farCe*Clown
第二幕 泣きながら嗤う裏切り者 40
あれから、どのようにして部屋に戻ったかもわからなかった。心配そうに駆け寄ってきたカミラを無視して、そのまま、寝台に倒れ込んだところまでは、辛うじて憶えている。
眠ったところで現実が変わるわけではないが、無意識のうちに、夢の中に逃げようとしたのだろう。
だが、――それさえも、卑怯な逃げでしかなかった故に、安眠などできるはずもなかった。
昼と夜を超え、食事も一切取らずに眠れば、起きた時には朝になっていた。幸いなことに、希有を気遣ったのか、カミラは部屋にはいない。
今は誰とも会いたくないために、その気遣いがありがたかった。
「……っ、は」
朝日が入り込む室内で、蘇る夢の内容に希有は唇を震わす。
鏡に映る自分の顔。眠ったはずなのに、くっきりと顔に浮かぶ隈を見て、希有は遣る瀬無さに首を振った。
――夢は、ある意味、幸せなものではあった。
だが、その夢が、いっそうと希有の罪悪感を駆り立てた。
薄紅色の花弁の舞う小道を、希有は歩いていた。隣には、優しい微笑を浮かべた美優がいて、繋いだ手はとても温かく感じられた。
『希有ちゃん』
優しい響きを持って、美優が希有の名を舌で転がす。
それに応えるようにして、希有は片割れの姿を目に映す。並び立って歩く美優の姿は、鏡に映し出したように希有と同一。繋いだ手の大きさや、絡めた指の長ささえも、気味が悪いほどに同じであった。
違ったのは、二人の内面と能力だ。
美優は、驚くほど何でもできる子で、それでいて優しくて人間のできた子だった。
それ故に、希有は時折ひどい憎悪にかられた。
机に向かう時間は、誰が見ても明らか希有の方が多かった。元々、自分が美優より劣っているのは知っていたからこそ、追いつくためには彼女よりも努力を重ねなければならなかった。
だが、そのような努力は、報われることはなかった。両親の視線は変わらず美優に向けられていた上に、美優は希有など手の届かない高みへと、容易く上って行く。
美優本人にはその気はなかったのだろうが、希有には、それが自分の努力を踏みにじられているようにしか思えなかった。
そして、どれだけ努力を重ねても報われなかったことへの怒りが、美優へと歪んだ形で向かっていたのだ。
希有の欲しかったものを、あの子はすべて持っていたから。
『希有ちゃん』
夢の中で聞こえた美優の声が、頭の中で何度も繰り返される。
優しい声音だというのに、苦しかった。あの子が希有を責め立てているのかもしれない。
「……、ごめん、ね」
謝罪の言葉を呟いて、希有は何がしたいのだ。
唯一、赦しを与えてくれるはずの存在は既に隣にいない。何より、あれだけのことをしておいて、今さら赦されたいなどと、どの口が言うのだ。
たとえ、どれほど苦しくあろうとも、たった一人の半身を害して良い理由になるはずもない。憤怒も憎悪も、すべては希有自身が一人で立ち向かって受け入れなければならない感情だったのだ。
だが、立ち向かい受け入れることを拒み、希有は逃げた。
幼さを理由に、嫉妬を理由に、自分だけが苦しいのだと恥知らずに叫んで、――手を繋いでくれていた優しい姉の未来を奪ったのだ。
その上、最悪なことに、夢を見る度に思うことは美優に対する懺悔や後悔だけではない。
自分がしでかしたことを思い出す度に、いっそうのこと、あの子のことなどすべて忘れてしまいたいとも思ってしまう。そのような自分が、堪らなく嫌だった。
滲んだ涙を堪えて、希有は鼻を啜る。
一人きりになると、思考はいつも渦を巻いて静かに沈んでいく。
落ち込んでばかりでは居られないのも、この世界での自分の立場が不安定なのも頭では分かっている。
後悔しても、現実は何も変わらないことも知っているが、割り切れるような過去であったならば、後悔などしなかった。
迷路に迷い込んだように、何処へ行けば良いのか分からない自分は嫌いだ。何一つ正しいことなど分からず何時だって後悔ばかりしていた。だから、変わりたいと願ったはずのに、少しも上手くいかない。
また、苦しくて、怖くなって逃げ出したくなる。
もう二度と、誰かを陥れるのも、それでいて自分の醜さを感じて惨めになるのも嫌だというのに。
瞬間、廊下から足音が聞こえてた。驚いて顔を上げれば、足音は部屋の前で止まる。
「……、カミラ?」
気遣って部屋を出て行ってくれていたらしいカミラが、戻ってきたのだろうか。
希有が視線をそのままにしていると、扉が静かに開いた。
「え?」
そこに立っていたのは、思いもしなかった人物だ。
茶色の髪を結い上げて、立派なドレスに身を包んだ女性。日本人ではまず見ることのない顔立ちは、明らかな苛立ちに染まっている。
「ベアトリス様」
ベアトリスは、希有の姿を目に捕らえると、大きな溜息をついた。
「貴方の、生活の保証はします」
希有が何を言われているか分からぬうちに、ベアトリスは一方的に続けた。
「オルタンシア・カレル・ローディアス。既にご存知かもしれませんが、あれは、ローディアスの血を濃く継いでいます」
「……、はい」
この家に来てすぐ、カミラに教えられたことだ。
「貴方がこの世界に招かれたのには、……あの魔女を野放しにしたこちらにも非があります。だから、面倒を見て差し上げましょう」
「……、面倒を見る代わりに、シルヴィオ様の傍を離れろと言っているんですね」
「こちらとしても、あまり手荒な真似はしたくないのです。最大限の譲歩をしたつもりです、あれの傍から離れなさい」
希有は、頭の中でベアトリスの言葉の真意を考える。
脳裏をよぎった想像に、希有は小さく唇をかんだ。彼女の言葉の裏に在るのは、生活を保障すると言う名目での軟禁――、下手したら監禁かそれ以上に酷い目にあわせることなのではないだろうか。
それに、言葉通り単純に面倒を見てもらえるとしても、希有は頷くことはできなかった。
何も言わない希有に、ベアトリスは眉をひそめた。
「そもそも、何故、貴方があれに執着するのです? あれは、貴方が思うほど善人でも優しい人間でもありません」
「それ、は……」
ベアトリスは大きな溜息をついた。
「同情はしませんが、貴方が寄る辺もない存在だということは理解しているつもりです。働くにしても、その外見と年齢では、碌な場所では生きられないことも分かります」
希有は誰かを頼らなければ生きていけない。
この容姿と、リアノでは十七と主張したところで信じてはもらえない小柄な体躯では、働かせてもらうにも場所がない。放り出されれば飢え死にが良いところだろう。運良く飢えなかったとしても、碌な場所で生きられはしない。
「貴方が求めているのは、生活に対する保証。生きるために、世話を焼いてもらえる環境です。……、ならば、シルヴィオの傍でなくとも構わないでしょう?」
ベアトリスの言い分は、間違っていない。
希有がシルヴィオの傍にいたのは、――初めは、彼の傍なら楽に生きていられると考えたからだろう。
「……、違う、そうじゃないんです」
気づけば、希有は否定の言葉を口にしていた。
どうして、今の希有は、シルヴィオの隣を離れたくないと思うのだろう。
彼の隣を離れたくないのは、面倒を見てもらえなくなるからだけではないことを、希有ははっきりと理解してしまった。
「わたしは、……」
この感情の名を、希有は知らない。
「返事は、近いうちに聞かせてもらいます。答えなど、初めから決まっていると思いますが」
煮え切らない希有の態度に、ベアトリスは眉をひそめて部屋を出て行った。
☆★☆★
希有は窓を開けて外を眺めながら、息をついた。新鮮な空気を吸えば少しは楽になれるかと思ったが、色々と考えているうちに、精神的にも肉体的にも参ってきてしまった。
「扉の開けっぱなしは不用心ですよ、感心しません」
反射的に振り返り、エルザの姿を目にした途端、希有はあからさまに顔を歪めた。
咄嗟に外面を取り繕うこともできないほどに、希有はエルザが苦手だ。
「何の用ですか、また嫌味ですか?」
今は、様々なことが頭を駆け巡り、精神的にも肉体的にも余裕がないのだ。エルザの嫌味まで上乗せされたら、堪ったものではなかった。
「若様が、先日のお詫びだそうですよ」
エルザの手から、可愛らしく包装された小さな包みを受け取って、希有は首を傾げる。
「生産量が少なくてほとんど流通してない代物ですよ。大切に飲まないと赦しませんから」
書かれた文字を読み取ろうとするが、残念ながら読めなかった。
「はあ、こんなの子どもでも読めますよ? 茶葉ですよ、茶葉」
「茶葉?」
「リアノの南部の方に、ローディアス家が経営している大規模な農場がありましてね。そちらで、栽培しているものですよ」
「経営?」
公爵家とは縁遠いように思える言葉に、希有は首を傾げた。
「お金は有限ですからねえ。農場だけではなくて、この家は結構な分野に手を出してますよ」
「民からの税が入るのに、商売ですか?」
「民からの税も入りますけど、この家、一昔前にかなりの領民を焼き殺しているので、彼らから多くを搾り取ることはできません」
「焼き、……殺して?」
言葉に詰まった希有に、エルザは淡々と語る。
「二十年ほど前になりますかね、それは性質の悪い病が流行りまして。名前はありませんよ。リアノでは、一番多くの死者を出した病を、死病と呼ぶんです」
「はあ、……そうなんですか」
変な慣習だと思いつつ、希有はエルザの話に耳を傾ける。
「二十年ほど前に現れた今の死病は、死者の数はリアノ史上で最大。あっという間に広がって、しかも、誰が患っているのか分からない状態だったそうですよ」
僕は良く知りませんけど、とエルザは続ける。
「だから、ルディ様の祖父に当たる方は、疑いのある領民を片っ端から焼き殺したんです」
誰が病気を持っているか分からなかったために、疑いのあるものを次々と焼き殺したと、言っているのだ。
「……、そんなことしたのに、どうして、この家は、続いているんですか」
民に火をつける領主など、誰が受け入れると言うのだ。病気が流行り、恐怖するのも、混乱が生じるのも仕方ないだろう。
だが、そのために焼き殺されては堪ったものではない。
「ふふ、あの頃は、どの領主も皆同じことをしていましたからね。民の間でも、そういった行為が横行してましたし。王も、心を痛めてはいたようですが、黙認していましたよ」
眉をひそめた希有に、エルザは首を傾げる。
「嫌だな、そんな顔しないでくださいよ」
「ここは、リアノ。――疑いだけで人を殺せるような、臆病者の集まった国ですよ」
「……、それで、何のお咎めもなしに、この家は続いて来たんですか」
「いいえ、他の貴族と同様に、住民を焼き殺した点に関してはお咎めを受けましたよ。――ただ、オルタンシア様と彼女の師の功績のおかげで、他の貴族よりも軽い罰で済みました」
オルタンシア、と希有は心の中で小さく呟いた。
「オルタンシア様、専門は蟲の研究。広く言えば、世界に関する研究でしたけど、あの方はいろんな分野に精通していました。様々な分野の専門家たちが束になって、あの方一人分になるくらいの、ものすごい方だったんですよ」
「……、優秀だったのは、知っています」
「優秀と言うか、……いわゆる、天才と呼ばれる存在でしたよ。しかも、彼女は挫折を知らなかった。分からないと言う意味が分からない、そんな人間です」
聞き覚えのある、言葉だ。
美優もまた、分からないという意味が分からないと零したことがあった。壁に当たり行き詰ったことがない彼女は、希有がどうして躓《つまず》くのか分からなかったのだろう。分からない人間がいると言うことは知っていても、感覚的に理解することはできなかったのだ。
「今のローディアス家で一番優秀なアルバート様だって、せいぜい秀才どまりです。オルタンシア様には、並び立つことさえできない。並び立つことができる可能性を持っていた人間を、僕は今まで二人しか知りません」
言われずとも、分かった。
そのうち一人は、おそらく、シルヴィオのことだ。彼自身の能力が高いことは、半年も近くにいれば嫌と言うほど分かる。
この半年、王としての仕事をこなし、国を治めていることがその証拠だ。
「病の治療法を見つけたの、オルタンシア様とその師なんですよ。皮肉なことに、領民を焼き殺した領主の娘が、その病気を治したんです」
だから、オルタンシアは、民から慕われていたのだ。
半年前、オルタンシア殺しの冤罪をかけられていた希有が、処刑の時にあれほど民に憎まれていたのも頷ける。
「ああ、つまらない話を長々としてしまいましたね。具合悪そうなのに、すみません」
「……、それは、わたしが気分悪いのを知っていて、あえて長々と話したと言う意味ですか」
「へ? 違いますよ、今のは純粋な言葉です」
つまり、いつもの嫌味は、故意に言っているということだろうか。
「でも、体調不良を僕なんかに気付かれるくらいなら、最初からカミラを頼れば良いのに。あの人、そっけなく見えますけど、かなり面倒見が良いですよ」
まさか、エルザに気遣われるとは思ってもいなかったので、希有は思わず訝しげに目を細めた。
「そんな目で見ないでくださいよ。今のは、本当に他意はありませんから。使用人として、一応は客人である貴方様の面倒を見なくちゃいけませんし、別に可笑しな発言ではなかったと思いますけど」
「今さら、まともなことを言われても。それに、今は、……邪魔者を処分する、絶好の機会でしょう?」
「……、そういうことを口に出すあたり、キユ様は迂闊というか、考えなしですよねぇ」
尤もなことを言われ、希有は口をつぐむ。
自分に対して好意どころか敵意を抱いているような相手に、自らを危機に陥れるかもしれない言葉を口にするのは、ただの愚行だ。
「冷静に見えるのに、意外と感情的で迂闊で危なっかしい。たぶん、そういうところも、……シルヴィオ様のお気に入りなんでしょうけど」
小さく呟かれた言葉は、希有の耳に届くことなく空気へと溶け込んだ。
「え?」
希有が目を瞬かせると、エルザは席を立つ。
「何を勘違いしているのか知りませんけど、貴方を処分するか判断するのは僕じゃありません。僕の主はルディ様で、公爵家ではありませんから」
その言葉に違和を感じるが、それは直ぐに消え去る。机の上に置かれた茶葉を見て、希有はエルザに声をかける。
「ありがとうございます、とラシェル様に伝えてもらえますか」
「……、ええ、土下座するくらいの勢いで感謝してください」
ヴェルディアナが希有を邪魔に思う限り、エルザもまた、希有のことを邪険にする。
だが、――エルザ自身は、それほど嫌な人間ではないのかもしれない。
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