farCe*Clown
幕間 幸福な夢 25
手に持っている本のページを捲りながら、希有は小さく欠伸をした。
窓から降り注ぐ麗らかな午後の陽気は、眠気を誘う。
手元にある本は、ほとんど読めない英語で書かれているため、内容の大部分が理解できない。
日本の高等学校の二年生で、英語で書かれた書物を容易く読める人間はあまりいないだろう。
まして、この世界の英語は、希有の世界で使われていたものと若干の違いがある。希有の時代には使われていない古い言い回しや、こちらの世界に来てから変わったと見受けられる文法など、どれも一筋縄ではいかない。
「……、読めない」
本をテーブルの上に置いて、希有は苦虫をつぶしたような顔をする。
侍女のミリセント曰く、短くて比較的簡単な表現ばかり遣われた物語らしいが、希有には難易度が高すぎた。おそらく、彼女が見繕ってくれた他の本も、同じような結果になるだろう。
それに、それらの本の中には、英語以外で書かれたものも混じっているのだ。文字を見る限りでは北欧系の言語のように思えたが、学のない希有には、何語で書かれているのか正確なことは分からない。
一応は勉強していたはずの英語でさえ、満足に扱えないのだ。他の言語など、読めるはずがない。
どうして、この世界が言語を統一しながら、文字を統一しなかったのかなど、考えたところで答えは出ないのだろう。
この世界は、気紛れだ。
すべての事象に理由を求めたところで、ほとんどはその一言に尽きる気がしてならない。
「お前、また、はしたない欠伸を……」
隣で同じように本を読んでいたシルヴィオが、呆れたように頬を引きつらせた。
希有は、うんざりしたようにシルヴィオに視線を遣る。
「欠伸くらいさせて」
「眠いのは分かるが、せめて、隠す努力をしろ。作法はミリセントから習っているはずだろう、少しは淑やかになっていると思っていたのだが……」
肩を竦めたシルヴィオに、希有は渋い顔をする。
「……、だって」
覚えはあまり良くないものの、着実にミリセントから作法は学んでいるつもりだ。
だが、シルヴィオの前にいると、習ったはずの作法が一気に吹き飛んでしまう。シルヴィオの隣ならば、希有はそういう面で取り繕う必要がない。以前、牢の中や逃走中に醜態を晒していたことを考えれば、当然だった。
そもそも、十七年間も庶民として過ごしていた希有に、身分の高い者の作法が簡単に身に付くはずがないのだ。必要だから、とシルヴィオに言われたから習っているに過ぎない。真面目には取り組んでいるつもりだが、良い生徒とは言えないだろう。
「まあ、息が詰まるのは分かる。俺以外の前で、しっかりとしているのならばいいだろう。口うるさく言えば、お前は反発しそうだ」
的を射たシルヴィオの指摘に、希有は拗ねたように視線を逸らす。
「言われなくても、ちゃんとしてる」
「……、お前は、分かりやすいな」
喉を震わしたシルヴィオに、希有は眉間に皺を寄せた。言い返したかったが、否定できないのが口惜しい。
希有は反論するのは諦めて、別の話題をシルヴィオに振ることにした。
「シルヴィオ、今もまだ忙しいんだろ」
「ああ。だが、今日の分の仕事は終わったと言ったはずだ」
「それは聞いた。でも、せっかく休めるなら休みなよ。明日も仕事なんだろうし、この頃、碌に休んでないって聞いた」
ここ最近の彼の忙しさは、気の毒なほどであった。以前、希有を自室に案内した際に一区切りついたと言っていたが、未だに処理すべき案件は山のようにあるに違いない。
休めるときに休まなければ、身体が持たないだろう。
「本なんか読んでる暇があるなら、寝た方がいいに決まっている」
「だが、……寝付けないからな」
見上げた彼の顔は、血色が悪く青みがかってさえ見える。目の下に薄らある隈からも、寝付けないという彼の言葉に嘘はないのだろう。
「眠くなくても、とりあえず横になれば?」
だが、寝付けずとも休まなければならないだろう。シルヴィオが倒れるような姿を、希有は見たくない。
「横になるだけでも、ちょっとは疲れが取れるはず。……、わたし、部屋に戻るから、シルヴィオは休んで」
共に昼食をとってから成り行きで居座っていたが、シルヴィオが休むのであれば長居はしていられない。
与えられた部屋に戻れば侍女のミリセントがいるだろうし、いなくとも、時間を潰すことくらいはできる。
並んだ英文を見て挫折した本に、再び挑むのも良いかもしれない。いつまでこの世界にいなければならないのか分からないのだから、多少は読めなくては困るだろう。
御世辞にも英語の成績は良いとは呼べないものだったが、素地はあるのだから、頑張ればどうにかなるはずだ。
「……、行くな。キユ」
自らを鼓舞して立ちあがった希有を引きとめるように、シルヴィオが口を開いた。
そして、シルヴィオは希有の手を力強く掴んだ。
「え?」
彼は小さく溜息をついて、手に持っていた本を閉じる。そのまま、希有にはとても読めない、分厚く何やら難しそうな内容が書かれている本をテーブルの上に投げやりに置いた。
シルヴィオは、あいた両手で希有を抱き込むようにして引き寄せた。
「なっ、……!」
シルヴィオの桜色の髪が、希有の頬を擽る。
「――、ああ、やはりな」
突然のことに希有が目を見開くと、彼は納得したように頷いた。
突拍子もないシルヴィオの行動に、逆上せあがるような、目眩がするような感覚がした。
「もう……、何してるの」
既に二十歳は超えているだろうに、突然、子どもような行動に出られても反応に困る。
何より、この距離感は恥ずかし過ぎた。
「子どもの体温は心地よいな。久方ぶりに、安らかに眠れそうだ」
「……おい、ちょっと待て」
希有が嫌な予感に頬を引きつらせると、あろうことか、彼は希有を抱き込んだままソファに横になった。
人が横になるために作られていないソファは、当然ながら幅が狭い。抱き込まれたままならば、必然的に密着することになる。
「ち、近い!」
悲鳴を上げるが、シルヴィオは、まったく取り合わない上に、抱き枕にするように希有の背に手をまわした。
「……、いい、加減にしろ……!」
「うるさい」
流石に承知しかねて怒鳴りつけた希有に、不機嫌な声で彼は呟く。
その言葉に、思わず希有が力を抜いた瞬間、シルヴィオの腕の力が強まった。
大人の男の力に、希有のような少女が敵うはずもない。
諦めと共に息をついて、希有は火照った自分の頬に手を伸ばした。
抱き枕としての意味しかないのに、照れることは莫迦らしいと知っている。
だが、身体中に宿った熱は、なかなか冷めそうにない。
玩具に抱く愛着にしては、いささか優しすぎると思ってしまうのは、希有の自惚れだろうか。
密着した身体から伝わる体温や、感じられる吐息に顔を真っ赤にする希有を余所に、シルヴィオは小さな声で呟いた。
「おやすみ、キユ」
とても、穏やかな声だった。
午後のまどろみに相応しい、安らかで、切なくなるほど優しい声だ。
希有は、寂しげに笑みを浮かべて、そっと彼の頬に手を伸ばした。
「…………、良い夢を、シルヴィオ」
そっと瞼を閉じれば、死を連想させるような深い闇が広がっている。だが、恐怖は少しもなかった。
自分らしくない願いを胸に、希有は眠りへと向かう。
叶うならば、この人の見る夢が幸せなものでありますように。
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