farCe*Clown
第二幕 泣きながら嗤う裏切り者 43
エルザに言われた通りの部屋の前に立ち、希有は息を吸い込む。胸元にある懐剣の存在を確認して、それから、意を決したように部屋の扉を数度叩いた。
「どうぞ」
中から聞こえてきた声に、希有はゆっくりと扉を開く。
椅子に腰掛け、眼鏡をかけて分厚い本に目を通していた彼は振り返る。
「……、キユ? どうしたの、僕の部屋に来るなんて」
突然の来訪に目を丸くして、アルバート・ローディアスは首を傾げた。彼は本を閉じて眼鏡を外し、希有の元へと歩いて来る。
「もしかして、兄様に何か言われた? 僕が慰めてあげようか?」
アルバートから伸ばされた手を、希有はやんわりと跳ね退ける。
「……いいえ」
「なんだか、素っ気ないね。機嫌でも悪い?」
笑顔を浮かべるアルバートを、希有は見上げる。
「わたしは、どうして、あなたがわたしに構ったのかも、そんな荒んだ目をしているのかも、知りませんし分かりません」
ただ、彼が仄暗い何かを抱えていることは、この一月にも満たない時間の中でも察することができた。
「……、突然、どうしたの?」
「憎いのですか?」
何を、とは言わない。言わずとも、知れている。
笑顔を仮面にして日々を過ごしている。
その裏には、おぞましいほどの憎悪を抱えながら、すべてをひた隠してアルバートは笑い続けていた。
いっそう、痛々しいほどだった。
微笑んだいたはずのアルバートは、希有の視線を受け、凍りついたように微動だにしないい。
「……、憎しみを隠して、笑い続けることは辛くはありませんか」
顔は笑っているのに、その瞳は、決して微笑まない。無邪気に見える笑顔を浮かべながらも、心の何処かで引っかかりを覚えるような不気味さを、時折垣間見せる。
アルバートは、ゆっくりと額に手を当てて小さく息をつく。
「思っていたよりも、キユは行動的と言うか、直情的だね」
諦めを多分にはらんだ声だ。
「辛いよ、泣きそう」
現れたのは、今にも泣きそうな顔をした子どもだった。
作り物染みていた笑顔が取り払われると、希有は初めてアルバートに会ったような錯覚を覚えた。
「僕はね、フローラ・ローディアスの恋なんて知らない。そう育てられてきたとはいえ、与えられるものを当然のように享受して、何一つ知ろうとせずに嘆いてばかりのお綺麗な姉様。あの人の恋路を応援する兄様も、莫迦みたいだと思ってる」
蔑みを隠すことなく、姿形の似た実姉と、唯一の兄を彼は貶す。
だが、アルバートが最も憎んでいるのは姉でも兄でもない。
「皆、憎いよ。姉様も兄様も、――シルヴィオも」
アルバートが、友人とはいえ、希有に好意的な態度をとることを疑わない方が無理な話だったのだ。見るからに女には困らない容姿をしているというのに、彼が希有に少しでも関心を持つ方が可笑しい。
アルバートが希有に構った理由など、たった一つだろう。
偶然、希有がシルヴィオの傍にいたからだ。
「憎くて、堪らない」
アルバートが希有に敵対心を持っていなかったのは、彼が憎む相手は希有ではなく別の人間たちだったからに過ぎない。
「姉様も、兄様も、シルヴィオも――、無条件で手に入れることができるものがたくさんある。僕には絶対に手に入らないものを持っている。……、たとえば、僕は絶対にこの家の跡取りにはなれない」
なまじ頭の良かった分、口惜しかったのだろう。
エルザの言葉を鵜呑みにするのであれば、公爵家で一番優秀なのはアルバートだ。だが、アルバートがその才能の頭角を現すよりも先に、ヴェルディアナは公爵家の正式な当主になっていたのだろう。
その上、既に後継となる息子――、ラシェルも生まれていた。
公爵家はアルバートが幼いうちに、アルバートが決して公爵家を継げないようにしてしまったのだ。
「兄様と同じ胎から生まれたのに、どれほど僕が努力したところで、どんなに頑張ったところで、認めてはもらえない」
アルバートは、この先も決してヴェルディアナの上には行けず、彼の後継ぎにもなれない。
どれほど優秀であろうとも、決して、認められはしないのだ。
「僕の存在は、無価値だ。こんな男の名前までつけて、僕のことを要らないと思っている証じゃないか」
ローディアス家は、男児に女児の名前をつける。
いつから始まった習慣なのかは知らないが、形骸化したその仕来たりは、今も守られている。だが、アルバートは、ヴェルディアナやラシェルのような名前を付けられることはなかった。
「物心つく前から、公爵家の期待は兄様に、愛情は姉様に注がれていた。僕に注がれたのは、温かみの欠片もない哀れみだけ」
公爵家の跡取りとして、シルヴィオの忠臣として、期待されていたヴェルディアナ。いずれはシルヴィオに娶らせるために、愛を注がれ大切に育てられてきたフローラ。
アルバートにとって、どちらも狂おしいほどに妬ましい存在だったのだ。
「兄様は、僕が兄様やラシェルの場所を奪うんじゃないかって恐れているんだ。だから、兄様は僕のことが大嫌い」
ヴェルディアナとアルバートの軋轢は、気のせいではなかった。噛み合わない歯車のように擦れ違う兄弟の中心には、深い闇があった。
「姉様は、シルヴィオや兄様を厭う僕をこの家の汚点だと思っている。人の手で育てられた薔薇は、穢いものを嫌がる。自分が好きなものは他人も好きで、自分が嫌いなものは他人も嫌いだと信じている」
温室の薔薇。穢いものを見せないように育てられたお姫様。彼女が異質だと感じた雑草は、周りの人間の手ではじかれていく。
「僕は、一度だって何かを奪ったことはない。僕の手はずっと空っぽだった。それなのに、僕が欲しくて堪らないものを持っている人たちが、僕を恐れたり厭ったりする」
腕を広げたアルバートは、寂しげに自嘲した。
希有は唇を噛んで、目を伏せる。
希有には、双子の姉がいた。シルヴィオと同じように、紛れもない天才で、今でさえ希有はあの子と同じになりたいと願うことがある。あの子と同じになれたなら、自分の存在が価値あるものになれると信じていた。
それでも、時折、あの子は寂しげに言った。自分も希有ちゃんのようになりたかった、と。
羨望して嫉妬し続けた、それでも大切だった存在に、愚鈍だと思う自分を羨まれることは何よりも辛かった。
それはきっと、アルバートと似たような痛みだったのだろう。だからこそ、最低なことに希有は、アルバートに対してひどい同情を抱いているのだ。
「僕の欲しいものを持ってくるせに、何も持っていない僕が、どうして嫌われなくちゃいけないの。疎まれなくちゃいけないの」
何もしなくても、厭われ、疎まれることはある。
ただ在るだけで嫌われることなど、少なくはないのだ。人が人を嫌いになることに、大した理由は必要ない。
「居場所なんて、何処にもない。誰にも気にかけてもらえない子どもは、誰かの特別になりたくても、なれるはずがないよ」
――誰かの特別になれたならば、自分も特別になれるだろうか。
個として認め、愛してもらえるだろうか。
姉への劣等感は今も降り積もり続け、記憶の中の美優に嫉妬をしている自分が未だに居る。決して敵うことのない存在として、彼女は希有の中で永遠を生きて行くのだ。
「母様たちが一番大切にして、一番愛していたのは、――シルヴィオだ」
胸に抱くだけの憎悪のすべてを声に乗せて、アルバートは最も憎い者の名を、その唇で紡いだ。
「息子なのに、弟なのに……、母様も兄様も姉様も! 誰も、誰も僕のことなんて気にていない。シルヴィオ、シルヴィオって、僕とあいつは、……どうして、こんなにも違うの?」
アルバートの腕が希有に伸ばされる。
「僕だけ、……ずっと、寂しいままなの?」
希有も、寂しかった。今は隣にはシルヴィオがいてくれるが、地球に帰れば再び独りになるだろう。アルバートが抱いているであろう孤独は、希有にとって、遠い世界の話ではない。
躊躇うようにして、希有は静かにその手を振り払った。彼の腕が、迷子のように宙を彷徨って堕ちる。
「キユも、シルヴィオが良いんだね」
そして、毒々しい笑みを携えて、彼は言った。
「友だちの僕よりも、壊れて、歪んでいるあいつを選ぶんだ」
「……、シルヴィオは、壊れてなんかいない」
「壊れているよ、歪んでる。そんな風になるように育てられてきたのが、あいつだよ」
しなやかな手が、希有の顎を掬い上げた。
迫った顔に怯えながらも、希有はアルバートを静かに睨みつける。
「だから、いつか、シルヴィオは……、君をひどく傷つけて捨てる」
彼の唇から零れ落ちた言葉が、部屋に重く響き渡った。
「取り立てるようなことなんて何一つないキユを、面白半分以外の何で、王であるあいつが傍に置くの? 泣きを見るのは誰だかなんて、明らかでしょ」
「……、そんなの」
流れる川のように、淀みなくアルバートの言葉は希有の中に入り込む。胸に棘が刺さる痛みが、ひと際大きくなった。
彼の言葉は、すべて真実だ。
「僕は、友だちを大切にするよ。君が傷つかないように、捨てられる前に、……誰かに殺されてしまう前に、一緒に逃げてあげても構わない」
希有が心の底で恐れ続けていたことは、シルヴィオと共に城を逃げた日々と変わっていない。
恐れているのは、シルヴィオに切り捨てられることだ。彼に切り捨てられて、死んでしまうことが、希有は怖い。
「そうしたら、シルヴィオはどんな顔をするのかな。今までのように、悲しみも怒りも全部心の奥底に閉じ込めてしまうのかな。それとも、傷ついて、泣いちゃうのかな」
いつの日か、シルヴィオは、希有の命が安くはなかったと言った。
必要ならば切り捨てることを厭わないと言いながらも、希有のことを見捨てることができなかったと、その矛盾を告白した。
それが真実かどうかは、シルヴィオ本人にしか分からない。
「確かに、シルヴィオは、必要なら切り捨てられる人だよ。一秒前まで大切にしていたものを、一秒後には捨てられる。そんな、……人」
だが、希有にとって、彼の存在は何よりも尊いものだった。
温もりを与えてくれた腕を、覚えている。手を伸ばせば熱を分け与えてくれる、優しい人がシルヴィオだ。
「……、わたしは、あの人の隣にいたい」
もし、この思いが裏切られる瞬間が来ても、後悔だけはしたくない。
何もかも疑う自分を棄てて、裏切られることさえも赦してあげられるほどに彼を信じたい。取り乱して嘆いて、泣き叫ぶかことになっても、彼の隣にいたことを不幸だとは思いたくない。
それが、希有が踏み出し、進みたい道だ。
シルヴィオの立場を悪くして結果的に彼を苦しめることになろうとも、今でもシルヴィオが希有を望んでくれるのならば、希有はそれに応える。難しく考えて、独りよがりに身を引く必要などない。彼が手を放さない限り、希有もその手を離さないことが、希有にできることだ。
「ありのままのわたしを望んでくれたのは、シルヴィオだけだったから」
希有は、姉のように強くて優しい女の子にはなれなかった。今も、怯えながら前進する、赤子のような足取りを始めたばかりだろう。
だが、シルヴィオは卑怯者の希有を望んでくれた。
理想や偶像を押し付けることなく、そのままで良いと言ってくれた。
苦しいことや辛いことは、吐き出して良いと甘やかしてくれた。
もし、希有がひどく道を踏み外しそうになれば、彼は優しく諭してくれるだろう。
あの人の隣でならば、希有は自分を愛せる。
シルヴィオだけは、裏切らない。あの日の誓いは、今も希有の胸で色づいている。
「裏切り者は、あなただったんだね。アルバート・ローディアス」
シルヴィオを傷つけた人間と共に、行く場所など、何処にあると言うのか。
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