farCe*Clown
第一幕 囚われ人 06
自己紹介は済ませたものの、初対面、それも牢獄の中では、当然ながら会話が弾むわけもない。
シルヴィオが牢屋に入れられてから二日が経ったが、希有とシルヴィオの間に落ちるのは、基本的に重い沈黙だった。
事務的な会話はしたが、希有が望むような会話は未だにできていない。
希有は何とかして、自分の望むように彼と会話がしたかった。その切欠を考えている間に、既に二日が経過してしまった。
過ぎていく時間に苛立ちが募る。希有には、無駄にできる時間は一秒もないのだ。
シルヴィオを利用しようとして、希有は彼を助けた。それならば、彼に質問しなければならないことがある。
シルヴィオが、脱獄を望んでいるか否かだ。
その答えが見出せるような会話を、希有はシルヴィオとしたかった。
容易く彼を懐柔して協力を求めるのは難しいだろうが、彼に逃走の意志があるだけでも、まだ話にはなる。
――、だからこそ、なぜ、彼が死刑囚となったかを訊かなければならないのだ。
この沈黙を破って、それを聞きだすことは至難の業だが、やらなければ死刑の日が訪れてしまう。
物思いに耽りながら、希有はシルヴィオに視線を寄せた。
彼の顔に残る青痣は、ここ数日のうちに大分薄くはなっている。殴られてから時間も経っていたのだろう、順調に治癒していた。
初めて会った日に比べたら、格段に元気になったと言えよう。
しかし、彼の左腕の傷は、不気味なほどに治りが遅い。
最初に彼の傷を止血したときから、彼の傷は普通ではなく、どうにも腑に落ちなかったのだ。何かが傷の治癒を邪魔しているような印象を受けた。
床に広がる夥しい出血から考えて、殴打したのではなく、刃物などの鋭い物で切りつけられたのだと考えていた。
しかし、彼の傷口自体は皮膚や血管が破けて惨たらしい状態だったものの、その周囲は驚くほどに綺麗だったのだ。艶やかな陶磁の肌に空いた、異質でグロテスクな骨まで見えそうな傷。
外部から傷つけられることで、あの状態になるとは考えにくい。この世界の凶器にどのようなものがあるのかは知らないが、牢獄の入口の部屋にあった武器の数々を見る限りでは、地球と大差ないようだった。
研磨された刃物で傷つけられたので在れば、傷自体が目も当てられないほどに汚くなることはないだろう。逆に、刃毀れした刃物で傷つけられたのあれば、傷口の周囲はあそこまで綺麗にはならない。殴打や抉ったところで、それらでは刃物よりも可能性が低い。
そう、彼の傷は、――まるで、内側から何かに喰い破られたかのような傷口だったのだ。
そこまで考えて、希有は首を振る。
傷が不自然だと言っても、ここは日本ではないのだ。この世界に招かれた時点で有り得ないことが現実に起こっている。
深く考える必要はない。希有の持つ常識は、この世界の常識と一致しない。
彼の傷について考える暇があるのならば、勇気を出して問い詰めなければならないことがあるだろう。
「……、いきなり首をふりだして、どうした?」
幸いにも、沈黙を破ったのはシルヴィオからだった。
「いえ……、少し考え事を。その――見せしめに殺すのであれば、どうして自害を防ぐための拘束を外したのだろうと……」
咄嗟に口から出たのは、訊きたいと思っていた質問とは、まったく無関係なものだった。希有は、思わず溜息が零れ落ちそうになった。
「どういう、意味だ?」
僅かにも疑問に思っていないように、シルヴィオは首を傾げた。
「ですから、自害を防ぐための拘束を、何故外したのかと」
「……? 罪人が連行される間の拘束は、単に罪人を逃がさないようにするためのものだ。自害を防ぐ意味はない」
「……でも、口に布まで巻いて、あれは舌を噛み切らないようにするためではないのですか」
訝しげに、シルヴィオは目を細めた。希有の言っていることが、彼には本当に分からないらしい。
「舌を噛み切る者などいない。あれは、誰かに助けを求めさせないためのものだ。――、自害は忌むべきもの。それは、大罪だ」
「……、大罪?」
「リアノにおいて、自害することは最も罪悪な死に方だ。リアノの誇りに反する死に方、リアノを包む漆黒の蟲を穢す死だ。故に、大罪と呼ばれる」
吐き捨てるような口調に、希有は顔を青くする。
無意識のうちに左手首を袖に隠した希有を、シルヴィオは何も言わずに見つめていた。
先ほどまでと違い、シルヴィオの瞳には薄ら寒い何かがあった。
お人好しな青年の影に、何か暗いものを見た気がした。
そんな希有の様子など意にも介さずに、シルヴィオは続ける。
「……自害したものは、侮蔑と嘲笑の対象となる。その人物に関係あるものも、また然りだ」
「…………、そう、なんですか」
自傷した事実を誤魔化す様に、希有は言葉を続ける。
「あの……シルヴィオはどうしてこんな扱いを?」
なんら話の繋がりがない、苦し紛れの希有の言葉に、シルヴィオは疲れたように額に手を当て宙を仰ぎ見た。
乱暴され、襤褸雑巾のような状態でシルヴィオは牢に入れられた。目立った傷は左腕と口元の青痣だけだったが、その他にも細かい傷は多々あったのだ。
他の囚人を見たところ、怪我を負っていた者も、一応の手当はされていた。シルヴィオのように、傷の処置もされず牢獄に放り投げられることが特別なのだ。
「どうしてだと思う?」
言葉遊びをするように、力ない声でシルヴィオは聞き返した。自棄になっているようにも思えた。
希有は軽く息を吐いて、できる限り落ち着いた声で返事をする。
「……貴方があまりにも酷い凶悪犯、とか?」
「それを凶悪犯かもしれない男の前で言うのか? 何をされるか分かったものではないぞ」
子どものような切り返しに、希有は幽かに微笑む。そう言う風に返して来る時点で、彼は悪人ではないのだろう。
「どうせ、下手なことはここではできませんよ。すぐに監守が駆けつけますし、――貴方は、恩を仇で返すなんてできなさそうです」
「買被り過ぎだ。こんな場所にいる時点で、碌な男ではない」
純粋の一言に尽きるような声と仕草で、彼は笑った。シルヴィオが碌な男ではないなら、世界中の男の大半が碌でなしのように思えてくる。
「あら、それならわたしも碌な女ではありませんね。……、そうですね、凶悪犯ではないなら……、貴方が誰かにとって邪魔な存在だった、とか」
シルヴィオの肩が、わずかに揺れた。それを肯定と受け取って、希有はシルヴィオを見つめた。
「……、お前は、子供らしくない子供だな。お前の言うとおりだ。……、俺が、邪魔だったのだろうよ」
シルヴィオは、唇を噛みしめて拳を強くに握りしめていた。内に燻ぶる怒りや悲しみ、全てを投げ捨ててしまいたい衝動に、彼は耐えているのだろう。
「痛いのですか?」
その顔が――、希有には、迷子の子供のように見えた。
「……、泣きたいのであれば、泣けばいいと思います」
自然と、言葉は零れ落ちた。
「泣きたい……? 俺が?」
「痛くて、痛くて堪らない顔をしてます。泣きたくても泣けない、迷子みたいな顔」
「それは、お前だろう。このような場所に閉じ込められ、死を待つ身となった。誇りにまで、傷をつけて」
彼の視線が、希有の左手首を捉えた。
やはり、シルヴィオは、希有の傷痕の意味に気づいていたようだ。
「わたしは……」
死刑まで既に留置期間の半分を切った。彼の言うとおり、この状態でいれば希有を待つのは死だ。
「――わたしは、良いんです。貴方が来るまでに、こんな場所で泣くのは止めるようと決めたから」
泣いては吐き、胸を掻き毟っては、苛立ちと共に頭を振り乱した。
気が触れそうになって手首を切りもした。
地獄のような場所で正気を保つためには、そうでもしなければ、心が耐えられなかったのだろう。
愚かな振る舞いをしたが、それにより大切なことを思い出すこともできた。
泣くのは、終わりにしようと思った。
大丈夫だと言い聞かせれば、心は徐々に凪いでいった。
また、シルヴィオが牢に入れられたことで随分と冷静になることができた。独りではなくなったからこそ、無意識の余裕も生まれたのだ。
ふとした瞬間に、頭がおかしくなりそうになる時はある。
それでも、綺麗で優しいあの子との思い出と、誰かが隣にいる安堵で、希有は正気を保っていられる。
「この状況を受け入れることはできないけれど……、伏せていた顔をあげて、前を見れるようになりました」
牢に入れられてからの数日は、地獄だった。
それでも、生きるために何かを考えることができるほど、回復したのだ。
「ただ嘆いて、叫んでいました。行き場のない悲しみを持て余して、すべてが狂おしいまでに――憎かった」
何を憎めば良いのか分からなかったが、ひたすらに、すべてが憎らしかったのだと思う。この世界に招かれたことも、冤罪で投獄されたことも、このまま死刑を待つ運命も、何もかもが消えてなくなれば良いと思っていた。
「そんなわたしは、……見ないふりをしてみせます。この莫迦みたいな茶番で、死んだりしません」
そんな栓のない想いは、心の奥底に閉じ込めよう。希有は、暗い衝動に耐えて生き残ったのだ。
たとえ、何を犠牲にして、何を利用して、何を踏み躙ったとしても。
自己満足にしかならないことは承知だが、――あの子の分まで、希有は生きてみせる。
「――だから、貴方も泣いてください」
涙は、きっと色々なものを洗い流してくれる。
澱んで泥濘に足を取られるような心さえも濯いで、暗い衝動を散らしてくれる。
小さくても、心に余裕が生まれる。
「貴方に必要なのは、……、きっと泣くことです」
シルヴィオの顔は、情けなく歪んでいた。
静かに畳みかけるような希有の言葉を受け止めて、彼の瞳が困惑で揺れている。
「俺は……、立ち止まることも、後戻りすることも赦されないんだ」
自らに言い聞かせるような、口調だった。
泣き場所も逃げ場所も――、退路など何処にもないのだと、悲痛な面持ちで彼は語る。
「それなのに……、どうして、泣くことができるというんだ……? 泣けば、俺の足は止まってしまう」
「……、立ち止まることも、後戻りすることも、……、決して、悪いことじゃないと思います。そんな人間らしさが、赦されないことなんてありません」
時に迷って立ち止まって、後悔して後戻りをすることはある。
進む先に不安を覚えて怯えることが、悪いこととは思えなかった。
「足を止めれば……、俺は道に迷ってしまうというのに」
立ち止まることも後戻りすることも赦されないのならば、この世は生き地獄にしかならない。
生き地獄にしか、ならなかった。
全てを受け止めて、ひらすらに前に進み続けることができるほど、人間は強くない。
「大丈夫です。答えはいつだって、自分の中にあります。本当の欲しい物、本当に望む物は、必ず心に在るはずです」
希有が、一度は迷ったものの、生きたいという望みを見つけ出したように。
シルヴィオもまた、足を止めた後に、本当に欲しい物を見つけられるはずだ。
「望む物など何もない」
「……、なら、どうして、そんなに悲しい顔をするんですか」
今にも崩れ落ちてしまいそうな顔をしながら、そんなことを言うのは、間違っている。
「悲しい顔など、していない。お前に、俺の何が分かるんだ?」
全身で助けを求めながらも、口では拒絶を繰り返す不器用さに、希有は己に似たものを感じた。
「貴方のことなんて、分からないです」
確かに、希有にシルヴィオのことなど分かるはずがない。
「だって、貴方とわたしは、出会ったばかりの赤の他人です。生まれた地も育った環境も、己を取り巻く思想も違います」
世界が異なるということは、生きていた場所が相違するだけではなく、目には見えない意識や思想の部分までが異なるということだ。
同じ世界に存在していても、別個の人間は性質も性格も違うのだ。異なる世界で生きてきた希有とシルヴィオなら、尚更、互いを理解することができるはずもない。
その上、彼と希有は、出逢って間もない赤の他人だ。
「わたしは貴方の立場を知りません。知らないから、わたしの前で貴方が自分の立場に追い詰められる必要はないんです」
希有は、この世界では異物だ。
この地の住人が何を目論み、何を成そうとしたところで、希有には関係ない。シルヴィオが何を悩んでいるのか知らないが、その悩みさえも希有からしてみれば無価値なものである。
「貴方が抱く義務感も責務も、わたしには関係のないことです」
彼は、希有の知らない義務完や責務で、雁字搦めになり動けなくなっているのだろう。それは、希有にとって至極どうでも良いことだ。
「何も知らないわたしの前でくらい、貴方に戻ることは赦されるのではないでしょうか?」。
希有にとってのこの世界は、地べたに転がる石ころのように無価値なもので、この世界にとっての希有も同様だ。
何の価値もない故に、どのようなことになろうが一切関知しない。
「わたしは貴方を、ただのシルヴィオとしてしか知りません」
希有は、牢で弱っていた青年であるシルヴィオしか知らないのだ。
彼が普段どんな風に過ごしてきて、どのような立場に縛られていたのかなど、希有の預かり知るところではない。
「泣いたって良いんです、シルヴィオ」
刹那、シルヴィオの美しい顔が歪んだ。
希有はシルヴィオの傍に近寄って、彼の頭にやんわりと手を置いた。
それが、合図だった。
柔らかく頭を撫で始めた瞬間、静かな嗚咽が牢獄に響く。
大の男が泣く光景を見て、情けなさを覚えるよりも先に切なさが希有の胸を襲った。
もしかしたら、彼はこんな風に泣くことは、初めてなのかもしれない。
シルヴィオにこのような言葉をかけた意味は、希有自身にもよく分からなかった。
辛うじて心を保っている状態が現在の希有だ。
それなのに、希有はいつの間にか、シルヴィオを気遣う言葉を口にしていた。
――、本当に、この頃の希有はどうかしてる。
「泣いたって……、良いんですよ」
寂れた牢獄に響きわたる泣き声。彼の姿は、小さな子供が必死に涙を押し殺す姿に似ていた。
そして、希有は理解する。
泣きたくても泣けない彼の姿に、希有は自分を重ねたのだ。
道化師のような仮面を取り繕い、様々なことを偽って生きていた自分は、泣くことさえできなかった。
「全部涙で流したら、また前を向けばいいんです」
――、泣いたって良い。
それは、四年もの間、希有が欲しかった言葉の一つだった。
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