farCe*Clown

第二幕 逃げ人 12

 希有は着替え終わった自分の姿を、部屋にある窓で確認する。
 白いエプロンドレスを重ねた丈の長い黒いドレスは、下働きの仕事に合わせたように適度に動き易いつくりになっているようだ。
 しかし、小柄な希有では、あまりにも丈が長く体に合わない。
 余る裾にあぐねいていると、シルヴィオは希有の肩をたたき、いくつかのブローチを差し出してきた。
 華奢なデザインの、エメラルドを真中に頂いたブローチだ。
「……、使っていいの? こんな高そうなもの」
「使ってくれ。その方が、前の持ち主も喜ぶだろう」
 希有は、黒いドレスのウエストを重ね、見えないようにブローチで留める。多少の違和感は残るが、そこまであからさまなものではない。
 もう一度、窓に映る自分の姿を確認すれば、服に大きな違和感はなかった。
 ――、窓から見える空は、気味が悪いほどに明るかった。
 現在の時刻は分からないが、牢を出たときには燃えるような夕焼けが幽かに目に入った。牢を出てから、思いの外長時間を歩いているため、おそらく既に夜半を迎えているだろう。
 間違っても、朝焼けのような淡い光を放っている時刻ではない。この明るさは逃走するには不都合極まりない。
「……何でこんなに夜が明るいんだ」
「明るいのは今日だけだ」
 希有の独り言を拾ったのか、シルヴィオが応える。
 振り返ると下働きの服を纏ったシルヴィオがいた。憎たらしいことに、良い男というものは何を着ても似合うらしい。少しよれた黒の服でも、彼が着ると洒落て見えるのだから不思議だ。
「今日はリアノで忌み嫌われる蟲蝕日こしょくびだからな。間の悪いことに、月も星も姿を現さない」
「その蟲蝕日は良くわかんないけど、普通は、月が在るから明るいんじゃないのか?」
「月と星は、明かりを喰らって光る。だから、夜が暗いのだろうが」
「言葉を返すようで悪いけど、太陽が沈むから夜が暗いんだろうが」
「太陽は沈まない。夜になると、闇に負けるだけだ」
 それを太陽が沈むと言うのではないかと思ったが、希有は口を噤んだ。
 何を言っても無駄だと感じたこともあるが、もしかしたら、希有が考える太陽や月と、シルヴィオが言うそれらは定義が異なるのかもしれないと思ったからだ。
 そもそも、月や星のことなど、希有にとってはさしたる疑問ではないのだ。
 それらよりも、ずっと、常々疑問に思っていたことがある。
「何で、言葉が通じているんだか」
 ここが異世界であるというのならば、何故、言語が通じるのか。
 異世界で、都合よく日本語が話されているとは思えない。
 そして、部屋の扉に下げられた板に刻まれた文字は、何処からどう見てもアルファベットにしか思えない。
「どうして、そんなことを疑問に思うんだ?」
「わたしが話しているのは日本語だ。まさか、リアノでも日本語を話してるのか?」
「ニホンゴ? ……言っている意味が分からない。俺たちは、言語を世界からたまわる。それは俺たちの中にある、唯一共通なむしだ」
 当然のように語る彼に、希有の頭は混乱する。
「世界から、賜る? そもそも、蟲って何なんだ?」
「分かりやすく言えば、――、世界・・の一部を自由に操ることのできる権利そのものであり象徴だな」
「まったく、分かりやすくないんだけど」
 頬を引きつらせた希有に、シルヴィオは大きな溜息をついた。

「nectar robber」

「え?」
「この世界の名だ」
 シルヴィオの言葉を、脳内で反復する。何かの本で、その単語を見たことがある。
「nectar robber――、盗蜜者・・・……?」
 受粉に関与することなく花蜜だけを奪うような訪花動物を、盗蜜者と呼ぶ。その本には確か、そう記述してあった。
 盗蜜者と名付けられた世界。
 それは、わずかな嘲りの含まれた蔑称にさえ感じられる名だった。
 盗蜜者という名は、比喩ひゆなのだ。
 おそらく、――この世界が自力で発展してきた世界ではないことを、皮肉っているのだ。
 カメラの原理を解明できたのは数年前というシルヴィオの発言も、これで合点がいく。
 シルヴィオたちにとって、カメラはこの世界に住む人間が造り出したものではなく、外来のものなのだ。
 何処から外来してきたかなど、考えるまでもない。
 希有が生きていた世界だ。
 この世界はおそらく――。

 地球から恩恵みつだけを盗み、地球には何一つ与えない世界。

 それ故に、希有はこの世界に違和感を感じるのだ。
 まるで中世のヨーロッパのような雰囲気を醸し出しながらも、この世界には希有が生きていた時代と同じ程度に美しい写真の撮れるカメラが存在する。他にも、中世の頃には到底有り得なかった代物が、この世界には多々存在しているはずだ。
 地球と似ているようで、決して同一にはなり得ない世界が、盗蜜者だ。
「少しは理解できたか?」
「……この世界は、生きているの?」
「生の定義が俺には分からないから何とも言えない。ただ、少なくとも、意志のようなものを持っているのではないか、と言われている」
「――だから、盗蜜者なんて名前が付けられているのか」
「言語は、世界から賜った権利だ。人間同士、言葉が通じるのが当然だろう」
 混乱する頭を整理しながら、希有は渋い顔をした。
「……この世界の人間同士が、言葉を通わせることができる理屈は……、まあ、何とか分かった」
 生まれた時から、世界から言語を操る権利を与えられているならば、言葉が通じることは理解できた。尤も、赤子が最初から喋ることができるのか、それとも、声帯の使い方の学習と共に言語が定着するのか、細かいところは分からないが。
 ――、第一、シルヴィオの言う権利も希有には曖昧なものにしか思えないのだ。ひとまず、それは置いておいても構わないだろう。
 問題なのは、希有がこの世界の人間ではない・・・・・・・・・・・ということだ。
「わたしは、この世界の人間じゃない。それなのに、言葉が通じるのはおかしくはないか?」
「俺には、お前がどうしてそんな疑問を持つのかが分からない。盗んだものを己の一部とするのがこの世界だ。お前がいくら自分を異物と感じても、この世界に盗まれたお前は、既に世界のものだ。俺たちと同じように、世界から言語の蟲を賜っているはずだ」
「わたしは、オルタンシアに招かれた。盗まれたわけじゃない」
「同じことだ。オルタンシアとて、何も己の力だけでお前を招いたわけではないのだから」
「…………訳が、分からない」
「ならば、あまり深くは考えるな。いくら考えたところで、お前の前に横たわる現実は何一つ変わらないのだから」
 シルヴィオは淡々と事実を述べた。希有が認めたくない現実を突き付けるかのように、彼は続ける。
「どれほど疑問に思っても、お前の常識で物事を推し量らないほうがいい。お前の持つ常識や思い込みは、この世界では通じないこともあることを肝に銘じておくべきだ」
 現実を認めろ、と言外に言われた気がした。
「……っ……」
 シルヴィオは間違っていない。どれほど、不可解な現状に疑問を持ち考えたところで、目前の現実は変わらない。
「世界に思い通りにできないものは何一つないが、俺たち人は、すべてのことを思い通りになどできない」
「……、分かってるよ。どれだけ逃げたところで、何も変わらないことなんて、良く分かってる……、だけど、……」
 目を逸らしたところで、希有が日本にいない現状は、真実でしかないのだ。重くのしかかる現実は、残酷なまでに希有を孤独にする。
「どんな現実も受け止められるほど、わたしは強くなれない」
 そのすべてを受け止めて前を見据えていられるほど、希有は強くはなれない。名も知らぬ誰かに甘えと罵倒されることになろうとも、――希有には、現実のすべてを受け入れることはできない。
「そうだな。……お前が強い娘だとは、俺も思っていない」
 唇を噛みしめた希有に、シルヴィオは寂しげに目を伏せた。
「だが、戻る場所がないのならば、進むしかないだろう。それがどれほど辛くとも、今は後戻りも立ち止まることもできない」
 シルヴィオ自身がそうであったように、希有もまた、同じ状況にいるのだ。
「もう数時間も経てば、夜が明ける。のうのうとしている暇は何処にもない」
 生きると決めたのは希有だ。
 シルヴィオが示すように、生きるためには進むしかない。
「…………、分かってる」
「夜が明ければ、監守の死体が見つかるだろう。空になった牢を知れば、あの男は騒ぎ出す」
「……、シルヴィオを、牢に入れた人?」
 シルヴィオは、強く頷いた。
「カルロス・ベレスフォード。玉座を穢す国賊だ」
「過激な言い様だな。……、先王の兄だったんだろ?」
「先王の兄であることに、何の関係がある。罪のない先王の重臣を葬って、玉座を手にしようと好き勝手し始めた男だ」
 罪のある人間なら葬っても良いのかという考えが頭をよぎったが、それは今は関係のないことだ。
 それに、そのような問いに答えがないことは、希有にでも分かった。
 人の感情で振り翳す道理や正論など、尤もらしいことを言っても所詮は形無しだ。人の心が混じった時点で、道理や正論からかけ離れてしまうものであろう。それは愛や憎悪において、最も顕著になる。
「――あんたにも、恨みくらいあるんだな」
 ただ、シルヴィオが、そう言った負の感情を抱くことには純粋に驚いた。 この青年が人を恨み憎むことなど想像できない。彼には、そのような感情は似合わない。
「俺をどんな人間だと思っている。恨みくらいある。あの男のしたことは、赦せるものではない」
 血が滴るほど強く手を握りしめて、シルヴィオは言う。ただならぬ様子に、彼が心の底からカルロスを恨み憎んでいることを知る。
 人の感情は面倒だ。強い思いは、それだけ希有の打算的な考えを狂わす。
 まして、シルヴィオのような人間は、尤も希有の苦手とする善人の部類だ。
「カルロスが動いたら、どんな事態になる?」
「現在、この城で一番の権力を誇るのはあの男だ。城内が混乱した今ならば、かなりの幅を利かせることができるだろう。――場合によっては、国軍さえも動かせるかもしれない」
 国軍という言葉に、オルタンシアの家に詰めかけた男たちの姿が希有の脳裏を過る。
「動かせる、じゃなくて……、もう、動かしているよ」
「……、なに?」
「わたしがオルタンシアの家で捕らえられた時、……国軍の人たちは、カルロスという名前も言っていた」
 カルロス・ベレスフォード。
 あの時、確かに国軍の者たちは、その名を口にしていたのだ。
 脳裏にまざまざと蘇る光景に、希有は顔を顰める。
 黒い軍服を纏った男たちは嫌いだ。彼らは命令を忠実にこなしただけなのだろうが、弁解の余地もなく牢獄に放り込まれた恨みは簡単には晴れない。
「だから、次は脱獄した死刑囚の捕獲に、国軍を動かすんじゃないかな。……、そうだとしたら、向こうもそれだけ必死なんだな。あんたを捕まえるために」
 希有だけならば、それほどまでに必死に捕まえる必要がない。
 そもそも、向こうも冤罪と知りながら罪を被せた可能性もあるのだ。小娘一人にできることなどたかが知れている上に、罪を被せる代わりなど向こうからしてみればいくらでもいる。
 カルロスにとっての問題は、シルヴィオだ。
「あんたがカルロス側の人間じゃないってのは、牢獄に入れられてたことと、監守の言葉で察しがついてた」
 シルヴィオがカルロスの味方であるならば、あのような牢に投獄されることはあり得ない。仮に、過去にシルヴィオがカルロスの仲間で、カルロスを裏切った裏切り者であるならば、わざわざシルヴィオを生かしておく必要がないのだ。シルヴィオがカルロスを裏切った時点で殺せばことは済む。
 即ち、彼が属するのは――。
「いるんだな。遺言の子息・・・・・
 次の王位を継承する、存在しないはずの王子だ。
「……確かに存在する。そのことをあの男は知った。いや、知っていたのだろうな。だからこそ、虎視眈々こしたんたんと機会を狙っていた」
「今がその機会だと思ったから、あんたを捕えたのか?」
「おそらく、な」
「遺言の子息が存在しているなら、カルロスにとっては最大の邪魔者になる。公爵家の嫁いだ王女はいい歳らしいし、女は王位を継ぐことができない。それなら、その子息が死ねば確実に王になれると?」
 カルロス・ベレスフォードがどのような人間かは知らないが、希有が彼の立場で王位に就きたいと願うのならば、まずは子息を排除する。
 王制をとっているのならば、王族の血を尊んでいるのだろう。
 極端な話、王族の血を引く者が一人しかいなくなれば、当然、その者が王となる。どんなに反発し認めたくなくとも、認めるしかなくなるのだ。
 ふと、疑問が浮かんだ。
「――なんで、カルロスは若い時に王になれなかったんだ? 普通は長子が王位を継ぐものじゃないのか?」
 カルロスは先王の兄だ。
 長子であるカルロスではなく、なぜ弟であった先王が王位を継いだのだろうか。
「本来ならば、部外者のお前に語るべきことではないのだろうが、……あの男には資格がなかったんだ」
「資格?」
 シルヴィオは静かに頷いた。
「長子で正妃の子だったが、リアノの王としての資格があの男にはなかった。その上、まだ王子だった頃に何か大きな失態をしたらしい。奴は、長年政務からも王からも遠ざけられていた」
「つまり、王としての資格もなく、過去に失態を犯したカルロスにとって、今回が人生最後の好機になると」
「老い先長くないからな。向こうもそれだけ本気なんだ」
 老い先長くないのであれば、カルロスの執念も凄まじいものなのだろう。
 そして、遺言の子息に繋がるシルヴィオが捕まっていた時点で、シルヴィオたちは劣勢だ。
「……シルヴィオの味方ってどれくらいいるんだ?」
「あまり、多勢ではないな」
 シルヴィオは言葉を濁す。多勢ではないという言葉の指し示すところは、ごく少数しか味方がないという意味なのだろう。
「使える人たちなの?」
「御し難いが、上手く使えば優秀な奴らだろう」
「その味方が助けに来てくれる可能性は?」
「ないな。情けないことだが、俺が牢獄に囚われていたことを知っていたのかも疑問だ」
 即答したシルヴィオに、希有は苦笑いを浮かべた。
 カルロス側は、王の崩御した城で幅を利かせることができる程度には多勢なのだ。
 遺言の子息側が少数でカルロス側と敵対しているのであれば、皆、互いに構っていられるような状況ではないのだろう。多勢のカルロス側に対するためには、馬車馬のように働かなければならないに違いない。
「……そうだよな。味方が助けに来るなら、あんたは牢になんか入れられてないだろうし、わたしと一緒に脱獄したりしない」
「その通りだな。――まあ、多勢ではないとはいえ、外に出ることさえできればどうにでもなる。拠点の一つが城下町にあるからな」
「……、そこまで行けば、ひとまずは安全だと」
「ああ。お前が何を悩んでいるのか知らないが、多少の荒技ならこなそう。武器もある、相手を傷つけずとも脅しと威嚇くらいならば、そう難しくはない」
 そう言って腰の剣に手を当てたシルヴィオは、おそらく危機に瀕すれば人を殺すことも厭わないのだろう。
 現に、彼は牢獄で一人殺している。
「あんたの剣の腕は認めるけど、流石に大人数で来られたら分が悪い。あと、あんたは助かってもわたしが死ぬ」
 いくらシルヴィオが強かろうと、数には勝れないだろう。
 一対多人数の場合に、何かを守って生き残れる確率は限りなく低いはずだ
 ――、何より、シルヴィオが希有を守ってくれる保障など何処にもないのだ。
 シルヴィオを全面的に信じることは、希有にはできない。いくらお人好しに見えても、彼は矛盾しているのだ。牢にいる時は逃げださずにいてくれたとはいえ、これからもそうとは限らない。
 この先、彼が何の躊躇いもなく希有を置いて逃げる可能性は、十分にある。
 裏切られる可能性が多分にあるというのに、彼の武力を使う勇気は希有にはなかった。
「……それもそうだな」
 真面目な顔をして黙ったシルヴィオに、希有は内心溜息をついた。
 一貫していないというのに、自然と人の良い言葉を吐くから、彼は扱い辛いのだ。
「……、お人好し」
 城で道を知らずに困っているのは希有だ。
 シルヴィオは、城内をある程度把握しているのだ。彼一人の方がよほど動きやすいだろう。
 現実的に考えてみると、シルヴィオ一人ならば、今頃城門の外へと逃げ果せている姿が容易に想像できる。
 彼がその事実に気づいているのかは知らないが、気づいた上で希有と行動を共にしているのならば、かなりの莫迦だ。
 邪気がなく、何もかもを信じて誠意を掲げて生きている人間を見ると、希有はどうしようもなく遣る瀬無さを覚える。
 生きる上で、それは利点でも美点でもなく、むしろ欠点だ。その綺麗さで敬い羨ましがられても、何の益になるというのか。
 ――、また、彼は容易く人を殺せるというのに、どうして、そこまで他人に心を砕けるのか理解できない。
 理解できないからこそ、シルヴィオのような人間は、少しだけ怖い。彼のような人間は、何を考えているのか希有には分からない。
「……何か言ったか?」
「別に……、ちょっと考えてただけだ。二人で逃げる方法を」
「そうか、俺も考えよう」
 優しい人間は苦手だ。
 希有の言葉に紛れた毒を平気で飲み干してしまう。
 希有がシルヴィオを卑怯な言葉で縛りつけようとしていることに、彼は気づいていないのだろうか。
 シルヴィオに一人で逃げられれば、希有は確実に命を落とす。だからこそ、彼がカルロスに狙われている立場だとしても、希有はシルヴィオを手放すことができない。
 希有には、頼るべきものが何一つない。
 身一つで招かれた世界で、何一つ利用せずに生きることなど、どうしてできるというのだ。
 胸の奥に棘がある。それは、おそらく罪悪感と呼ばれるものだ。
 今さら、悔いたところで栓などないことは承知している。罪悪感を抱くなど、甘えている証拠だ。
 ――、自分は何を利用して、騙して、踏み躙ったとしても生きると決めた。
 ただ生を営むだけの、希有のような生きた屍を、優しかったあの子はきっと望まないだろう。
 それでも、勝手な自己満足だったとしても、あの子を殺したこの命、易々と手放して赦されるものではない。
 生存は絶望的で、遺体も見つからなかったあの子の代わりに、希有は生きなくてはならない。それが、どれほど高慢な考えでも、構わない。
 目前の男を利用することを、厭ってなどいられない。
 希有は、窓の外に視線を移す。
「……、馬車?」
 城門の向こう、おそらく城下町の方からだろう。数十台の馬車がゆっくりとした動きで城へと向かっている。
 当然のこと過ぎて見落としていたが、ここは大人数の者が暮らしている。
 まさか、城で食物や物資の全て賄っているわけではないだろう。必ず、それらの供給が必要になる。
「馬車がどうかしたのか?」
 希有の視線の先を見ようと、シルヴィオが体を乗り出してくる。
「……、あの馬車は、何?」
「食物の供給のための馬車だろうな。謁見に来る貴族は、今はいないだろうし……、使用人たちの食物は城下町経由となるから、そこを止めるわけにはいかない」
「――詳しいんだな」
「俺は幅広く学んでいたからな」
「農業を……?」
 彼が泥や土に塗れて畑仕事をしている姿は、残念ながら思い浮ばない。書物に埋もれて過ごしている方が、よほど想像しやすい。
「違う。流通関係だ」
「流通って……、シルヴィオは、そういう家の人間なのか?」
 流通について学ぶ家など、まず一般庶民ではありえない。
 シルヴィオが学んでいたということは、彼はそのようなことを専門にしている家で育ったか、学ぶ必要があるかのどちらかだ。
「そういった知識にも重きが置かれる家で育った」
 シルヴィオは、幅広く様々なことを学んでいたらしい。多くを学ばされるということは、やはり、彼は裕福な家で育ったのかもしれない。
「……確かに、城では毎日のように物資の供給が行われている。お前は、それに紛れて城外に出ることができるか考えているのか?」
「……まあ、それができたら楽かな、とは思ってた」
「それほど城は甘くはない。危険物を持ち込まれたら堪ったものではないし、また、城の物を城外に持ち出されたら困るからな。出入りに関しては、厳重過ぎる規制と検査がある」
「ああ、リアノは臆病者の集まる国って、言ってたよな。……無理か」
「無理だな。あまりにも成功率が低い。わざわざ使用人の格好に着替えたのならば、無難に城門を目指したほうがいいだろう。城門を使用人が出るのは不自然だが、付近までなら近寄っても怪しまれない。あとは運だな」
「わたしは、運なんて希望的観測が嫌いなんだが」
 最後の詰めが甘くて痛い目を見るのは避けたい。
 ある程度の予定は立てていなければ、何事も円滑にはいかない。
 ほとんどのことに対して懐疑的な希有にとって、何も分からない状態で進むこと自体が恐ろしくて堪らない。
「俺は捕まるのは御免だ。他に何か手はあるのか?」
 眉間にしわを寄せて不機嫌そうに訪ねてくるシルヴィオに、希有は言葉を詰まらせた。
 シルヴィオも、遺言の子息のために必死なのだ。
「手なんてない。あんたが言ったとおりに、地道に庭に出て塔に戻るを繰り返して門を目指そう。この格好なら多少の危険もこなせるようだし」
「……多少の危険をこなせるだろうが、お前の髪色はひどく目立つ。あまり過度な期待はするな」
 希有の黒髪を指差すシルヴィオに、希有は訝しげな視線を送った。
「……どう考えても、あんたの髪の方が目立つと思うんだが」
「俺の髪も目立つかもしれないが、誰も気に留めはしない。珍しい色ではあるが、それだけだ。お前のような漆黒とは違って、祝福されているものではないからな」
「祝福?」
「分からないのならば、それでいい。ひとまず、城門の近くまで行って、それから様子を見よう。城の内部もだいぶ混乱しているだろうから、何が起こるか分かったものではないしな」
「物騒だな、本当」
 希有が肩を竦めれば、シルヴィオは同意するように首を振った。
 もう数時間も経てば、不気味な夜の明るさではなく、清々しい朝の光が舞い込んでくるだろう。
 夜が明けるのは、そう遠くない。