farCe*Clown

第二幕 逃げ人 16

 身を襲う肌寒さに、希有は静かに瞼を開けた。
「……、ん」
 周囲を確かめるように手を伸ばせば、繋がれていたはずの温もりは消え失せて、冷えた指先が震えていた。
 薄闇に包まれた庭園で、希有はただ、独り体を横たえていた。
 太陽の光に照らされていたはずの庭園は、すでに薄暗くなり、夜の帳を下ろそうとしている。
 眠りに就いた頃とは明らかに違う空の様子に、慌てて起き上がり周囲を見渡す。
 庭園には、軍人や使用人たちが歩きまわっていた賑わいは見る影もない。
 静寂の中、自らの呼吸の音だけがやけに大きく辺りに響いていた。
 桜色の彼《・》の姿は見当たらない。
 額に滲んだ汗を拭い、乾いた笑みばかりが湧きあがる。
 綺麗なものや美しいものは、世界には存在しない。それらすべては幻想であり錯覚でしかないのだ。
 奇跡など、起こりはしない。
 そのようなこと、――分かっていたはずだろう。
 ずっと傍にいるなんて戯言に心を傾けたのは、愚かな自分だ。
 信じて身勝手な期待をする度に、裏切られた気分になって傷ついてきた。希有は、何度同じ過ちを繰り返すのだろうか。
「……ばか、みたい」
 希有は、シルヴィオが一緒に逃げてくれる未来を、期待していたのだろう。
 彼ならば、希有をどこか遠くへ連れて行ってくれると思いたかったのかもしれない。
 結果は、語るまでもない。
 ――、見捨てるつもりならば、初めからそう言ってくれれば良かった。別れの言葉の一つさえあれば、遣る瀬無さや苦痛を押し込めて、諦めることができただろう。
 諦めるしかないのだと、言い聞かせていたはずだ。
「嘘なんて、いらなかったのに」
 優しい嘘など、嘘と知った瞬間、絶望に襲われるだけだ。
 その場凌ぎにしかならない優しさが、どれほど残酷なものか彼は知っていたのだろうか。
 骨に響くほど強く地面を叩いても、彼は戻ってこない。血が滲むほど拳を握っても、彼が姿を現すことはない。
 残された希有は、寒空の下、一人だ。
 寂しくて堪らない、独りのままだ。
「シルヴィオっ……」
 やり場のない怒りと失望と、胸に渦巻く感情を上手に消化することができない。
 どうすれば、あの子のように笑えるのだろうか。
 悲哀や憤怒を押し込めて、誰にも憎しみを向けることなく、綺麗に生きていけるのだろうか。
 そうすれば、希有もあの子のようになれたはずだ。
 あの子のようになれたらば、シルヴィオは傍にいてくれたのだろうか。
「……っ、なんで、……」
 こぼれ落ちそうな涙を堪えて、うずくまるようにして唇を噛みしめる。
 狂おしいほど眩しいものに手を伸ばしたところで、所詮しょせんは、届きはしない。繋がれた温もりなど、錯覚でしかない。
 その証拠に、希有の傍に彼はいない。
「傍に居るなんて、どうして、言ったの」
 叶えるつもりがないのならば、優しい言葉など要らなかった。
 心揺らされるほどの微笑みが、直に消えるものであるのならば、そのようなものは見たくなかった。
 夢は醒めるものだと、知っていたはずだ。
 醒めるものだからこそ優しさを孕んでいると、分かっていたはずだ。
「……、シルヴィオ……、シルヴィオっ……!」
 だが、希有が見たかったものは醒めない夢だったのだ。
 誰かが隣に居てくれるような、温かなものを望んでいた。
 叶うはずのない願いでも、その手の温もりが欲しかった。
 どれほど名を呼ぼうとも、声が枯れるまで叫んだとしても、再びその姿を目にすることはない。
 希有の声に応えてくれる人など――。

「……、キユ?」

「あ、……?」
 いつしか耳に馴染んでいた声に、希有は反射的に身体を振り向かせる。
 桜色の髪を夕風になびかせて、シルヴィオが佇んでいた。
「目が覚めたのか? すまない、待たせてしまったな」
 彼は申し訳なさそうに口を結んで、希有へと駆け寄ってくる。その腕には小さな籠が抱えられていた。
「少し使用人の厨房に忍び込んできた。具合が悪いとは言え、何か口にした方が良いだろう」
 彼が抱えていた籠の中には、食料と水の入った小さな瓶が入れられている。
 手に持っていた籠を地面に置いて、シルヴィオは屈み込み希有の額に手を当てた。
「熱はないな」
 春の光を浴びた若草の瞳に映る己を見つけたとき、希有は堪らず泣きたくなった。
「体調はどうだ? 苦しいところはあるか?」
 希有の汗ばんだ手を肉刺まめの潰れた大きな手が握りしめた。
 欲しくて堪らなかった、幻ではない温もりがそこにはあった。
「……っ、……」
 薄闇に浮かび上がる、白磁のように透き通る肌。
 空に浮かぶのは、月と星たちだ。宙高く昇り始めたそれらは、各々に明かりを喰らって輝きを放ち、夜の帳を下ろし始めている。
 僅かに残る太陽の残滓が必死な抵抗を繰り返す、宵の口。
 おそらく、城門は既に閉まっている。閉まっていなかったとしても、今から歩いたところで門に辿り着くころには夜は明けているはずだ。
 希有は喜びに湧く心を消してしまうように、繋がれた手を振り払った。
 そのままシルヴィオの肩を強く掴んで、彼に問いかける。
「どうして、……戻って、来たの?」
 縋りつくような体制での問いかけは、震えていた。
 肩を掴む手に、彼は不思議そうに自らの手を重ねる。
「病人を置いて何処に行く」
 まるでそれが当然であるかのように、シルヴィオは微笑んだ。薄汚れてもなお美しく、穢れのない純白の笑みだった。
「……、なんで、どうして……?」
 眼前に彼が居ることが信じられない。
 逃げ出したと思っていた、それこそが当然であるはずだった。
「こんなお荷物置いて、せっかく逃げられる機会だったのに! ……そのまま、逃げれば……」
 逆の立場であったならば、希有は逃げていただろう。
 それこそが、大多数の人間が取る行動のはずだ。
「置いて行ってほしかったのか?」
 首を傾げたシルヴィオに、胸を駆け抜ける焦燥を何処に吐き出せば良いのか分からない。
「違うっ……! だけど、何で、……なんでっ……」
 胸に怒りの種が燻ぶっている。置いて行かなかったことに対するものではない。彼が希有の傍にいることは、嬉しいに決まっている。
 だが、どうしても、理解することができなかった。
 シルヴィオの行動の真意が分からなくて、怖くて仕方がないのだ。彼が何を考えているのか分からないことが恐ろしくて堪らない。
 望んだものが目の前に現れたことに、漠然とした恐怖が生まれた。怖いから、怒りで誤魔化そうとしているのかもしれない。
「おかしいよ……変、だよ。どうして逃げなかったの」
 満足に動くこともできない病人など、居るだけで迷惑を被る。たかが会って数日の女ならば、面倒を見る義理もなく、なおさらだ。
 希有を置いて門まで進めば、シルヴィオは今頃外に出ることができていただろう。
 彼の目的は、――王を立てることだ。
「――この国には、強い王が必要なんでしょ? シルヴィオがやるべきことは、こんな女の世話をすることじゃない!」
 遺言の子息を即位させることが彼の悲願のはずだ。
 腐りかけているリアノを立て直すためには、資格を持つ王が必要だと彼は言った。
 彼の生きる意味は、そこにある。
 ロケットペンダントの中の、温かな写真の光景。希有と違って、彼には帰るべき場所があるのだ。
 舞い降りた好機を、シルヴィオは棒に振った。
「恩を返したいと思うことは、不自然なことか?」
 薄い唇で、彼はやはり綺麗事を謳う。
 ――、どうか、教えてほしい。
 ほんの少しの恩や義理で、世界の何が変わるというのか。
 何もかも疑う希有こそが愚かしいと、人は嗤うのだろう。
 そのようなこと、希有自身が一番分かっている。
 だが、目に見えない不確かなものを頼りに決断して、それを信じて生きていくことが正しいのだろうか。
「勝手に売られた恩なんて、……忘れちゃえばいいでしょ?」
 打算で売られた恩など、重んじる必要もない薄汚れた義理など、彼は棄ててしまうべきだった。
「自分の命に比べたら、他人の命なんて安いものだよ。……それが当然」
 それこそが、人間だ。
 他の誰を踏み躙り利用したとしても、何を狂わしたとしても、自分の命には代えられない。
 誰もが、死を恐れている。
 その恐怖から逃れるためならば、何であろうと縋りつき、どんなことにも手を染めるだろう。
 綺麗な面を被って日々を送っている。
 だが、自分の命が絡んだ瞬間に、どんなに凄惨な悲劇も平気な顔をして作り上げてしまう生き物が人間だ。
「わたしはっ、……人間は! 平気な顔して、他人を陥れて……、必要なら殺すことだってできる」
 シルヴィオは、監守を殺した。
 必要ならばそれも仕方ないと、麻痺した希有の心は罪悪感さえも軽くしてしまった。
 人を殺すことが、仕方ないで済まされることなどあってはならない。
 自分の命には代えられないと、割り切って生きていくことが正しいと誇ることなどできない。
 それでも、死ぬのは怖くて堪らないから、責めることも責められることも厭わしい。
 怖くて堪らない死から逃れられるならば、己が間違っていたとしても構わないと開き直る心がある。
 どれほどの罪悪感にさいなまれることになろうとも、生きるためならば仕方がないと囁く声がするのだ。
「……なのに、どうして、残ったの……?」
 目の前の青年が優しさを持ち合わせながらも、時によって非情になることができる人間だと希有は知っている。
「俺とて、自分が可愛い。生きるためなら平気な顔をして人を殺す。……お前の言うとおり、それが人間だ」
 彼の腰に差してある剣が、甲高い音を立てて鳴いた。
 彼にとっての人殺しは容易い、一瞬のうちに希有を斬り殺すこともできる。
 彼は、希有と違って強者なのだ。
「そして、俺はきっと罪悪感を抱くこともないだろう。必要ならば切り捨てることを厭わない。そのように育てられて、そのような素質を持っていた。俺は……、お前の言うように、おかしいから」
 自嘲するような笑みをこぼして、彼は傷ついたように目を伏せた。
「だが、――俺にとって、お前の命は捨てられるものではなかった」
 続いた言葉は、どこまでも矛盾したものだった。
「……、矛盾、してるよ。必要なら切り捨てられると言ったのはシルヴィオでしょ。わたしだけ例外のはずがない」
「だから、俺はおかしいのだろう。切り捨てることを厭わないはずなのに、お前の手を放してはいけないと思ってしまった」
 愛していると囁いた唇で次の瞬間には平気で裏切るように、救いたいと願った心で彼は容易く人を殺す。
「この娘の傍にいてやらなければならない、――傍にいてやりたいと」
 そうであるのに、必要ならば切り捨てられると言った唇で、彼は希有の傍に居るとささやくのだ。
 シルヴィオの片手が、希有の後頭部に回る。そのまま骨ばった肩口に顔を押し付けられた。
「嬉しかったんだ、キユ」
 耳元で、優しい声がする。
 この声が、次の瞬間には容易く覆るかもしれない危うさを持っていることを、希有は知っている。
 それなのに、どうして、希有は伝わる彼の鼓動に安堵しているのだろうか。
「牢でお前が与えてくれた言葉は、俺にとって何よりもかけがえのない大切なものになった」
 誰か、歯止めをかけてほしい。
 歯車が回ってしまう前に、希有を縛り付けてほしい。
「……、わたしが、シルヴィオを利用しようとしていたのに?」
 弱い心が、懺悔をしてしまう。
 罪悪感を抱くのも、利用することに心を痛めるのも、そのような資格が希有にあるはずもない。
 感情の吐露とろは、シルヴィオに赦されたいと願うからこそのものだった。
 紛れもなく、希有が彼を利用することに躊躇ためらいを覚え始めた証拠だった。
「わたしは、自分が弱いことを知っている。一人でなんか、逃げられるはずないって分かっていたんだ……」
 死が恐ろしかった、生き残るために助けてもらいたかった。
 希有には、一人で生きられる強さなどない。
「牢であんたの面倒を見たのだって、……全部見返りが欲しかっただけなんだよ?」
 そう遠くない昔の話だ。
 父が希有を見て、疲れたように呟いた言葉がある。
 離婚と共に愛すべき優秀な娘を元妻にとられ、彼の元に残ったのは愚鈍な片割れである希有だった。
 寄生虫・・・
 父の唇が皮肉った瞬間に、胸を締め付けたのは諦めだった。
 他者に依存して、利用して生きてきた。
 それ以外の生き方を見つけるには、あまりにもあの子の存在が大き過ぎて、手遅れだった。
 希有の宿主、希有の半身。
 ずっと依存して生きていた。あの子の傍にいるのは自分だけで、故にあの子に依存して利用することは悪くないのだと己を正当化していた。
 それが言い訳であることに、気づくことができなかった。
「こんなっ……、寄生虫みたいな人間……、助ける価値なんてない」
 矮小で愚鈍な存在であるというのに、他者の光輝こうきを浴びて同じであるように偽り続けた。
 宿主を喪った瞬間に、むき出しになるものは弱い心だけだったということを、どうして自覚することができなかったのか。
 本物をかたろうとした偽物を、周囲が受け入れるはずがない。
 本物の光を浴びれなくなった偽物は、いくら姿形が似ていようとも、ただの凡人だということを皆知っていた。
「キユ。――お前の価値は、お前が決めるものなのか?」
「え、……?」
「違うだろう。俺は、お前にならば利用されても構わないと思ったから、お前を置いて逃げなかった。俺にとってのお前が、価値ある者だったからだ」
「……、気づ、いてたの…………?」
 希有を見つめる瞳が、肯定の証だった。
 思えば、希有の心を見透かしたシルヴィオが、希有の考えに気付かないはずがないのだ。
 シルヴィオは、希有の魂胆を全て知りながらも共に行動することを選んだというのか。
「気づいていた、全部。お前みたいな子どもの魂胆くらい、見抜けなくてどうする」
「……気付いていたのに、一緒に……いたの?」
 シルヴィオの手が、希有の頭を小突く。
「それだけの言葉を、お前は俺にくれた」
「……ばか、だよ。あんな言葉くらいで、自分の命を危険に曝すなんて……! 人を殺すなんてっ……!」
 あの日の牢獄での遣り取りは、希有がシルヴィオに身勝手な自己投影をしただけだ。
 彼に言葉を与えることで、希有が少しでも楽になりたかっただけなのだ。意味のないことだと知りながらも、そうすることで希有が救われる気がしただけだ。
 そのような利己的な言葉を、彼は大切そうに語る。
「あの時、……泣いて良いと言われた時、まるで自分が生まれ変わったように感じたんだ」
 宝物を与えられた子どものように無邪気に、謳うように、その唇で。
「俺は、自分の意志で生きている」
 陰りの一つもない、眩し過ぎる声色だった。
「生まれや血は、俺を象るものとして決して軽いものではない。だが……、何も知らないキユの前でならば、俺は、ただのシルヴィオを見つけられる」
 希有の言葉が、誇りだと言わんばかりの態度だった。
「キユが、……俺を救ってくれた」
 胸がつかえて息ができない。
 切なさが襲いかかり、四年前からの希有のすべてを否定していく。
 この気持ちを何処に仕舞えばいいのか、分からない。
 綺麗な、生き物。
「――、ふぇっ……」
 綺麗な、綺麗な生き物が目の前にいる。
 希有と同じ罪人で、人殺しだ。肉刺の潰れたその手は、彼の罪深さを物語っている。
 どうして、人殺しが美しく在れるのだ。この男を美しいと思ってしまった己の心が、信じられなかった。
 決して正しくなどないというのに、確かな綺麗なものを携えて、陽だまりを浴びて微笑んでいられる人。
 間違っている、彼は正しくなどない。
 相反した二つの思いが、心の水面に波紋を広げていく。
「泣くな。どうすればいいか分からない」
 光も、優しさも、厭わしい。
 それらは、愛おしさと共に果てのない憎しみを抱かせる。憧れて手を伸ばしても、決して手に入らない眩しさは堪らなく痛い。
「――ごめん、ね。シルヴィオ」
 打算ばかり繰り返して、紡いだ言葉の中にどれ程の誠意があっただろうか。
 希有自身にさえも、それは分からない。
 しかし、そのような言葉が誰かにとって大切なものになることが、良いことであるとは思えなかった。
「……、ごめん、ね」
 今なら、素直に謝ることができる。
 そうして赦しを請うことが卑怯だと知っていても、謝らずにはいられないのだ。
 希有は、最低なことをした。
 シルヴィオが大切に思うのは、希有であってはならなかった。この先現れる、本当の意味で彼を愛し心配する存在でなくてはならなかった。
「――お願いだ。泣かないでくれ、謝らないでくれ」
 シルヴィオの固い指が、希有の涙を払う。
 母親が幼子にするような、柔らかな仕草だった。
 血に濡れているというのに、温かい手だった。
 優しい人。
 ――、希有には、勿体ない人だ。
「苦しい、辛い」
 悲しいことを悲しいと、苦しいことを苦しいと打ち明けることは、とても難しい。
 穢くて醜い己を誰かに打ち明けることは、こんなにも切ない。
 それでも、もしも、応えてくれるならば希有は縋りたい。
「どうすればいいか、分からなかった、……分からないの」
 目に映る現実を自覚するたびに、焦燥と恐怖が押し寄せてきた。
「いつだって、後悔ばかりしてる。悪いことだって分かってるのに、何度だって、……わたしは大事な人を傷つける」
 変わりたくとも、思うだけで終わる。
 心に降り積もった後悔を見つめるだけで、罰を受けている気になり、卑怯な自分を赦そうとする。
 少しずつ少しずつ、事実を感情で捻じ曲げる。そうすることで、自分を庇い続けて息をつく。
「それなのに……、わたしは、今もっ……」
 加害者のくせに、自分に酔って悲劇のヒロインになったつもりでいる。
 何もできないと決めつけて、何かするたびに人を傷つけて、――そうして残ったのは、惨めで醜い心だけだ。
「助けてほしいと……、願っているの」
 立ち止まったまま、通り過ぎる誰かが気にかけてくれるのを待っている。
 自《おの》ずから踏み出す一歩が恐ろしいから、相手が気にかけてくれることを待ち望んでいる。
 卑怯で臆病で、それを知りながらも立ち竦んだままでいる。
「……願うだけでは、何も変わらない」
 シルヴィオの凛とした声が、希有の鼓膜を揺らした。
「リアノの民は、祈りを捧げたところで、叶えてくれる存在などいないことを知っている。この国で暮らす限り、死は唐突に襲いかかり、呆気なく命を奪われることもある」
 リアノの民は、決して自害を選ばない。
 どれほどの危機に瀕することになろうとも、自ら命を絶つことを大罪とし、助かるためならば足掻くことを止めない。
 祈りを捧げたところで、叶えてくれる存在などいないことを知っている。
 ――彼らはきっと、ですら信じられないのだ。
「色濃く死を意識する度に、俺たちは臆病になっていった。――目の前にある現実が、常に幸福なものとは限らないことを知った。恐ろしくて堪らないものに、向き合わなければならない時があることに気付いた」
 現実は、常に幸福ではいられない。生きている限り、目を背けたくなるものに向き合わなければならない時がある。
 弱くて臆病で卑怯でも、前を見なければならない時は訪れるのだ。
 それは、誰にでも訪れる瞬間だ。
「だが、……それは、独りで立ち向かわなければならないものだろうか?」
 柔らかな声が、諭すようにつつめく。
「手を伸ばしてくれ、キユ」
 願うだけでは、思うだけでは、何も変えられない。
 足を踏み出さなければ、欲しいものなど手に入りはしない。
「お前がしてくれたように、救いあげてやれるかなど分からない。もしかしたら、共に堕ちていくだけかもしれないな」
 希有は、シルヴィオを救っていない。いつか彼を傷つけるであろう、最低な言葉を与えてしまっただけだ。
 だが、シルヴィオがとても綺麗に笑うから、――希有には、あの時の言葉を覆すことなどできないのだ。
「それでも構わないのならば、――俺は喜んで、お前の手を握ろう」
 希有は、臆病で卑怯だ。
 卑怯だと呟くことで、開き直っている。
 臆病だと思うことで、何もしないでいる。
 変わりたいと思うだけでは、何一つ変われないことなど誰にでも分かるというのに、未だに動けずにいる。
「わたしは、……誰を傷つけても、自分のことしか考えない」
 あの子を傷つけて、シルヴィオを傷つけたというのに、――身勝手にも、助けを求めた。
 頭の中にあるのは、常に自分にとっての利益だけだった。
「シルヴィオが優しくしてくれる度につけ上がって、シルヴィオを何度も傷つけるの。傷つけて傷つけて、加害者なのに被害者のふりをして、……ばかみたいに、何度も泣くよ」
 繋いだ手をそのままに、逃がさないように彼の胸に顔を埋める。
 シルヴィオは希有を拒むことなく、幼子をあやすように抱きしめてくれた。
 息ができないほどに、喉が震えた。
「でも、……ほんの少しずつでも、変わりたい」
 シルヴィオが歩を進め変わっていくように、希有も進んでいきたい。彼と同じ歩幅では無理でも、少しずつ歩いて行きたい。
「……、変わって、みせる、からっ……」
 本当の希有は、今シルヴィオに見せている姿よりも、ずっと卑怯で臆病だ。
 だが、いつか、シルヴィオの幻想を生きるような、彼を救った少女になれるだろうか。
 どれほどの時間がかかっても、その時隣にシルヴィオがいなくとも、彼の望む姿になれたならば、希有はきっと心から笑える。
「今だけでいいから、――傍にいて」
 繋がれた手は決して希有のものにはならない。彼が必要とされ、応えるべき人間は、希有ではないこの世界に生きている人たちだ。
 シルヴィオの在るべき居場所で、その人たちは彼を待っている。
 涙に濡れた瞳で、恐れるように顔をあげれば、彼は何も言わずに微笑んでくれた。
 これでは、再び寄生虫として宿主を探していることと何ら変わりはない。
「……ごめんね」
 だが、それさえも理解して彼が微笑んでくれると言うのならば、どれほど幸せなことであろうか。