farCe*Clown
第二幕 逃げ人 15
歩いても歩いても、何通りかの景色を繰り返すだけの庭園は、目に映るだけで気が滅入りそうだった。
もしかしたら、この庭園は、侵入者を迷わせる迷路の役割だけではなく、心を擦り減らす役割も請け負っているのかもしれない。
「あ、……」
周囲を見渡せば、随分と離れた場所に見覚えのある姿を見つける。
「……、どうかしたのか?」
「あの男の子……、監獄塔まで、わたしのことを連れて行った子だと思う」
近距離にいるわけではないため、絶対とは言えないが、あの姿はおそらくそうだろう。
監守と同じ制服に身を包み、腰には似合わない剣が差されている。しきりに辺りを見渡す少年の仕草の節々には、戸惑うような焦りが見えた。
シルヴィオは目を細めて、少年をじっと見つめる。
「わたしたちを、探しているのか?」
「仮にそうだとしても、捜索しているのは、あの子ども一人なのか?」
首を捻りながら、シルヴィオは眉をひそめた。
「いくら何でも、静かすぎる」
騒ぎ出すであろうカルロスの私兵と、今の今まで一度たりともすれ違っていない。そして、城が落ち着きすぎている点が、確かに不可解だった。
希有には常の城の状態など知る由もないが、死刑囚が逃げ出したのならば、もう少し騒いでもおかしくないだろう。
リアノが臆病な国であるのならば、それはなおさらのことのはずだ。
「……でも、今考えても仕方がないだろ。考えたところで、答えなんて出るわけないんだから」
そこまで考えて、希有は思考を振り払う。深く考えたところで、答えなど出ない質問だ。
そのようなことよりも、心身ともに擦り減らされるような日々から、早く解放されたい気持ちが強かった。
後一日歩けば出られることを思えば、心が急くことを抑えきれない。
言い捨てるような希有の言葉に、シルヴィオは渋い顔をする。
「……やけに、機嫌が悪いな」
「別に悪くない。どうでもいいだろ」
「言い返すことが肯定の証だろう。――焦る気持ちは分からなくもないが、焦ってしまえば碌なことにならない」
正論であるが故に、無性に苛々とした。
希有はこんなにも焦っているというのに、シルヴィオは余裕を持っている。
体調の悪い身体を必死で動かしているというのに、彼は元気な姿でいる。
その事実が、無性に癇に障った。
「大人ぶるなよ、苛々する」
希有より年上と言っても、シルヴィオは希有より三つか四つ上でしかないだろう。そんな彼に諭されることも、気に喰わなかった。
「……、子ども相手に大人ぶらない大人が、何処にいる」
不機嫌そうな顔で歩き出した希有に、シルヴィオは大きな溜息をついた。
☆★☆★
太陽を、これほど憎く思ったことはない。
少しの休憩は挟んでいるとはいえ、日の元を歩くだけでも疲弊した身体にとって辛かった。
歩くだけでも苦しいというのに、春とはいえ午後の日差しは余計に体力を奪う。
体に上手く力が入らないことをシルヴィオに気付かれぬように、彼よりも少しだけ前に出て歩くようにする。
額を滑る汗と、思うように動かない足がもどかしかった。
「っ、……?」
視界が揺れたのは、一瞬の出来事だった。
原因は分かっているため気にせずに歩こうとするが、思うように足が進まない。
真っ直ぐに立てなくなった身体が、地へと倒れこむように傾いていくことが、自分でも感じ取れた。
「……、やはりな」
まるでそれを見越していたかのように、彼は立っていられずにふらついた希有を抱きとめた。
熱に浮かされたように荒い息を繰り返す希有を支えながら、シルヴィオは呆れたように呟いた。
「様子がおかしいとは思っていたが……、今までの無理が祟ったな。どうせ、昨夜も寝てなかったのだろう?」
希有は薄く開いた瞳でシルヴィオを見上げる。
「……、平気」
いつまでも寄り掛かっているわけにはいかないと思い、腕を突っぱねようとするが、力は入らなかった。
「こんな時にまで嘘をつくな」
シルヴィオは素早く周囲を見渡すと、くたばる希有を抱き上げて茂みの中に姿を消した。
照りつけるような午後の太陽の元、庭園には多くの影がある。目立たないように庭園の端を歩いてきたとはいえ、そのままでいることは得策ではないと判断したのだろう。
木陰に希有を寝かせると、シルヴィオは渋い顔をして宥めるように口を開く。
「少し、休め」
「平気だって言ってるだろ」
シルヴィオの言葉を頑なに拒む希有に、彼は大きな溜息をついた。
「……何故、こんなになるまで何も言わなかった」
多分に呆れを含んだような声だった。
深く考えるまでもなく、ここまで体調が悪化する前に、シルヴィオに報告するべきだったのだろう。
そちら方が、今よりもずっと良い状況であったはずだ。
「……言えるわけ、ない」
だが、言えるはずがなかった。
既に荷物となっている希有が、彼の足を止めさせてまで、休みたいなどと頼むことはできない。
シルヴィオに足を止めさせて、悪いと思うからではない。
――その先に待ち構えているであろう未来を、恐れていたからだ。
「強情な奴だな……、とにかく、休むんだ」
希有を宥めるように言い聞かせるシルヴィオに、心の黒ずんだ部分が酷く疼くのを感じた
「――、そう」
喉元に迫り上げてくるものは、醜悪な感情。
「わたしがいなければ、あんたは楽に逃げられる」
言ってしまった後に、酷い言葉だと思った。
元々、癇癪を起こすと、自分の思い通りに感情を操作できなくなるきらいがあった。
心理的な面でも、希有はあの子に比べたら劣っていたのだ。少なくともあの子は、自分の心に振り乱して誰かに当たることはなかった。
希有は目を伏せて、自嘲するように喉を震わせる。
流れ始めた感情の波を止めることは、希有にはできなかった。
――、彼に置いて行かれることは、希有の死を意味する。
ずっと、それを恐れていた。
「……本気で言っているのか?」
「この状況で冗談なんか言えると思っているなら、あんたはお気楽でいいな。体調を崩した女なんて、お荷物なのは分かってる」
「どこまでも子どもらしくない奴だな。――何を不安に思っている」
シルヴィオは希有に怒ることなく、小さく呟いた。
それは、水面に波紋を投げかけるような、静かな侵略の始まりだった。
希有を見下ろす彼の視線は冷たく、自分の隅々までを見透かされているような気分になる。
「……不安? 不安になんか思っていない。いいよ、気にしないで、行けばいいじゃない。置いて行くのなら、はっきりそう言って、下手な誤魔化しなんてうんざり」
零れ落ちる言の葉はは、穢くて醜いもので、これこそが自分自身なのだと思い知らされる。
「変に期待させないでよ。そういうの……凄く痛いって、知ってる?」
与えられる言葉の影響力は、それを口にした本人には分からない。
何てことのない台詞として吐きだした言葉が、相手にとって時に大切なものに変わり、時に酷く傷つくものになることは、それを口にした当人には分からない。
それなのに、昔の希有は、そのことを理解してなかった。
気まぐれで施された優しさを絶対のものだと勘違いして、甘えて依存して最後に泣きを見ていた。
「人間は、どんなに甘ったるい綺麗なだけの言葉も吐くのに、最後の瞬間には、……簡単に見捨てる」
その行動を、否定はしない。
それが希有を含めた人間であるのだと、既に諦めはついているつもりだ。
誰一人の例外なく、心の底から他者だけを思い命をかけられる人間など、いないに決まっている。
「……そうして自分の殻にこもることが、お前の逃げ道なのか」
春の光を帯びた若草の瞳が、希有を見下ろしていた。
「お前は、何かを信じることを、ひどく恐れているな」
その瞳から温かな色合いは消え失せて、希有の奥底を暴きだすかのような冴え冴えとした輝きを帯びる。
「それ故に、すべてを疑うことでしか自分を守れない」
頭を鈍器で殴られたかのような衝撃だった。
シルヴィオは、躊躇することなく、土足で希有の心を踏み荒らしていく。
「怖くて、怖くて堪らないのだな」
彼の薄い唇が開かれるたびに、希有は肩を震わした。
真実を口にされることが、どれほど痛いことか希有は知っている。
ひたすらに首を振って、喉から絞り出すように声を出す。
「……、違う」
それでも、彼の声は毒のように希有を侵していく。
「裏切られることを恐れるあまりに、信じることさえも棄ててしまった」
「……ちが、うっ……!」
シルヴィオの視線は、言葉は、ただ真っ直ぐに希有に注がれていた。
否定するように叫ぼうとも、その叫び声さえ見透かされている。
「お前は、見ていて可哀そうだ」
心底哀れむような彼の声が、希有の鼓膜を揺らした。
「憐れな子ども」
止めを刺すような追い打ちは、希有の胸を抉るように強く内側に響き渡る。反響するように、何度も心を切り裂くような痛みが体中を巡り続ける。
「……憐れみなんて、いらない」
真実を口にされることが痛い理由は、それは自分を暴かれることと同義だからだ。
取り繕っていた表情や言葉遣いの仮面を取り払われて、無防備のままに世界に晒《さら》されることは、堪らなく恥ずかしい。
どれほど自分が見るに堪えない存在か、己自身が一番良く知っている。
「疑うことの何が悪いの……? 信じられれないことの何が愚かなの? 裏切られて痛い思いをするなら、初めから何も信じなければいいでしょっ……!」
光を望まなければ、暗闇に堕ちて彷徨うことはない。
優しさから目を逸らせば、綺麗なものなど無視してしまえば、惨めになることもない。
希望を持たなければ、絶望を感じることはないと知っていた。
そうしてすべてに怯えて内に籠る希有こそが、最悪の臆病者で、卑怯者なのだと知っている。
「みんな、消えるくせに」
眩し過ぎる何かを求めるから、裏切りに心を痛める。
それならば、初めから何一つ見なければいい。
「要らないものだって、棄てるくせに……、中途半端に優しい言葉だけ、与えるの」
何度痛みを感じ苦しんでも、優しくされれば期待をした。
もしかしたら、希有の隣にいてくれるかもしれないと勘違いをした。
希有にも、大切にされたいと願う気持ちはあるのだ。
それでも、これ以上傷つくくらいならば、――期待や希望など、持たない方が良いに決まっている。
「大嫌いだよ。みんな、……みんな嫌い」
苦しいもの痛いのも、もう厭だ。
「……キユ」
「だから、何もいらない。信じたりしない」
手に入らないものを望んで、傷を増やすことは、不毛でしかない。
「だって、独りでだって」
――、どれほど、寂しくとも。
「生きていけるもの」
嘘だ。
独りでなんて、生きていけるはずがない。
「……ほら、行きなよ」
シルヴィオは、必要ならば切り捨てることができるはずだ。
希有を置いていくことくらい、シルヴィオにとって容易いはずだろう。
自嘲しながら見上げると、彼は眉間に皺を寄せていた。
「お前は、それで……」
彼は何かを口にしかけて、躊躇うように言葉を飲み込んだ。
額に手を当てて、まるで、迷子の子どものように戸惑いを露わにする。
彼にはきっと、分からない。分かってほしくない。
「……なんで、シルヴィオがそんな顔をするの」
希有の苦しみに同情して、彼が切なそうに顔を歪める必要などないのだ。希有の生き方を知っても、痛みや苦しみまでも分かろうとしなくていい。
シルヴィオに思ってもらえるような価値は、希有にはない。
「分からないんだ、キユ」
シルヴィオは、希有の手を握った。
振り払わなければならないというのに、その手を振り払うことができなかった。
「俺に泣いて良いと言ってくれた子どもが、……どうして、自分を泣かせてやれないのか」
彼の透けるように美しい瞳に、映し出された小さな影。それは、今にも泣き出しそうな顔をした子どもの姿だった。
「泣きたいのであれば、泣けばいい。全部流してから、前を向けばいいと教えてくれたのは、お前だ」
「……だって、もう、泣いた」
牢に入れられて、立ち向かい方も分からない現実に嘆き泣き続けた。そうすることで、前を向くことができるはずだと思っていた。泣くことで、自分を誤魔化して生きていくことができるはずだと思いたかった。
強くはなれなかったが、強くなりたかったのだ。
「だが、お前は前を向いていない。無理に無理を重ねて、ひたすら自分を追い詰めていくだけだ」
言われずとも、無理をしていることなど、とっくの昔から自覚していた。
望んで、この世界にいるわけではない。
望んで、こんな目に遭っているわけではない。
たとえ城から出たとしても、希有の未来はどうなるか分からない。城から出た後の希有の面倒を、シルヴィオが見てくれるとは思ってもいない。
現状に対する恐怖と、不確かな未来への不安は、ひたすらに募るばかりだった。
だが、どれほど恐怖し不安になり、すべてを憎んだとしても、彼が何度も口にしたように目前に横たわるものは何一つ変わらない。
それならば、無理して弱い自分を見ないふりをして、生きていくしかない。
前を向いたつもりでいても、前に進むことなどできていないことくらい分かっている。
口先ばかり立派で、内実を伴ったことなど一度もない。
答えはいつでも自分の中にあるなどと彼にほざきながら、本当の欲しい物、本当に望む物など知りもしない。
あの子を死に追いやっておきながら、愚かにも自分が死ぬことが怖かっただけなのだ。
黙り込んだ希有に、シルヴィオは小さく息をつく。
希有と視線を合わせるようにして、彼は問いかける。
「置いていかれることが怖いのか? 俺は何処にも行かない。お前を置いて行ったりしない」
シルヴィオの声は、耳に心地よい。
だが、彼を信じることは、希有にはできない。
「……、嘘なんて、つかなくていいよ」
「嘘ではない」
「わたし、シルヴィオが優しいこと、知ってるよ」
シルヴィオは、矛盾している。
それでも、彼の心は優しさを持ち合わせていることを希有は知っている。迷い惑う希有の手を引き、暖を与え、守るようにして導いてくれた。
彼の優しさは次の瞬間には逆転してしまうものかもしれないが、それでも、その優しさに助けられていたことは事実だった。
「でも、きっと、いなくなるから。――そんな嘘はいらない」
シルヴィオが希有を見を呈してまで助ける理由はない。
お荷物の女を連れて逃げられるほど自体は甘くはないことを、シルヴィオも知っているはずだ。
「……俺は、この手を離さない」
彼は空いている手で、希有の頭をそっと撫でた。
シルヴィオの長い睫毛が、その白磁の頬に影を落とす。
「そうすれば、……お前は泣いてくれるのだろうか」
切なげに細められた目の奥で、黒髪の幼子が泣き叫んでいる。訳も分からずに、胸が苦しくなるような思いだけが身体を駆け抜けた。
「無理やり前を向くため、強引にすべてを流すのではなく、――心から、泣いてくれるだろうか」
彼は、希有の弱さを責めない。
希有を否定することなく、ただ、すべてを見透かす。
真実を口にされるのは堪らなく痛いが、それでも、ありのままの希有を見つけて否定しないでくれることは、嬉しかった。
あの子の付属品ではない自分を見てもらえることは、こんなにも心が震える。シルヴィオの言葉が気まぐれなものだったとしても、喜ぶ心が確かにあった。
希有の頬を一筋の涙が滑り落ちた瞬間、シルヴィオは微笑んでくれた。
弱い面など見せれば、付け込まれてしまう。
強くなければ辛く痛い目にあう、それが世の摂理だ。
強者にも優しくない世界は、かと言って、弱者に対して優しいわけでもない。
この微笑みに心を揺らしても、未来は残酷なものに決まっている。
それなのに、希有はいつの間にか握られた手を胸に引き寄せていた。
喉の奥が痺れるような、胸の奥が痞えるような何かがあった。悲しみや喜びで表現するにはあまりにも複雑な思いは、どうしようもないほど希有をかき乱す。
あるはずがないことだ。
それでも、もしも、目が覚めて彼が傍に居てくれたら、それはとても素敵なことだと思う。
目覚めたときにこの目に映るものが絶望だとしても、今だけは、どうか――。
現実も未来も関係ない、優しい夢を見させてはくれないだろうか。
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