に、希有は内心で小さく息をついた。
 死刑囚の牢獄に入れられるからには、凶悪犯である確率の方が高い。希有のような冤罪で投獄されている方が珍しいのではないだろうか。
 だからこそ、柔和で温厚さまでも感じられる青年の態度に、少し拍子抜けした。
 尤も、彼の腹の中まで、柔和で温厚とは限らないが。
「どういたしまして。まだ痛みますか?」
 気を引き締めながら、希有は青年を労わる言葉を投げかけた。
 初対面の人間に対しては礼儀正しくするのが一番都合が良い。下手したてに出られると満更でもないのが人の性だ。
 初対面の相手の内心など誰にも分からないのだから、外面を綺麗に整えることが、一番自分に益がある。
 本心を剥き出しにして生きることなど、周囲から余程愛されているか、排斥されても構わないと思っているかのどちらかなのだ。生憎と希有は両者とも当てはまらない。
「少し痛むが、もう平気だ。止血してくれたのか」
「ええ。でも、止血なんて初めてだったので、心配で。ちゃんと血は止まっていますか?」
「血は止まっている。――服まで破かせてしまい、すまなかった」
 青年の眉が、捨てられた仔犬の耳のように下がる。
 現時点で判断するのは早計過ぎるが、希有には彼が凶悪犯だとは思えなかった。
「そんなことは構いません。血が止まって良かった。――熱は、もう下がりましたか?」
「ああ。寝ていたおかげだろう、もう平気だ」
 そう言って口元を綻ばせた青年は、見れば見るほど美しい男だった。柄にもなく、希有は一瞬見とれてしまう。
 根本的に、希有が今まで見てきた人間とは違うのだ。
 しなやかに均整のとれた長身と、薄汚れていても透き通るように白い肌は、日本人ではなかなか持ち得ることができない。
 見たこともないような桜色の髪に、春の光を帯びた若草色をした瞳。優しげな春の色を携えた男は、それは麗しく微笑んでいる。
 だが、――彼の美貌は、それだけではなかった。その美しさには、見る者を闇に引き摺りこむような、一種の毒々しさがあった。
 綺麗なものに対して免疫がない希有は、思わず言葉に詰まる。
 青年はそのような希有の様子に気づくこともなく、周囲を見渡して口を開いた。
「ここは、……城の監獄塔か」
「分かるんですか? ここが高い場所だと言うことは分かりましたけど、何処かまでは分からなくて」
 連行される最中に階段を上らされたため、この牢獄が高い場所にあるということだけは理解している。
 だが、まさか、王城だとは思ってもみなかった。
 罪人が連れてこられる場所など、それ専用の施設――日本で言う刑務所のような場所だと、無意識に思い込んでいた。王族の住まう地に罪人を収容するなど、考えるよりも先に候補から外していたのだ。
「リアノの中で、これだけ高い建物と言えば王城だけだ。それに、……こんなにも凝った牢を作るのは、死刑が見せしめとして必要な、王族だけだ」
 吐き捨てた青年の言葉の意味することに、希有は僅かに唇を噛んだ。
 つまり、留置期間の後に死刑という名の見せしめが行われるのだ。それまでの間は、拘束を解かれた状態で、檻の中に生かされているに過ぎない。
 希有からしてみれば、自害の道を残してある時点で生温いが、それにも何らかの理由があるのかもしれない。
「……他の牢屋だったら、直ぐに殺されるのですか」
「罪人を裁く権利は、基本的に各領地を治める貴族にあるからな。何の情報も持っていないのであれば、留置などせずに切り捨てるだろう」
 冤罪で死刑を待つ身になったことは幸運とは言い難い。だが、オルタンシアの住まいが王都に在り、王城の牢獄に収容されたことは、希有にとって不幸中の幸いだったようだ。
 尤も、どちらにせよ殺されることは変わらないため、留置期間という死への先延ばしに感謝はできなかったが。
「…………、そう、なんですか」
 多少の猶予が与えられているとはいえ、結局のところ、この状況を変えない限り希有に未来はない。
 どうやら、青年も希有と同じようなことを考えているらしく、酷く悲壮な顔をしていた。気落ちしている希有も、残念ながら、彼にかけるべき言葉が見当たらなかった。
 希有は、苦し紛れに牢の入り口にある食事を見る。
「……あの、とりあえず食事をとりませんか? 熱が下がったとはいえ、何かお腹に入れた方がいいと思います」
 青年の返事を聞かずに、希有は牢屋の入口に歩いた。
 乾燥して固いパンと冷めた野菜スープが乗ったトレイを、二人分持ち上げる。監守が運んできてから随分と経っているが、元々冷え切ったものなのだ、いつもと味は変わらないだろう。
「……ありがとう」
 食事の乗ったトレイを差し出せば、青年は小さく礼を言った。
 食事を受け取った青年は、パンを手に取った。希有も食事に手をつけ始める。
 スープを啜りながら、横目で青年を観る。
 パン屑が零れないように気を使っている仕草や、スープの飲み方。その所作の一つ一つが品が良く、彼の育ちを思わせる。
 相当な空腹であろうに、彼は決して大口を開けて勢いよく食べることはなかった。牢獄なので、マナーもあったものではないが、小口に分けてゆっくりと咀嚼している。
 やはり、彼は身分の高い人間なのだろう。
 意識することなく綺麗に食べることができるということは、常にそのようにして、時間をかけた食事を行ってきたということだ。
 庶民の食べ方が汚いとは思わないが、庶民がここまで気を使って食事をするとも思えない。
 それに、怪我の手当をした時に来ていた服は、細やかな刺繍や装飾の施された、一目で高価と分かる代物だった。
「――、パン、要りますか?」
 自分のスープを飲み終わった後、希有は青年にパンを差し出した。
「……お前の分だろう?」
「いえ、わたしは体が小さいので、十分なんです」
 体力を落とさせるためなのか、運び込まれる食事は質素で軽量なものが多い。希有にとっては、それなりに十分な食事だが、眼の前の青年には足りないだろう。細身だが上背はある、それなりの量は食べるはずだ。
「わたしより体が大きいですし……、何より、今まであまり良い扱いではなかったのでしょう?」
 傷をそのままにして放り投げられたことや、薄汚れた身体を見れば良く分かる。手当をしている時には気付かなかったが、彼の唇は切れて口元には青痣があった。
 おそらく、暴力を振るわれたのだろう。
「気を遣わせたみたいだな。有り難く頂こう」
 青年の言葉に希有は内心で苦笑する。
 希有は自らの利益のために動いたのであって、決して青年に気を遣ったわけではない。
 何かを籠絡するために手っ取り早い方法の一つ。
 対象が生物であるならば、餌付けは有効だろう。
 本人が無自覚でも、食べ物を貰うと随分と心を赦せるようになるものだ。僅かでも飢えを感じている時に食糧を与えられると、余程の外道でない限りは、根拠もなく相手が善人かもしれないと思い込んでしまう。
 ましてや、希有は満足に食事のとれない環境にも関らず、彼に食事を差し出した。自分の身を削った慈善は、なかなかできるものではない。
 実際には、小食であるため多少の余裕があるだけなのだが、青年は希有にとって都合よく解釈してくれるだろう。
「――、お前の名はなんという?」
 やがて、綺麗に食事を終えた青年が、希有に問いかける。
 名を聞かれたことに、希有は少しだけ安堵した。
 同じ牢獄に入れられた異常さには、青年も気づいているはずだ。彼には、このまま希有を無視することも選べたというのに、彼はそれをしなかった。
 歩み寄りもできないような、凶悪な犯罪者であればどうしようかと思っていたが、それは取り越し苦労だったようだ。
「久住希有《くずみきゆう》。希有が名前です」
「……キユ? 不思議な響きだな」
 半ば希有が予想していた通り、彼は最後の音まで発音することなく、希有の名前を反芻した。日本でも散々間違えられてきたが、できることなら正確に読んでもらいたいものだ。
「きゆう、です」
「きゅー?」
 だが、訂正をしても青年が希有の名を正確に口にすることはない。
 もしかしたら、できないのだろうか。日本人が上手く発音できない音があるように、逆もあり得るのかもしれい。
「貴方には難しい発音なのかもしれませんね。それなら、キユで結構です」
 できない発音を彼に求めるのは酷だろう。希有を個として認め、名を呼んでもらえることは素直に嬉しいのだ。多少間違っていたとしても気にしないことにしよう。
「すまない。――俺はシルヴィオだ」
「シルヴィオ……」
 耳慣れない名に、ほんの少しの寂寥を感じた。やはり、ここは希有の生きた世界ではないのだと、言い知れぬ寂しさが胸の内に広がった。
「シルヴィオと、お呼びしても?」
「構わない、キユ」
 希有の名を呼んで口元を綻ばせたシルヴィオに、希有も釣られるようにして口角を上げた。
 希有は、上手く笑えているだろうか。