farCe*Clown
第二幕 逃げ人 14
人気の消えた塔内に入るころには、既に外は闇に包まれていた。
一体、今までにいくつの塔を通り過ぎてきたのだろうか。丸一日中歩き通した長い道のりに、心も身体も擦り減って限界だった。
「今夜はこの塔で休もう。流石に、二日連続で夜通し歩くのは辛いだろう?」
未だに幾分かの余裕があるシルヴィオは、気遣うように希有に声をかけた。ただでさえ薄着にもかかわらず、彼は上着を脱いで床に敷いた。
「少しは暖が取れる」
「え?」
「俺は冷たい床で寝ようが平気だが、お前は止めた方がいい。体調もあまり良くないのだから、できる限り暖かくして寝るべきだ」
上着を敷いた床を手で叩いて、彼は希有を見た。
「……、わたしに?」
「他に誰がいるんだ、おかしな奴だな」
「シルヴィオが使えばいい。あんたが寒い思いをしてまで、わたしに気を遣う必要はない」
「面倒な奴だな、他人の好意は素直に受け取れ。俺は逆に暑いくらいなんだ」
日中よりもずっと冷え込む夜だというのに、彼はわざとらしく肩を竦めた。
「風邪引くだろ。牢の時みたいに」
「あれは仕方がなかっただけだ。普段は風邪など引かない。いいから、さっさと寝ろ」
シルヴィオは希有の手を無理やり掴み強引に横にした。
「……っ、何して」
「子どもは黙って大人の言うことを聞いてくれ。お前に気を遣われたら、情けない」
子ども扱いするように希有の頭を撫で、シルヴィオは少し離れた場所へと移動しようとする。
希有は、気付けば咄嗟にその腕を掴んでいた。
「……何のつもりだ?」
「えと……、シルヴィオも、一緒に使おう?」
シルヴィオが不可解そうに眉を下げるのを見ながら、希有は言った。
自分でも何を言っているのか良く分からなかったが、喋り出した唇は止まらなかった。
「わたし、そんなに身体大きくないから。背中合わせで横になれば、十分二人でも寝れる」
「俺は、仮にも女の近くで寝るような真似をする気はない」
当然のように断るシルヴィオに、希有は引かずに詰め寄る。
「あんたから見れば、わたしは子どもなんだろ。女に困っているような面じゃないし、隣で寝てたからって、あんたは何もしない」
「そういう問題ではないだろう」
深く溜息をつくシルヴィオに、希有は畳みかけるようにもう一言付け加えた。
「……大人のくせに、子どもの我儘も聞いてくれないのか?」
これが止めになったのだろう。
シルヴィオは軽く頭をかき乱して、もう一度溜息をついた。
「分かった、ここで寝よう。お前も早く休め」
彼は渋々と横になり、希有の背に自分の背中を合わせた。
そして、彼は一言も喋らなくなり、そう時が経たないうちに寝息が聞こえてきた。随分と早く眠りに就くものだ。
背中越しに、シルヴィオの温もりが伝わる。
これから、事態がどのように変わるか分からない今、床とは言え、ゆっくりと休める機会に恵まれたのだ。喜んで眠りに就くべきなのだろう。
しかし、瞳を閉じたころで意識は眠りへと落ちることはなかった。
何一つ信じることなどできない。
希有が眠りに落ちたのを最後に、彼が希有を置いて行くであろう未来が、ありありと脳内に浮かび上がるのだ。
この生が途絶える結末に繋がる未来を思えば、眠りに就くことなどできるはずもなかった。
明かりの消えた塔の中は、暗闇しか目に映すことができない。
何も見えない世界では、身じろぎすることさえも不安が募る。
胸元にあるネックレスを握りしめて、息をつく。
シルヴィオの心は、希有には分からない。
目に映るものさえも信じられない希有には、心などという不確かなものを信じることもできない。
シルヴィオを無理を言ってまで隣で寝かせたのも、彼を気遣っての行動ではない。彼が何処かに逃げることを防ぐためだ。
そうに違いない。
それ以外に、何があるというのだ。
★☆★☆★☆
闇に包まれていた空が明かりを取り戻し始め、暗闇が薄闇へ変わっていく。
眠気に小さく欠伸をし、希有は身体を起こして軽く伸びをする。疲弊している身体は重く、寝不足特有の吐き気のようなものもあった。
昨夜は一睡もすることができなかった。
しかし、城門までの道のりはまだ長い。
疲れた体に鞭を打ってでも、逃げ続けなければならない。城を出てからどうなるかなど分からないが、王城から逃れぬ限り、確実に死が待っている。
後ろで寝ころんでいるシルヴィオに目を向けると、彼は小さな寝息を立てていた。
「呑気な寝顔」
何の警戒もすることなく、一晩中、彼は眠っていたのだろうか。
胸元に手を伸ばせば、指が懐剣に触れる。彼はこの剣で希有に傷つけられるとは思わなかったのだろうか。
どのようなことを考えて、良く知りもしない人間の隣で安らかな寝顔を晒しているのか分からなかった。
彼がいなくなれば逃げることも儘ならないため、希有が彼を殺すことはないだろう。
だが、世の中に絶対などは存在しない。
人は簡単に心変わりする。自分のためならば、誰かを踏み躙ることも厭わない。
害される可能性があるならば、こうも安心しきることなどできないはずなのだ。
少なくとも、希有には不可能だ。
シルヴィオの白い額を指ではじいた。彼は軽く身じろぎをして声を上げる。
「……ん」
眠たげな眼が薄く開いて、透き通るような瞳が姿を現す。唸り声をあげながら、彼は焦点の合わない視線を希有に向けた。
「起きろ、シルヴィオ」
美しい顔には、眉間に寄せられた深い皺が驚くほど似合わない。
「……眠いのはわかるけど、もう朝になる。早く移動しないと」
使用人たちが働き始めるのも時間の問題だろう。
この塔は夜の間は完全に人がいなくなるようだが、朝になれば話は変わってくるはずだ。
彼の眠気も分かるが、早い時間から移動しておかなければ危険だ。
「――ん、分かっている」
一呼吸置いて、彼は仏頂面のまま身体を起こした。
シルヴィオは、ゆっくりと目を瞬かせてから小さく欠伸をする。その美貌のせいか、まるで人形が動いているようだった。
「……早く、移動するべきだな」
「さっきからそう言ってる。いつまで寝ぼけてるんだ」
噛み合わない会話に、希有は思わず頬を引きつらせる。
どうやら、シルヴィオは完全には目覚めていないらしい。寝不足の希有からしてみれば、殴りたいほど憎らしい。
「城門までそう遠くない場所まで来ることができた、あと一日と言ったところか」
少し舌足らずに喋る彼に、希有は溜息をついた。
「今さら、言うのも何だとは思うんだけどさ……、ずっと気になってたことがあるんだ」
「気になっていたこと? 何だ?」
漸く頭が冴えてきたのか、シルヴィオは今度はしっかりとした口調で聞き返してきた。
「……城門から出るって言ってたけど、他になんか抜け道とかないのか?」
考えてみれば、希有はオルタンシアの家から監獄塔に連行されるまでに、一日とかからなかったのだ。
それにも関らず、希有たちが監獄塔から出て、既に二日が経とうとしている。
「なんで、こんなにも時間がかかる城門から出る必要があるんだ。だいたい、考えてみれば城門から出るなんて一番難しい気がする」
城門など、一番警備が厚そうな場所だ。
その場所から出ようと考えている時点で、既に無謀なのではないだろうか。この道は、二日以上もかけて外に出る価値があるのだろうか。
不服な表情をしている希有に、シルヴィオは苦笑する。
「お前の考える抜け道とは、一瞬にして外に出られるとか、そういった類の物か?」
「一瞬にしては流石に無理だろうと思ってるけど、……もっと楽できる道はないのかと……」
道を教えてもらっている側である希有の身勝手な言動に、シルヴィオが怒ることはなかった。
平然とした顔で希有の質問に答える。
「確かに、キユの言うような抜け道は、あるにはある」
「え、本当にあるのか?」
思わぬ答えに希有が声を上げると、シルヴィオは頷いて渋い顔をした。
「だが、それらがあるのは城の奥深くだ。ついでに言えば、お前が監獄塔まで連行された道からも外には出られるが、あそこはひどく警備が厚いんだ」
「……、ふーん」
理由は言われずとも察することができた。
罪人を逃がさないようにするためが、一番の理由だろう。臆病と称されるリアノには他にも理由がありそうなものだが、今は考える必要はない。
「そこまで行く苦労を考えれば、時間をかけてでも、城の中で一番警備が手薄な城門から出た方がよほど楽だ。見つからぬままに数日経てば、城内ではなく城外に目を向け始めるだろうしな」
「城門の警備が一番手薄? 普通は逆じゃないのか?」
考えていたものと真逆のことを言われ、希有は首を捻る。
「……何度も言うが、リアノは臆病な国だ」
「うん、それは聞いたけど……、だから?」
「考えてみろ。臆病なリアノの城門から、易々と城の中心部まで入れると思うか?」
その言葉を理解して、希有は呆れて溜息をついた。
「――そこまで、徹底するのか」
彼の口ぶりから判断すると、城門から城の内部まで入り込むことは相当な困難になるのだろう。
思えば、城を囲うような垣も木も、塔と塔を何度も跨いで移動する入り組んだ道のりも、城門からの来客には優しくない造りだ。
シルヴィオが道を知っていたから助かったものの、希有独りでは間違いなく迷っていた。
「中途半端が最も危険だ。危険は徹底的に排除しなくてはならない」
希有の認識が甘かったらしい。
臆病。
病的なまでに、危険を臆する国が、リアノなのだ。
「城門は、城の内部――、王族がいるような場所には繋がっていない。それは、監獄塔も同じだな」
「……ちょっと待て。前に、馬車を見て、謁見に来る貴族がどうのこうのって言ってなかった? それも城門から入ってくるんだろ。どうやって王と謁見するんだ」
「謁見は代理の宰相が応対する。王は特別な行事など、滅多なことがない限りは、貴族とも顔を合わせない」
「……、は?」
「王が人前に出ることなど、ほとんどないに等しい。即位中に民が王の姿を見ることの方が珍しいだろう」
「……何、それ」
つまり、リアノの民は、誰が王なのか知らずに過ごしているのが当然だということだ。
「この国、大丈夫なの?」
それで、良く国を纏めることができたものだ。
呆れる希有に、シルヴィオは続ける。
「リアノの王に求められるのは、国を乱さずに治めることだけだ。王の姿など知らずとも、民は反発などしない」
「姿を見せずに、国を治めることなんてできるのか?」
「それが可能だからこそ、リアノの王なんだ」
「姿も見えないのに……、王を、慕うの?」
シルヴィオは、先王は民に慕われていたと言っていた。
姿を現すことのない王を慕うとは、どのような感覚なのだろうか。
絶対的な信頼を置くわけではない、臆病であるがゆえにリアノの民は王に絶対的な信頼を置くことはできない。
しかし、好ましく思い慕っているのは真実なのだ。
「姿も見えない王を慕うのは、不自然か?」
「……、少なくとも。わたしには、無理だ」
姿の見えない存在を、愛し慕うことなど、希有にはできない。
目に映るものさえも信じられないというのに、どうして見えない誰かを慕うことができるのだろうか。
「リアノ人にはそれができる。蜜腺がある故に臆病な、……この国の性だな」
小さく呟いて、彼は立ち上がる。
「……、とりあえず、この塔を出よう」
希有は一度頷いて、彼に続くように歩き始めた。
朝の澄んだ空気が寝不足の身体に入り込む。身体の重さは拭いきれないが、新鮮な空気が肺を満たし少しだけ楽になれた。
遠くから、人々の声が聞こえ始めてくる。眠っていた城全体が動き出したことを肌で感じながら、希有は陽光に目を細めた。
シルヴィオと希有は、今のところは、誰にも見つからずに済んでいる。
「……いきなり止まるなよ」
突如、足を止めたシルヴィオに、希有は文句を漏らす。
「あれを見ろ」
彼は希有の言葉を無視して、塔の内壁を指差した。
不機嫌な顔をそのままに、彼の指に誘われるがままに視線を上げると、立派な額縁に飾られた絵が数十枚も壁に並んでいた。
希有が黙り込むと、シルヴィオが説明を始めた。
「歴代の王たちだ」
立派な額縁、並べられたそれらは、すべて王の肖像画だった。
「民に王の姿など求められていないが、死してからは、王の姿は公開されることになっている。国のために命をかけてきた王たちに、民もそれなりの敬意は払う」
肖像画の中に閉じ込められた男たちは、一様に仄暗い茶髪に銀を溶かしたような瞳をしている。
皆、美丈夫と言っても過言ではないのは、遺伝なのだろうか。
「右端が先王だ」
右端を見れば、額縁の中には微笑みを携えた男がいる。六十を過ぎたばかりと言ったところだろうか。年相応の姿をしているが、随分と若々しい印象を受ける。
「優しそうな、人だな」
他に、形容するような言葉は浮かばなかった。ただ、ひたすらに、優しそうな印象ばかりを受ける笑みを浮かべている。
「そうだろう? 俺は直接は会ったことがないのだが、本当に優しい人だったらしい」
為政者としては、向かない人間だったとシルヴィオは言っていた。
それでも、民に顔を見せることもないというのに、民から慕われる王であったのだろう。
それほどに、価値ある人だった。
「……そのおかげで、リアノの王族でこれほどに長く生きられたのだろうな」
飾られた肖像画の王たちは、年若い青年の姿をしている。
その中で亡くなった先王だけが、口ひげを蓄え、額や眦に年月を感じさせる皺を刻んでいた。
リアノの王は、何が原因かは知らないが、基本的に早世なのかもしれない。
「――王である限り、いずれ己だけに嵩んでいく記憶に耐えられなくなる。国のために努力すればするほど、犯した罪の重さと、責められない痛みに苦悶する」
目を伏せた希有に、シルヴィオは寂しげに呟く。
「先王の治世が悪かったとは言わない。だが、この国は今腐りかけている。――力を持った王が必要なんだ」
「……それが、あの写真の茶髪の人?」
シルヴィオは苦笑した。
「どれほど愚かで滑稽な姿であろうとも、何食わぬ顔でそれを隠して生き続けることができる。そんな、王が必要なんだ」
「でも、……隠して取り繕ったところで、周囲は外面の奥の姿に、いずれ気づくよ。姿が見えなくとも、リアノの民は先王を慕った。それと同じような形で、正反対の感情を抱くかもしれない。先王の子息を憎むかもしれない」
どれほどに取り繕っても、周囲はいずれ本質に気付く。
何もかも欺き通すことは不可能だ。
張りぼてが倒れた瞬間に、――民は何思うのだろうか。
「知っている。だが、……紛い物の強さだろうとも、本物に見せてやる。それが俺の務めだ」
偽物でも構わないのだと、シルヴィオは言う。
本物に見合う働きをすれば、誰も気づきはしない。本物と偽物の違いなど、それに見合う力があれば関係ない。
希有は、同じようにになりたいと願っても、本物と同じ力などあるはずもなかったから無理だった。
だが、シルヴィオにならば、きっとそれができるのだ。
「それには、カルロスを王にするわけにはいかない。もう随分と老齢で、王としての資格を持たない男だ」
目を伏せて、シルヴィオは唸るように言った。
「成し遂げなければならない。誰に厭われようとも、この国には、資格を持つ王が必要なんだ」
「シルヴィオ……」
「裏切り者がいる」
彼の唇が、そっと囁く。
「カルロスに情報を流した内通者が……、こちら側にいるのだろう」
「シルヴィオが牢獄に入れられる破目に陥ったのは、……その裏切り者が原因?」
シルヴィオほどの剣の使い手が容易く捕まってしまったことが、希有には釈然としていなかった。
大人数で取りかかられたのかと考えていたが、どうやら違ったらしい。
彼の苦い表情は、何よりもの肯定だった。
「そう、なるな。尤も、……俺自身の迷いも原因の一つだったのだろう」
「迷い……、だから、牢であんなに投げやりだったのか」
牢獄での投げやりな態度は、捕らえられたことだけが理由ではなかった。
彼自身が、――己の在り方を迷っていたのだ。
「そんな不安そうな顔をするな。もう、迷いはなくなった。俺は、俺の道を行くことを決めたんだ」
軽く唇を噛んだ希有を見て、シルヴィオは首を振った。
「生まれや血によるものではない。――俺自身の意志で、進むんだ」
それは、胸が締め付けられるような、眩しさだった。
「シルヴィオは……、さ」
強いね、という言葉は、どうしても口にできなかった。
口にした瞬間に、シルヴィオとの距離が永遠に埋まらなくなるような気がしたのだ。
目まぐるしい速さで、彼が変わっていく。
希有は何一つ変われず、すべての現実を受け入れることもできないでいる。目の前のシルヴィオさえも信じられずにいる。
それなのに、シルヴィオは己の足で一歩一歩進んでいる。
「ごめん、……なんでもない」
この思いは羨望に似ていながら異なる、深く淀んだ嫉妬なのかもしれない。
勝手に憧れて、勝手に望んで、そのようなことは不毛だから止めることにしたはずだというのに。
ずっと昔から、欲しくて欲しくて堪らない何かがあった。
名前も分からないそれを、あの子もシルヴィオも持っているのだと思う。
それ故に、切なくなるのかもしれない。
シルヴィオといると、――まるであの子の隣にいるかのように、錯覚してしまう時がある。
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