farCe*Clown

第二幕 泣きながら嗤う裏切り者 39

 見慣れ始めてきたローディアス公爵家の部屋の天井を見上げる。
 見慣れ始めるほどこの家に滞在していることは信じたくないが、生憎と現実だった。
 あと、どれくらいこの家に滞在していれば良いのだろうか。
「カミラ。……シルヴィオから、何か連絡はない?」
 勇気を振り絞って聞いてみると、カミラは首を振る。
「残念ながら」
「……、そう。いつまで、ここにいれば良いのかな」
 もう、随分と時間が経っている。
 どんなに自分を奮い立たせても、精神的にも肉体的にも、徐々に苦痛は増してくる。
「申し訳ありませんが、……私には、何も」
 ――、シルヴィオは、希有のことを忘れているのだろうか。
 彼に限ってそれはないと、断言できれば良かった。だが、希有は、彼が何であろうと切り捨てられる人間だと知っている。それは、何も希有とて例外ではないだろう。
 想像すればするほど、最悪の方にしか考えられなくなる。
 二人の間に重い沈黙が横たわると、ここ数日の例の通り、ノックもなしに扉が開く。
「おはよう、二人とも」
 朝から陽気な声で、アルバートは笑んでいる。
「おはようございます、アルバート様」
 カミラは綺麗に礼をとったが、希有は突然の来訪に返す元気もなく曖昧に笑って礼をした。
「なんだか、暗いね。挨拶はちゃんとしなくちゃ。おはよう、キユ」
「……、おはようございます。アルバート様。今日は何の用ですか?」
 アルバートは希有の腰掛けていたソファに歩み寄って、希有の前で膝をついた。
「デートのお誘い」
「……、は?」
 思わず低い声で聞き返してしまったが、アルバートは気にしなかったらしく続けた。そのまま、希有の腕をとって手の甲に口づけたアルバートに、希有は顔をしかめた。鳥肌が立ちそうだ。
「て、言うのは、まあ冗談で。これから、ちょっと用があってラシェルのところに行くんだけど、キユも行かないかなと思って。僕が一緒なら外に出しても誰も文句言わないし」
 それは、なかなかに、魅力的な言葉だった。
 ラシェル――、ヴェルディアナの息子には興味はないが、外には出たい。部屋の中に閉じこもるしかないからこそ、精神的にも肉体的にも辛いのだ。少しでも外に出れば、幾分か楽になれるだろう。
 シルヴィオから連絡もなく、滞在期間がどれほどかも分からない今、これ以上弱るわけにもいかない。
 許可を求めるようにカミラに視線を遣った希有の手を、アルバートが掴んだ。
「カミラの許可はいらないよ。平気、平気」
「遅くならないうちに、お願いいたします。アルバート様」
 事の顛末てんまつを見ていたカミラは、はっきりとした声で進言する。使用人の彼女がアルバートに進言するのには、相当な勇気がいるのではないだろうか。
 アルバートは、笑ってカミラの言葉に頷いた。
「分かってるよ。僕って、良い子だから」
 掴まれた手は予想以上に強く、痛みを憶えるまでだった。顔を歪めた希有に気付くことなく、アルバートは早足で歩く。
 その華奢な背中を見つめて、希有は小さく溜息をついた。
 アルバートが、希有を引っ張り回す意味が分からない。
 友達だと言った手前、何かしなければならないとでも思っているのだろうか。
 アルバートは、この家の実情を希有に教えるかのように、様々な情報を与えていく。その姿が、希有には不自然に思えて仕方がないのだ。まるで、何かに気付いてほしいかのような行動だ。
「ラシェル様は、……ルディ様の子どもでしたか?」
 握られた手を見つめながら、希有は呟く。
「うん。今年で八つの、とっても優秀な公爵家の跡取り」
 随分と淡々とした返事だった。
 前を歩く彼の表情は見えないため、はっきりと断言はできないが、おそらくその顔も無表情に近いのではないだろうか。
「…………、アルバート様は、家を継がないのですか?」
 アルバートは足を止めて、ガラス玉のような瞳で希有を振り返った。
「継げない。母様は、僕にだけは公爵家を継がせない。要らない子どもに与えるには、この家は大きすぎる。それに、兄様は、僕に継がれるといざとなった時に困るから」
 訳の分からない希有の手を再び引いて、アルバートは歩き出した。
「困る?」
「兄様は……、隠していた秘密を暴かれることが、何よりも怖いんだ」
 やがて、出口を通り抜けると、庭園が広がっていた。
「キユ、こっち」
 アルバートは大樹の木陰に隠れるようにして、しゃがみ込んだ。希有もそれに倣う。
 彼は、庭園に置かれた白い椅子と円形の机を指を差した。大きな日傘の下にあるそれらは、品の良い装飾がされていることが遠目からでも分かる。
「ほら、あれが、ラシェルだよ。この家の大切な後継ぎ」
 ヴェルディアナと同じ色をした茶髪に、碧い瞳をした男の子がいる。父親に似た服を纏って、ラシェル・ローディアスは椅子に腰かけていた。
 その傍らには、見知った人がいる。
「……、珍しい、ですね」
 優しげに微笑むエルザを見て、希有は呟いた。
 希有が見たエルザの笑みは、大半は嘲笑だ。あのように優しく、慈しむように微笑む姿は初めて見た。
 ラシェルを羨ましいとは思わないが、あまりの態度の差に、希有は頬を引きつらせる。
「そう? ラシェルの前でのエルザは、いつもあんな感じだよ」
「仕える人の息子でしかないのにですか?」
「うん。まあ、兄様の息子だからと言うより、個人的な愛情が理由なんだろうけど。だって、エルザの奴、兄様の弟である僕には優しくないくせに、ラシェルにばかり甘いから」
 アルバートを見上げると、彼は唇を尖らせた。
「あれに優しくされるのは、それはそれで気持ち悪いだろうけど、……ラシェルだけ特別扱いされるのは、面白くない」
 前髪を弄って、不機嫌そうに言い放つ彼は、幼い子供を彷彿とさせた。

「若様と貴方では、どちらに優しくするかなど決まっているでしょう」

 いかにも嫌そうなエルザの声が聞こえてきた。この距離で会話を聞かれているとは思わず驚いた希有を余所に、アルバートは笑う。
「ああ、やっぱり聞こえてたの」
「本職は小間使いでも教師でもないですからねぇ、貴方の大きな声くらい聞こえますよ」
「嫌味ったらしいな、本当」
 アルバートが肩を竦めて木陰を出るのに、希有も続く。
 エルザの傍にいたラシェルは、希有たちを見て目を瞬かせると、立ち上がって挨拶をした。
「……初めまして、キユ・ファラジア様」
 ラシェル・ローディアスは、小さな手を希有に差し出した。
「初めまして、ラシェル様」
 裏表のない純粋な笑みに、希有は釣られるように手を伸ばす。
 だが、その手が触れ合うことを赦さないように、エルザがラシェルの身体を無理やりに引く。
「若様、この方はお客人と言うよりは、害虫さんなんで、握手なんてしなくていいんですよ」
「……、害虫って」
 あまりの言い様に希有が反論しようとすると、アルバートがそれを制するように口を開いた。
「主人が客人扱いしている人に向かって、その口の利き方はないと思うよ、エルザ。お前が礼儀知らずだと、兄様の評価にかかわる」
「アルバート様の言うとおりです、エルザ。――先ほどは失礼しました、私はラシェル・ローディアスと申します」
 父の従者よりも、よほど大人なラシェルに、希有は感心する。畏まった言葉遣いに違和を感じるが、慇懃ではない。
「若様、酷いです。キユ様のせいですね」
「……、エルザ」
 八つの子どもは、窘めるようにエルザの名を呼んだ。
 申し訳なさそうにこちらを見たラシェルに、希有は唇を開く。
「気にしてませんから」
「……、ですが、エルザが」
「エルザさんは、ラシェル様が大好きなんですね」
 ラシェルの言葉に希有は首を振って、話を変えた。このまま、遣り取りを続けるのも煩わしくて面倒だ。エルザの態度には慣れている。小さな子どもの前で、目くじらを立てるようなことではない。
「当然です、分かり切ったことを口にしなくて結構ですよ」
「エルザ! ……、すみません、キユ様」
 ラシェルがエルザを窘めるのは、何も体面のためではないだろうと思った。どちらかと言えばエルザの身を案じての行動だ。八歳の少年に庇われるエルザもどうかと思うが、ラシェルは庇うほどにエルザのことが大切なのだろう。
 エルザがラシェルを好いているように、ラシェルもまた、エルザを慕っているのだ。
「ラシェル様も、エルザさんが大好きなんですね」
「……、はい」
 罪深いことを口にするかのように、ラシェルは躊躇いがちに目を伏せた。その仕草に、希有は内心で首を捻る。
「エルザがいなければ、僕はここにいません。エルザは、僕にとって、とても大切な人です」
「若様、嬉しいです。そんなことを思って下さったのですね!」
 突如、エルザが、ラシェルの肩を抱いて頬に口づける。
 思わず目を見開いた希有を余所に、ラシェルは気にすることなくエルザに礼を言った。
「いつもありがとう、エルザ」
「いいえ、こちらこそ。若様」
 二人の遣り取りを見ながら、漠然と理解してしまった。
 エルザの主がヴェルディアナであることは生涯変わらないだろう。だが、エルザが大切に思い心を傾ける存在は、ヴェルディアナだけではない。
 ラシェルもまた、エルザにとってはかけがえのない人間なのだ。
 主の息子だからと言って、エルザは心を傾けるわけではないだろう。それならば、主の弟であるアルバートにも、もっと心を傾けるべきだ。
 ――、ラシェルだけが特別である意味が、希有には分からなかった。
 温かに流れる雰囲気に羨みを覚えた瞬間、聞こえたのは舌打ちだった。不機嫌に眉をひそめたアルバートが、舌打ちをしたのだ。
「ああ、変なもの見せられたから、うっかり忘れちゃってたよ。ラシェル、エルザ、兄様が呼んでるよ」
「……、アルバート様。父上がお呼びなのですか?」
「そうだよ、だから早く行きなよ。それと、その呼び方止めてって言ったでしょ。お前が僕に気を遣うことなんてない、お前は後継者なんだから。――、行きなよ、兄様が待ってる」
 ラシェルたちを追い払うかのように、アルバートは手で屋敷を指差した。
 ラシェルは気まずそうに顔を伏せて、エルザに手を引かれて、この場を去っていく。
 心なしか、アルバートに向けるエルザの瞳が冷たく感じられた。
「……、変なの」
 何が変だと言われれば決定的なことは言えないのだが、エルザとラシェルの関係は、希有には奇妙に見えた。
 希有が呟いた言葉を耳にしたのか、アルバートが反応する。
「変じゃないよ。ラシェルは、エルザに一番懐いてるから。エルザのすることなら、たぶん、何でも黙認するんじゃないかな」
「何でも黙認するなんて、まるで妄信のようですね」
「上手いことを言うね。そう、妄信なんだよ。ラシェルにとってのエルザは絶対なんだ。父親である兄様なんかよりも、ずっと、ね」
「使用人を絶対に思う主人なんて、……、やっぱり変ですよ」
「ラシェルにとってのエルザは、ただの使用人じゃないんだ。これ以上言うと、兄様に怒られるから言わないけどね。あの人、自分が隠し事下手くそなの分かってないから困る」
 肩を竦めたアルバートが、底冷えするような声で呟いた。
「本当、――感謝してほしいくらい。母様に黙ってあげてるんだから」
 その言葉が何を意味しているのか、希有には分からないが、アルバートの声に仄暗い何かがあることだけは分かった。
 考え込む希有の頭を、アルバートは小突いた。
「あんまり深入りしない方がいいよ。この家は容易く人の命を奪う。カミラにも忠告されたでしょ?」
 アルバートは希有の耳元で囁いた後、いつものように無邪気そうな笑みを浮かべた。
「オルタンシア叔母様がこの家を厭った理由が、良く分かる。前にも言ったでしょ、この家は正義を掲げるのが好きなんだ。――だから、怖い」
「……、怖い?」
「家のため、シルヴィオのためなら、何をしても赦されると思っている。どんな理由があっても、犯した罪が正しいことなんてないのにね」
 自分も公爵家の一員であろうに、アルバートは他人事のように言いきった。
 その表情は背筋が凍りつくほど冷たく、希有は思わず身体を震わす。
「大切な子を奪われた叔母様にとって、自分の生まれたこの家は、仇でもあったんだ」
 次の瞬間、アルバートの唇から零れ落ちた言葉は、希有の心を鷲掴みにするには十分すぎた。

「叔母様の未練が、世界にキユを盗ませたんだよ」

 ほんの僅かに口元を綻ばせて、アルバートは希有を見る。
「……、どういう、意味ですか」
 喉から絞り出したような声は、震えていた。
 オルタンシアの妄執など、希有は知らない。彼女が意図的に希有を世界に盗ませたならば、何の理由があってだ。まったく面識のなかった希有を招く必要など、オルタンシアにはなかったはずだろう。
「そのままだよ。でも、分からないのなら、秘密」
 口元に指を当てて、アルバートは喉を震わす。
「教えてくださいっ……!」
 地球へ帰るための、初めての手掛かりだ。アルバートが何を知っているのか分からないが、ここで聞かなければ、希有は重要な情報を逃してしまうかもしれない。
「ダメ」
 少年は、無邪気そうな笑みを浮かべる。だが、その奥に見え隠れするのは、狂気にも似た、おぞましい何かだ。
「君がシルヴィオに未練を感じていうちは、何も教えてあげない。君と僕は友達だけど、そこまで教えてあげる義理はないしね」
「……っ、未練……なんて」

「キユは、帰りたいの? それとも、帰らなくてはならないの・・・・・・・・・・・?」

 希有は目を見開いて肩を揺らす。
「迷ってるくせに、元の世界に帰るつもり・・・って言って、体裁だけ整えるている。それは、卑怯な逃げと変わらないよね?」
 アルバートは肩を竦める。
「部屋に戻ろうか」
 アルバートに手を引かれ、希有は強く唇を噛みしめる。
 元いた世界での希有は、幸せとは言えなかった。美優あの子のいない世界を、たった一人で生きていくことが、幸福であるはずなどなかったのだ。
 知っていた上に、分かり切っていたことだ。
 地球に帰ったところで、希有の居場所など何処にもありはしない。
 美優を死んだも同然の状態に追いやったのは、希有なのだから。
 ――、もしかしたら、居場所など初めからなかったのかもしれない。自分は優秀な姉の残り滓で、誰にも必要となんてされない。
 優しい美優は希有を大切にしてくれた。
 美優は何も悪くない。希有の姉は、優しくて秀でていて、ちょっとだけ不器用な素晴らしい人だった。
 だが、その優しさが傷口に沁み込んで、痛くて堪らなかった。
 構ってほしかった。誰かに気にかけてほしいと思っていたのは、紛れもない真実だった。だからこそ、美優が傍にいてくれたことは幸せであった、嬉しかった。
 ――、それでも、傍に在ることが辛くもあったのだ。
 鏡に映る顔を、何度潰してしまおうと思ったことか分からない。
 同じであるから、比べられてしまう。この顔が、この身体が、美優と同じでなければ、希有はもう少しだけ楽になれるのではないか、と何度も自分に問いかけた。
 同じ姿形をしているから、秀でている方を取ってしまう。
 それならば、違う存在になればいい。そうすれば、希有は美優と比べられない。
 ――、ああ、この世界が居心地が良い理由は、きっと。
 美優がいないから・・・・・・・・なのだ。
 あの子を苦しめておきながら、自分は、あの子のいないこの世界を愛おしく思っているのだ。比べられることのない安心に、心を躍らせていたのだ。
「……うっ、……」
 浅ましい、醜い。
 震える指で、滲みかけた涙を拭う。
 泣く権利などお前にはない、と誰かが囁いた気がした。