farCe*Clown

第二幕 逃げ人 13

 下働きたちの居住区の塔を足早に下り、緑の茂る庭園に出る。
 白んだ空は、既に朝を告げ始めていた。
 庭園を見渡すと、朝露に濡れた葉は青々しく、わずかに花を咲かせ、蕾のついた木々は春の訪れを感じさせた。
 だが、目に映る作り物めいた庭園には不気味さを覚える。似たような背格好をした木々や垣は、何も知らずに迷い込んでしまえば迷路にしか思えないだろう。
 人の手で象られたこの場所は、道を把握していなければ危険なのだ。
 吹き抜けるような風に、希有は身を震わした。
「寒い」
 肌を刺すような冷たさが、血の気のない頬を撫ぜる。疲弊しきった身体に、この風は辛い。
「……今は、春だぞ」
 希有の纏う服と厚さはそう変わらないはずだが、シルヴィオは寒さなど微塵も感じていないようだった。
「春でも、寒いものは寒い」
「まあ、早朝だからな。お前は相当無理をしているだろうし、……仕方ないのかもしれない」
 彼が言わんとするように、この差は単純な体力の問題かもしれない。
「あんたは元気そうだな」
 丸一日は睡眠を取っていないというのに、シルヴィオからはまったく疲れが見えない。牢で体調を崩した分は全快していたらしく、希有よりもよほど元気そうだった。
「牢で随分と休んだからな。それに、身体はそれなりに鍛えていたんだ。体調が悪くなければ一日寝なかった程度で動けなくなったりはしない」
 それなりに、と言ったのは、謙遜だろう。あれほどの肉刺を掌に作るのに、どれほどの努力を重ねたかは想像に難くない。元々の才能もあったのだろうが、あの剣の扱い方は努力によるものも大きいのだろう。
 毎日必死に鍛錬していたに違いない。
「……、人があまりいない内に、できるだけ遠くまで歩こう」
 歩きだしたシルヴィオに続くように、希有は小さい声で呟いた。
「塔が多い城」
 今まで、彼の案内の通りに何度か渡り廊下を通ってきたが、その度に見える同じ造りをした塔の多さには、驚きを通り越して呆れた。
 数が多いだけではなく、建てられている位置も計算されているようなのだ。今まで見てきたところ、どの場所から見ても、必ず塔の位置や本数が違って見えた。
「リアノは、臆病な国だ」
「臆病?」
「逃げることと隠れることにおいては、右に出る国はない」
「……堂々と自慢すること?」
 言い切ったシルヴィオに、希有は訝しげな目を向ける。
 逃走と隠蔽は、様々な面から考えても重要なことではある。だが、あまり褒められたことではないのが世間での定評だったはずだ。
 堂々とそれを謳うのは、いかがなものなのだろうか。
 シルヴィオは希有の視線に気づいたのか、軽く肩を竦めて続けた。
「逃げも隠れもするが、道がなくなくなれば死ぬ。それがリアノの誇りだ」
 シルヴィオの言葉を何とか理解しようとしながら、希有は首をひねった。
「――潔いのか、そうでないのか分からない誇りだな」
 生きるために逃げ隠れもするが、打ち止めになれば死を選ぶ。
 相手にびることのない死に様は潔いかもしれないが、逃げ隠れする時点で臆病者と後ろ指をさされることになる。
 希有は嫌いではないが、あまり敬われるような国の在り方ではないような気がした。
「あ……、牢での自害の話は、そういうことか」
 自害がリアノの誇りに反するという意味が、漸く理解できた。
 足掻けるところまで足掻いて死ぬという言葉の真意。

 つまるところ、――自分以外の存在に殺されるということだ。

 それは他者、事故、天災、病、それこそ世界・・でも構わないのだろう。
 自分以外からもたらされた死ならば、それはリアノの誇りに反しない。
 自ら道を絶つことこそ、リアノで最も嫌煙される死に方なのだ。故に、リアノに住まう者は、自殺を選ばない。
 希有の行動の方が、この国にとっては異常だったのだ。
「死は、あくまで自分以外の存在から与えられるものでなくてはならない。それが臆病なリアノの誇りだ」
 どのような窮地に立たされたとしても、道が見える限りは、リアノの民は自害を選ばない。
 そのようなことを考えて実行しかけたのは、希有が異界の人間だからなのだろう。
「昔からそういう性質を持った国だ。それ故の塔の多さと、入り組んだ城の作りだ。国の歴史と共に、城も姿を変えている」
「逃げ隠れするためなら労力を惜しまないわけか。これだけの城なら、管理も大変だろうに……」
「その通りだ。管理が行き届いていないため、使っていない塔も多くある」
「――変な、国」
 だが、悪くないと思った。
 生にしがみ付く姿は、見苦しいかもしれない。それでも、諦めずに生きようとする意志は、希有にしては珍しく素直に好感を持つことができた。
「……シルヴィオ?」
 突然、足を止めたシルヴィオの名を呼ぶ。
「っ……、静かにしろ!」
 突如、シルヴィオが希有の口を手で覆った。口元を大きな手に包まれて、希有は、一瞬だけ呼吸を忘れた。
 彼は凄まじい速度で、希有を連れて近くの垣に屈むように入り込む。青々とした木々が生い茂る、一際大きな垣だ。
 葉や枝が皮膚を刺して、僅かな痛みが走る。
「いっ……!」
 希有が目を白黒にさせているのを余所に、シルヴィオは強引に希有の身体を屈ませた。
 希有が文句を言うために顔を上げると、彼は目を細めて垣の隙間から外を伺っていた。
 いつになく真剣な表情に、希有に緊張が走る。
 今も塞がれている口に息苦しさを覚えながらも、希有はシルヴィオの視線を辿った。
 彼が何も語らないのならば、周囲を見て状況を判断する他にはない。
 シルヴィオの視線の先にいたのは、軍人だった。
 黒地に白い線の入った軍服を身に纏った年若い男たちが、庭園を歩きまわっている。彼らの間には笑みもこぼれており、切羽詰まったような様子は見えない。
 だが、腰に差してあるのは、一振りの剣だ。おそらく、監守から奪った剣よりも立派なものだろう。
 額に汗が滲む。害されるかもしれないことを考えると、身体が萎縮した。
 もしも、隠れているところが見つかってしまった場合、荒事はシルヴィオに任せるしかない。
 希有は、自らの運動神経のなさを自覚している。
 肉弾戦の場合は一溜りもない上、頭脳戦でもあまり役には立たない。策略と呼ばれるような立派なものを立てられる頭もなければ、先を見通す眼も希有にはない。
 漠然とした恐怖に苛まれて最悪の未来を思い描きながらも、それを回避するために必死で頭を回転させた。
 導き出した答えは、実に情けないものだった。
 希有は少し怯えるような素振りを見せながら、シルヴィオの袖を握った。
 そして、そっと目を伏せる。
 握られた袖に驚いたのか、シルヴィオは目を見開いた。だが、彼はすぐに希有に笑顔を向けた。
「……平気だ、心配するな」
 希有を安心させるために、シルヴィオは希有の頭を撫でる。柔らかな声は、泣きだした子どもを宥めるような、優しいものだった。
 希有は、優しい好意に目線で応え、静かに身を委ねた。
「ありがと」
 希有が彼の袖を握ったのは、シルヴィオが考えている理由とは、おそらく違う。
 単に、シルヴィオを逃がさないためだ。
 彼にとっては幸か不幸か、シルヴィオはそのことに気づいていないのだろう。
 少しくらい疑ってもおかしくないというのに、彼は疑うことさえしないらしい。
「……、行ったみたいだな」
 暫くして、シルヴィオは希有を解放した。
 垣の外には、既に軍人の姿は見当たらない。
「……、カルロスは、表立って軍を動かしてはいないようだな。先ほどの軍人はただの見回りだろう。私兵を使っているのか……?」
 首を傾げたシルヴィオに、小さく息をついた後に希有は言った。
「そのことだけど……、考えてみれば、今この城で一番の権力を持っていたとしても、易々と軍は動かせないと思う」
 国軍とは、文字通り国のための軍で私的に使えるものではない。
 何より、先王の遺言を考慮するならば、カルロスに対して反発を抱いている人間は、王城の中には存在するはずだ。その連中の目が在る中、あからさまに私的に見える形で軍を動かすのは、得策とは言えないだろう。
「だいたい、これから王位に就く野望を抱いているのに、死刑囚を逃がしたとなれば印象が悪い。監守も自分の手の者に無理やり代えていたと思うし、良くわかんないけど、……他にもいくらでも角が立ちそう」
「……そうかもしれないな。軍が動いていない分、幸いと言うべきか。だが、カルロスの私兵も随分と大きい。油断はできない」
「前の王様も良くそんなこと赦したな。自分の立場を脅かすかもしれないお兄さんに武力を持たせるなんて。リアノは臆病な国で、王族は特にそれが顕著じゃなかったのか?」
「……先王は慈悲深い御人だった。他の王族に比べたら、その分警戒心も薄かったと言えるだろう」
「……あんまり為政者には向いてなかったのか」
「そうだな。だが、民から慕われる優しい方だったらしい」
 先王は慈悲深い分、民にも人気があったのだろう。
 そうでなければ、存在を知らされていなかった子息に王位を継がせるという遺言を、民が受け入れられるはずもない。
 ただ、希有としては、兄の始末くらいはつけてから死んでほしかった。慈悲深い故のことだったのかもしれないが、希有たちにとっては堪ったものではない。
 希有が肩を落としていると、シルヴィオが考え込むように希有を見ていた。
「……、何?」
「すまない。顔に傷がついてしまったと思って……」
 シルヴィオは希有の頬に触れて、薄らと滲んでいた血を拭った。先ほど垣根に入った際、枝か葉で切ってしまったのだろう。
 心底申し訳なさそうに謝るシルヴィオに、希有は面食らって苦笑する。
「大したことじゃないから、別にいい。あそこで見つかるよりは、よほどマシだ」
 多少の痛みはあるが、気にするほどのものではない。
「だが、仮にも女が顔に傷を付けるなど……」
「仮にもって失礼だな。これくらいの傷、すぐに治る。……、それに、わたしの顔なんかより、あんたの顔に傷が付く方が大事おおごとだからな」
「大事ではないだろう」
「大事だよ。女の私より、ずっと綺麗な顔をしているんだから」
「……お前は、頻繁ひんぱんに自分を卑下するのだな」
「悪かったな。……わたしは後ろ向きくらいがちょうどいい。褒められるとすぐに調子に乗る人間だから」
「キユは、祝福・・されている。もっと自信を持てばいい」
 シルヴィオは柔らかな微笑を携えて、希有の長い髪を手に取った。長い間洗髪ができなかったために、脂ぎって指通りの悪くなった髪だ。
 そのまま、彼は躊躇うことなく希有の髪に薄い唇で口づけた。
 絵にかいたように美しく様になる姿に、惚けたように口がふさがらない。 汚いから止めろという言葉さえも言えずに、希有は茫然と彼の行動を容認してしまった。
「この髪も」
 彼の不思議な色合いの瞳が、希有の黒瞳と重なった。
「その瞳も」
 白く透き通る肌をわずかに赤く染めて、彼は言う。

「リアノの愛する闇の色だ」

 愛の告白さながらの、甘美な響きを持つ台詞だった。
 それが、希有自身に向けられたものではないことは分かっている。しかし、顔を伏せずにはいられなかった。
「…………、なに、その恥ずかしい、言葉」
 何とか声を絞り出した希有に、シルヴィオは真剣な眼差しを向ける。
「真実だ。闇色は尊い、闇色は祝福の色なのだから」
 特別だと、言われたような錯覚がして、目眩がした。自惚れてはいけないというのに、目の奥が少しだけ熱い。
「こんな色、たくさんいる」
 シルヴィオが首を振った。
「リアノで黒を宿した者は、異界の者たちだけだった」
 希有は、目を見開く。
 シルヴィオの言葉の意味することは、一つしかない。
「わたし以外にも、盗まれた人がいるのか?」
「そうでなくては、お前が異界の者だとは分からないだろう。記録に残っている彼らの血筋は、二十年ほど前に途絶えているが、……確かに異界の血を継ぐ者が存在していた」
「…………、そっか」
「落胆したか?」
「少しだけ、ね。変な仲間意識は持つべきじゃないのかもしれないけど、同じ身の上の人がいるっていうだけで、少しは気力が湧くものだから」
「……俺にはよく分からないが、お前がそう言うのであれば、きっとそうなのだろう」
「彼らってことは、その人たちは、少なくとも一人で盗まれたわけじゃなかったってこと?」
「記録によると、数十人いたらしい。その中の一人の女性を宗主として、滅びを迎えるまで貴族として暮らしていた」
「恵まれてたんだな」
「お前の運が悪かっただけだろう。国がここまで混乱していなければ、間違ってもお前がこんな扱いを受けることはない」
「……慰めにもならない言葉を、ありがと」
「確かに、慰めにもならないな。もしも、なんて想像には何の意味もない。どれほど辛くても、目の前を見据えていかなければ、何もかもが終わってしまう。思うだけでは、何一つ変わらないのが現実だ」
 まるで、希有に言い聞かせるような声音だった。
 希有が、未だにこの世界を受け入れられないでいることを、シルヴィオは感覚的に察しているのだろう。
「できることなら、こんな現実、夢だって思いたいよ」
 今でも、夢であったならばと思ってしまう。
 逃避してしまえば楽になれることを、本能は知っているのだ。
「お前にとって、今は辛いか?」
 希有は小さく頷いた。
「……ずっと昔に、戻りたいよ」
 現実が辛くなったのは、何もこの世界に招かれてからの話ではない。昔に戻りたいのは、過去の希有の隣にはあの子がいるからだ。
 たった一人の半身が存在していた頃まで、希有は遡りたいのだ。
 漏れた本音に、シルヴィオは悲しげな顔をする。
「――そうか」
 彼は何も言わずに、希有の手を取った。
「だが、辛くても怖くても、これが現実だ。記憶に縋りついても、何一つ変わりはしない」
 温かで幸せだった頃を思い出して浸っても、過去に戻ることはできない。
 消えたあの子が戻らないように、希有の日々も永遠に巻き戻ることはない。
「…………、うん」
 過去に縋りついたところで、現実も未来も何一つ変わりはしない。
 過去を変えることはできないのだから、いつまでも後ろを向いて泣いているわけにはいかない。
「今は苦しくとも、前に進まなければならない」
 彼は、希有に言い聞かせるように何度もその言葉を口にするのだろう。
 逃げるだけでは何一つ現実を変えることができないというのに、希有は逃避を選びたくて堪らない。現実を受け入れることを拒否するように、選んではいけない道に手を伸ばしかけている。
 そのような弱い心に、きっと彼は気づいている。
「……うん」
「生きるのだろう」
 シルヴィオは希有の手を引いて、再び歩きだした。
 泣きたくなるような胸の痛みを覚えながら、ぼんやりと思う。

 彼の背中は、こんなにも頼りになるようなものだっただろうか。